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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-05-05T10:54:16Z</updated>
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		<title>南朝鮮</title>
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				<updated>2014-02-12T16:12:47Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: 大韓民国へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[大韓民国]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

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		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD&amp;diff=220464</id>
		<title>朝鮮民主主義人民共和国</title>
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				<updated>2014-02-12T16:11:12Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[ファイル:Kim Jong-Il.jpg|thumb|200px|金正日]]&lt;br /&gt;
'''朝鮮民主主義人民共和国'''（ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく、{{lang-ko|조선민주주의인민공화국}}）は、'''北朝鮮'''（きたちょうせん）の憲法上の名称。[[東アジア]]にある共産主義の[[共和制]][[国家]]とされているが、その実態は金氏一族による絶対君主制である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同国[[政府]]は「[[朝鮮半島]]全体を[[領域 (国家)|領土]]とし、現在は北半部を統治する」と主張している。[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]（[[38度線]]）を挟み南半部の[[大韓民国]]（韓国）の統治区域と対峙している[[分断国家]]で、南北はあくまでも「（[[朝鮮戦争]]の）休戦」中である。[[豆満江]]を挟んで[[中華人民共和国]]および[[ロシア]]連邦と、[[鴨緑江]]を挟んで中華人民共和国と、[[日本海]]を挟んで[[日本]]と接している。人口は約2300万人とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本は、冷戦時代に[[大韓民国]]を朝鮮半島唯一の合法国家として承認したことから、国家として正式に[[国家の承認|承認]]しておらず[[国交]]も無い。[[国際連合|国連]]加盟国の中で日本が承認していない唯一の国家である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 北朝鮮で人肉食相次ぐ。親が子を釜ゆで(2013年1月) ==&lt;br /&gt;
北朝鮮南西部の穀倉地帯、黄海南北道で昨春来、数万人規模の餓死者が発生していたことが、北朝鮮の内部情勢を独自報道してきたアジアプレスの石丸次郎氏が率いる取材チームの調べで分かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[金正恩]]第一書記デビューの舞台となった首都平壌建設や、北朝鮮人民軍の掌握のための食糧調達を、穀倉地帯から強制収奪した結果の飢餓発生だったもようだ。目撃証言は一家自殺や人肉食など凄惨（せいさん）な内容で、石丸氏は飢餓の実態と背景について報告書にまとめ、今月中にも国連など国際機関に提出する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 麗しい首都平壌と穀倉地帯の飢餓地獄 ===&lt;br /&gt;
北朝鮮は2012年4月、[[金日成]]生誕100年祝賀行事と「祝砲」のミサイル発射で金正恩氏の新体制を内外に誇示した。ミサイル発射には世界からの21社170人もの外国メディアを受け入れて指導者デビューを飾ろうとした。ミサイルは失敗したものの、首都平壌は高層ビルの建設ラッシュ、その夜空は花火で彩られており「平壌は発展している」などと報じた外国メディアも少なくなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、石丸氏らの取材は、その平壌の繁栄が虚構であることを暴き、「人民の生活向上を重視」などと年頭に演説した金正恩体制の“正体”に迫ろうとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石丸氏によると、取材チームが穀倉地帯の異変をキャッチしたのは2012年3月ごろ。以来、中朝国境に出てきた黄海道の住人取材や、チームのメンバーであり石丸氏が養成してきた北朝鮮人記者による潜入取材などを敢行して証言を集めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『私の村がもっともひどかったのは2012年4月と5月でした。飢えて全滅した一家もあれば絶望して全員が自殺した家もあった。毎日5世帯、6世帯と死人が出た』（黄海南道、農村幹部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『目を覆いたくなるような状況でした。青丹郡というところでは住民の何割が死んだかわからないほど。空腹でおかしくなった親が子を釜ゆでして食べて捕まる事件があった』（黄海道の農村に党の方針を伝達するため域内を回った党中堅幹部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石丸氏が衝撃を受けたのは、取材した黄海道住民の全員から人肉食の証言が出たという凄惨な事態だという。親子殺人や人肉の密売流通などで、多くは保安部（警察に相当）に通報され処罰されているため住民の間で公然化していたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 首都平壌と軍組織をあがなうための権力による計画的な食糧収奪と強奪 ===&lt;br /&gt;
「国中が疲弊するなかで平壌と軍の安定だけは金正恩体制の至上課題だった。黄海道から収奪されたのは、首都再開発事業に全国から動員された学生や青年同盟（金日成社会主義青年同盟）などを養う食糧と、平壌市民への配給用の『首都米』、軍部隊を維持するための軍糧米だ。地方幹部や警察など権力側がチームを組んで農村から強奪していた。一方、軍用は軍糧米の名目で、収奪は収穫前に田畑に入るケースや収穫後に持ち去るケース、さらになけなしの食糧を隠している住民も、家宅捜索までされて強奪された」（石丸氏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
約20年間、国境取材などで北朝鮮をウオッチし、約10年前から北朝鮮内部に記者を育成、潜入報道を行ってきた石丸氏は、黄海道が5、6年前から軍による収奪が行われていたことに注目していたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「しかし、昨年から始まった飢餓は明らかに金正恩氏デビューに伴う莫大な浪費によるものだ。新しい指導者が出たのに『軍に配給もない』では体制は保てないため穀倉地帯に負担を強制したのだ。われわれが取材した証言には、銃を持った軍人が脱穀所から食糧をすべて奪取した目撃談や、上部からの命令でノルマを課され暴力的に奪取する以外に方法がなかったと語る地方の党幹部などの話が少なくない」（同）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
取材チームは、入手した複数証言の分析から餓死者は数万人と推定した。黄海南北道は中国国境に遠いこともあり、中国への脱出者が全土で最も少なく情報が外部に出にくいという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮の食糧事情は好転している？ ===&lt;br /&gt;
[[欧州連合]](EU)は2012年秋に北朝鮮に調査団を派遣、食糧事情を調査した結果は「緊急支援は必要なし」とされ、2013年のEUによる対北食糧支援は打ち切られている。また国連の[[世界食糧計画]](WFP)と[[食糧農業機関]](FAO)が2012年11月に発表した報告書も2012－2013年の穀物生産予測は前年対比コメ11％増、トウモロコシ10％増で食糧事情は好転したとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、北朝鮮は政治的な理由から調査を捏造データでごまかすことが多い。このため慎重なクロスチェックが求められる。「作柄が好転すれば幸いだが、農村への収奪については国際機関が本格的に調査する必要がある」（石丸氏）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調査を続ける同取材チームのもとに現地からは、国際機関の報告とは全く逆の「今年の不作」の予測と生活の不安を訴える声がいまも相次いでいるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国名 ==&lt;br /&gt;
[[漢字]]表記は'''朝鮮民主主義人民共和國'''だが、[[1948年]]の建国から漢字を廃止している同国では、漢字表記はあくまで「[[外国語]]」の扱いである。漢字を使用していないため、他に地名や人名の漢字表記も外国語扱いであり、公式の名簿での漢字名は存在しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[日本語]]では「'''朝鮮民主主義人民共和国'''」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対し、人民共和国政府や在日本公民団体の[[在日本朝鮮人総聯合会]]（朝鮮総連）は、自らを朝鮮の正統国家と主張する立場から、{{lang|en|North Korea}}または「北朝鮮」と呼ばれることを嫌って、&lt;br /&gt;
「[[朝鮮]]」（ちょうせん）と表記してほしいと主張。マスコミに対して抗議やデモを繰り返した。しかし日本のマスコミには受け入れられなかったため、次に「共和国」と呼んでほしいと提案した。これも日本側には受け入れられず、最終的に、記事の最初に正式国名を1度だけ併称することを条件に、「北朝鮮」と呼ばれることを受け入れるという妥協が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭での呼称は、[[テレビ]]・[[ラジオ]]などアナウンスの場合は「北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国」という形式であり、[[新聞]]など文の場合は「朝鮮民主主義人民共和国（北朝鮮）」という形式であった。また新聞等では、この地域の在留者について「朝鮮人」と記述される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、「[[北朝鮮当局によって拉致された被害者等の支援に関する法律]]」（拉致被害者支援法）制定以後は、単に「北朝鮮」と呼ぶのが一般的になっている。背景には、[[2002年]][[9月17日]]に行われた[[小泉純一郎]][[内閣総理大臣|首相]]（当時）の北朝鮮訪問およびそれを契機とする[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]に関する世論の高まりがある。現在では「北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国」などの呼称を採用しているマスメディアは、ほとんどなくなっている。さらに略して「北」と表現する場合もある（「北」は、[[冷戦]]下に[[ソビエト連邦]]を指した呼称でもある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[日本の政治|日本政府]]は、[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]により大韓民国（韓国）を朝鮮半島における唯一の合法国家としているため、朝鮮民主主義人民共和国を国家として承認していない。外務省の各国・地域情勢ウェブページでも北朝鮮と表記し、地域扱いされている。ただし、朝鮮民主主義人民共和国の[[国際連合|国連]]加盟には賛成票を投じている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
韓国では北韓（プッカン、{{lang|ko|북한}}、ほっかん）と呼称している（韓国も朝鮮半島全体を領土と主張しているため）。かつては蔑称として「北傀」（プッケ）が使われていたが、南北融和の影響で、現在はほとんど使われていない。また韓国では韓国を「南朝鮮」とも基本的には呼んでいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 朝鮮民主主義人民共和国成立以前 ===&lt;br /&gt;
前近代における[[朝鮮]]の[[王朝]]の特徴は、各王朝の存続期間が非常に長いことである。実態が未だ不明確な[[古朝鮮]]を除き、覇権を競った[[高句麗]]、[[新羅]]、[[百済]]の三国、三国を統一した新羅を滅ぼした[[高麗]]、それを継いだ[[李氏朝鮮]]（[[大韓帝国]]）と、いずれも400年以上存続している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
李氏朝鮮（大韓帝国）は、[[1910年]]の[[日韓併合]]により消滅し、日本（[[大日本帝国]]）の一部となった。[[第二次世界大戦]]において日本が敗北し、[[1945年]][[9月2日]]の降伏文書調印により正式に日本の朝鮮半島統治は終了したが、直後から[[緯度|北緯]][[38度線]]以南を[[アメリカ合衆国]]（米国）に、38度線以北を[[ソビエト連邦]]（ソ連）に[[占領]]され、両国の[[連合軍軍政期 (朝鮮史)|軍政支配]]を受けた。その後、米ソ両国は朝鮮の[[信託統治]]実現を巡って決裂し、それぞれの支配地域で政府を樹立する準備を開始した。その結果、[[1948年]][[8月15日]]に[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政]]地域単独で[[大韓民国]]が樹立された。これに対して同年[[9月9日]]に朝鮮民主主義人民共和国が成立し、朝鮮半島の分裂は固定化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮民主主義人民共和国成立後 ===&lt;br /&gt;
{{Main|朝鮮民主主義人民共和国の歴史}}&lt;br /&gt;
南北朝鮮の両国は、互いに「朝鮮における唯一の正統な政府」であると主張して対立を深め、遂には[[1950年]]に北朝鮮が韓国に対して侵攻することにより[[朝鮮戦争]]に至った。朝鮮全土を破壊した戦争は[[1953年]]に休戦を迎えたが、[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]が制定されたことで朝鮮の分断が確定化された。朝鮮は現在も停戦状態のまま南北に分断されており、分断が固定された状態は50年以上続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮民主主義人民共和国（北朝鮮）は、[[金日成]]が建国当初から[[1994年]]の死去まで最高指導者の位置を占めた。金日成の死後、実子である[[金正日]]が[[1997年]]に[[朝鮮労働党]]総書記に就任した。そして[[1998年]]には、[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法|憲法]]改正で[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]制を廃止する&amp;lt;ref&amp;gt;改正された憲法においては金日成は「永遠の主席」とされている。&amp;lt;/ref&amp;gt;と共に、[[最高人民会議]]で国防委員長に再任されることで事実上の最高指導者となった。&amp;lt;!--総書記は党の事実上のトップ職（本来のトップ職ではない）、国防委員長も国家の元首にはあたらないので単なる「事実上の最高指導者」では?--&amp;gt;一方で[[独裁体制]]のもとで経済が低迷し、冷戦構造の崩壊によって国際的にも孤立した状態となった。北朝鮮政府は経済支援を引き出すために、多くの国に対し国交樹立に向けて取り組みを行なった。その結果、[[1999年]]以降に相次いで国交を樹立した他、[[2000年]]には[[南北首脳会談]]の開催に成功した。しかし、[[北朝鮮核問題|核兵器開発計画]]を巡って、アメリカ合衆国との間では緊張状態が継続した他、日本との[[日朝政府間協議|国交締結交渉]]は、[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]や日韓併合およびその統治に対する賠償などで意見が対立し、締結には至っていない（日本統治時代の賠償に関しては、[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]により問題が更に複雑化している。当該項の北朝鮮に関する記述を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮戦争後、朝鮮民主主義人民共和国は、他の[[社会主義]][[国家]]から支援を受けながら[[経済]]を発展させ、[[1970年代]]までは大韓民国に対し国力で優位を保っていた。しかしその後&amp;lt;!--経済政策の失敗から{{要出典}}--&amp;gt;経済事情が悪化、特に[[ソ連崩壊]]によるソ連からの[[重油]]供給停止が引き金となり、[[1990年代]]半ばにかけて経済は混乱し破綻状態となった。同時に国内各地では食糧不足が深刻化し、各国の支援にもかかわらず、[[食品|食料]]配給制度の崩壊などにより内陸の[[村落|農村]]部を中心に[[餓死]]者が出る事態となった。それに伴い、多くの人々が食料を求めて[[中華人民共和国]]へと密入国し、[[脱北者]]問題が国際的に注目されるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1999年]]以降は、中韓両国の経済協力などによって、一時は破綻に瀕した経済は一応の安定をみた。もっとも、経済状況は、いまだ1970年代の水準で停滞を続けている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政治 ==&lt;br /&gt;
政治体制はチュチェ思想（[[主体思想]]。即ち[[朝鮮民族]]の[[主体]][[主義]]）に基づく[[社会主義]]体制（社会主義人民共和制）をとる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1994年の[[金日成]]の没後空位となっていた[[朝鮮民主主義人民共和国主席|国家主席]]職は[[1998年]]に廃止され、その後は[[元首]]に関する規定は憲法上明文化されていない。以降、外国使節の信任状などを取り付ける役割を果たす[[最高人民会議]]常任委員会委員長（1998年より[[金永南]]が務める）が形式的には元首として取り扱われてきたが、実権は金日成の実子である[[金正日]]が[[朝鮮労働党]][[総書記]]、[[朝鮮人民軍]]最高司令官、[[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会|共和国国防委員長]]として一貫して握ってきた。[[1998年]]、金正日が国防委員長に推戴される際、国防委員長職は「国家最高の職責」と表現された。[[2009年]]の憲法改正により国防委員長の権限がさらに強化され、「国家の最高指導者」と憲法に明記された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事実上の[[一党独裁制]]を担う朝鮮労働党（注）の支配組織としての形骸化が指摘されており、[[1997年]]から[[先軍政治]]を掲げて、国防委員長の金正日の個人[[独裁]]体制となっていると推測する声も根強い。だが[[1994年]]に発表された金正日論文を当時の[[金永春]][[人民武力部]]長が[[1998年]]の金正日政権成立5周年記念において『党と軍の対等性』を主張、一党独裁の崩壊＝社会主義の崩壊を意味するものとなる。後の強硬改憲で国防委員長を最高指導者とし、実質の軍事独裁体制の成立となった。一説では、最近の金正日の指導の様子が以前と変わり即断即決でないなど、独裁から集団指導体制へと変化したのではないかという説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮において数多くの[[人権]]問題が起きたとして、人権団体や[[国際連合]]（国連）、[[アメリカ合衆国]]等の諸外国は、北朝鮮を強く批判している（ただし日本の人権団体はあまり批判に積極的ではない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[北朝鮮核問題]]も参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 注：公式には朝鮮労働党の他にも[[朝鮮社会民主党]]・[[天道教青友党]]という政党があるが、この二党は朝鮮労働党の指導を認めているいわゆる「[[衛星政党]]」であり、実態は朝鮮労働党の[[一党独裁制]]といえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 公職選挙 ===&lt;br /&gt;
現行の「[[朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法]]（1998年9月5日付、[[最高人民会議]]第10期・第1回会議にて改正）」は、第1章（政治）第5条において、「朝鮮民主主義人民共和国における全ての国家機関は、民主主義中央集権制原則によって組織され運営される」と規定され、人民会議の代議士は直接[[選挙]]によって選出されることになっており、選出された最高人民会議ないしそれによって任命された内閣・国防委員会からなる中央政府、地方人民会議によって任命された地方政府とも、国民の総意によって委託され運営されることと定められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代議員選出選挙は、4年に1度、国政選挙である最高人民会議選挙と地方人民会議選挙に分けて行われる。地方人民会議選挙においては、[[道 (行政区画)|道]]ないし[[直轄市]]、[[市]]、[[郡]]ないし区域の人民会議の選挙を全て同日に行う統一地方選挙の形をとる。[[選挙権]]は[[数え年]]17歳以上の者が持つ。[[選挙区]]は[[小選挙区]]制をとり、選挙区は630程度、最高人民会議の代議員は各選挙区定員1名、地方人民会議では定員総数26,650名程度が設定されている（2003年8月実績）。選挙区は、「第○○○号選挙区」として全て数字で表示されており、選挙区番号の付与も地続きではないため、選挙区名を見るだけでは選挙実務担当者以外どの地域を示しているのかを理解することができないようになっている。 出馬する選挙区についての規定は全く無いに等しく、[[党]]委員会の恣意的選定によって決定される。例えば、1982年から6期連続当選している金正日総書記は、毎回異なる選挙区から出馬している。 また、事実上の朝鮮労働党による一党独裁体制であるため、[[比例区]]を設定するという概念はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[被選挙権]]については、名目上は成人なら誰でも立候補できることになっているが、選挙運営上は朝鮮労働党・朝鮮社会民主党・天道教青友党の公認候補以外が立候補することはできず、そしてすべての選挙区で1名しか立候補しないため、実態は選挙というよりも当選予定者の信任投票の形となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選挙日が公示されると、まず有権者の登録が行われ、[[疾病]]や[[障害]]などで投票できない者は登録除外される。この期間中には、[[国境]]や海上はもちろん、各行政区域間の移動証明書の発給がきわめて厳しく取り締まられるようになり、事実上の移動制限措置がとられる。有権者登録が終わると、「全員賛成投票しよう」という主旨の[[標語|スローガン]]が[[メディア (媒体)|メディア]]や選挙[[ポスター]]で啓蒙され、各人民班や社会団体・機関ごとに賛成投票を督励する行事や決意集会が開催される。この際、投票督励のスローガンのみならず、「人民主権の参加で、先軍政治を一層輝かそう」といった類の政治スローガンもしばしば好んで用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、上記のようなスローガンは活発に叫ばれる一方で、立候補者の略歴や[[政策]]・[[公約]]などの詳細についてはほとんど広報されず、信任の判断を下そうにも選挙当日まで立候補者の政策どころか誰が立候補しているのかが不明なことさえしばしばあるため、有権者が立候補者の政策を斟酌して投票できるようにするための民主的な選挙活動とは言いがたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投票日当日には、投票所に入場した者の[[住民登録]]を確認して有権者登録者であることを人定され、有権者は投票場に隊列をなして入場し、順に投票用紙を受取る。この投票用紙はあらかじめ「○○○氏を○○人民会議の代議員として賛成します」と印刷されており、候補者に賛成の場合には何も書かずに投票、反対の場合には×表示を記入してから投票することと規定されている。名目上は[[秘密投票]]であり、周囲の視線を遮断した記票所が設けられているが、反対投票を行う時のみ投票用紙に記入を行わなければならず、そしてその記入をするための記票所は列を外れたところに設けられている。元より賛成票を入れるつもりの投票者はわざわざ反対投票の嫌疑をかけられるような記票所に立ち寄ることなく直接投票箱に投函するため、記票所に立ち寄った者は反対者であるとすぐ分かるようになっており、'''事実上、投票の秘密が保護されない公開投票となっている'''。また、反対投票を想定していないため、記票所には筆記用具が用意されていないことも多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記票所に立ち寄ってから投票した者は反対投票をしたと見なされ、選挙場退出と同時に反革命分子として[[朝鮮民主主義人民共和国国家安全保衛部|保衛部]]に勾引され、重い尋問を受けた上で特別監視対象とされたり、本人ないし家族が[[強制収容所 (北朝鮮)|強制収容所]]に収容されることもあるため、社会的不利益を被る可能性がある反対票を入れる人はほとんどなく、投票者のほぼ全員が賛成票を投じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投票率は毎回99.8か99.9%という高率となっているが、これは投票に参加しない者も反革命分子に分類されて特別監視対象とされるため、これを嫌う有権者は、有権者登録以降に死亡した者や、当日やむを得ない重病や重大な負傷を負ったもの以外ほぼ全員投票するためである。仮病や虚偽の怪我でないかについては、保衛部の確認調査がなされる。このため、事実上、[[義務投票制]]となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各選挙区ごとの開票結果については一切公にされることはなく、[[国営放送]]の[[朝鮮中央放送|朝鮮中央テレビ]]で全選挙区をまとめて、「99.9%投票参加、100%賛成」といった、おおまかな選挙結果だけが公表され、仮に反対票を投じた者があっても、賛成者は100%であったと報道されるのが常である。そもそも、先述の理由から全選挙区で有権者のほぼ全員が投票に参加し、賛成票を投じるため、詳しい結果を公表する必要がない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
総じて、民意を汲んで代議員を選出するための選挙であるというよりも当選信任予定者の信任投票であり、対内的には、有権者登録作業において世帯や人口を把握する[[国勢調査]]的手段として、あるいは朝鮮労働党の施政に対して国民が誠意を持って参加できるかを試し強制的に人心を掌握する手段として、対外的には、他の民主主義国に対して国民主権によって政権が運営されているとの政権正統性を誇示するための手段としての、政治的儀礼にすぎないとされている。このような手法は、北朝鮮に特有のものではなく、ソ連・[[東ヨーロッパ|東欧]]の諸国やかつての中国などで広く見られる態様であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 北朝鮮早見表 ===&lt;br /&gt;
* A-下級　無慈悲な鉄槌 &lt;br /&gt;
* A-初級　無慈悲な懲罰 &lt;br /&gt;
* A-中級　無慈悲に撃滅 &lt;br /&gt;
* A-上級　無慈悲に粉砕 &lt;br /&gt;
* A-特級　無慈悲な報復　　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* B-下級　無慈悲な報復打撃 &lt;br /&gt;
* B-初級　無慈悲な対応措置 &lt;br /&gt;
* B-中級　無慈悲な軍事的措置 &lt;br /&gt;
* B-上級　無慈悲な軍事的打撃 &lt;br /&gt;
* B-特級　全般的な戦線で無慈悲に対応 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* C-下級　容赦ない攻撃 &lt;br /&gt;
* C-初級　容赦なく撃墜 &lt;br /&gt;
* C-中級　容赦なく処罰 &lt;br /&gt;
* C-上級　容赦ない軍事的措置 &lt;br /&gt;
* C-特級　全般的前線での容赦ない粉砕 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* D-下級　際限の無い報復打撃 &lt;br /&gt;
* D-初級　より恐ろしい懲罰 &lt;br /&gt;
* D-中級　全戦線での全面的軍事打撃行動 &lt;br /&gt;
* D-上級　再侵略戦争の砲声 &lt;br /&gt;
* D-特級　報復聖戦 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* E-下級　未公開で最先端の世界的な打撃力量と安全保衛手段がある &lt;br /&gt;
* E-初級　この世の誰も体験したことのない最も厳しい懲罰　　　　　　　 &lt;br /&gt;
* E-中級　先軍の銃でことごとく一掃　　　　　　 &lt;br /&gt;
* E-上級　本当の戦争を見せる &lt;br /&gt;
* E-特級　絶対に無事ではなくなる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 金親子の枕詞 ===&lt;br /&gt;
* 国際共産主義運動と労働運動の卓越した指導者 &lt;br /&gt;
* 世界革命の偉大な指導者 &lt;br /&gt;
* 朝鮮民族の英明な指導者 &lt;br /&gt;
* 革命闘争の天才的な指導者 &lt;br /&gt;
* 朝鮮民主主義人民共和国の創建者であり指導者 &lt;br /&gt;
* 朝鮮労働党の創建者であり指導者 &lt;br /&gt;
* 人徳で天下を動かす絶世の偉人 &lt;br /&gt;
* 首領永生偉業の新しい歴史を切り開いた偉大なる領導者 &lt;br /&gt;
* 偉大なる人間元老 &lt;br /&gt;
* 国際共産主義運動と労働運動の卓越した指導者&lt;br /&gt;
* 世界革命の偉大な指導者&lt;br /&gt;
* 朝鮮民族の英明な指導者&lt;br /&gt;
* 革命闘争の天才的な指導者&lt;br /&gt;
* 朝鮮民主主義人民共和国の創建者であり指導者&lt;br /&gt;
* 朝鮮労働党の創建者であり指導者&lt;br /&gt;
* 人徳で天下を動かす絶世の偉人&lt;br /&gt;
* 首領永生偉業の新しい歴史を切り開いた偉大なる領導者&lt;br /&gt;
* 偉大なる人間元老&lt;br /&gt;
* 万古に永く輝く不滅の偉勲を創造された革命の霊将&lt;br /&gt;
* 傑出した偉大な軍事戦略家&lt;br /&gt;
* 非凡な軍政治活動家&lt;br /&gt;
* 完全無欠な軍事家&lt;br /&gt;
* 神妙な戦略戦術家&lt;br /&gt;
* 百勝の作戦家&lt;br /&gt;
* 将軍中の将軍&lt;br /&gt;
* 不敗の司令官&lt;br /&gt;
* 天才的な軍事戦略家&lt;br /&gt;
* 偉大な革命の英才&lt;br /&gt;
* 革命と建設の英才&lt;br /&gt;
* 革命の傑出した英才&lt;br /&gt;
* 創造と建設の英才&lt;br /&gt;
* 人類の英才&lt;br /&gt;
* 軍事の英才&lt;br /&gt;
* 哲学の巨匠&lt;br /&gt;
* 革命実践の英才&lt;br /&gt;
* 民族の英雄&lt;br /&gt;
* きわめて偉大な英雄&lt;br /&gt;
* わが人民の伝説的な英雄&lt;br /&gt;
* 創造と建設の英傑&lt;br /&gt;
* 偉大な思想家であり理論家&lt;br /&gt;
* 時代の偉大な思想理論家&lt;br /&gt;
* 天才的な思想理論家&lt;br /&gt;
* 精力的な活動家であり思想家&lt;br /&gt;
* 偉大な主体思想の創始者&lt;br /&gt;
* 永久不滅の主体思想の創始者&lt;br /&gt;
* 先軍思想の創始者および具現者&lt;br /&gt;
* わが革命武力の創始者&lt;br /&gt;
* 民族史上初めて現れた絶世の愛国者&lt;br /&gt;
* 不世出の愛国者&lt;br /&gt;
* 民族の偉大な太陽&lt;br /&gt;
* 救世済民の太陽&lt;br /&gt;
* 主体の太陽&lt;br /&gt;
* 革命の太陽&lt;br /&gt;
* わが人生の太陽&lt;br /&gt;
* 希望の太陽&lt;br /&gt;
* 嚮導の太陽&lt;br /&gt;
* 社会主義の太陽&lt;br /&gt;
* 人類の太陽&lt;br /&gt;
* 永遠なる太陽&lt;br /&gt;
* 民族の太陽&lt;br /&gt;
* 人類解放の救星&lt;br /&gt;
* 敬愛する父&lt;br /&gt;
* 民族の偉大な父&lt;br /&gt;
* 全朝鮮人民の慈父&lt;br /&gt;
* わが民族の慈父&lt;br /&gt;
* わが人民の慈悲深い父&lt;br /&gt;
* 民族の偉大なる父&lt;br /&gt;
* 偉大な首領&lt;br /&gt;
* 敬愛する首領&lt;br /&gt;
* 父なる首領&lt;br /&gt;
* 英明な首領&lt;br /&gt;
* 民族の偉大な首領&lt;br /&gt;
* 朝鮮人民の卓越した首領&lt;br /&gt;
* 党と国家の卓越した首領&lt;br /&gt;
* 朝鮮革命の天才的首領&lt;br /&gt;
* 世界革命の首領&lt;br /&gt;
* 第三世界の偉大な首領&lt;br /&gt;
* 偉大な師匠&lt;br /&gt;
* 思想理論の巨匠&lt;br /&gt;
* 不屈の反帝闘士&lt;br /&gt;
* 指導の芸術家&lt;br /&gt;
* 革命の脳髄であり心臓&lt;br /&gt;
* 天才的な思想の体現者&lt;br /&gt;
* 被抑圧人民の偉業達成のための偉大な闘士&lt;br /&gt;
* わが惑星の守護神&lt;br /&gt;
* 専門家も驚くほどのコンヒ゜ューター通&lt;br /&gt;
* 熱い愛と信頼の永遠なる胸&lt;br /&gt;
* 将軍型政治家&lt;br /&gt;
* 無敵必勝の象徴&lt;br /&gt;
* 天下第一の領軍芸術家&lt;br /&gt;
* 文学芸術と建築の大家&lt;br /&gt;
* 人類音楽の天才&lt;br /&gt;
* 世界的な大文豪&lt;br /&gt;
* 在日同胞の民族的再生の恩人&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 軍事戦略家として ===&lt;br /&gt;
* 百戦百勝の鋼鉄の霊将 &lt;br /&gt;
* 万古に永く輝く不滅の偉勲を創造された革命の霊将 &lt;br /&gt;
* 傑出した偉大な軍事戦略家 &lt;br /&gt;
* 非凡な軍政治活動家 &lt;br /&gt;
* 完全無欠な軍事家 &lt;br /&gt;
* 神妙な戦略戦術家 &lt;br /&gt;
* 百勝の作戦家 &lt;br /&gt;
* 将軍中の将軍 &lt;br /&gt;
* 不敗の司令官 &lt;br /&gt;
* 天才的な軍事戦略家&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 報道規制 ===&lt;br /&gt;
2009年現在の北朝鮮には、金正日体制を維持するために[[言論の自由]]・[[報道の自由]]が無いとされている。[[2006年]][[5月2日]]に[[ジャーナリスト保護委員会]]が作成した検閲国家ワースト10のリストでワースト1位となった（詳しくは[[検閲国家ワースト10のリスト]]を参照）。また[[国境なき記者団]]が2007年に発表した[[国境なき記者団|世界報道自由ランキング]]でも169か国中168位と極めて低い順位となっている（2002-2006年の5年間、北朝鮮は連続最下位だった）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また実際に北朝鮮にある[[ラジオ]]、[[テレビ]]、[[新聞]]は政府の統治下にあるため、同国の[[マスメディア]]は政府や[[朝鮮労働党]]に都合の悪い情報を国内に対しては一切報道しない。また国外向けにも何らかの形で国民に届きかつ理解し得る朝鮮語では報道されない。テレビやラジオではニュース番組の生放送すらできず、事前に録画ないしは録音して当局の検閲を通過したもののみが放送される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外国のラジオ放送やテレビ放送を国民が[[受信]]することは法律によって厳しく規制されており、国内で流通しているラジオ受信機は周波数を自由に選択できない。[[朝鮮民主主義人民共和国のインターネット|北朝鮮のインターネット]]も国外の[[ウェブサイト]]（朝鮮総連などの北朝鮮関連のサイトは除く）には自由に接続することもできないとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、外国通信社が平壌に支局を開設しようとする場合、[[朝鮮中央通信社]]と業務提携を結び、記事配信にあたって朝鮮中央通信の指導を受けなければならないとされている。このため、西側諸国の通信社で平壌支局があるのは[[ロイター]]と[[AP通信]]（実際は子会社が運営）、[[共同通信社]]に事実上限られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、例外として[[2010 FIFAワールドカップ]]のときは[[マレーシア]]から電波がそのまま飛ばされたため、資本主義国の広告などもそのまま放送されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮民主主義人民共和国の階級 ===&lt;br /&gt;
=== 軍事 ===&lt;br /&gt;
[[ファイル:Victorious Fatherland Liberation War Museum Monument4.jpg|thumb|240px|朝鮮空軍紀念像]]&lt;br /&gt;
[[ファイル:DMZ units.jpg|thumb|240px|軍事境界線後方の軍力配備]]&lt;br /&gt;
「'''先軍政治'''」を掲げ、何よりも周辺諸国からの脅威に備えるため軍備拡充に力を入れている。過去数十年にわたり国防のために莫大な資源をつぎ込み、世界で5番目に大きい100万人を超える軍隊を有し、[[国内総生産]] (GDP) に占めるその比率が高い。推定軍事費 (CIA) 年間6000億円のうち4000億円強を[[核兵器]]・ミサイルに集中配分している。一方で、通常兵器は旧式の上、財政難のため、戦闘機や戦車の訓練用燃料すら確保が難しいとされており、兵器の性能、兵の練度ともに韓国軍との差は歴然と考えられている。世界最大規模の特殊部隊と米陸軍45万の2倍の90万の兵力の歩兵主体の地上軍を持ち、散開・分散が必要な核戦争に特化した構成となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[化学兵器]]禁止条約に加盟しておらず2500-5000[[トン|t]]の化学兵器を蓄積する化学兵器大国である。停戦ライン地帯の北朝鮮砲兵は[[毒ガス]]砲弾や通常砲弾を[[ソウル特別市|ソウル]]に撃ち込む能力を有している。1994年に米国が北朝鮮の核兵器生産施設を空爆しようとしたとき、北朝鮮は「（核施設が空爆されたらその報復に）ソウルを火の海にする」と恫喝し、韓国の[[金大中]]は訪米して空爆中止を嘆願した。結果として1994年枠組み合意で北朝鮮の核施設は運転停止によって空爆破壊を免れ、2002年に運転を再開し、2006年の核実験に至っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮は国境の[[戦車]]を旧式なまま放置している一方で、多額の費用を投入して「移動式」弾道弾を買揃えており韓国を狙う[[スカッド]]改を500基、日本を狙う[[ノドン]]200基、太平洋まで飛ばすことのできる[[テポドン]]を整備している。米国とロシアを狙う弾道弾が500基であり、中国の日本を狙う核弾道弾ですら25基なので、500基・200基という数は極めて大規模な国防の[[ボディビルディング]]である。日本にある在日米軍基地の攻撃機による北朝鮮核攻撃の可能性に対する自衛的抑止力としての配備なら20基あれば充分であり、北朝鮮側の「抑止力・自衛のため」という説明は軍事的には200基を超える対日弾道弾の過剰配備という実態と乖離しており、北朝鮮側の弾道弾過剰配備の真意について透明性が問われている（防衛的な軍隊であれば国境の戦車や防空戦闘機や沿岸の対艦ミサイルの整備を優先して、国境防衛と関係ない攻撃的兵器である弾道弾は隣国の弾道弾と同数以上は持たないのが普通である。[[防衛省]][[防衛研究所]]研究官の武貞秀士のように北朝鮮は日米に核または化学ミサイルを突きつけて牽制しつつ韓国を核恫喝で併合する意図で核武装を進めてきたと観測する専門家もいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
加えて、北朝鮮は韓国の[[拡散に対する安全保障構想|PSI]]参加表明を「宣戦布告」であると非難していることから、弾道弾その他大量破壊兵器および周辺技術を輸出して外貨を稼ぐ思惑もあるとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、北朝鮮は少なくとも、現在、日本に向けている200基を越えるノドン弾道弾に、化学兵器弾頭を装着して日本の大都市を攻撃し、大量の死傷者を出す物理的能力を有していると見られている。米国の調査機関ISISの報告書によれば、ノドンに装着可能な粗悪な核弾頭を3発以下既に保有している、つまり[[東京]]を核攻撃できる能力を保有している可能性すらあると観測されている。また、核弾頭を量産し日本を狙うノドン200基を数年で全て核弾頭付きにするのに必要な50MW/200MW大型[[黒鉛炉]]を建設中であった。ちなみに同大型黒鉛炉は「2007年合意において、米国と北朝鮮の妥協により無力化・解体対象から除外された」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人権問題 ===&lt;br /&gt;
アメリカ合衆国など[[資本主義]]国を中心とした「有志連合」諸国側からは、「[[悪の枢軸]]」の一国とされている。[[2005年]]には[[国際連合|国連]]総会本会議において「北朝鮮の人権状況」決議が採択されている。多くの国々が、同国について、国政が[[軍国主義]]的、言論の自由や[[人権#基本的人権|基本的人権]]が尊重されていない、といった認識をもっている。亡命者（脱北者）の証言からうかがわれる数多くの[[政治犯]]収容所（[[強制収容所]]）の存在、また自国民の殺害・圧政を理由にアメリカを中心とした国際社会から非難されている傾向がある。かねてよりアメリカから「[[テロ支援国家]]」として指定されていたが（[[2008年]][[10月]]テロ支援国家の指定は解除された）、これは1987年11月の「[[大韓航空機爆破事件]]」が直接の契機である。[[赤軍派]]を匿っている問題（[[よど号ハイジャック事件]]等参照）や、[[ミサイル]]などを違法に輸出していること、国家規模でのドル紙幣偽造（通貨テロ）の疑いが濃いことも理由と考えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国際関係 ===&lt;br /&gt;
[[2009年]]現在、国交のある国は162か国である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国境を接する中華人民共和国および[[ロシア]]連邦と密接な関係を維持してきた。しかしロシアからの経済支援は[[冷戦]]終結後ほぼ途絶えている。現在でもロシアとは友好関係であるが、[[日本放送協会|NHK]]の『ドキュメント北朝鮮』では[[プエブロ号事件]]により元[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]幹部は北朝鮮の危険性の認識を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮戦争未解決のため敵国のアメリカ合衆国（米国）とは現在も冷戦対立している。2003年8月以降、[[北朝鮮核問題|核問題]]を中心に、日本、韓国、ロシア、中華人民共和国、米国と共に[[六者会合]]（六ヶ国協議）を実施している。北朝鮮と米国が互いに譲歩せず、膠着状態が続いていたが、ブッシュ政権末期のヒル国務次官補の譲歩により事態の推移は見られた。しかし交渉の進展は見られない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
韓国人、日本人、[[レバノン]]人などを始めとした複数国の国民の[[拉致]]、日本・韓国に存在する[[スパイ|工作員]]、諸外国に対する[[麻薬]]の[[密輸]]、過去にも当局が否定する[[大韓航空機爆破事件]]、[[ラングーン事件]]、北朝鮮国内の人権問題などの問題がある。工作員は、以前は国内でもAMラジオで聞ける「[[平壌放送]]」（[[中波]]657kHz）にて暗号電文を使い指令を送っているとされてきたが、[[2000年]]に終了。[[モールス符号|モールス信号]]や、[[携帯電話]]やコンピュータの[[電子メール]]を使って指令しているとの説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1980年]]に、大韓民国に対して朝鮮半島統一国家の案として[[高麗民主連邦共和国]]創設を提案した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1992年]][[4月20日]]、「社会主義偉業を擁護し前進させよう」（[[平壌宣言]]）が採択された。この宣言には金日成主席の80歳の誕生日に集まった世界70の政党代表（うち48人は[[党首]]）が署名した。その中にはソビエト連邦や[[東ヨーロッパ|東欧]]で新たな社会主義運動を展開している諸政党が含まれる。{{main|平壌宣言}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 大韓民国との関係 ====&lt;br /&gt;
[[1950年]]に起こった[[朝鮮戦争]]で朝鮮半島の分断は決定的となった。その後も、南北双方ともに相手方の支配地域は自らの領土であると主張しつづけていた。北朝鮮は長らく首都を[[ソウル特別市|ソウル]]と定めていたが、[[1972年]]の憲法改定によって初めて首都を[[平壌]]と定めた。これは近いうちの南北統一を断念したものと多くの人から受け止められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮に対して激しい敵視政策をとっていた[[大韓民国]]（韓国）は[[金大中]]政権発足の頃から[[ビル・クリントン|クリントン]]政権期の[[アメリカ合衆国]]に歩調を合わせて（あるいは歩調を合わせざるを得ずに）融和的な政策に転換した。融和的態度を国内から批判され敵対的言動へとシフトした[[金泳三]]時代を反省した金大中政権は、対北朝鮮政策の融和化を「[[太陽政策]]」と呼んで説明した。しかし[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮による2006年の核実験]]以降、韓国国内でも北朝鮮への批判が高まり、経済支援は停止された。韓国国民の世論は、血縁や兄弟が北朝鮮に住む者も多く、北朝鮮に同情的だが、核実験後は太陽政策への批判が一時強まった。2008年に[[李明博]]政権が太陽政策を改める政策や軍幹部の失言も相次いだ。こうしたことから北朝鮮の戦闘機が軍事境界線付近に飛来、韓国側もスクランブル発進するなどして、一触即発の状態が続いた。更に、[[2009年]][[1月17日]]には、北朝鮮が韓国との「全面対決」を宣言するなど、李明博政権発足以降の南北関係は緊張が高まっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[北朝鮮による韓国人拉致問題|韓国人拉致（拉北）問題]]、北朝鮮の経済的な破綻や人権問題などもあり、南北統一の実現には未だ少なからぬハードルが残されている。[[失敗国家]]ランキング12位の北朝鮮と152位の韓国とは経済力に差がありすぎるために統一したら韓国の経済に影響が出ると懸念がある。[[1980年]]には、北朝鮮が[[高麗民主連邦共和国]]創設と、（統一より）低い段階での[[連邦]]制を提示した。[[冷戦]]終結以後は雪解けが進み、南北[[国際連合|国連]]同時加盟や共同声明として結実。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 中国との関係 ====&lt;br /&gt;
[[中華人民共和国]]政府とは今でも緊密な関係（[[中朝友好協力相互援助条約]]）を維持しており、[[金正日]]の訪問回数もロシアに比べれば多い。また中国は北朝鮮の独裁体制を配慮している。例えば中国では北朝鮮批判の本を[[発禁]]にしており（詳細は[[中国の人権問題#表現の自由|中国の人権問題]]）、[[脱北者#中国東北部の脱北者|脱北者]]の強制送還に積極的である。2010年にはBRICsとして目覚しい発展を遂げる中国が北朝鮮に対し北朝鮮の国家予算7割分の投資を投資する事が決定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、中国の北朝鮮に対する歴史的な宗主国 - 属国関係や中国の北朝鮮に対する政治的・経済的影響ゆえに、北朝鮮を中国領土、もしくは中国の植民地と見なす報道や記述が世界各国で存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 日本国との関係 ====&lt;br /&gt;
日本政府は1965年の[[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約]]（日韓基本条約）により、[[大韓民国]]を「朝鮮半島唯一の国家」としているため、北朝鮮を国家として承認していない。従って、正式な外交関係（いわゆる国交）はない。かつては[[パスポート]]に &amp;quot;{{lang|en|This passport is valid for all countries and areas except North Korea（Democratic People's Republic of Korea）.}}&amp;quot;（「このパスポートは、北朝鮮（朝鮮民主主義人民共和国）を除く全ての国と地域で有効です」の意味）と記載される渡航先適用除外条項があった。1991年からこの条項は削除されたものの、依然として政治的・軍事的な対立から緊張した関係が続いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2002年9月に[[小泉純一郎]]首相は電撃的に北朝鮮を訪問して、金正日総書記と初の日朝首脳会談を実現し、17日[[日朝平壌宣言]]に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を「一部の英雄主義者が暴走した」として公式に認め、5人の拉致被害者の帰国となった。しかし「8人死亡・1人行方不明」とする北朝鮮側の回答は日本側から見て到底承諾しかねるものに映り、拉致被害者の家族の帰国が拒まれるなど、関係者を中心に不満が噴出し、世論も北朝鮮に対して強く反発を見せ国交正常化交渉は暗礁に乗り上げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2005年頃まで貿易関係はそう大きくないものの存在し、日本への船舶の入港は年間千数百隻に上っていた。内訳は、日本からの輸入は輸送機器が中心で、日本への輸出は水産物が中心であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、2006年10月9日の[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]]や[[テポドン]]などのミサイル発射事件を受けて、日本政府は「厳重に抗議し、断固として非難する」との声明を発表し、[[安倍内閣]]から本格的な拉致被害者の解放を目指し、日本独自の制裁の実施は現在も続いている。制裁の一環として、海外[[危険情報]]では、通常の治安・政情の程度によって出される勧告とは別枠で、渡航の自粛を勧告している。これにより北朝鮮船籍の船舶の入港は禁じられ、輸出入も停止されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年5月31日、北朝鮮軍部が「日本の反動勢力は、日本列島がわが革命的武装力の容赦ない打撃圏（攻撃圏）内にあるということをひとときも忘れてはならない」と警告し敵対姿勢を改めて鮮明にしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 行政区域 ===&lt;br /&gt;
[http://nk.chosun.com/map/map.html?ACT=geo_01 {{lang|ko|조선일보 NKchosun.com - 지리（행정구역 현황）}}]等を参考にした。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Kn-map.png|right|北朝鮮の地図]]&lt;br /&gt;
; 直轄市&lt;br /&gt;
: [[平壌]]直轄市（ピョンヤン=ジカルシ）&lt;br /&gt;
; 特別行政区&lt;br /&gt;
: [[新義州特別行政区]]（シニジュ=トゥクピョルヘンジョング）&lt;br /&gt;
; 工業地区&lt;br /&gt;
: [[開城工業地区]]（ケソン=コンオプチグ）&lt;br /&gt;
; 観光地区&lt;br /&gt;
: [[金剛山 (朝鮮)|金剛山観光地区]]（クムガンサン=グァングァンジグ）&lt;br /&gt;
; 道&lt;br /&gt;
: [[江原道]]（カンウォン=ド）&lt;br /&gt;
: [[両江道]]（リャンガン=ド）&lt;br /&gt;
: [[慈江道]]（チャガン=ド）&lt;br /&gt;
: [[平安南道]]（ピョンアンナム=ド）&lt;br /&gt;
: [[平安北道]]（ピョンアンプク=ト）&lt;br /&gt;
: [[咸鏡南道]]（ハムギョンナム=ド）&lt;br /&gt;
: [[咸鏡北道]]（ハムギョンプク=ト）&lt;br /&gt;
: [[黄海南道]]（ファンヘナム=ド）&lt;br /&gt;
: [[黄海北道]]（ファンヘプク=ト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
[[朝鮮半島]]全域を領土であるとし、そのうちの軍事境界線（[[38度線]]）以北およびその属島を統治している（38度線以南は、実際には[[大韓民国]]政府が統治しているが、朝鮮民主主義人民共和国では地域をさす表現としての「'''南朝鮮'''：{{lang|ko|'''남조선'''}} ナムチョソン」が用いられている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、大韓民国（韓国）も同じく朝鮮半島全域を領土であるとしている。韓国では、朝鮮民主主義人民共和国を、自ら統治できない38度線以北の地域をさす意味で「'''北韓'''：{{lang|ko|'''북한'''}} プッカン」と呼ぶ。&amp;lt;!-- off topic なのでコメントアウト。さらに、大韓民国では、「朝鮮」という言葉そのものの持つ意味が、李朝時代や日本統治時代、あるいは企業や大学の名称の一部であるかしかない。朝鮮半島は「韓半島」、[[朝鮮戦争]]は「6・25戦争」や「韓国戦争」（朝鮮民主主義人民共和国では「祖国解放戦争」）、朝鮮民族も「韓民族」と表現される。大韓民国で「朝鮮」と言うと、日本統治や、[[1950年]]から[[1953年]]の韓国戦争に対するマイナスイメージを抱く韓国人は少なくない。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、朝鮮民主主義人民共和国の憲法で定められる首都は、[[1972年]]まで[[ソウル特別市|ソウル]]となっており、[[平壌]]は当時「臨時首都」の扱いだった。しかし1972年憲法制定で、首都は公式に平壌に変更された。もちろん、実質的な首都機能はそれ以前から平壌に存在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
気候は寒冷で、[[亜寒帯]]に属する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経済 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:Earthlights in nkorea.jpg|thumb|300px|北朝鮮は平壌以外は闇であり、照明の電気もほとんどないことが分かる。宇宙からみた地球夜景（NASA）より]]&lt;br /&gt;
北朝鮮は厳格な情報統制下にあり、信頼に値する統計も十分には公表されておらず、このことが北朝鮮[[経済]]の実態の把握を困難にしている。国外の機関・研究者によるマクロ経済指標推計の試みもあり、毎年公表される韓銀（[[韓国銀行]]）によるGDPの推計などがある。韓銀の推計では韓国の物価・付加価値率が用いられている。CIAも韓銀やアンガス・マディソンの推計などを加工するなどして推計値を発表している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
韓銀の推計によれば、GDPの構成では[[農業|農]]・[[林業|林]]・[[水産業]]が23.3%、[[鉱業|鉱]]・[[工業]]29.6%、[[電力会社|電力]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[水道]]4.5%、[[建設業|建設]]9.0%、[[サービス]]産業が33.6%を占めている（2006年）。また就業人口の36%を[[第一次産業]]が占める。また[[軍需産業]]が経済活動の大きな割合を占め、資源の偏った配分が経済疲弊の一因となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農業が経済に大きな割合を占めるが、もともと農業に適する地域が少ないため、[[肥料|化学肥料]]や[[農薬]]を大量に利用して[[食料自給率|食料自給]]を維持していた。しかし[[ソ連崩壊]]による[[エネルギー資源|エネルギー]]不足の影響で農業生産が大幅に減退した。その結果、食糧が乏しくなって各地で飢えが発生し、国外からの食糧支援に大きく依存している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本統治時代には南部（現：大韓民国）の農業に対して、北部は鉱工業を促進する政策を取っていたが、独立後は[[設備投資]]の失敗により老朽化が目立つ。さらに外貨不足、質の悪い石炭や送電ロスに起因する電力不足、資材不足により工業の生産能力は非常に低い状態となっている。&lt;br /&gt;
工業では、基本的には「[[大安の事業体系]]」（テアンの事業体系）と呼ばれる社会主義的な工業経営管理方式が採用されており、農業では、基本的には[[青山里方式]]（チョンサンリ方式）と呼ばれる社会主義的な農業経営管理方式が採用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代以降縮小した農業や鉱工業に対しサービス産業は比較的堅調で、経済に占めるウェイトは拡大したと推計されている。例えば南北交流による観光産業の成長が挙げられる。また配給物資の不足により自由市場など非国営部門の経済活動が活発化した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資源としては[[石炭]]や[[鉄鉱石]]、[[タングステン]]他の[[レアメタル|希少金属]]をはじめとした[[鉱物]]資源が比較的豊富である。しかし、採掘する設備が非常に旧式であるほか、[[電力]]、水道などの基本的な[[インフラストラクチャー|インフラ]]の状況が非常に悪いため、[[生産性]]は高くない。&lt;br /&gt;
また[[マツタケ|松茸]]や[[魚介類]]なども豊富で、日本などに輸出して貴重な外貨獲得源になっている。他には、[[銃]]などの[[小火器]]や[[ミサイル]]などをはじめとした[[武器]]や、極めて精巧な[[偽札]]、[[覚醒剤]]、偽タバコなどの輸出により、[[外貨]]を獲得しているとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1990年]]代中盤には、慢性的な不況状態にあり、[[水害]]による[[農産物|農作物]]不足も追い討ちをかけ、国民の[[餓死]]も多かったと言われている。[[発電所]]が稼動しないため国内の電力事情が極度に悪く、[[工場]]や[[鉄道]]が動かないことが多く、生産活動にもかなりの支障を来しているとされていたが、[[1999年]]以降は[[中華人民共和国]]との経済関係が活発化し、鉄鉱石や石炭[[鉱山]]の権利を中華人民共和国の企業に売却するなどの効果が現れ、同年の経済成長率は6.2%と久々にプラス成長に転じ、その後4年間はそれぞれ1.3%、3.7%、1.2%、1.8%の成長を記録する等経済状況がやや好転したと言われる。[[2004年]]以降、電力事情も好転しつつある。しかし[[核実験]]に伴う[[経済制裁]]のため、[[2006年]]後半以降再び経済が悪化し、同年の経済成長率は8年ぶりのマイナス成長となる-1.1%となった。国内にある一部の非[[国営]]部門の活発化や海外支援などがあるものの、依然として国民生活が厳しい状態が続いており、韓国との経済格差は、[[1970年代]]初頭までは北朝鮮がその経済水準を上回っていたが、以降は拡大する一方である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代後半から経済改革が行われ、その一環として2002年7月に「経済管理改善措置」と題する賃金と物価の改定が行われた。同時期に、経済における市場的要素を一部許容した。その後、市場的要素が公式的にも非公式的にも広がり始め、その中で比較的順調な軽工業と生産正常化の遅れている重工業といった国営企業間の格差や国民の間での[[所得格差]]など、新たな問題が発生している。2009年の朝鮮日報の報道では北朝鮮の対外貿易の80%以上を中国が占めるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年12月から平壌市において通話のみだが携帯電話の利用が可能になり一般市民の便利性が向上した。しかし購入の際に、利用目的などの書類の提出があったり、スパイとみなされ監視対象となったりするので、国民での利用者は少ない。また金日成生誕100年となる[[2012年]]に向けて、「強盛大国の大門を開く」というスローガンを掲げている。この強盛大国とは、[[軍事]]、[[政治]]においては北朝鮮はすでに一流であるとし、経済の活性化に重点を置くとされる政策である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通貨は[[朝鮮民主主義人民共和国ウォン]]（[[ISO 4217|KPW]]）。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替公式レートは1ドル＝141ウォン（1ウォン＝約0.87円）だが、闇レートは1米ドル＝2500ウォン以上（1ウォン＝約0.05円以下）。[[2009年]][[11月30日]]には、[[1982年]]以来となる5度目の[[デノミネーション]]を実施し、実態経済がさらに混乱したため、交換レートはさらに悪化しつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 国民 ==&lt;br /&gt;
[[朝鮮半島]]は西北部は[[前漢]]が領していた時期に[[漢族]]が移住して土着化し、東北部は古くは[[ワイ人|濊系種族]](高句麗人)、[[渤海人]]、[[女真]]人等[[ツングース]]系民族の流入が相次いだが、[[李氏朝鮮]]時代から日本統治時代にかけて住民の均質化が進み、ほとんどが[[朝鮮民族]]となっている。韓国・北朝鮮両国は単一民族国家意識が強いのが特徴的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 人口と人権、食糧問題 ===&lt;br /&gt;
北朝鮮の人口統計は、政治的要因および統計制度・調査方法の不備から、ある程度の誤差があると考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮政府が人口[[センサス]]を実施したのは[[1993年]]末に1回のみであったが、[[2008年]][[10月]]に[[国連人口基金]]の支援下で新たな人口センサスが実施された。これによる暫定集計の結果は、総人口24,051,218人、内男性が11,722,403人、女性が12,328,815人である。米国[[アメリカ中央情報局|CIA]]の{{Lang|en|World Factbook}}によれば2007年7月の推定人口は23,301,725人である。平均寿命は71.92歳（男性69.18歳、女性74.80歳）、[[出生率]]は人口1000人当たり15.06人、[[合計特殊出生率]]は2.05人、幼児死亡率は1000人当たり22.56人となっている。WHOの推計では、平均寿命は男性65歳、女性68歳（2005年）となっている。国連の推計では現在の平均寿命が80年代後半より4歳下回っているとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1980年代]]以降、[[ソビエト連邦]]など[[東側諸国|共産圏]]からの援助が激減し[[エネルギー]]不足となったのをきっかけに、国内の[[食糧]]事情が極度に悪化し、数十万人以上の[[国民]]が[[餓死]]したと言われる。北朝鮮政府は、食糧危機の原因を[[水害]]や[[旱魃|旱害]]などの[[災害|天災]]としているが、それは主たる原因ではない。真の原因は、[[エネルギー]]不足により[[肥料]]生産が減り、肥料や食料の運搬が困難になったことと、各地域の[[天気|天候]]や現状は無視して、首都から各地方へ画一的な[[主体農法]]を押しつけた、北朝鮮政府の非現実的な食糧生産政策が原因とされる。また、生産された食糧のかなりの部分を、各地の労働党幹部が確保し、一般国民へ食糧が届かないことも、餓死の大きな原因とされる。西沿岸が干ばつに見舞われた1997年6月&amp;lt;ref name=&amp;quot;WFP&amp;quot; /&amp;gt;、[[鰻丼|ウナ丼]]の好きな金正日総書記が、人民の食生活向上を狙い、集約化に向き栄養価の高い[[ナマズ]]の養殖発展を指示し、以来力を入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[刑務所]]や[[政治犯]][[強制収容所 (北朝鮮)|収容所]]などの強制収容施設で多数の人々が殺害されたと言われるが、北朝鮮政府は政治犯収容所の存在を否定している。しかし政治犯収容所の収容者や警備兵などの多数の証言によれば、収容所内で裁判なしに多くの人が日常的に殺害されており[[公開処刑 (北朝鮮)|公開処刑]]も行われているといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
餓死と強制収容施設での問題の他、食糧問題と[[人権]]問題を原因とする、多数の国民の北朝鮮からの脱出、いわゆる[[脱北者|脱北]]も、人口減の原因である。北朝鮮と接する[[中国東北部]]には、北朝鮮から逃れた人々が数十万人以上滞在しているために[[中華人民共和国]]は[[国境]]地帯の警備を強化している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]][[3月25日]]、日本やEUなどが提出した、北朝鮮の人権状況を非難する決議が国連人権理事会で採択された。採択は3年連続で、今回は過去最多の28か国が賛成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化 ==&lt;br /&gt;
基本的には、同じ民族が暮らしている韓国と似ている。衣装は[[チマチョゴリ|チョゴリ]]、食べ物は[[キムチ]]や[[冷麺|平壌冷麺]]が有名である。[[亜寒帯]]に属し[[気候]]が寒冷なので、冬になると建物の床下に薪や練炭、石炭の煙を通し暖を取る昔ながらの[[オンドル]]を使用しているところが多い。オンドルの使用で毎年多くの一酸化炭素中毒死者を出している{{要出典}}。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[非同盟および発展途上国の平壌映画祭]]や[[平壌世界芸術祭]]が開かれている。[[引田天功 (2代目)|プリンセス・テンコー]]も招待されて[[奇術|マジック]]を披露した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮の楽曲は、[[鄭律成]]や[[金正平]]など、朝鮮生まれの[[朝鮮族|中国朝鮮族]]音楽家が中朝両国で活躍したためか、中国の革命楽曲文化との共通点が多く見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 学校教育 ===&lt;br /&gt;
北朝鮮の学校教育制度は、満5歳から幼稚園（就学前教育）1年、小学校4年、中学校6年の11年制の義務教育があり、高等教育には、2-3年制の高等専門学校、3-4年制の単科大学、4-6年制の総合大学などがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 文学 ===&lt;br /&gt;
建国直後は、旧植民地時代から活躍していた[[李箕永]]や、日本語でも創作活動をし、[[芥川賞]]候補にもなった[[金史良]]らが活躍した。また、詩人の[[林和]]などもいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮戦争のあとは、『ケマ高原』を著した[[黄健]]などが活躍している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
北朝鮮では映画も盛んに製作、上映されている。平壌市には「朝鮮芸術映画撮影所」がある。北朝鮮の映画は政治色の強い[[プロパガンダ]]映画がほとんどである。1985年には[[怪獣映画]]『[[プルガサリ]]』が製作、上映されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 音楽 ===&lt;br /&gt;
国内では主に以下の音楽集団が存在する。&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国国立交響楽団|国立交響楽団]]&lt;br /&gt;
* [[功勲国家合唱団]]（旧称：朝鮮人民軍功勲国家合唱団、朝鮮人民軍功勲合唱団）。協奏団より合唱部門として分列。&lt;br /&gt;
* [[朝鮮人民軍協奏団]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮人民軍軍楽団]]（旧称：最高司令部軍楽団）&lt;br /&gt;
* [[普天堡電子楽団|ポチョンボ軽音楽団（ポチョンボ電子楽団）]]&lt;br /&gt;
* [[ワンジェサン軽音楽団]]&lt;br /&gt;
* [[万寿台芸術団]] （旧称：平壌歌舞団）&lt;br /&gt;
* [[血の海歌劇団]]（ピバダ歌劇団）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ソ連の[[赤軍合唱団]]（[[アレクサンドロフ・アンサンブル]]他）に範を取った、人民軍の正規現役軍人らによる合唱団の功勲国家合唱団、国外にも少なからずファンを持つポチョンボ電子楽団、日本や西側諸国にも演奏旅行経験が有り、2008年には[[ニューヨーク・フィルハーモニック|ニューヨークフィル]]とも共演した国立交響楽団が代表的。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
演奏歌唱曲では、北朝鮮国内では準国歌扱いとして特に有名な「[[金日成将軍の歌]]」や「[[金正日将軍の歌]]」他といったプロパガンダ歌曲や、[[労働歌]]、[[革命歌]]、[[軍歌]]、朝鮮[[民謡]]などが有名。また、「[[青い山脈]]」や「[[津軽海峡冬景色]]」（日本語および朝鮮語にて歌唱）といった日本の歌や、欧米の音楽のカバー（無許可カバーや、演奏歌唱する曲のメロディ自体が盗作な歌曲も有り）を行っていたりもする。ポチョンボ電子楽団や功勲国家合唱団等は演奏CDも出しており、北朝鮮国内の他、日本など国外でも代理店を通して購入可能。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上記の楽団以外にも、国立の舞台劇団（民族演舞や抗日闘争を題材としたオペラ・[[革命歌劇]]『血の海』等が有名）も多数存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平壌には、作曲家[[尹伊桑]]の音楽を研究するために設立された、尹伊桑音楽研究所がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝鮮民主主義人民共和国は[[文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約|ベルヌ条約]]に加盟しているものの、日本政府は国家としてみなしていないため、事実上朝鮮民主主義人民共和国の著作物（主にテレビ画像）は日本国内で「使い放題」の状態になっているのが現実であった。{{要出典範囲|また、著作権料の取り立てが何度か行われた事もあるが、ほとんどのメディアは払っていないなどの話もあった。}}現在では、朝鮮民主主義人民共和国側の主張により、日本各メディアの対応は変化し、衛星テレビ画像などは報道引用のみとしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、[[著作権]]についての詳細は[[ポチョンボ電子楽団]]の項を参照のこと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中学校・高等学校では、朝鮮の民族楽器のほかに[[シンセサイザー]]や[[エレクトリックギター|エレキギター]]を利用した軽音楽を課外活動として取り入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== スポーツ ===&lt;br /&gt;
スポーツでは韓国と同じ[[テコンドー]]や[[シルム]]（朝鮮相撲）があるが特に北朝鮮主催の「[[スポーツの平和の祭典]]」（別名:「平和のための平壌国際体育・文化祝典」）と呼ばれる国際競技大会が行われている。[[アントニオ猪木]]も参加した。後は[[ソウルオリンピック]]に対抗して行われている「[[世界青年学生祭典]]」がある。[[マスゲーム]]も盛んに行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[サッカー北朝鮮代表]]は、[[1966FIFAワールドカップ]]で初出場ながら、ベスト8という結果を残した。その後、ワールドカップからは遠ざかっていたが、[[2010FIFAワールドカップ]]への出場を決めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 宗教 ===&lt;br /&gt;
* [[儒教]] - 中国・台湾・日本の一部などと同様に儒教文化圏にある。&lt;br /&gt;
* [[東学|天道教]]&lt;br /&gt;
* [[キリスト教]]（[[天主教]]）&lt;br /&gt;
* [[仏教]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、北朝鮮国内における宗教に関することは国外に明らかになっていない。当局は、外国人が訪朝した際に、平安南道・[[妙香山]]の普賢寺を見せて「北朝鮮では信教の自由がある」と説明している。また、憲法にも[[信教の自由]]が保障されている事が明記されている。このことから無神国家または無宗教国家ではない、とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、憲法の中の信教に関する項目が何度も改正されている事実を考えれば、宗教政策が何らかの理由でしばしば変更を強いられていることが伺える。また、諸外国でも、「普賢寺そのものが、あくまで外国人にそう説明するための手段に過ぎず、実際のところ、朝鮮民主主義人民共和国公民にはほぼみな、信教の自由がない」とする見方が主流である。多くの共産主義国と同じように宗教の存在が党の指導思想（北朝鮮の場合は[[主体思想]]）と対立するためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平壌はかつて日本統治時代に[[キリスト教]]徒が多く、「[[東洋]]の[[エルサレム]]」と呼ばれた。[[金日成]]の母方の祖父である康敦煜もプロテスタント長老派の[[牧師]]である。解放後から金日成政権が安泰になるまでもキリスト教徒が多く、キリスト教系[[新宗教|新興宗教]]も存在していた。{{要出典範囲|[[世界基督教統一神霊協会|統一教会]]の[[文鮮明]]もそうした新興宗教グループの出身である}}。現在は、北朝鮮には地下教会の信者が多くおり、他の宗教同様キリスト教に関しても、信教の自由は確立されてはいない。北朝鮮ではキリスト教を弾圧していると言う情報が流れているのも、このためとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北朝鮮の場合は中華人民共和国などの他の「共産国」に比べて、宗教が弾圧された経緯が漏れ伝わってこない。また、その形跡も確認しづらい。金日成自らはかつて[[美濃部亮吉]]と対談した際、教会はすべて朝鮮戦争において「アメリカの[[空襲|爆撃]]で焼けてしまいました」と語り、キリスト教徒も南部へ逃げてしまったと語っている。弾圧の必要がなかったと語っているこの発言は、決してキリスト教を弾圧する意志がなかったことを意味しておらず、また弾圧の可能性があったことを前提とした文脈であるために、ある程度の信憑性をもって受け止められている。{{要出典範囲|またここ近年、脱北者の話からキリスト教徒が弾圧され、またその多くが強制収容所に収監されているという目撃証言が多数ある。その一方仏教徒が約3万人いるという話もある。}}これらのことから実質北朝鮮では宗教の自由は無いに等しいと考えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 世界遺産 ===&lt;br /&gt;
国内には、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]リストに登録された文化遺産の[[高句麗古墳群]]がある。&amp;lt;!--- ''詳細は、[[朝鮮民主主義人民共和国の世界遺産]]を参照。''（遺産が一つしかないので作らないと思います）---&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 祝祭日 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!日付&lt;br /&gt;
!日本語表記&lt;br /&gt;
!現地語表記&lt;br /&gt;
!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月1日]]||正月|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|양력설||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[2月16日]]||民族最大の名節|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|김정일령도자의 탄생일||[[金正日]]総書記誕生日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[4月15日]]||太陽節|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|태양절（김일성주석의 탄생일）||[[金日成]]主席誕生日&amp;lt;!--前日も休日?--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[4月25日]]||[[朝鮮人民軍|人民軍]]創建記念日|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조선인민군 창건일||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[5月1日]]||国際労働者節|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|전세계로동계급의 명절||所謂「[[メーデー]]」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[7月27日]]||[[祖国解放戦争]]勝利記念日|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조국해방전쟁승리의 날||[[1953年]]の[[朝鮮戦争]]休戦記念日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[8月15日]]||祖国解放記念日|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조국광복의 날||[[日本統治時代 (朝鮮)|日本統治]]からの解放（光復）を祝う日。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[9月9日]]||共和国創建記念日|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조선민주주의인민공화국창건일||建国記念日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[10月10日]]||[[朝鮮労働党]]創建記念日|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조선로동당창건일||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[12月27日]]||憲法節|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|조선민주주의인민공화국 사회주의헌법절||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月1日 (旧暦)|陰暦1月1日]]||旧正月|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|설명절||民族の名節&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[1月15日 (旧暦)|陰暦1月15日]]||小正月|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|정월대보름||民族の名節&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[5月5日 (旧暦)|陰暦5月5日]]||端午|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|수리날||民族の名節&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
||[[8月15日 (旧暦)|陰暦8月15日]]||チュソク（[[秋夕]]）|| lang=&amp;quot;ko&amp;quot;|설명절||民族の名節&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 朝鮮民主主義人民共和国の主な歴史観 ==&lt;br /&gt;
* 外国の[[唐]]と結び、[[百済]]を滅ぼした[[新羅]]の行為を断罪している。&lt;br /&gt;
* 同じ民族に対する裏切りが頻発する朝鮮半島で、[[高麗]]だけは、北朝鮮は肯定的に前向きに評価している。そのためか、首都平壌には高麗と名の付いた建物がいくらか存在する。高麗こそ、朝鮮民族の誇り、名誉、自主自立を示した国であると高く評価し、将来、南北統一した時には、この高麗の名を一部使った国名（高麗民主連邦共和国）を使用しよう、と韓国に提案している。&lt;br /&gt;
* [[李氏朝鮮]]について痛烈に批判している。[[李成桂]]は、もともと高麗に仕える将軍であった。異民族であり敵国であった[[明]]軍を攻撃するために出撃したのに、どういうわけか、大した戦闘もせず明軍にあっさり降伏してしまう&amp;lt;ref&amp;gt;この李成桂の出撃は、世界史では[[1388年]]の「[[威化島回軍]]」事件として知られる。李成桂のこの行動の動機・真相はあまりわかっていないが、北朝鮮は、明軍と戦闘しなかった彼の行為を、明に対する「降伏」の意思表示（合図、サイン）とみなしている。その後、李成桂の建てた李氏朝鮮は明の正式な属国になった。北朝鮮は、この李成桂の一連の不可解な行動には、祖国高麗を明に売り渡す卑劣な裏取引・陰謀があったと見て、売国奴・祖国の裏切り者として批判している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして、そのまま高麗の首都・[[開京]]（現[[開城]]）に帰って来るのであるが、何を血迷ったのか、いきなり自分の味方の国の首都・開京を総攻撃してしまう。そして、同じ朝鮮民族であり、自分の主である高麗の王族を平気で追放して、国を泥棒するような形で、勝手に自分の王朝を作ってしまう行為を、北朝鮮は、決して許す事のできない朝鮮民族に対する大きな裏切り行為、逆賊、売国奴、反民族行為として激しく断罪している。&lt;br /&gt;
* [[日韓併合]]による統治は、朝鮮民族にとって耐え難い多大な苦しみであったとしている。[[韓国併合|日韓併合]]は朝鮮の富を奪う目的でなされたものであり、日本による都合のいい侵略行為として、激しく断罪している。日本が行ったインフラ整備や公教育といった統治政策は一切否定しており、優れた文化・文明・資産を奪い取られたと主張している。&lt;br /&gt;
* 朝鮮半島南部に対峙する同じ民族の民主主義国家、大韓民国を「[[アメリカ帝国主義]]の[[傀儡政権]]」として非難している。&lt;br /&gt;
* そもそも朝鮮半島分断の根本的原因は、「[[日本帝国主義]]による[[植民地支配]]の結果」であるとして、南半部（大韓民国）は日帝との植民地戦争に勝利した米帝が不法占拠して植民地化したという歴史認識を持っている。&lt;br /&gt;
* 北朝鮮の[[侵略]]で始まった[[朝鮮戦争]]（北朝鮮側は「祖国解放戦争」と呼称す）は「[[米帝]]の[[侵略]]を撃退した[[自衛戦争]]」としており戦争原因を「韓国側が攻撃したから反撃した」としている。なおこの主張は[[冷戦]]後の[[ロシア]]政府ですら否定している。&lt;br /&gt;
* [[竹島 (島根県)|竹島]]（韓国名：独島）は昔から朝鮮民族が領有していたとし、日本の領有権主張は[[帝国主義]]の復活としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 観光 ==&lt;br /&gt;
北朝鮮は[[EU]]諸国を含めて162か国前後との間に国交があり、観光客も幅広く受け入れている。ただし事前に北朝鮮領事館でビザを発行してもらい、事前に観光コースを決定し、現地では専用のガイドとともに行動することが条件となる。また、観光客が訪問できる都市・地域は限定されているため、必ずしも希望する観光地・コースどおりになるわけではない。すでに決定していたコースが現地で変更になることもあるといわれる。外国人が宿泊可能なホテルも限定されている。同様に自由行動を制限している国としては[[ブータン]]や[[サウジアラビア]]等があるが、北朝鮮はそれらと比較しても制約が厳しいといえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電圧は220V、周波数は60Hzで通貨は[[ユーロ]]や[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]、[[日本円]]などが利用できる。平壌市内のホテルや観光地、中国国境に近い新義州や羅先では[[人民元]]もよく通用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入国には[[平壌国際空港]]か、北京-平壌およびモスクワ-平壌間の寝台国際列車を利用する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[アリラン祭]]期間はアメリカ人観光客も受け入れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入国の際の持ち込み品は、武器や麻薬・爆発物類はもちろん、[[GPS]]などの航法装置、携帯電話や通信装置、ラジオ、220mm以上の望遠機能を持つカメラ、外国の出版物全てが禁止されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]「デンジャーゾーン！潜入マル秘ルポ『独裁国家 北朝鮮』」より&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 日本人向けの観光 ===&lt;br /&gt;
日本と北朝鮮の間には正式な国交はない。また、北朝鮮の核実験・ミサイル発射実験を受け、日本の外務省は国民に対して渡航を自粛するよう勧告している（2010年現在継続中）。それでも北朝鮮を観光や人道支援で訪問する日本人もわずかながらいる。北朝鮮側も外貨獲得のため日本人観光客の受入を続けている。ただし[[自衛隊員]]、[[マスメディア]]関係者は原則として不可。日本には北朝鮮領事館が無いため、北朝鮮旅行を取り扱う旅行社にビザを手配してもらうことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本と北朝鮮の間に直行便は存在しない。2010年現在、平壌国際空港との間に定期便があるのは[[中国]]（[[北京]]、[[瀋陽]]）・[[タイ王国|タイ]]（[[バンコク]]）・[[ロシア]]（[[ウラジオストク]]）の4都市である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist|2}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* [[伊藤亜人]]他監修[[平凡社]]編 『朝鮮を知る事典』 平凡社、1986年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{ウィキポータルリンク|朝鮮}}&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国関係記事の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[自由青年同士会]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮統一問題]]&lt;br /&gt;
* [[世襲君主制]]&lt;br /&gt;
* [[独裁政権]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮人民軍]]&lt;br /&gt;
* [[満州派]]、[[甲山派]]、[[南労党派]]、[[延安派]]、[[ソ連派 (朝鮮)]]&lt;br /&gt;
* [[脱北者]]&lt;br /&gt;
* [[太陽政策]]&lt;br /&gt;
* [[北朝鮮人権侵害問題啓発週間]]&lt;br /&gt;
* [[瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件]]&lt;br /&gt;
* [[北朝鮮による日本人拉致問題]]&lt;br /&gt;
* [[北朝鮮による韓国人拉致問題]]&lt;br /&gt;
* [[在日本朝鮮人総聯合会]] （朝鮮総連）&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国の政党一覧]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国の著名人一覧]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮民主主義人民共和国のインターネット]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮中央放送]]&lt;br /&gt;
* [[労働新聞 (朝鮮労働党)|労働新聞]]&lt;br /&gt;
* [[朝鮮半島を中国とみなす記述]]&lt;br /&gt;
* [[高麗航空]]&lt;br /&gt;
* [[平壌国際空港]]&lt;br /&gt;
* [[日朝政府間協議]]&lt;br /&gt;
* [[板門店]]&lt;br /&gt;
* [[テロ国家]]&lt;br /&gt;
* [[六者会合]]&lt;br /&gt;
* [[日本社会党]]&lt;br /&gt;
* [[プロパガンダ]]&lt;br /&gt;
* [[独裁政権]]&lt;br /&gt;
* [[特定アジア]]&lt;br /&gt;
* [[野村旗守]]&lt;br /&gt;
* [[共産主義]]&lt;br /&gt;
* [[黒い山葡萄原人]]&lt;br /&gt;
** [[スーパーノート]]&lt;br /&gt;
* [[JSA (映画)|JSA]] （[[2001年の日本公開映画]]）&lt;br /&gt;
* [[人民共和国]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
; 政府&lt;br /&gt;
* [http://www.korea-dpr.com/ 朝鮮民主主義人民共和国政府公式サイト] {{en icon}}&lt;br /&gt;
* [http://www.naenara.kp/ 政府公式ポータルサイト 「ネナラ」] {{ko icon}}{{en icon}}{{fr icon}}{{es icon}}{{de icon}}{{ru icon}}{{zh icon}}{{ja icon}}{{ar icon}}&lt;br /&gt;
; 日本政府&lt;br /&gt;
* [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/ 日本外務省 - 北朝鮮] {{ja icon}}&lt;br /&gt;
; 観光&lt;br /&gt;
* {{Wikitravel|li=n}}&lt;br /&gt;
; その他&lt;br /&gt;
* [http://www.piks.or.tv/index.htm 私設 朝鮮民主主義人民共和国研究室]&lt;br /&gt;
{{アジア}}&lt;br /&gt;
{{各国の社会主義}}&lt;br /&gt;
{{Wikipedia/Ja}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ちようせんみんしゆしゆきしんみんきようわこく}}&lt;br /&gt;
[[Category:朝鮮民主主義人民共和国|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会主義国]]&lt;br /&gt;
[[Category:テロリズム]]&lt;br /&gt;
[[Category:冷戦]]&lt;br /&gt;
[[Category:アジアの社会主義]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本が承認していない国]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E4%B8%8A%E7%A5%90%E5%8F%B2%E6%B5%A9&amp;diff=220463</id>
		<title>上祐史浩</title>
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				<updated>2014-02-12T16:08:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''[[:wiki:ja:上祐史浩|上祐史浩]]'''（読み：じょうゆうふみひろ）は[[:wiki:ja:宗教法人|宗教法人]][[オウム真理教]]信徒。現在では解散したオウム真理教の信徒であった者で構成する[[:wiki:ja:ひかりの輪|ひかりの輪]]の代表を務める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[:wiki:ja:早稲田大学|早稲田大学]]理工学部在学中から[[:wiki:ja:議論|議論]]好きで知られ&amp;quot;[[:wiki:ja:ああいえば上祐|ああいえば上祐]]&amp;quot;と揶揄されるほどの反論・主張は有名。&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教|しようゆうふみひろ]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪者]]&lt;br /&gt;
[[Category:殺人鬼]]&lt;br /&gt;
[[Category:少年犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚候補]]&lt;br /&gt;
[[Category:朝鮮人]]&lt;br /&gt;
[[Category:バカチョン]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソガキ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケフカ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:クズ]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪魔]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[Category:狂人]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神異常者]]&lt;br /&gt;
[[Category:知恵遅れ]]&lt;br /&gt;
[[Category:発達障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アスペルガー障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:躁病の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:偏執狂の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:人格障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:解離性統一障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:統合失調症の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:虚言癖を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害者福祉手帳を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自己顕示欲の強い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:死ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:氏ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:白痴]]&lt;br /&gt;
[[Category:公害]]&lt;br /&gt;
[[Category:左翼]]&lt;br /&gt;
[[Category:国賊]]&lt;br /&gt;
[[Category:偽善者]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;br /&gt;
[[Category:非国民]]&lt;br /&gt;
[[Category:工作員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール]]&lt;br /&gt;
[[Category:役立たず]]&lt;br /&gt;
[[Category:腐れ外道]]&lt;br /&gt;
[[Category:チンカス]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゴキブリ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キモヲタ]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会のゴミ]]&lt;br /&gt;
[[Category:産業廃棄物]]&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会]]&lt;br /&gt;
[[Category:幸福の科学]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:顕正会]]&lt;br /&gt;
[[Category:霊友会]]&lt;br /&gt;
[[Category:いじめ依存症患者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール渇望症患者]]&lt;br /&gt;
[[Category:心に愛が無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:戸塚宏に扱いてもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:辻井伸行の爪の垢を飲ませたい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:義家弘介の再教育を受けるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長田百合子に根性を叩き直してもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:島田紳助に本当に潰されるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大藪順子と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:小林美佳と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上野のパンダの代わりに死ぬべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:星椎水精に浄霊をしてもらうべき人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%91%E4%BA%95%E7%A7%80%E5%A4%AB%E5%88%BA%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=220462</id>
		<title>村井秀夫刺殺事件</title>
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				<updated>2014-02-12T16:08:21Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''村井秀夫刺殺事件'''（むらいひでおしさつじけん）とは、[[1995年]][[4月23日]]に発生した殺人事件。[[オウム真理教]]の幹部で「科学技術省大臣」[[村井秀夫]]が、[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[青山 (東京都港区)|南青山]]にあった教団東京総本部前で自称[[右翼団体]]構成員で在日朝鮮人の徐裕行に殺害された[[事件]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==犯行==&lt;br /&gt;
[[1995年]][[4月23日]]午後8時35分、教団東京総本部前において、[[山梨県]][[上九一色村]]の[[サティアン]]群から戻ってきた村井が、犯人によって刃物で左腕と右脇腹を続けざまに刺された。この様子はTVニュースで繰り返し放映され、日本中に衝撃を与えた。刺された後、直ちに村井は[[東京都立広尾病院]]に救急車で搬送されたが、右脇腹に受けた深さ13cmの刺し傷が致命傷となり、出血性[[ショック]]による急性循環不全の為、翌[[4月24日]]午前2時33分に死亡（死去）した。実行犯は昼頃より事件現場に待ち伏せており、計画的犯行であることが伺えた。事件後直ちに逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件直後の[[上祐史浩]]広報部長（当時）のＴＶ番組内での証言によれば、村井は死ぬ間際に「[[ユダ]]にやられた」と話したという。後の2000年2月の週刊プレイボーイ上のインタビューでは[[上祐史浩]]は、「彼（村井）は刺殺される直前に、オウム真理教の事件その他はユダヤの陰謀であると言おうとしていた、そんな気配がある」「ユダヤ叩きというのは、僕にはどういう意味なんかよくわからない」が、「彼はあの直前に、テレビに出演してユダヤ叩きをやろう、という計画を立てていた」「刺殺される数時間前に彼から私の方に「ユダヤ叩きをやりますよ。今から戻ります」という電話があった」「彼はその直後に刺殺され」た、と述べている。また、事件がおこったちょうどその日、「オウム出版の編集部に彼が「ユダヤの陰謀関係の本を集めてくれ」と依頼していたという事実もある」&amp;lt;ref&amp;gt;『オウム解体　[[宮崎学]]×[[上祐史浩]]』（雷韻出版2000）pp40-42&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==犯人と裁判==&lt;br /&gt;
実行犯は、右翼団体「'''神洲士衛館'''」の構成員を名乗っていた。しかし「神洲士衛館」は政治活動をほとんど行っていない休眠団体であり、実際は[[山口組]]系[[暴力団]]の構成員だった。実行犯は「教団幹部なら誰でもよかった」と供述した。しかし、犯行当日のテレビ報道では実行犯が東京総本山ビル周辺でうろついている姿が度々映像に映っているが、教団幹部である上祐史浩や[[青山吉伸]]が出入りしても、実行犯は一切動いておらず、最初から村井をターゲットにしていたことが明白であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実行犯の供述により、暴力団[[若頭]]も共犯として[[5月11日]]に逮捕された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判では、実行犯は若頭の指示により犯行に及んだと主張した。一方、若頭は「指示」そのものを否定した。警察の調査でも、若頭とオウム真理教の接点が見当たらなかった。むしろ、実行犯自身に特定の外国との不可解なつながりがあったという。また、公判において若頭からの犯行指示日に関する実行犯の供述が不自然であることが明らかになった。裁判の結果、実行犯に懲役12年、若頭に無罪判決が下り、確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==教団の供養==&lt;br /&gt;
教団では村井が死亡した[[4月24日]]以降の10日間、事件現場となった東京総本部前で教団独特の踊りを披露し、村井を追悼した。1踊りの期間を10日間とした理由は、「死者は遅くとも死後49日以内に輪廻転生するが、これが早ければ早いほど高い世界に転生し、遅いほど低い世界（人間界は45日目、地獄界は49日目）に転生する。」という教団の教義に基づくもので、村井は幹部としての「功績」が高いので10日以内に転生するとされたためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、『'''巨聖逝く &amp;lt;small&amp;gt;悲劇の天才科学者 村井秀夫&amp;lt;/small&amp;gt;'''』『'''巨聖逝く &amp;lt;small&amp;gt;マンジュシュリー・ミトラ正大師物語&amp;lt;/small&amp;gt;'''（漫画版）』を急遽発刊し、村井の「功績」を称えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その他==&lt;br /&gt;
事件発生当時は3月20日に[[地下鉄サリン事件]]の発生をきっかけに2日後の3月22日に教団施設への強制捜査によってオウム真理教への疑惑が深まった。そして、[[岐部哲也]]（4月6日逮捕）、[[越川真一]]（4月6日逮捕）、 [[林郁夫]]（4月8日逮捕）、[[石川公一]]（4月8日逮捕）、[[新実智光]]（4月12日逮捕）、[[早川紀代秀]]（4月20日逮捕）などの教団大物幹部が次々と逮捕され、村井自身にも疑惑の目が追求される中で連日大勢の報道関係者や警察が24時間体制で監視されており、事件当日も教団東京総本部前で村井を報道陣が取り囲んでいた最中にTVカメラの前で刺殺された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テレビの[[ニュース番組]]や[[ワイドショー]]等が生々しい刺殺シーンを無修正で繰り返し放送したため、事件報道のあり方に議論を巻き起こし、各局では[[4月27日]]以降、この映像放映を放映しなくなった&amp;lt;ref&amp;gt;「TBS報道メディアスペシャル　オウム事件報道・メディアは何を伝えたか？」(1995年6月2日放送)でこのいきさつを説明している。この検証番組でも刺殺の瞬間は音声だけで、画面はフェード(黒画面)だった&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、殺人事件の瞬間がこれほど生々しく取材・報道されたのは1960年の[[浅沼稲次郎暗殺事件|浅沼社会党委員長刺殺事件]]、1985年の[[豊田商事会長刺殺事件]]、[[2007年]]の[[長崎市長射殺事件]]等の他には現在の日本では稀である。直後、どこからか村井の遺体の写真が週刊誌に流出し、物議を醸した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、被害者の村井が毒劇物の生産や一連の[[オウム真理教事件]]を中核を担う立場だったとみられることから、オウム真理教内部による口封じではないかという見方が非常に強かったものの、刑事事件としてはオウム真理教の関与はないと認定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
村井の死によって、村井が知りうるオウム事件に関する供述が聞き出せなくなり、一連のオウム事件の解明を遠のかせることになった。村井刺殺事件によって裏組織による他の教団幹部への殺害による口封じが懸念されたため、警察による教団幹部への別件逮捕が一層進められた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{reflist|2}} &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目==&lt;br /&gt;
*[[暗殺]]&lt;br /&gt;
*[[暗殺事件の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{オウム真理教}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:むらいひておしさつしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:平成時代の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアンの事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:1995年の日本]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の公安]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)&amp;diff=220460</id>
		<title>自由民主党 (日本)</title>
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				<updated>2014-02-12T16:03:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{先編集権主張|藤森京介}}&lt;br /&gt;
{{自己責任}}&lt;br /&gt;
'''自由民主党'''（'''じゆうみんしゅとう'''）は[[日本]]の[[政党]]。[[党首]]（呼称：[[自由民主党総裁|総裁]]）は、[[谷垣禎一]]（第24代）。正式名称は[[不自由非民主党]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
党名に“自由民主”を掲げるものの、実際は[[自由党]]と[[日本民主党]]が合同して両者の党名をくっつけただけに過ぎず、その政策は真の「自由民主主義」とは程遠い、世界一の役立たずな親米売国似非保守政党である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
[[反共]]の観点から、自由主義であると認定する[[アメリカ]]の傘の下に入り、アメリカが押し付けた軍事的無能力化を明記した第9条を含む現行憲法を改正し、アメリカと共同で戦争を行うための[[集団的自衛権]]の行使をするための権利獲得を目指すという、現行憲法時におけるアメリカの支配から独立して軍事的にアメリカに付き従う従属国家、傀儡国家になることがなんら独立、主体性の確保ではないとする指摘されてもまともに反論できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結党した1955年から現在に至るまで[[中央情報局]]の金銭・政策両面における支援を受けており、内閣総理大臣も務めた歴代総裁の一人・[[岸信介]]に至ってはアメリカ政府のエージェントであった事が、[[ニューヨーク・タイムス]]のティム・ワイナーによって暴露された（「CIA秘録」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
党の運営がかなり派閥の力量に左右されている点は、思想的にも対極にある[[日本共産党]]とは対照的である。主要な派閥は[[清和政策研究会]]と[[宏池会]]。なお宏池会は分裂している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主党の政策を批判するが、与党時代の政策は全て行き当たりばったりで、民主党等から批判されると、支離滅裂な応答をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多くの議員が疑獄事件・汚職に関与しており、脛に傷を持つ者だらけの金権政党である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一部で「“国家正義党”と改称すべきだ」とその右派ぶりを揶揄されている。が、ほぼ全員左派である&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年9月、[[麻生太郎]]の無能ぶりに激怒した有権者の総スカンを受け、野党に転落した。下野は1993年の細川内閣以来2度目である。野党に転落してからは[[民主党]]の悪口ばかりいう「ネガティブ政党」に成り下がってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
統一教会の支援を受けている議員が多数居り、統一教会に有利になる法案を多数通してきた。また、[[朝鮮玉入れ]]の企業から旧社会党の10倍以上の額の献金を受けてきたことは周知の事実である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[親米保守]]&lt;br /&gt;
*[[対米従属]]&lt;br /&gt;
*[[売国奴]] - 左翼への蔑称であったが、自民は右翼型売国奴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の自由民主党|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫|しゆうみんしゆとう]]&lt;br /&gt;
[[Category:シロアリ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の政党|腐敗]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪者]]&lt;br /&gt;
[[Category:殺人鬼]]&lt;br /&gt;
[[Category:少年犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚候補]]&lt;br /&gt;
[[Category:朝鮮人]]&lt;br /&gt;
[[Category:バカチョン]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソガキ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケフカ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:クズ]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪魔]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[Category:狂人]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神異常者]]&lt;br /&gt;
[[Category:知恵遅れ]]&lt;br /&gt;
[[Category:死ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:氏ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:白痴]]&lt;br /&gt;
[[Category:公害]]&lt;br /&gt;
[[Category:左翼]]&lt;br /&gt;
[[Category:国賊]]&lt;br /&gt;
[[Category:偽善者]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;br /&gt;
[[Category:非国民]]&lt;br /&gt;
[[Category:工作員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール]]&lt;br /&gt;
[[Category:役立たず]]&lt;br /&gt;
[[Category:腐れ外道]]&lt;br /&gt;
[[Category:チンカス]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゴキブリ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キモヲタ]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会のゴミ]]&lt;br /&gt;
[[Category:産業廃棄物]]&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会]]&lt;br /&gt;
[[Category:幸福の科学]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:顕正会]]&lt;br /&gt;
[[Category:霊友会]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

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		<title>佐村河内守</title>
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				<updated>2014-02-12T16:02:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:佐村河内守1.jpg|300px|thumb|佐村河内 守]]&lt;br /&gt;
[[Image:佐村河内守2.jpg|300px|thumb|佐村河内 守]]&lt;br /&gt;
[[Image:佐村河内守3.jpg|300px|thumb|佐村河内 守]]&lt;br /&gt;
'''佐村河内 守'''（さむらごうち まもる、[[1963年]][[9月21日]] - ）は、楽譜も読めず楽器も演奏できないが作曲家と名乗り、五体満足だが全く耳が聞こえない被爆者2世と名乗っていた[[広島県]]出身の[[詐欺師]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[障害者]]、[[被爆者]]という[[NHK]]が大好きな要素を売りにしたため、NHKが大々的に放送した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2014年]][[2月5日]]、自作としていた曲全てが[[ゴーストライター]]によるものと発覚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ひたすら持ち上げたNHK ==&lt;br /&gt;
[[Image:佐村河内守4.png|300px|thumb|佐村河内 守]]&lt;br /&gt;
鳴り止まぬスタンディング・オベーション。迎えられたのは作曲家・佐村河内守。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
────しかし、その賞賛の声は彼には届かない──── &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「佐村河内の曲作りは難航していた」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「その影響で立つ事すらできなくなっていた────」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「耳鳴りは時に体の自由をも奪う」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
佐村河内「ううううっ・・・うがぁぁぁぁぁぁぁ・・・・」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「彼は作曲を始めた────」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「頭のなかのメロディーをこれから五線紙に書き込む」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「佐村河内は、この作業を出産に例える。とても神聖なものと考えている」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナレーター「撮影は拒否された────」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NHKスペシャルのまとめ &lt;br /&gt;
* 黒いカーテンで室内を暗くして生活する。明るい光を見ると耳鳴りがするので常にサングラスをかけている。 &lt;br /&gt;
* 「音楽室」と呼ぶ仕事部屋はまっくらな部屋に机が一つだけある　机の上には大量の薬 &lt;br /&gt;
* 作曲方法：薬を飲んで意識をもうろうとさせ、首をぐるぐる回して座禅を組み精神を集中する &lt;br /&gt;
* 耳鳴りはラの音でなっている。こうしたノイズの妨害工作の中から音を「掴み取る」。 &lt;br /&gt;
* 耳鳴りのせいでトイレに行けず週の半分はオムツを履いて暮らす。オムツを履いてない日に作曲を行う。 &lt;br /&gt;
* TVのスピーカーに触れて僅かな振動から音を読み取る。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経歴 ==&lt;br /&gt;
[[Image:佐村河内守5.jpg|300px|thumb|佐村河内 守]]&lt;br /&gt;
所属プロダクションのプロフィールによれば、4歳で母親からのピアノの英才教育が始まり、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望。中高生時代は作曲法を独学していたものの17歳で聴覚障害を発症。1999年、ゲームソフト『[[鬼武者]]』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるも、その時には完全に聴力を失っていたとされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし小学校時代の同級生は「ピアノを習っているという話は聞いたことがない」と言い、当時近所に住んでいた人も「ピアノの音が聞こえたことはない」と話している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『ライジング・サン』完成後、自らの「聴覚障害」（ボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が常に頭に鳴り響くという）を初めて「公表」。長らく聴覚障害を隠していた理由については「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」と説明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2003年]]秋、『交響曲第1番 HIROSHIMA』を「完成」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]]8月、『交響曲第2番』を「完成」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]][[9月1日]]、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて交響曲第1番の第1楽章と第3楽章が[[広島交響楽団]]により世界初演される。同年、広島市民表彰（市民賞）を受ける（後に取り消し）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]]、[[交響曲第1番 (佐村河内守)|交響曲第1番]]は[[芥川作曲賞]]の選考過程で審査員である[[三枝成彰]]が推すも最終候補とならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2010年]][[4月4日]]、[[大友直人]]指揮の[[東京交響楽団]]により、交響曲第1番（広島初演版による改訂版）の第1楽章と第3楽章が[[東京芸術劇場]]で演奏された。続く4月11-12日、同じコンビで交響曲第1番全曲の録音を[[パルテノン多摩]]で行う。曲が複雑なため、録音にあたってはライブ録音ではなくセッション録音を選択。クラシックでは近年、コストの少ないライブ録音が主となっており、[[日本コロムビア]]のクラシック録音としてはこの10年かけたことのない金額が必要だったという。録音初日には東日本大震災の最大級の余震が発生。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[8月14日]]、[[秋山和慶]]指揮の[[京都市交響楽団]]により、交響曲第1番全曲版が[[京都コンサートホール]]で演奏された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]、2013年4月公開の映画「[[ふたたびの加奈子#映画|桜、ふたたびの加奈子]]」の音楽を「担当」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]]6月25日、ヴァイオリン大谷康子らが佐村河内「作曲」の「無伴奏バイオリンのためのシャコンヌ」を演奏する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]][[3月10日]]、石巻市立湊小学校の体育館で「ピアノのためのレクイエム」を初披露。弟子の[[ヴァイオリニスト]]、大久保美来に「ヴァイオリンのためのソナチネ　嬰ハ短調」を制作。[[3月31日]]、佐村河内守を特集した[[NHKスペシャル]]「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」が放送される。番組では、『[[交響曲第1番 (佐村河内守)|交響曲第1番]]』の成功、聴力を失った「苦悩」（のちに演技であると判明）、[[東日本大震災]]の被災者へ向けたピアノ曲「レクイエム」制作に至る経緯などが紹介された。この番組が反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで2位を獲得。その後も売上を伸ばし続け、2013年5月時点で10万枚を記録するヒット作となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2013年8月17日、大友直人指揮の東京交響楽団による演奏会で、交響曲第1番に先立ち「弦楽のためのレクイエム・ヒロシマ」（合唱版を編曲したもの）が世界初演された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
[[被爆者]]を両親として[[広島県]][[佐伯郡]][[五日市町 (広島県)|五日市町]]（現在の[[広島市]][[佐伯区]]）に生まれた、佐村河内家は[[能美島]]の出で[[村上水軍]]の末裔と伝えられる、などと著書に記している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自宅では暗室に籠り、外出時には「光を避けるため」としてつばの広い[[帽子]]と[[サングラス]]を着用していたが、実は耳が聞こえるため音に反応して視線が動くのを隠すためであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ポップ・ミュージック]]に対して否定的ながら、[[ドアーズ]]は例外としている。2011年7月には『交響曲第3番』を作曲中であると発言していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゴーストライター問題 ==&lt;br /&gt;
2013年10月、「新潮45」11月号において、「佐村河内は耳が聞こえているのではないか」という疑惑が出た。これを機に作曲者が佐村河内との関係解消を申し入れたところ、佐村河内から「夫婦で自害しお詫びしようと思います」とメールが来た。佐村河内は自殺をほのめかしつつ作曲の継続を訴えたが、作曲者は最終的に事実を公表することにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2014年2月5日、佐村河内は『交響曲第1番 HIROSHIMA』や『ヴァイオリンのためのソナチネ』などの主要な楽曲が、別の作曲家によって作られたものだと代理人の弁護士を通じて明かした。これは作曲者が週刊文春で告白したことが分かったためで、翌日発売の誌面には「全聾の作曲家佐村河内守はペテン師だった！」という記事が掲載された。佐村河内自身は実際の作曲者が誰なのかを明らかにせず、「（実際に作曲した）人物の側にも作曲者として表に出づらい事情がある」としていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれは虚偽で、作曲者は「（そのような事情は）特段ありません」と語った。佐村河内は[[NHK]]の取材に対し、「[[平成8年]]ごろ初めて映画音楽の作曲依頼を受けたが、耳の状態が悪くなり、半分以上を別の作曲家に作ってもらったのがきっかけ」と語った。しかし佐村河内は普通に会話ができ、譜面についてはそもそも書けないことが、翌日の作曲者による会見で判明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 作曲者・新垣隆の記者会見 ===&lt;br /&gt;
2014年2月6日午後、佐村河内のゴーストライターを務めていた[[新垣隆]]（当時桐朋学園大学非常勤講師）が記者会見を開いた。新垣は佐村河内の代作を18年間行っていたことを明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下はその要旨。&lt;br /&gt;
* 佐村河内の耳は聞こえており、音楽を聴いて自分の要求を作曲者に伝えていた。&lt;br /&gt;
* 杖は使ったり使わなかったりで必須ではなかった。&lt;br /&gt;
* CDの解説にある佐村河内との出会いのエピソードはほとんどが嘘である。&lt;br /&gt;
* 佐村河内のピアノは非常に初歩的なレベル。楽譜も全く書けない。&lt;br /&gt;
* 報酬は18年間で20曲以上作って700万円前後。&lt;br /&gt;
* 「HIROSHIMA」は、最初「現代典礼」というタイトルで作曲者が書いたものを、数年後に佐村河内が「HIROSHIMA」と名づけた。	&lt;br /&gt;
* 「佐村河内の愛弟子」とされる先天性四肢障害の少女がマスコミでクローズアップされていたが、少女の家族は佐村河内の虚偽を知らなかった。家族は佐村河内から直近の1年ほどは「絶対服従」を要求され、2013年11月に「服従できぬ」と返したときから絶縁状態になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「ヴァイオリンのためのソナチネ」 ===&lt;br /&gt;
[[Image:みっくん.jpg|300px|thumb|義手のヴァイオリン少女・みっくん]]&lt;br /&gt;
[[Image:みっくん2.jpg|300px|thumb|義手のヴァイオリン少女・みっくん]]&lt;br /&gt;
この曲は佐村河内が当時11歳だった義手のヴァイオリン少女「みっくん」に捧げた曲で、佐村河内と「みっくん」の交流は2013年3月に「[[Nスペ]]」、4月に「[[金スマ]]」に取り上げられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
するとこの放送後、佐村河内からみっくんの両親に「お宅は私のお陰で娘がテレビに出られたにもかかわらず、私への感謝の気持ちがなさすぎる」という、謝礼を要求するメールが届いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みっくんの両親はそれに対し、「お世話になったことは感謝するが我が家からテレビに出して欲しいと頼んだことは一度もない」と返信、激怒した佐村河内に無理難題をつきつけられ、結果としては佐村河内とみっくんの両親は絶縁状態になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みっくんが幼稚園の時からヴァイオリンのピアノ伴奏を務めてきた新垣さんは、みっくんの両親からの相談を受け、みっくんの両親に謝罪とともに真実を話す。[[週刊文春]]の記事を書いた人はみっくんについての児童書を書いている人だが、みっくんの両親から2013年末相談を受け、そこで初めて知った事実を公表する決心をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 義手の少女ヴァイオリニストみっくんの教室でこの新垣さんが伴奏をしてた&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* テレビでみっくんの存在を知った佐村河内からみっくん側に連絡をとる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 佐村河内がみっくんのために「ヴァイオリンのためのソナチネ」(高橋大輔使用曲)を提供。（※書いたのはもちろん、ゴーストライターの新垣隆氏）&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 放送終了後　佐村河内が少女の両親にテレビ出演できたことに対する謝礼金を要求&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 両親が怒り　この少女を主題とした児童書を書いていたライターに相談（この人が今回のライター） &lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 高橋大輔のオリンピック使用曲に「ヴァイオリンのためのソナチネ」が選ばれる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* ますますことが大きくなると新垣氏は更に止めようというが却下&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 2013年末に新垣の作曲の恩師が亡くなり、師へかける迷惑の心配がなくなる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* 1月恩師の49日と偲ぶ会が終わる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* オリンピックが終わったあとでは高橋選手をウソの曲で滑らせることになると新垣氏は良心の呵責に耐えられなくなる&lt;br /&gt;
:↓&lt;br /&gt;
* みっくんの本を書いたライターに記事を書かせて文春で告白&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
聴力を失った作曲家で「現代のベートーベン」と呼ばれる佐村河内守が、実際は曲作りをしていなかった問題で6日、2012年に同氏から「ヴァイオリンのためのソナチネ」という曲を送られた、義手の少女バイオリニストの父親がコメントを発表した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「5年もの長きにわたり、信じ切っておりましたので、憤り、あきれ、恐怖すら覚えております」「ここ1年ほどは、絶対服従を前提に徐々に従いがたい要求を出されるようになり、昨年11月に“服従できぬ”と回答しましたところ、大いに怒りを買い、絶縁された状態になっております」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 影響 ===&lt;br /&gt;
[[Image:みっくん3.jpg|300px|thumb|義手のヴァイオリン少女・みっくん]]&lt;br /&gt;
この問題が発覚したのち、予定されていたコンサートは全て中止、インタビュー記事を掲載した月刊誌「[[家庭画報]]」最新号が新規出荷を停止、レコード会社の[[日本コロムビア]]がCDの出荷や[[インターネット配信]]を停止、自伝『交響曲第一番 闇の中の小さな光』も絶版となるなど各方面が対応に追われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ソチオリンピック]]フィギュアスケート日本代表の[[高橋大輔 (フィギュアスケート選手)|髙橋大輔]]が、佐村河内による作曲とされていた『ヴァイオリンのためのソナチネ』をショートプログラムで使用していたため、男子シングル開幕約1週間前に対応に追われる事態となったが、髙橋サイドは「ショートプログラムの曲は変更せず、そのまま使用する」ことを決断し、[[関西大学]]オフィシャルサイトを通じて明らかにした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 数々の賞賛の声 ==&lt;br /&gt;
[[Image:みっくん4.jpg|300px|thumb|義手のヴァイオリン少女・みっくん]]&lt;br /&gt;
[[Image:みっくん5.jpg|300px|thumb|義手のヴァイオリン少女・みっくん]]&lt;br /&gt;
* 彼の作品には、被爆二世である、唯一の痛み、悲しみ、辛さを感じれます。次第、オーケストラと合流し、壮大なマグマのごとく噴火する。彼の中に眠る遺伝が呼び冷まされたかのようです。弦楽のハーモニクスがとても綺麗で魅了されます。所々で奏でられるコラールでは、私の感情を揺さぶりまして、感極まってます。やはり、彼はタダモノではないと、改めて思いました。私の隣にいた女性は感極まって、目頭を何度も押さえていたのが印象に残ります。演奏が終わり、拍手喝采とブラボーの嵐。これだけ強大な作品を演奏した京響もそうだが、それを表現し的確に指示、長時間立って指揮した秋山氏も凄いと思った。秋山氏が拍手に応え、客席にいた佐村河内氏に賛美した。彼は席を立ち、杖に必死に捕まりながら壇上に上がり、秋山さんと抱擁した時は、拍手も一段と大きくなり自然と涙が出た。この拍手は彼のものです。(歴史的１日、佐村河内守　交響曲第１番全曲演奏会 /　クラシックどっぷり日記)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* クラシックも好きでコンサ－トによく行くが、この交響曲のCDを毎日、聞くことになるとは。無駄のない一音、壮大で緻密な計算をされた構成、なによりもバタ－くさい、まねものではない１時間21分の超大作、佐村河内守の音楽。名前にとらわれず、すなおになれば、この交響曲の凄さがわかると思う。絶対に現れることがないと思ってた、天才の作曲家と同じ時代にいることに、感謝をしたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 全く耳が聞こえない作曲家、といえばベートーヴェン。『ベートーヴェンの再来』と言われるほど、その音は厳しく、緻密で、明らかに後期ロマン派を引き継ぐものだった。このCD、無伴奏の「シャコンヌ」を聴かれると、バッハの正当な継承者現れる！！との驚愕と印象を持たれるだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* まず、この作品そのものの素晴らしさが高い評価を得ている事をを感じて頂けると思います。佐村河内守さんといえば、ゲーム「バイオハザード」「鬼武者」の音楽が有名です。しかし、彼が実は耳が全く聞こえない作曲家だと知ったらどう思うでしょう。被爆二世として広島に生まれ、常に耳鳴りなどの轟音が鳴り響くのです。補聴器は使えません。音を失った轟音の闇の中で、聞こえていた頃に培った絶対音感を頼りにつむぐ自分が作曲した音楽がまったく耳では聴こえない上24時間耳鳴りの轟音が止まらないという壮絶なコンディション。「音が聴こえない中、音でどこまでの音楽を作れるか」そんな中から生み出された「本物」を聴く。あなたはそれだけの感動が得られるでしょう。また、難解なためCD化は困難と言われて来ました。しかし、とうとう実現しました。大友直人指揮、演奏が東京交響楽団という豪華な楽団。交響曲第一番「HIROSHIMA」は、戦後の最高の鎮魂曲であり、祈りと鎮魂これはもう涙なくしてきけません。2010年8月の京都での生の演奏を聴きましたが、CDは負けじとすぐれたプレスになっています。本物を追求する人はぜひとも聞いてみましょう。また、本「交響曲第一番」も併せて読む事をお勧めします。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 「鬼武者」の作曲者で全ろうの佐村河内による交響曲。[[ショスターコヴィチ]]のような暗いはじまりだが、第3楽章は、佐村河内こそが「ロマン派の継承者」であることを教えてくれる。ここには、彼に楽曲のインスピレーションを与えたという障がい児への思いが浮かぶ。彼の過酷な人生は著作「交響曲第一番」にくわしいが、「交響曲は人生の表現」という表現がピタリとする大力作である。YouTubeには録音の際のメイキングがある。東日本大震災の余震の中での収録であったことが分かる。現代では彼しかいない。  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[五木寛之]]　小説家　代表作「青春の門」シリーズなどヒット作多数 &lt;br /&gt;
:「現代で１人だけ天才芸術家をあげろと言われれば、それは佐村河内守だ」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[野本由紀夫]]　[[玉川大学]]教授（音楽学者）　 &lt;br /&gt;
:HIROSHIMAについて &lt;br /&gt;
:「言ってみれば１音符たりとも無駄な音は無い」 &lt;br /&gt;
:「これは相当に命を削って生み出された音楽」 &lt;br /&gt;
:「初めてこの曲を聴いたときに私は素直に感動した。そして非常に重い曲だと思った」 &lt;br /&gt;
:「言葉で言い表す事自体が非常に薄っぺらになってしまう」 &lt;br /&gt;
:「1000年ぐらい前の音楽から現代に至るまでの音楽史上の様々な作品を知り尽くしていないと書けない作品」 &lt;br /&gt;
:「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[許光俊]]　音楽評論家、[[慶応大学]]教授 &lt;br /&gt;
:もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か？耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか。 &lt;br /&gt;
:それとも、妻のことで悩んだマーラーか。死の不安に怯えていたショスタコーヴィチか。あるいは・・・。 &lt;br /&gt;
:もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが、知っている範囲でよいというなら、私の答は決まっている。 &lt;br /&gt;
:佐村河内守の交響曲第１番である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[三枝成彰]]&lt;br /&gt;
:「作曲者はベートーベン並みの才能の持ち主」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 「作品」 ==&lt;br /&gt;
=== 「全聾」以降の作品 ===&lt;br /&gt;
'''以下の作品は[[ゴーストライター]]が作曲したものであり、[[2014年]]2月5日に、[[著作権]]管理の委託を受けていた[[日本音楽著作権協会|日本音楽著作権協会(JASRAC)]]が「権利の帰属が明確になるまで作品の利用許諾を保留」したため、演奏や放送はできない&lt;br /&gt;
* 鬼武者《交響組曲ライジング・サン》献呈＝横山勝也&lt;br /&gt;
* 中村鶴城・琵琶リサイタル委託作《詩曲 天の川 琵琶歌と十七弦箏のための》（10分）&lt;br /&gt;
* [[二胡]]と管弦楽による《劇音楽のための主題曲と変奏曲》（17分）&lt;br /&gt;
*《子供のためのピアノ小品》（25分）献呈＝某障害児施設&lt;br /&gt;
*《[[交響曲第1番 (佐村河内守)|交響曲第1番]]》（74分）献呈＝ しおり&lt;br /&gt;
* 《[[ヴァイオリンのためのソナチネ (佐村河内守)|ヴァイオリンのためのソナチネ嬰ハ短調]]》&lt;br /&gt;
* ピアノ幻想曲《ジ・エターナル》（27分）&lt;br /&gt;
*《ピアノ・ソナタ第1番》（36分）献呈＝ 持田正樹&lt;br /&gt;
* オルガン組曲《アシュリー》（14分）献呈＝ [[アシュリー・ヘギ]]&lt;br /&gt;
* 和楽と管弦楽のための《死霊I - IX》（全270分）&lt;br /&gt;
*《交響曲第2番》（110分）&lt;br /&gt;
* ピアノのための《死霊・第1章》（13分）&lt;br /&gt;
*《[[無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ (佐村河内守)|無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ ]]》&lt;br /&gt;
*《[[弦楽四重奏第1番 (佐村河内守)|弦楽四重奏第1番]]》（32分）&lt;br /&gt;
*《[[弦楽四重奏第2番 (佐村河内守)|弦楽四重奏第2番]]》&lt;br /&gt;
* [[日本放送協会|NHK]]『五木寛之 21世紀・仏教への旅』献呈＝[[五木寛之]]&lt;br /&gt;
* 二管編成の音楽《ヒロシマ》（22分）献呈＝原爆被爆者&lt;br /&gt;
*《交響曲第3番》[[2007年]]当時制作中&lt;br /&gt;
*《CRASH MIND TOWER》&lt;br /&gt;
*《左手のためのピアノ小品＜MIKU(1)＞》&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===映画音楽===&lt;br /&gt;
*『秋桜（cosmos）』（「秋桜」組曲）&lt;br /&gt;
*『六悪党』&lt;br /&gt;
*『[[ふたたびの加奈子#映画|桜、ふたたびの加奈子]]』（2013年4月、[[ショウゲート]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ゲーム音楽 ===&lt;br /&gt;
*『[[バイオハザード (ゲーム)|バイオハザード]]』 （バイオハザードシンフォニーOp.91「CRIME AND PUNISHMENT」）&lt;br /&gt;
*『[[鬼武者]]』（交響組曲「RISING-SUN」）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビ音楽 ===&lt;br /&gt;
* NHK『山河憧憬』（チベットゴングと尺八のための幻想組曲Op.75）&lt;br /&gt;
* 中国2001年のテレビドラマ『呂布与貂蝉』（テーマソング。監督は[[チェン・カイコー]]、[[呂布]]役は[[黄磊]]、[[貂蝉]]役は[[陳紅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 吹奏楽 ===&lt;br /&gt;
*《吹奏楽のための小品》（7分）献呈＝[[石田修一]]と[[千葉県]][[柏市立柏高等学校]]吹奏楽部&lt;br /&gt;
* 祈り（東京佼成ウインドオーケストラ委嘱作品・約8分・2012年12月1日、同団第113回定期演奏会にて初演）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ディスコグラフィー ==&lt;br /&gt;
=== CD ===&lt;br /&gt;
*『21世紀の吹奏楽「響宴XI」〜新作邦人作品集』（「吹奏楽のための小品」を収録）ブレーンミュージック&lt;br /&gt;
*『交響詩「ローマの祭」／神奈川大学吹奏楽部』（「吹奏楽のための小品」を収録）CAFUA&lt;br /&gt;
*『「鬼武者」オリジナル・サウンドトラック〜交響組曲「ライジング・サン」』セルピュータ&lt;br /&gt;
*『バイオハザードシンフォニー』セルピュータ&lt;br /&gt;
*『交響曲第1番 HIROSHIMA』日本コロムビア（大友直人指揮・東京交響楽団）&lt;br /&gt;
*『シャコンヌ〜弦楽作品集』日本コロムビア（大谷康子、藤井一興、大谷康子弦楽四重奏団）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== DVD ===&lt;br /&gt;
*『佐村河内守:魂の旋律〜HIROSHIMA×レクイエム』2013年8月 （「交響曲第一番」、「ピアノのためのレクイエム」収録）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著書 ==&lt;br /&gt;
*『交響曲第一番』（[[講談社]]、[[2007年]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メディア出演 ==&lt;br /&gt;
* [[NHKスペシャル]] 魂の旋律 〜音を失った作曲家〜 (2013年3月31日、[[NHK]])&lt;br /&gt;
* [[めざましテレビ]]（2013年4月11日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]）&lt;br /&gt;
* [[中居正広の金曜日のスマたちへ]]（2013年4月26日、[[TBSテレビ|TBS]]）&lt;br /&gt;
2014年2月の各ワイドショー&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連文献==&lt;br /&gt;
*『放送技術』1999年8月号　「〈インタビュー〉(株)カプコンの新作ゲームソフト「鬼武者(仮)」における交響組曲「RISING-SUN」のxrcdマスタリングについて」&lt;br /&gt;
*『月刊致知』2008年11月号　「【インタビュー／全聾の作曲家に聞く】 我が人生の挑戦」&lt;br /&gt;
*『女性自身』2010年8月10日号　「シリーズ人間 聴覚なき作曲家・佐村河内守 轟音の彼方に光の音が聞こえる──」&lt;br /&gt;
*『やくしん』2011年10月号　「闇から紡ぎ出す“真実の音”　佐村河内 守さん」&lt;br /&gt;
*『レコード芸術』2011年11月号　「インタヴュー 佐村河内守」&lt;br /&gt;
*『intoxicate』2011年8月20日（93号）　[http://tower.jp/article/interview/2011/09/07/samuragouchi 佐村河内守インタビュー「音楽との対峙に求めるもの」]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[金聖響]](キム・セイキョウ) - 交響曲第1番≪HIROSHIMA≫全国ツアー指揮者を務める。&lt;br /&gt;
*[[ソン・ヨルム]] - ツアーにおけるピアノソナタ第1番・2番のピアニスト。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.samonpromotion.com/samuragochi/ 佐村河内 守] サモンプロモーション&lt;br /&gt;
*[http://columbia.jp/samuragochi/ 佐村河内 守] 日本コロムビア&lt;br /&gt;
*[http://web.archive.org/web/20070128191719/http://members.aol.com/samuragoch/index.html Mamoru Samuragoch Official Web Site]（現在は閉鎖。[[2003年]]から[[2007年]]までのログが[[インターネット・アーカイブ]]に保存されている）&lt;br /&gt;
*[http://www.city.hiroshima.jp/www/contents/0000000000000/1197626895435/index.html 『交響曲第一番』－佐村河内守さんの音楽と人生－（広報紙「ひろしま市民と市政」2007年12月15日号）]&lt;br /&gt;
*[http://www.hmv.co.jp/news/article/711060001 「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」2007年11月6日 (火) 連載 許光俊の言いたい放題 第128回]&lt;br /&gt;
*[http://www.time.com/time/musicgoesglobal/asia/mvideo.html TIME.com &amp;quot;Songs of Silence: Video-game music maestro Samuragoch can't hear his own work&amp;quot; BY TIM LARIMER/YOKOHAMA] *[http://www.time.com/time/musicgoesglobal/asia/mpostcard.html TIME.com &amp;quot;Postcard from Japan: Video-game music maestro Samuragoch training the next corps of musicians&amp;quot;BY TIM LARIMER/YOKOHAMA]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さむらこうち まもる}}&lt;br /&gt;
[[Category:広島市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1963年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:2014年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:詐欺師]]&lt;br /&gt;
[[Category:犯罪者]]&lt;br /&gt;
[[Category:殺人鬼]]&lt;br /&gt;
[[Category:少年犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:死刑囚候補]]&lt;br /&gt;
[[Category:朝鮮人]]&lt;br /&gt;
[[Category:バカチョン]]&lt;br /&gt;
[[Category:在日コリアン]]&lt;br /&gt;
[[Category:クソガキ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ケフカ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キチガイ]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:クズ]]&lt;br /&gt;
[[Category:悪魔]]&lt;br /&gt;
[[Category:鬼畜]]&lt;br /&gt;
[[Category:狂人]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神異常者]]&lt;br /&gt;
[[Category:知恵遅れ]]&lt;br /&gt;
[[Category:発達障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:アスペルガー障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:躁病の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:偏執狂の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:人格障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:解離性統一障害の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:統合失調症の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:虚言癖を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:精神障害者福祉手帳を持つ人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:自己顕示欲の強い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:死ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:氏ね]]&lt;br /&gt;
[[Category:白痴]]&lt;br /&gt;
[[Category:公害]]&lt;br /&gt;
[[Category:左翼]]&lt;br /&gt;
[[Category:国賊]]&lt;br /&gt;
[[Category:偽善者]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;br /&gt;
[[Category:非国民]]&lt;br /&gt;
[[Category:工作員]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール]]&lt;br /&gt;
[[Category:役立たず]]&lt;br /&gt;
[[Category:腐れ外道]]&lt;br /&gt;
[[Category:チンカス]]&lt;br /&gt;
[[Category:ゴキブリ]]&lt;br /&gt;
[[Category:キモヲタ]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会のゴミ]]&lt;br /&gt;
[[Category:産業廃棄物]]&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会]]&lt;br /&gt;
[[Category:幸福の科学]]&lt;br /&gt;
[[Category:オウム真理教]]&lt;br /&gt;
[[Category:顕正会]]&lt;br /&gt;
[[Category:霊友会]]&lt;br /&gt;
[[Category:いじめ依存症患者]]&lt;br /&gt;
[[Category:ヒール渇望症患者]]&lt;br /&gt;
[[Category:心に愛が無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:戸塚宏に扱いてもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:辻井伸行の爪の垢を飲ませたい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:義家弘介の再教育を受けるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長田百合子に根性を叩き直してもらうべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:長谷川穂積に一遍どつき回された方がいい人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:島田紳助に本当に潰されるべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:大藪順子と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:小林美佳と接する資格の無い人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:上野のパンダの代わりに死ぬべき人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:星椎水精に浄霊をしてもらうべき人物]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A&amp;diff=220458</id>
		<title>自由民主党</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A&amp;diff=220458"/>
				<updated>2014-02-12T15:56:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''自由民主党'''（じゆうみんしゅとう、略称：'''自民党'''、'''自民'''、''Liberal Democratic Party''、''LDP''）は、[[日本]]の[[政党]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]][[9月1日]]現在、[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]と事実上[[二大政党制|二大政党]]を形成しており、[[衆議院]]・[[参議院]]ともに民主党に次ぐ第2[[院内会派|会派]]を形成している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[鳩山由紀夫]]らによる[[民主党 (日本 1996-1998)|民主党]]や[[小沢一郎]]による[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]の登場後は、「自由民主党」の正式名を使うと混同される恐れがあるため、「'''自民党'''」または「'''自民'''」の略称を使う頻度が増えている。[[機関紙]]も、それまでの『自由新報』から『[[自由民主]]』に改題した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」を広報宣伝用の[[シンボルマーク]]に用いているが、正式な党章は[[紫]]地に白線で「十四弁陰[[菊花紋章]]の中央に『自民』の[[モノグラム]]」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 結党から保守安定期 ===&lt;br /&gt;
[[Image:Bukichi Miki.jpg|400px|thumb|三木 武吉]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1955年]]の[[保守合同]]により、[[自由党 (日本 1950-1955)|自由党]]と[[日本民主党]]が合同して成立。[[戦前]]の[[二大政党]]の一つである[[立憲政友会]]の流れを汲み、[[戦後]]の一時期を除いて結党以来ほぼ一貫して議会で多数を占め、政権与党の立場にある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[政治学者]]の[[北岡伸一]]の著書『自民党 政権党の38年』（[[読売新聞社]]、1995年11月）によると、政党発足当初は吉田派・反吉田派、[[党人派]]・[[官僚]]派、[[戦前]]派・[[戦後]]派など複雑な対立要素が絡んでいたため、“保守合同”の立役者となった[[三木武吉]]は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
かつては、[[地方]]の建設業界に対して一定の[[公共事業]]を発注するなど特定利権は生じるものの、いわゆる「均衡ある国土発展」と呼ばれる、富の再分配政策を行って地方の経済を回していくことを重視し、「[[一億総中流]]」を唱えるなど平等を重視する保守左派の[[保守本流|保守本流]]派が主流であり、農山漁村や地方小都市など地方を支持基盤としてきた。一方、新住民層が多い[[大都市]]やその[[ベッドタウン]]では比較的弱く、[[日本社会党]]（社会党　党名は当時）や[[日本共産党]]（共産党）と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は[[民社党|民主社会党]]の離反や[[公明党]]、共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結党から最初の総選挙となった[[第28回衆議院議員総選挙|第28回総選挙]]で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得（定数467）。[[日本社会党|社会党]]は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた&amp;lt;ref&amp;gt;さらに、残った無所属の[[小沢貞孝]]も後に社会党入りしたため、二大政党以外は共産党の1人だけだった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。こうして自民優位の[[二大政党制]]（社会党は自民党の半分程度であることから「一と二分の一政党制」とも呼ばれた）である、[[55年体制]]が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は得票率を少しずつ減少させながらも、全体として安定期であった。[[安保闘争|60年安保]]から間もない[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫ってむしろ議席を増やし、[[黒い霧事件_(政界)|黒い霧事件]]の結果行われた[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]]でも、不利が予想されながら安定多数を確保した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 保革伯仲から最初の下野 ===&lt;br /&gt;
[[Image:田中角栄　4.jpg|300px|thumb|[[田中角栄]]]]&lt;br /&gt;
[[Image:竹下　1.jpg|400px|thumb|[[竹下登]]]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1970年代後半から、しばしば過半数ギリギリまで議席が落ち込み、[[伯仲国会|保革伯仲]]と呼ばれたが、1980年代に入ると、都市部を中心に自民党への回帰現象も起こった。[[1976年]]に[[新自由クラブ]]が分裂し、都市部でブームを起こした。また、[[ロッキード事件]]で離党に追い込まれた[[田中角栄]]が、[[木曜クラブ]]（田中派）を率いて強大な権力を誇り、反田中派と[[四十日抗争]]などの権力闘争を繰り広げた。しかし、その一方で野党を懐柔し、特に公明党、民社党と協力する[[自公民路線]]を進めたため、自民党政権への致命傷とはならなかった。[[1986年]]には、田中派の[[竹下登]]らが反旗を翻して[[創政会]]（のちの経世会、[[平成研究会]]）を旗揚げし、まもなく田中が[[脳梗塞]]に倒れたため、竹下が自民党第一派閥の座を手にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1983年]]に自民党は新自クとの連立政権を組んだが、1986年の[[衆参同日選挙|衆参ダブル選挙]]（[[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]、[[第14回参議院議員通常選挙|第14回参院選]]）で、自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席（衆議院）、74議席（参議院）と圧勝。新自クは再合流し、自民単独政権に戻った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1988年]]の[[リクルート事件]]や[[1992年]]の[[東京佐川急便事件]]により国民の政治不信が増大し、自由民主党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。[[1989年]]の[[第15回参議院議員通常選挙|第15回参院選]]では社会党を10下回る36議席しか獲得できず、史上初めて参議院での過半数を失った。[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]では自民党は安定多数を確保したが、政治改革が必要との議論が党内外に高まっていった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この流れを受けて、[[宮沢内閣]]は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から[[清和政策研究会|三塚派]]若手の[[武村正義]]や、[[小渕恵三|小渕]]派（竹下派後継）から分裂した[[羽田孜|羽田]]派など、これに反発した自由民主党議員が大量に離党。[[新党さきがけ]]、[[新生党]]が分裂した。[[1993年]]の[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数にはとうてい届かず、保守3新党（[[日本新党]]、新生党、新党さきがけ）が大勝。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の[[細川護熙]]を首班とする連立政権が成立し、結党以来の自由民主党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===連立政権の時代===&lt;br /&gt;
自民党が野党に転落すると、連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、[[細川内閣]]は[[小選挙区比例代表並立制]]を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、[[1994年]][[1月29日]]、自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:橋本龍太郎　1.jpg|300px|thumb|[[橋本龍太郎]]]]&lt;br /&gt;
非自民の連立政権は細川、新生党の[[羽田孜]]と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党・日本新党・公明党と、社会党・さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の[[村山富市]]委員長を首相に推す奇策で、1994年[[6月30日]]、社会党・さきがけとの連立政権として与党に復帰。[[1996年]][[1月11日]]、自民党の[[橋本龍太郎]]首班となり、同年の[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]では、過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。旧非自民連立政権側は、主に[[新進党]]に集約されていたが、この情勢を見て、今度は新進党などから自民に移籍する議員が現れ、自民党側も積極的に引き抜いた。その結果、[[1997年]]には総選挙を経ることなく過半数を回復。[[1998年]]には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。しかし、同年の[[第18回参議院議員通常選挙|第18回参院選]]で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから、[[1999年]]、[[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]、公明党との自自公連立政権を新たに組み、[[2000年]]には自由党の離脱で、自由党から分裂した[[保守新党|保守党]]（後に保守新党）との自公保連立政権に変わった。[[2003年]]に保守新党を吸収してからは、[[自公連立]]政権となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Image:Junichiro_Koizumi_(cropped)_during_arrival_ceremony_on_South_Lawn_of_White_House.jpg‎|300px|thumb|[[小泉純一郎]]]] &lt;br /&gt;
経済面では、[[1991年]]に[[バブル経済]]が崩壊する。[[冷戦]]が終結し[[グローバル化]]が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な[[政治]]手法が機能しなくなっていたが、[[経済政策]]を劇的に転換する事が出来ず、[[経済成長]]効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な[[財政出動]]により国と地方も莫大な[[財政]][[赤字]]を抱えるようになり、経済政策の転換を迫られることになった。そうした時代的要請から、[[2001年]]に[[小泉内閣]]が発足すると、公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を[[民間企業]]や[[地方自治体]]に委譲すべきとする[[聖域なき構造改革]]を主張し、旧来の地方への利益分配により政党の支持基盤を磐石なものとしてきた[[大きな政府]]路線から[[小さな政府]]路線に政策を転換した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]][[8月]]、[[郵政国会|第162回通常国会]]における[[郵政民営化]][[法案]][[参議院]]否決後に行われた[[第44回衆議院議員総選挙]]では、[[小泉劇場]]と言われる[[ポピュリズム]]的政治手法をとり、歴史的圧勝をおさめた。その一方で保守派の議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、落選したことで、党内保守派および保守系の議員連盟が大きな打撃を受けた結果、「自由民主党が保守政党でなくなっていく」可能性も指摘されている&amp;lt;ref&amp;gt;「教科書・拉致・靖国…メンバー相次ぐ落選　自民「保守派」思わぬピンチ」（『産経新聞』 2005年9月14日）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指す構造改革の負の部分に苦しむことになる。本来地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自由民主党離れが進み、[[年金記録問題]]や[[閣僚]]の[[スキャンダル]]もあって、[[第21回参議院議員通常選挙]]では[[民主党]]に惨敗、結党以来初めて参議院で第1党から転落した。[[衆議院]]と参議院で多数派が異なる構図になった（[[ねじれ国会]]）ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が[[安倍晋三]]、[[福田康夫]]、[[麻生太郎]]と毎年のように変わるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[公明党]]とその支持母体である宗教法人[[創価学会]]の選挙協力による組織的動員（[[F取り]]）なしには選挙戦を戦えない不安定な状態になっているとの指摘があり、実際、自由民主党幹部が[[2008年]][[8月]]に行った調査によると、創価学会と公明党の支援なしで自由民主党が総選挙に臨んだ場合、100未満の議席しか獲得できないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===2度目の野党転落へ===&lt;br /&gt;
2009年8月30日に行われた[[第45回衆議院議員総選挙]]では、総理大臣経験者や派閥を束ねていた大物議員が次々落選するなど壊滅的大敗を喫し、議席数はわずか119議席に止まったため野党へ2度目の転落となった。自民党が衆議院で第一党を失ったのは、結党史上初めてである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[保守#日本における保守主義|保守イデオロギー]]をスタンスとしている『[[産経新聞]]』は麻生太郎が[[2009年]][[8月15日]]の[[終戦の日|終戦記念日]]に[[靖国神社]]へ参拝しなかったことに対する保守層の失望は大きかったと主張した。自民党支持者の3割が民主党に投票した（出口調査結果）ことを挙げて、「無党派層だけでなく自民党の常連まで愛想を尽かした形となった」と報じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年9月11日、[[改革クラブ (2008-)|改革クラブ]]と[[院内会派|統一会派]]を結成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略史 ==&lt;br /&gt;
* [[1955年]]&lt;br /&gt;
** [[11月15日]] [[保守合同]]により結成。当初は総裁代行委員を四人設置した。そのメンバーは、[[鳩山一郎]]、[[緒方竹虎]]、[[三木武吉]]、[[大野伴睦]]。&lt;br /&gt;
*** 当時より[[1964年]]まで、アメリカ[[中央情報局]]より「[[共産主義]]の影響を排除する為の、[[プロパガンダ]]的秘密支援計画」の一環として資金援助を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[1956年]]&lt;br /&gt;
** [[4月5日]] - 総裁選挙を施行し、鳩山一郎を初代総裁に選出。&lt;br /&gt;
** [[12月14日]] - 第2代総裁選挙を施行し、[[石橋湛山]]が[[岸信介]]に決選投票で勝利し、第2代総裁に選出。&lt;br /&gt;
* [[1976年]]&lt;br /&gt;
** [[6月25日]] - [[河野洋平]]ら6名&amp;lt;ref&amp;gt;離党した6名のうち後に自民党に復党したのは・[[西岡武夫]]（1980年）、[[河野洋平]]（1986年）、[[山口敏夫]]（同）。新自クを離党したのは小林正巳（1980年）と、参議院議員の有田一寿（1979年8月）&amp;lt;/ref&amp;gt;が離党、[[新自由クラブ]]結成（1986年8月15日解党、自民に合流）。&lt;br /&gt;
** [[12月5日]] - [[第34回衆議院議員総選挙]]で大敗、初めて公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る（実際には保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保）&lt;br /&gt;
* [[1979年]]&lt;br /&gt;
** [[10月7日]] - [[第35回衆議院議員総選挙]]で再び公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割り（前回同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保）、[[四十日抗争]]へ。&lt;br /&gt;
* [[1980年]]&lt;br /&gt;
** [[6月12日]] - [[ハプニング解散]]以来の政争の中、[[大平正芳]]・総裁（首相）急死、[[6月22日]]の[[衆参同日選挙]]では自民党大勝。&lt;br /&gt;
* [[1983年]]&lt;br /&gt;
** [[12月18日]] - [[第37回衆議院議員総選挙]]で再び公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る（これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保）。同月27日、[[新自由クラブ]]と[[連立政権]]（[[第2次中曽根内閣|第2次中曽根康弘内閣]]）。&lt;br /&gt;
* [[1984年]]&lt;br /&gt;
** [[9月19日]] - [[自由民主党本部放火襲撃事件]]。本部ビルの一部が焼失。&lt;br /&gt;
* [[1989年]]&lt;br /&gt;
** [[7月23日]] - [[第15回参議院議員通常選挙]]で[[日本社会党]]に大敗、初めて追加公認を合わせても参議院での過半数を失う。&lt;br /&gt;
* [[1993年]]&lt;br /&gt;
** [[6月21日]] - [[武村正義]]ら衆議院議員10人&amp;lt;ref&amp;gt;離党した10名のうち後に自民党に復党したのは、[[三原朝彦]]（1996年に落選、翌年自民復党、2003年当選）、[[渡海紀三朗]]（1998年）、[[園田博之]]（1998年離党、1999年自民復党）、[[岩屋毅]]（1993年落選、新進党を経て2000年自民復党、当選）、さきがけを離党したのは[[佐藤謙一郎]]（1995年離党、1996年民主党結成に参加）&amp;lt;/ref&amp;gt;が離党、[[新党さきがけ]]結成（2002年1月16日解党）。&lt;br /&gt;
**[[6月23日]] - [[羽田派]]44名が集団離党&amp;lt;ref&amp;gt;離党した44名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[高橋一郎]]（1996年）、井奥貞雄（1996年）、[[杉山憲夫]]（1996年）、[[北村直人]]（1997年）、[[愛知和男]]（1997年）、[[船田元]]（1997年）、増田敏男（1997年）、[[仲村正治]]（1997年）、[[村井仁]]（1998年）、[[左藤恵]]（1998年）、古賀正浩（1998年）、[[山本幸三]]（1990年は自民公認で落選、1993年新生公認で当選、1998年自民復党）、[[松田岩夫]]（2000年）、[[魚住汎英]]（1993年落選、2000年参院議員当選、2001年自民復党）、[[星野行男]]（1996年落選、2002年自民復党）、[[井上喜一]]（2003年）、[[二階俊博]]（2003年）。参議院議員は、河本英典（1996年）、[[泉信也]]（2003年）。なお、同時期には[[鳩山邦夫]]（2000年自民復党）、[[山口敏夫]]も離党している。&amp;lt;/ref&amp;gt;し[[新生党]]結成（1994年12月10日、[[新進党]]へ合流）、結党以来初めての大規模離党。&lt;br /&gt;
** [[7月18日]] - [[第40回衆議院議員総選挙]]で公示前議席の維持に留まり、初めて追加公認を合わせても[[衆議院]]の単独過半数を失う。&lt;br /&gt;
** [[7月28日]] - [[政眞会|加藤グループ]]3名離党（最終的に同グループ6名&amp;lt;ref&amp;gt;離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[吹田愰]]（1996年山口県知事選に落選、2000年自民復党、衆院選落選）&amp;lt;/ref&amp;gt;が新生党へ合流）。その後、自民党議員の離党&amp;lt;ref&amp;gt;1993年12月、衆議院議員の[[西岡武夫]]、[[石破茂]]、[[笹川尭]]、[[大石正光]]ら4名、1994年1月、参議院議員の[[木暮山人]]、星野朋市、[[石井一二]]ら3名、1994年2月、参議院議員の[[野末陳平]]、1994年4月、衆議院議員の[[小坂憲次]]、参議院議員の[[扇千景]]ら2名が離党。このうち自民党に復党したのは、石破（1997年）、笹川（1997年）、小坂（1998年）、扇（2003年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;が五月雨式に相次ぐ。&lt;br /&gt;
** [[8月9日]] - [[非自民・非共産連立政権]]・[[細川内閣|細川護煕内閣]]が発足し、結党以来初めて[[野党]]となる。&lt;br /&gt;
* [[1994年]]&lt;br /&gt;
** [[4月15日]] - [[鹿野道彦]]ら[[清和会]]代議士5名が離党&amp;lt;ref&amp;gt;離党した5名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[坂本剛二]]（1998年）、[[佐藤敬夫]]（2003年落選し、2005年自民復党、同年落選）。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[新党みらい]]結成（1994年12月10日、新進党へ合流）&lt;br /&gt;
** [[4月21日]] - [[柿澤弘治]]ら自民党離党議員6名&amp;lt;ref&amp;gt;離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[柿澤弘治]]（1995年）、[[太田誠一]]（1995年）、[[佐藤静雄_(衆議院議員)|佐藤静雄]]（1995年）、[[新井将敬]]（1997年）、[[米田建三]]（1997年）、[[山本拓 (政治家)|山本拓]]（2000年）ら全員である。&amp;lt;/ref&amp;gt;と無所属の[[高市早苗]]を加えて[[自由党]]結成（1994年12月10日、柿澤・佐藤静雄を除き新進党へ合流）&lt;br /&gt;
** [[6月30日]] - [[日本社会党]]・[[新党さきがけ]]と連立政権（[[村山内閣|村山富市内閣]]）に復帰。自民党が首相指名選出で自民党議員以外の国会議員へ党議決をしたのは初めて。&lt;br /&gt;
** [[7月27日]] - [[海部俊樹]]、[[津島雄二]]ら自社さ連立政権に反発した自民党離党議員6名&amp;lt;ref&amp;gt;離党した6名のうち後に自民党に復党した衆議院議員は、[[津島雄二]]（1995年）、[[保岡興治]]（1995年）、[[今津寛]]（1996年）、[[野田毅]]（2002年）、[[海部俊樹]]（2003年）。&amp;lt;/ref&amp;gt;が中心となり新党未来や柿澤自由党や鳩山・柿澤らも合流し[[自由改革連合]]結成（1994年12月10日、津島を除き[[新進党]]結党大会参加）&lt;br /&gt;
* [[1996年]]&lt;br /&gt;
** [[1月11日]] - 約2年半ぶりに自民党出身の[[内閣総理大臣]]（[[第1次橋本内閣|第1次橋本龍太郎内閣]]）。&lt;br /&gt;
* [[1997年]]&lt;br /&gt;
** [[9月5日]] - 野党議員の一本釣り工作により、1993年以来4年2か月ぶり衆議院の単独過半数を回復&amp;lt;ref&amp;gt;ちなみに単独過半数を回復した241人目は北村直人である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* [[1999年]]&lt;br /&gt;
** [[1月14日]] - [[自由党 (日本 1998-2003)|自由党]]と連立政権（[[小渕内閣第1次改造内閣|小渕恵三内閣]]）。&lt;br /&gt;
** [[10月5日]] - [[公明党]]と連立政権（[[小渕内閣第2次改造内閣|小渕恵三内閣]]）。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]&lt;br /&gt;
** [[郵政国会]]から[[郵政解散]]に至る中、執行部は衆議院で郵政民営化法案に反対した37人を公認候補とせず。&lt;br /&gt;
** [[8月17日]] - [[綿貫民輔]]ら5名で[[国民新党]]結成。&lt;br /&gt;
** [[8月21日]] - [[荒井広幸]]ら4名で[[田中康夫]]を党首に[[新党日本]]結成（2007年7月、荒井ら元自民党議員は相次ぎ離党）。&lt;br /&gt;
** [[9月11日]] - [[第44回衆議院議員総選挙]]で296獲得議席、61.6%の議席占有率は結党以来最高。自公連立与党は327議席（議席占有率68.125%）を獲得し、55年体制以後初めて衆議院で[[安定多数|圧倒的多数]]（320議席/議席占有率66.667%以上）を確保。&lt;br /&gt;
** [[11月22日]] - 立党50周年。記念党大会で「新憲法草案」を正式発表。&lt;br /&gt;
* [[2006年]]&lt;br /&gt;
** [[9月26日]] - [[安倍晋三]]内閣発足&lt;br /&gt;
** [[12月4日]] - [[郵政造反組復党問題|郵政国会造反議員]]11名が復党。&lt;br /&gt;
* [[2007年]]&lt;br /&gt;
** [[7月29日]] - [[第21回参議院議員通常選挙]]で野党第1党である[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]に大敗。結党以来初めて[[参議院]]で第1党から転落。&lt;br /&gt;
** [[9月26日]] - [[福田康夫]]内閣発足&lt;br /&gt;
* [[2008年]]&lt;br /&gt;
** [[9月24日]] - [[麻生太郎]]内閣発足&lt;br /&gt;
* [[2009年]]&lt;br /&gt;
**[[7月12日]] - [[2009年東京都議会議員選挙|東京都議会議員選挙]]で民主党に第1党を明渡し、自公でも過半数を割り込む。&lt;br /&gt;
** [[8月8日]] - [[渡辺喜美]]ら3名で[[みんなの党]]結成。&lt;br /&gt;
** [[8月30日]] - [[第45回衆議院議員総選挙]]で改選前を大幅に下回る119議席の歴史的大敗、初めて衆議院第一党を民主党へ明け渡す。野党へ転落。&lt;br /&gt;
** [[9月11日]] - [[改革クラブ (2008-)|改革クラブ]]と[[院内会派|統一会派]]を結成。&lt;br /&gt;
** [[9月16日]] - [[麻生太郎]]が総裁を辞職。この日に召集された第45回特別国会では両院議員総会長[[若林正俊]]を内閣総理大臣に指名した。&lt;br /&gt;
** [[9月28日]] - 総裁選挙を経て、[[谷垣禎一]]が総裁に就任した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 政策 ==&lt;br /&gt;
* 経済政策は特に[[1990年代]]以降、政府の市場介入をできるだけ少なくする[[新保守主義]]・[[新自由主義]]的政策を取っている。&lt;br /&gt;
* 外交安全保障政策は[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]即ち日米同盟堅持を機軸とし、[[自由民主主義]]体制の国々との関係を重視している（[[価値観外交]]）。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]11月22日の党大会で新理念と新綱領を発表した。綱領では新憲法制定（[[復古的改憲論]]・[[押し付け憲法論]]を唱える）、質の高い教育（[[日本教職員組合]]を敵視）、[[小さな政府]]、持続可能な[[社会保障制度]]、治安の安定、食糧・エネルギーの安定的確保、国際競争力の強化、[[循環型社会]]、男女が支え合う社会（[[ジェンダー]]是認と[[純潔教育]]推進）、生きがいとうるおいのある生活の実現を掲げている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 組織 ==&lt;br /&gt;
=== 党員 ===&lt;br /&gt;
入党には党員の紹介が必要である。2007年末における党員数は1,102,460人。ピーク時の1991年には547万人いた。党費は年に4,000円。党員になれば、[[自由民主党総裁選挙|総裁選挙]]で投票することができる。一般党員と家族党員と特別党員という3種類の党員制度となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 本部 ===&lt;br /&gt;
[[国会議事堂]]の北西すぐに党本部がある。'''財団法人自由民主会館'''が所有する9階建てのビルで、「自由民主会館」という。その土地は[[国有地]]を借りたものである。延べ床面積は約1万5600[[平方メートル]]で大規模な本部ビル&amp;lt;ref&amp;gt;もっともかつて”世界一裕福な政党”といわれた[[中国国民党]]本部（野党転落を期に現在は売却）や[[フランス共産党]]本部（世界的建築家[[オスカー・ニーマイヤー]]設計）など、大規模な党本部施設をもつ政党は少なくない。。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 地方組織 ===&lt;br /&gt;
自民党は[[選挙区]]あるいは市区町村ごとに支部を擁しており、都道府県ごとに支部の連合会を設置している。この連合会のことを'''県連'''（けんれん）と略しており、正式には「自由民主党○○県支部連合会」という。[[東京都]]、[[大阪府]]、[[京都府]]、[[北海道]]においてはそれぞれ'''都連'''（とれん）、'''府連'''（ふれん）、'''道連'''（どうれん）になる。また、党員ではあるが選挙区に空きがない有力候補予定者のために都道府県に「衆議院選挙区第ニ支部」を置く事がある&amp;lt;ref&amp;gt;[[森田健作]]は「東京都衆議院選挙区第二支部長」であった&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 執行部役員表 ==&lt;br /&gt;
詳しくは自由民主党 役員表や、[[幹事長]]、[[自由民主党総務会]]、[[政策部会]]、[[国会対策委員会]]を参照すること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※2009年（平成21年）9月29日発足後、2009年（平成21年）9月29日時点&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''総裁'''{{sup|1}}{{sup|2}}&lt;br /&gt;
:[[谷垣禎一]]&lt;br /&gt;
'''幹事長'''{{sup|1}}{{sup|2}}&lt;br /&gt;
:[[大島理森]]（[[高村派]]）&lt;br /&gt;
'''総務会長'''{{sup|1}}{{sup|2}}&lt;br /&gt;
:[[田野瀬良太郎]]（[[山崎派]]）&lt;br /&gt;
'''政務調査会長'''{{sup|1}}{{sup|2}}&lt;br /&gt;
:[[石破茂]]（[[額賀派]]）&lt;br /&gt;
'''国会対策委員長'''&lt;br /&gt;
:[[川崎二郎]]（[[古賀派]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;&amp;lt;span style=&amp;quot;font-size:120%&amp;quot;&amp;gt;参議院自由民主党&amp;lt;/span&amp;gt;&lt;br /&gt;
'''参議院議員総会長'''{{sup|1}}&lt;br /&gt;
:[[尾辻秀久]]（額賀派）&lt;br /&gt;
'''幹事長'''{{sup|1}}&lt;br /&gt;
:[[谷川秀善]]（[[町村派]]）&lt;br /&gt;
'''政策審議会長'''&lt;br /&gt;
:[[林芳正]]（[[古賀派]]）&lt;br /&gt;
'''国会対策委員長'''&lt;br /&gt;
:[[鈴木政二]]（[[町村派]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
# 役員会参加者。&lt;br /&gt;
# 総裁は派閥を正式に退会、[[党四役]]は形式的に派閥を離脱。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参議院自由民主党 ==&lt;br /&gt;
[[参議院議員団|参議院自由民主党]]は各種業界・団体代表者の割合が高い。[[1989年]]の[[第15回参議院議員通常選挙]]で大敗、過半数割れした結果、歴代の自民党政権・執行部は参院対策に重点を置いてきた。参院自民党の執行部人事は総裁の専権事項ではなく、また閣僚人事も派閥領袖より参院議員会長・参院幹事長の意向が優先される[[参議院枠]]が存在する、派閥に対する帰属が衆院に比べて弱い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 派閥 ==&lt;br /&gt;
以下は2009年10月29日時点の派閥構成人数。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
! !![[清和政策研究会|町村派]]!![[平成研究会|額賀派]] !![[宏池会|古賀派]]!![[近未来政治研究会|山崎派]]!![[志帥会|伊吹派]]!![[為公会|麻生派]]!![[番町政策研究所|高村派]]!![[新しい波 (派閥)|二階派]]!!無派閥!!計&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;|'''衆議院'''||20||14||25||16||9||8||5||1||21||'''119'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;|'''参議院'''||27||23||9||3||6||4||2||2||6||'''82'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot;|'''計'''||'''47'''||'''37'''||'''34'''||'''19'''||'''15'''||'''12'''||'''7'''||'''3'''||'''27'''||'''201'''&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
※現在衆院副議長で会派離脱中の[[衛藤征士郎]]（町村派）、参院副議長で会派離脱中の[[山東昭子]]（高村派）を含む数字。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支持組織 ==&lt;br /&gt;
=== [[党友|党友組織]] ===&lt;br /&gt;
* [[自由国民会議]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[政治資金団体]] ===&lt;br /&gt;
* [[国民政治協会]]（[[法人]]用の党友組織でもある。個人でも入会可能）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 事実上の支援団体 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;font-size:smaller;&amp;quot;&lt;br /&gt;
!style=&amp;quot;white-space: nowrap;&amp;quot;|カテゴリー||団体&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|財界団体||・[[日本経済団体連合会]]（日本経団連）・[[日本商工会議所]]（日商）・[[経済同友会]]&amp;lt;br /&amp;gt;有力企業・経営者は基本的に自民党支援であり、「民主主義維持のためのコスト」として国民政治協会への政治献金も強く求められている。「経済同友会」と、日本経団連の前身の一つである「日本経営者団体連盟」（日経連）は、かつて保守合同を強力に促したことでも知られる。ただし、[[1993年]]の非自民による[[細川護煕|細川]]政権成立後は、「日本経団連」は公式には必ずしも自民支持ではなかった。しかし、[[2005年]]の[[第44回衆議院議員総選挙]]では、[[奥田碩]]会長は自民党単独支持を表明した（より正確には、奥田個人の発言という形を取り経団連としての支持表明ではなかったが、事実上そのように報道された。実際に、奥田会長の[[トヨタ自動車]]を始めとして、経団連の主要な企業の多くが自民党を支援した）。&amp;lt;br /&amp;gt;近年は、[[郵政民営化]]や[[日本道路公団]]民営化、[[労働者派遣法]]の規制緩和、[[市場化テスト|官民競争入札制度]]の導入、[[ホワイトカラーエグゼンプション]]など経団連が支持する[[新自由主義]]経済政策が積極的に導入または導入に向けて議論されるなど、自民党と経団連の協力関係は一層に強化されており、[[高齢化]]等が進んで組織力を低下させている支持団体は自民党によって切り捨てられているとされる。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|業界団体||&lt;br /&gt;
・[[大樹全国会議]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[特定郵便局長会|全国特定郵便局長会]]（全特）とそのOBで作る政治団体である[[大樹]]かつては会員11万人超と自民党最大の支持母体であったが、[[郵政解散]]後に大量脱会が相次ぎ現在は数千人規模となっている。大多数は、同組織内議員である[[長谷川憲正]]参議院議員（国民新党）が立ち上げた政治団体である[[大樹全国会議]]に移った（これとは別に、国民新党自体も職域支部「憲友会」を作っている）。もっとも、政権与党との関係を重視する観点から、大樹全国会議も自民党との関係作りに腐心している状況である。&amp;lt;br /&amp;gt;・[[全国貸金業政治連盟]]&amp;lt;br /&amp;gt;[[全国貸金業協会]]の政治団体。与党を中心に政治献金・パーティー券購入などを行っている。&amp;lt;br /&amp;gt;・[[全日本遊技事業協同組合連合会]]（全日遊連）および[[日本遊技関連事業協会]]（日遊協）&amp;lt;br /&amp;gt;[[自民党遊技業振興議員連盟]]（自民党パチンコ議連）に所属する35名の議員を通じて、[[パチンコ]]業界と関係を築いている。また、25名の議員が[[パチンコ・チェーンストア協会]]の政治分野アドバイザーを務める&amp;lt;ref&amp;gt;[[パチンコ・チェーンストア協会]]には民主党議員も多数参加しており、また[[民主党娯楽産業健全育成研究会]]を中心にパチンコ業界を保護する動きをする等、[[民主党]]もパチンコ業界との繋がりがある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|宗教団体||・[[創価学会]]（連立相手であった公明党の支持母体）&amp;lt;br /&amp;gt;[[1999年]]以降[[公明党]]が連立政権に参画し、公明党の支持母体である創価学会と衆院小選挙区・参院比例区を中心に選挙協力が進められてきた。[[第45回衆議院議員総選挙]]後、公明党は自民党との選挙協力のあり方を根本的に見直す意向を示している。&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|政治思想系||・[[日本会議]]&amp;lt;br /&amp;gt;結成当時より党是は改憲であり、「[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による押しつけ憲法の廃止 - 自主憲法の制定」を唱え、また党綱領にもその旨定めている（→[[押し付け憲法論]]）。&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 一般支持者 ===&lt;br /&gt;
前述されたように自民党は財界や保守層からの支持が根強い。[[小泉純一郎]]政権時は、マスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・政治に関心がない層からも幅広い支持を集めた。[[第44回衆議院議員総選挙]]からは党広報担当の[[世耕弘成]]が[[民間企業]]の[[広告代理店]]と協力しながら、より戦略的なメディア対策がなされるようになった。このような政治手法に対しては、敵対勢力からはポピュリズム政治であるとの評価がしばしばなされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近年の動向 ===&lt;br /&gt;
自民党は都市部と過疎地の経済的格差の是正を重視する政策を田中角栄内閣以来踏襲してきた。そのため農山漁村や地方小都市からの支持が根強かった。しかし近年のそうした政策が行き詰まり、より自由競争による経済効率を重視する政策へと転換を図ってきた。これにより公共事業の削減を進めてきたため、公共事業に大きく依存する経済構造であった農山漁村や地方小都市からの支持を失いつつある。したがって地方組織は弱体化しつつあり、党員数も減少傾向にある。また以前は大都市での支持が比較的高かった[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]が地方で議席を伸ばしたり健闘することが多くなってきている。&lt;br /&gt;
組織が崩壊傾向にあることもあって、近年は連立相手である[[公明党]]及びその支持母体[[創価学会]]への依存が高まりつつあるが、一方で従来自民党を支持していた宗教組織（[[立正佼成会]]等）の離反を招いているともされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 対外関係 ==&lt;br /&gt;
=== 米国 ===&lt;br /&gt;
党結成以来、日米同盟（[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約]]に基づく両国関係）を最重視している。&lt;br /&gt;
=== 中国 ===&lt;br /&gt;
[[日中友好議員連盟]]には多数の議員が所属し、[[高村正彦]]が会長、[[町村信孝]]が副会長を務める。また、[[北京オリンピックを支援する議員の会]]の[[河野洋平]]会長など100人以上の議員が参加している。なお[[日中緑化推進議員連盟]]には[[二階俊博]]らが所属している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2007年夏の参院選後に、[[森喜朗]]、[[古賀誠]]・[[二階俊博]]らが新たな[[日中友好議員連盟]]の結成を予定していると報じられた。2007年7月4日には、[[中華人民共和国]]の[[王毅]]大使と中国大使公邸で懇談し、協力を求めた。日中国交正常化35周年に合わせて日本と中国が進める「2万人交流」プロジェクトが今秋にも達成されるのに合わせ、双方で記念式典を開催することで一致したとされる&amp;lt;ref&amp;gt;『[[毎日新聞]]』 2007年7月5日 東京朝刊&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 韓国 ===&lt;br /&gt;
[[日韓議員連盟]]に237名の議員が参加し、[[森喜朗]]が現在も会長を務めるなど関係を重視している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝鮮民主主義人民共和国 ===&lt;br /&gt;
南北分断固定以後は韓国同様にその存在を認めていないが、[[1990年]]には[[金丸信]]が[[日本社会党]]と共同で訪朝団を結成し（金丸訪朝団）、[[国交]]正常化や[[日本統治時代の朝鮮|統治時代]]の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党、社会党、[[朝鮮労働党]]の3党で交している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]]は自民党議員が中心となっている一方で[[日朝国交正常化推進議員連盟]]に参加している議員も少なからず存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 党勢の推移 ==&lt;br /&gt;
=== 衆議院 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!選挙!!当選/候補者!!定数!!備考&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|（結党時）||299/-||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|467||「[自民党のあゆみ]」によれば、298&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第28回衆議院議員総選挙|第28回総選挙]]||○287/413||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|467||追加公認+11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第29回衆議院議員総選挙|第29回総選挙]]||○296/399||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|467||追加公認+4&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第30回衆議院議員総選挙|第30回総選挙]]||○283/359||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|467||追加公認+11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第31回衆議院議員総選挙|第31回総選挙]]||○277/342||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|486||追加公認+3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第32回衆議院議員総選挙|第32回総選挙]]||○288/328||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|486||追加公認+12&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]]||●271/339||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|491||追加公認+13&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]||●249/320||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|511||追加公認+12、死去-1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]]||●248/322||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|511||追加公認+10&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]]||○284/310||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|511||追加公認+3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]||●250/339||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|511||追加公認+9&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]||○300/322||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|512||追加公認+4、[[新自由クラブ]]より合流+5&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]||○275/338||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|512||追加公認+11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]||●223/285||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|511||追加公認+8、離党-3&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第41回衆議院議員総選挙|第41回総選挙]]||○239/355||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|500||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第42回衆議院議員総選挙|第42回総選挙]]||●233/337||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|480||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第43回衆議院議員総選挙|第43回総選挙]]||○237/336||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|480||追加公認+4、[[保守新党]]より合流+4&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第44回衆議院議員総選挙|第44回総選挙]]||○296/346||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|480||翌年の復党合流+11&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第45回衆議院議員総選挙|第45回総選挙]]||●119/326||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|480||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 参議院 ===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!選挙!!当選/候補者!!非改選!!定数!!備考&lt;br /&gt;
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|（結党時）||118/-||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|-||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||「自民党のあゆみ]」によれば、115&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第4回参議院議員通常選挙|第4回通常選挙]]||○61/118||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|61||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||追加公認+2、死去-2、非改選入党+2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第5回参議院議員通常選挙|第5回通常選挙]]||○71/101||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|62||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||追加公認+2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第6回参議院議員通常選挙|第6回通常選挙]]||○69/100||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|73||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||追加公認+1&lt;br /&gt;
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|[[第7回参議院議員通常選挙|第7回通常選挙]]||○71/95||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|69||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||&lt;br /&gt;
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|[[第8回参議院議員通常選挙|第8回通常選挙]]||○69/93||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|68||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|250||&lt;br /&gt;
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|[[第9回参議院議員通常選挙|第9回通常選挙]]||●63/94||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|72||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||追加公認+1、繰り上げ当選+1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第10回参議院議員通常選挙|第10回通常選挙]]||●62/95||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|64||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||追加公認+1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第11回参議院議員通常選挙|第11回通常選挙]]||○63/77||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|61||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||追加公認+3、離党-2&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第12回参議院議員通常選挙|第12回通常選挙]]||○69/77||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|66||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||追加公認+1、非改選入党+1&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第13回参議院議員通常選挙|第13回通常選挙]]||○68/90||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|69||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||&lt;br /&gt;
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|[[第15回参議院議員通常選挙|第15回通常選挙]]||●36/78||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|73||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|252||追加公認+2&lt;br /&gt;
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|[[第19回参議院議員通常選挙|第19回通常選挙]]||○64/76||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|47||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|247||（保守党5と統一会派）&lt;br /&gt;
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|[[第20回参議院議員通常選挙|第20回通常選挙]]||●49/83||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|66||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|242||&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[第21回参議院議員通常選挙|第21回通常選挙]]||●37/84||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|46||style=&amp;quot;text-align: right;&amp;quot;|242||&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
（参考文献：[[石川真澄]]（一部[[山口二郎]]による加筆）『戦後政治史』2004年8月、[[岩波書店]]・[[岩波新書]]、ISBN 4-00-430904-2）&lt;br /&gt;
* 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}} &lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[親米保守]]・[[対米従属]]&lt;br /&gt;
* [[日本の政治]]&lt;br /&gt;
* [[日本の政党一覧]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党国会議員一覧]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党総裁]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党幹事長]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党執行部]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党の派閥]]&lt;br /&gt;
* [[自由民主党の友好団体]]&lt;br /&gt;
* [[55年体制]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{自由民主党 (日本)}}&lt;br /&gt;
{{日本の政党一覧}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しゆうみんしゆとう}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の政治団体]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の政党]]&lt;br /&gt;
[[Category:自由民主党|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:蛆虫]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%AD&amp;diff=220457</id>
		<title>パチスロ</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%91%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%AD&amp;diff=220457"/>
				<updated>2014-02-12T15:55:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:パチンコ4.jpg|600px|thumb|パチンコ]]&lt;br /&gt;
'''パチスロ'''とは、「[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律]]」によって規制を受ける7号営業店＝[[パチンコ]]店等に設置される[[スロットマシン]]のことである。正式名称は「'''回胴式遊技機'''」。[[保安電子通信技術協会]]（保通協）によって行われる型式試験に合格しなければ設置できない。登場当初はオリンピア物産（現在の[[オリンピア (パチスロ)|オリンピア]]とは別の会社）製の機械がメインだった為、「オリンピアマシン」とも言われる。'''朝鮮絵合わせともいう'''。　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチスロ登場以前は、[[ラスベガス]]などでお馴染みのいわゆる「アップライト型」が主流であったが、大型のスロットマシンは店舗への導入が困難である事から、パチンコの枠にそのまま設置できるスロットマシンが開発された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スロットマシンがリールの自動停止を待つのに対し、パチスロでは遊技者がストップボタンでリールを停止する。これはパチンコとともに法的に遊技者が最低限の技術介入を求められているためである。パチンコと共に庶民に最も身近な[[ギャンブル|遊技]]のひとつ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要==&lt;br /&gt;
パチスロはスロットマシンをパチンコ台の空間に入るよう製造されたもの（ただし0号機の時代はその限りではなく、筐体はそのまま外国のスロットマシンと同じものだった）。そのため当初からパチンコを設置している店の一角にパチスロのコーナーが設けられていて、換金方法もパチンコの方式をそのまま流用しているところがほとんどである。遊戯に使用するメダルの借り賃は1枚20円以下と定められており、一般にはメダル50枚（1000円）を単位として貸し出しを行う店が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
換金率は、かつてはパチンコの換金率から換算されていたため同じホールでの換金率はパチンコもパチスロもほぼ同じであったが、最近はパチスロ台の[[機械割]]が全体的に低下していることから、パチスロに限り[[等価交換]]を導入しパチンコと換金率に差を付けているホールも増えている。但し、パチンコでも最近になって大当たり1回で得られる出玉が減少しているため、パチンコも等価交換を導入して換金率に差がなくなる例や、ゲームの起伏がなだらかになり利益が取りにくくなったために換金率を下げ、パチンコとの逆転現象がおきるケースも見られ始めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチンコとの遊技性の違いは、「ある程度の技術介入」要素が明確であり、出玉を左右しやすい点にある。つまり打ち手のレベルやテクニックによって目に見えて差が開きやすい。しかしながらシステムや遊技方法にある程度の理解が無いと遊技する上での楽しみや興奮が少なく、始めるにあたり敷居が高い、と思う者も多い。特にパチンコとの顕著な違いは「あらゆる役が当選しても、遊技者がその絵柄を決められた位置に止めないと払い出しを受けられない」という部分である（ただし本来は、パチンコでも、役が当選しても、開放した入賞口に玉を入れられなければ払い出しを受けられない部分は同じである）。ボーナスに限っては店の従業員に止めてもらうことも出来るが、その他の小役は基本的に遊技者が止める必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4号機が発売されていた時期はパチンコのホールをパチスロ専用のホールとして改装する店が多くあった。これはパチスロの演出の変化により店内のBGMや放送及び照明がパチンコのものと両立しなくなってきたためである。もちろん当時のパチスロ人気の高騰も原因の一つだった。これはパチンコの出玉に関する規制が一時厳しくなったために、より爆発力の大きいパチスロに客が流れたことに原因があった。しかし5号機の時代に入りパチスロの出玉規制が強化されたため、ここ1～2年ほどは逆にパチスロ専門店がパチンコ併設店またはパチンコ専門店、場合によってはゲームセンター（8号営業）へ転換するケースも多く見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことからもわかるように、遊技者は大量のコインを短時間で獲得できるような仕様のパチスロ機を求め、設置するホールも客の求める機種を多く設置するため、メーカーもそのような機種を発売する。そのために常に[[ギャンブル]]性（射幸性）の高さが問題となり、そのたびに当局より規制を受けることになる（パチスロの進化と変遷の項を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに全国的にパチスロが普及した後も、[[三重県]]では[[公安委員会]]がパチスロの導入を認めないという理由でパチスロ台が1台も稼動していない状況が続いていたが、[[2000年]]にはパチスロの導入を認める方針に転換し、同年7月より三重県内でもパチスロが一斉に導入された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2005年]]、これまでのメダルではなく、[[パチンコ]]玉にて遊技するパチスロ機（通称「[[パロット_(パチスロ)|パロット]]」）が[[SANKYO]]から登場。メダル3枚に相当するパチンコ玉15発が一回の遊技代となるが、上記のようにスロットとパチンコで換金格差がある関係でどうしてもスロットと同じように遊技できるという状況ではなく、メダルでの遊技ができるスロット機が主流となっている（現在ホールがパチスロのシマをもてあましており、わざわざパチンコのシマに設置する必然性が無いという理由もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、筐体の変化も様々で、床置きタイプの筐体なども少ないながら存在した（箱型以外のパチスロ機はホールには現存しない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 進化と変遷 ==&lt;br /&gt;
=== 前史 ===&lt;br /&gt;
1964年、アメリカ統治下の沖縄で「オリンピアマシン」が誕生{{要出典}}、現代のパチスロの嚆矢となった。東京オリンピックに因んでオリンピアと名づけられたスロットマシン型のこの遊技機は、ゲーム機メーカーの[[セガ]]と[[タイトー]]が共同会社であるオリンピアを設立、セガがかねてより在日米軍基地や欧州市場向けに製造していたスロットマシンを応用した製品の製造を担当し、販売営業を分け合った。1ゲームに投入できるメダルは1枚、絵柄の組み合わせの有効ラインは1つで、ボーナスゲームはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 0号機 ===&lt;br /&gt;
1977年、0号機（[[1985年]]に施行された[[風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律|風営法]]以前に作られた機種の総称）の登場。基準など無かった時代なので、極端にスベリの有るものや、反対にスベリの少ないものがあり、[[目押し]]の出来るプレイヤーにとっては攻略の対象になった。リールもギアで動くものだった機種では、窓を押さえることでリールを止めることができたものもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
役は、[[ボーナスゲーム]]と小役ゲームのみで構成され、一度ボーナスゲームが当たると次回のボーナスゲームが高率で当たり、店が設定した打ち止めまで続くようになっていた。また、連チャンの規制も無かったので激荒の波を持った機種もあった。尚『[[パチスロパルサー]]』には[[山佐パターン]]と呼ばれる独特のリーチ目があって、リーチ目表（大量リーチ目タイプなので代表的なパターンのみ）がホールに張り出されていた。このパターンは現在まで続いていて、パルサーシリーズのウリになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、当時は今のように無制限で交換率が5～7枚交換というものではなく、ボーナス1回ごとに交換し交換率も10枚交換などというホールがざらにあった。また[[リプレイ]]もなかった。コインサンドもまだなく、通貨を50枚単位で包んであるのと同じものをカウンターで1000円で交換していた。今でも高年齢の人が1000円を1本と呼ぶことがあるのはこのときの名残である。また、メダル貸し出し単価や機械仕様が統一されておらず、都道府県ごとに異なるレートが適応されていたり、それに合わせて打ち止め枚数などの仕様が異なっていたりした。都道府県ごとに規制が異なったため、0号機では、同一機種でも隣の県では異なるゲーム内容となっていた。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[パチスロパルサー]]（日活興業）、リバティーベル（[[アルゼ|ユニバーサル販売]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 1号機 ===&lt;br /&gt;
1985年、パチスロに新風営法に基づいた全国統一認定基準が定められ、1号機が登場。現在のボーナスシステムと同等のゲーム性を搭載した。その後、不正改造対策により1.5号機が登場。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[ニューペガサス]]（[[パル工業]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 2号機 ===&lt;br /&gt;
[[1988年]]に2号機が登場。ボーナスの抽選方法が完全確率方式に統一され、吸い込み方式などは全廃された。コインを50枚まで貯留できるクレジット機能が採用されて操作性が向上したうえに、シングルボーナスや[[#集中役|集中役]]など新しい遊技機能が許可されたことにより、ゲーム性が従来と比較して格段に向上した。その一方で、1ゲーム4秒（3号機以降は4.1秒）の規制が加わり、スピーディなプレイが難しくなった。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[アラジン (パチスロ)|アラジン]]（開発：[[サミー]]、販売：ニイガタ電子精機）、[[バニーガール (パチスロ)|バニーガール]]（オリンピア）、[[リバティーベルIII|センチュリー21]]（瑞穂製作所）、アニマル（アークテクニコ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 3号機 ===&lt;br /&gt;
[[1990年]]に3号機が登場。2号機のギャンブル性を抑えた仕様であり、人気のあった集中役に対する規制が強化された。ゲーム性が画一化されてしまい、結果的に連チャンを誘発する仕掛けなど違法な裏モノが多く出回った。それへの対処として大規模な基板改修や再封印が行われた結果、パチスロ人気が急落した。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]（瑞穂製作所）、[[ワイルドキャッツ]]（アークテクニコ）、[[リノ (パチスロ)|リノ]]（ニイガタ電子精機）、[[スーパープラネット]]（山佐）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 4号機 ===&lt;br /&gt;
1992年に4号機が登場。コイン持ちをパチンコに合わせるために、再遊技（リプレイ）搭載が義務づけられた。フラグ告知機能も許可されたが、当初はあまり活用されなかった。他にも、オートリセット機能（3号機まではビッグボーナス終了のたびに店員を呼んでリセットをしてもらう必要があった）の搭載、払い出しに関係のない絵柄（多くの機種における中・右リールのチェリーなど）も4号機から認められている。さらに、ビッグボーナスに「期待値方式」を採用し、獲得枚数が毎回変化するようになったことも特筆される。また、3号機までは1メーカーにつき2機種までしか販売が許可されなかったが、4号機からは何機種でも販売できるようになっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4.0号機 ====&lt;br /&gt;
4号機の規定の盲点をついた「[[小役回収打法]]（DDT打法、KKK打法とも呼ぶ）」「[[リプレイはずし]]」など、打ち手の技術介入度が高い機種が続々登場。「目押し全盛時代」と言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1998年に[[チャレンジタイム]]（CT）が許可され、「[[ウルトラマン倶楽部3]]」をはじめとしたCT機が流行。その一方で、「[[ジャグラー (パチスロ)|ジャグラー]]」（[[北電子]]）や[[沖スロ]]に代表される、[[リーチ目]]がわからなくても特定のランプが点灯すればボーナスが確定する[[完全告知]]マシンが高齢者や初心者を中心に人気を集める。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[クランキーコンドル]]、[[ニューパルサー]]、[[サンダーV]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4.1号機 ====&lt;br /&gt;
完全確率をベースとした規制であるが、規定の拡大解釈により、大幅な変貌を遂げる。後期に[[大量獲得機]]の登場や[[アシストタイム]](AT)がブームになり、射幸心を煽る形に発展した。[[2003年]]にはいくつかの機種は検定を取り消され、4.5号機の早期投入が行われた。また、初の[[ストック機]]「[[ブラックジャック777]]」が登場。また、4.1号機の後期ごろより、リール以外の手段を用いて演出を表示できる筐体が登場する。当初は簡易なドット絵やフラッシュが主流であったが、その後4thリールや液晶搭載機（[[ゲゲゲの鬼太郎 (パチスロ)|ゲゲゲの鬼太郎]]が初搭載）の登場などで筐体そのものも大きな進化を遂げた。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[獣王]]、[[キングパルサー]]、[[スーパーリノ]]、[[ハナビ]]、[[大花火]]、[[アステカ (パチスロ)|アステカ]]&lt;br /&gt;
* 検定取り消しの代表機種：[[アラジンA]]、[[ミリオンゴッド]]、[[サラリーマン金太郎 (パチスロ)|サラリーマン金太郎]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4.5号機 ====&lt;br /&gt;
ギャンブル性が高すぎたAT搭載の4.1号機を抑えた規制。[[サイレントストック]]型のストック機がメインに。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[北斗の拳 (パチスロ)|北斗の拳]]、[[主役は銭形]]、[[吉宗]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4.7号機 ====&lt;br /&gt;
4.5号機の後継機として導入される。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[北斗の拳SE]]、[[押忍!番長]]、[[トゥームレイダー (パチスロ)|トゥームレイダー]]、[[秘宝伝]]、[[俺の空 (パチスロ)|俺の空]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上の機種は2007年9月末をもって検定期間満了によりホールから撤去された。&lt;br /&gt;
ただし、これらの4号機をはじめとする「みなし機」は換金性はないものの、（正規のパチスロ機への悪用防止のため）コインセレクターなどに若干の改造を加えられて[[ゲームセンター]]などで新たに[[メダルゲーム]]機として転用され、遊技可能である（いわゆる[[七号転用機]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 5号機 ===&lt;br /&gt;
{{main|5号機 (パチスロ)}}&lt;br /&gt;
2005年、5号機の登場。射幸心を煽りすぎた4号機と比較して出玉性能が大幅に制限される反面、技術介入面での差はさほどなくなり、打ち手に平等になったと思われた。しかし、一部メーカーにより[[リプパンはずし]]という新しい技術介入要素が考案され、それによって実質的な機械割を上げることができる機種が増えている。ただし、2007年9月申請分よりART機能を対象とした新たな書類添付が義務づけられ、出玉性能を飛躍的に上げることを目的とした[[リプパンはずし]]仕様は実質的に難しくなった（ゲーム性の一環としては採用可能）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、5号機そのものはまだ確立されている状態ではなく、メーカーの試行錯誤が続いている。&lt;br /&gt;
* 代表機種：[[新世紀エヴァンゲリオン (パチスロ)|新世紀エヴァンゲリオン]]、[[南国娘]]、[[サンダーVスペシャル]]、[[スパイダーマン2 (パチスロ)|スパイダーマン2]]、[[アイムジャグラーEX]]、[[リングにかけろ1 (パチスロ)|リングにかけろ1]]、[[青ドン]]、[[新世紀エヴァンゲリオン 〜まごころを、君に〜]]、[[北斗の拳2 乱世覇王伝 天覇の章]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 様々な規制の余波 ==&lt;br /&gt;
2002年以降、出玉上の規制が行われ、スペックの変化は様々であるが、出玉設計以外の分野においても規制の余波が届いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ホール営業 ===&lt;br /&gt;
原則的に「来店客に対し、射幸心を煽る店内行為」が自粛されている。多くの店舗はパチンコとの兼業であり、8割が朝鮮系住民による経営とされ、[[北朝鮮]]への送金も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 過剰なアナウンスの自粛&lt;br /&gt;
: プレイヤーの射幸心・期待度を極端に煽るおなじみのアナウンスが自粛された。通常空き台の案内やイベント案内程度が主流。&lt;br /&gt;
; 出玉公開・写真&lt;br /&gt;
: 出玉ランキングにおいて、以前のような掲示方法が変わりつつある。大量獲得者の写真は、獲得者が強盗犯罪等に巻き込まれる可能性から、最近では無くなりつつある。&lt;br /&gt;
; イベント&lt;br /&gt;
: 設定を断言するなどの行為が自粛される。その代わりに「（設定を）上げ・キープ」、「爆裂札」、「ゴロゴロ（5656）祭」、「エビアン（[[海物語シリーズ]]の5･6絵柄であるエビとアンコウ）祭」、「[[ドラゴンボール]]の星の数で告知」などの告知方法が多く、建前上は告知を行っていないという姿勢をとっている。&lt;br /&gt;
; 営業時間の厳守&lt;br /&gt;
: 開店・閉店時間が厳格に守られるようになった。閉店時間に客が完全に退店していなければならなくなり、その結果、遊技を終了する時間が閉店時よりも早まっている（10～15分前）ので、その時間を計算して遊技を終了しないと、ボーナスやRTを取りきれずに終わらなければならないこともあるので注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 秀逸なコピペ ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
もうね　ガセというか必死というか　そこまでやるか？！みたいなイベだった &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朝一ホールに突入すると金銀銅3種類の札があちこちに刺さってる &lt;br /&gt;
「これって金が最強じゃね？ｗｗｗｗｗ」金札台ゲットでぶん回し &lt;br /&gt;
しかし泣かず飛ばず・・・ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昼過ぎたあたりで「ゴールド」「シルバー」「ブロンズ」なる札が追加！ｗｗ &lt;br /&gt;
しかも金銀銅の札よりあきらかに豪華な札！ &lt;br /&gt;
これはゴールドっしょ！ｗｗｗｗｗで打つも全然出ねえし・・・・ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3時になると今度は「プラチナ」「黄金」「金の延べ棒」なる札が追加ｗｗｗｗｗ &lt;br /&gt;
さらに5時を過ぎると「ルビー」「サファイア」「ダイヤモンド」の札が追加・・・ｗｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6時になると「株主」「将軍」「大統領」の札が追加！ｗｗｗ &lt;br /&gt;
この辺からほとんどの台に札が刺さってる状態にｗｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに7時には「言語道断」「天変地異」「空前絶後」の札が追加され &lt;br /&gt;
「太陽系」「銀河系」「アンドロメダ星雲」「サメ」「エビ」「アンコウ」 &lt;br /&gt;
「インド洋」「大西洋」「太平洋」　ぞくぞくと追加ｗｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでくると全台に複数枚の札が刺さってる状態ｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後10時に「ムー大陸」「ノストラダムス」「ビッグバーン」が追加！ &lt;br /&gt;
結局　オレの台には「ゴールド」「株主」「空前絶後」「エビ」の4枚が刺さったｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-50ｋ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
1k平均25Gしか遊べませんが、がんばって1/200から1/800程度のチャンス役を引いてください！ &lt;br /&gt;
正確なゾーンや仕様、確率？　それは教えられませんよｗ &lt;br /&gt;
雑誌や２ちゃんを信じてがんばってください！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おーっと早速チャンス！あーっと残念！ &lt;br /&gt;
それは弱チャンス役といって、ほとんど当選しませんｗ &lt;br /&gt;
えっ？もう4万円溶けた？ &lt;br /&gt;
そろそろ出ますよほら！出ました強チャンス目！ &lt;br /&gt;
熱い前兆を32Gお楽しみください！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あーしかし残念！　1/6の抽選に漏れましたｗ &lt;br /&gt;
でも大丈夫！高確モードに昇格しました！ &lt;br /&gt;
今から30G前後以内に、1/200から1/800程度のチャンス役を引いてください！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
えっ？もう5万円溶けた？ &lt;br /&gt;
そろそろ出ますよほら！出ました強チェリー！ &lt;br /&gt;
赤文字に役物、大音響！ボタンプッシュ！！ &lt;br /&gt;
激熱前兆を32Gお楽しみください！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしまたまた残念！ｗｗｗ　1/3の抽選に漏れてさらに低確に落ちましたｗｗｗｗ &lt;br /&gt;
でも大丈夫！もうすぐ天井でART確定です！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あーっ！天井目前ですが、そ、それは伝説の確定目！お見事！ART当選です！ &lt;br /&gt;
ART中だったら大変なことになりますが、通常時はARTのみですｗｗｗｗ &lt;br /&gt;
それでは32G間じっくりプレミア前兆をお楽しみください。終わるまでARTは始まりませんｗ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あらためまして、当選おめでとうございます！！！ &lt;br /&gt;
それでは準備に入ります！　突入リプが揃うまでお待ちくださいｗｗｗｗ &lt;br /&gt;
50枚飲まれましたが、揃いました！それではたったの30G間ですが、夢のARTをお楽しみください！ &lt;br /&gt;
この間に1/200から1/800程度のチャンス役を引いてください！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お見事！　ズドドドドドキュピピピイイイイイン　+10G！！！ &lt;br /&gt;
え？＋10じゃどうしようもねーよって？でも大丈夫！激熱の上乗せ特化ゾーンの前兆が始まりましたよ！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あー残念！1/3の抽選に漏れました！ &lt;br /&gt;
GAME60　GET100　ART終わってしまいましたね…でも大丈夫！128以内までは引き戻しゾーンですよ！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
残念！引き戻しゾーン抜けてしまいました！あーっと強チェリー！CZの可能性ありますよ！ &lt;br /&gt;
そんなこんなで256までいってしまいました！ここから384までは激アツゾーンです！&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
昨日初打ちしました。 プレミアムを外したので報告します。 &lt;br /&gt;
座って2K目に、図柄赤オーラが出たんです。 正直これはもらったと思いました。 &lt;br /&gt;
しかし他に予告もなくテンパイしたので??っと思っていると、ケンシロウの「どけ」カットインが出たんです。 またまた劇アツです。 &lt;br /&gt;
そこから敵をボコボコにしてケンシロウが、「お前の命はあと五秒」 &lt;br /&gt;
百烈拳予告です。まさか初打ちで見れるとはおもいませんでした。 &lt;br /&gt;
そしてなんと、残り四秒でケンシロウが敵を倒したんです。 &lt;br /&gt;
矛盾…すなわちプレミアムです。 前に友達から、プレミアムは平均15連だと聞いていたので、僕はこの後始まる大連チャンに心を踊らせていました。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして画面には風の文字。 激アツの風のフューイ、今思えば、ストーリー系だったんですね。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書くのがめんどくさくなったのでやめますが、とにかく外れました。どうなってるんですか？&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
どうしても新台のアクエリオンが打ちたくて打ちたくて、昨日自分の犬を売ったよ&lt;br /&gt;
98,000円したチワワを16,000円で泣きながら売ったよ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
産まれた時から一緒でさぁ～可愛いかったなぁ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１年以上ずっと一緒で辛い時も嬉しい時も寝る時もさ・・・ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
泣いてたら必ずペロペロして来て、どこに行くのも付いて来て俺にとって唯一の家族だったんだ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
売った金握りしめ泣きながらアクエリオンした &lt;br /&gt;
打ちながら「俺、なにやってんだろ…最低だな…」とか思いながら &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
気付いたら物凄いエスパーしてました &lt;br /&gt;
投資10kで回収19000枚 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
準備中のバケでメーターたまっての創星ラッシュ30中に不動全ナビ &lt;br /&gt;
5つ乗せて更に1stナビ中に中段チェリーでSBを引いて大事故起こした後閉店まで止まらず &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ARTの回数は123回なんだけど、表示は99でカンストみたい &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さっきヘルスで凄い可愛い子に当たったし最高だった &lt;br /&gt;
明日もアクエリオン♪&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
中古台を持っていた俺は約1000枚のコイン（大森町センターって書いてある） &lt;br /&gt;
をジャンパー、ジーパンのポケットに突っ込んだりポシェットにも大量に入れて &lt;br /&gt;
常連化していた某店に入店した　狙うはもちろん裏で一発だった・・・ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レッツスパンキーという裏に大森コインをバレないように入れた &lt;br /&gt;
途中コイン買うマネとかもして懸命に誤魔化した。ついにコインギリギリでついた！ &lt;br /&gt;
連荘した、大森コインばっかり出てきた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逃げようと思ったら見つかってしまった。　店員に &lt;br /&gt;
「いっつも来てくれた君がこんな事するなんてガッカリした、警察には言わないけどもう二度と来ないで・・」と言われた。 &lt;br /&gt;
あれから約2年、今思うとなんであんな事しちゃったんだろうと後悔している。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
北斗を打ってた時のことです。 &lt;br /&gt;
隣にDQNっぽい二人組が座った。すると間もなくDQNの一方が北斗揃いを引いたのよ。 &lt;br /&gt;
いいな～とか思ってるとおもむろにDQNがコールランプを押す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん店員がくる。エラーが出てるわけでもないしなんだろうとおもってちょっと見てた。 &lt;br /&gt;
店員も「？」って感じで「どうされました？」とDQNに尋ねた。するとDQNが&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
「これ今からめっちゃ出るからよ～～ｗｗｗｗいちいち呼ぶのだるいからメダルパンパンに入れといてくれやｗｗｗ」 &lt;br /&gt;
とか言いだした。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
店員は苦笑いでメダルジョッキ持ってきてホッパー満杯にしてDQNも満足そうに「いっちょいきますか」とか言ってた。 &lt;br /&gt;
2連終了でDQNコイン全のまれ、更に追加2千円くらいでメダルオーバーフローのエラーが出てクソわろた。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
今日マジで殺意わいた。 &lt;br /&gt;
朝から4万入れてバケ→更にそこから天井一直線で合計103K投資。&lt;br /&gt;
天井無事到達。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1500枚くらいで約束。約束のエピソード好きだからwktkしてたのに後ろで北斗打ってたやつがちょうどART突入。 &lt;br /&gt;
北斗の爆音のせいで &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「残りの人生をホゥーーー俺にアタ！アタ！くださホーワッチャーーー！」 &lt;br /&gt;
「約束しホゥーーーー！１日でいアタ！アタ！長生きホーーーワッチャーーー！」 &lt;br /&gt;
「もう一人ホゥーーーー！！！生きていけアタ！アタ！からホーワッチャーーー！！」」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マジで氏ね。後ろで打ってたドカタマジで氏ね。 &lt;br /&gt;
本日－76Ｋ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
働いてたパチ屋の、常連のオヤジが強盗殺人で亡くなって &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「あの人はパチンコ好きだったから」っていう奥さんからの希望で店の煽り札をあげた事あったな &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仲良かったから、お線香あげさせてもらいに行ったんだけど、&lt;br /&gt;
仏壇に「無制限」とか「大爆発」とか刺さってて、すごいシュールだった&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
おれのマイホで昔あったグッドマンＭっていう岡崎産業の機種が8台あって &lt;br /&gt;
普段すげー客つきが悪いから店長が苦肉の策で&lt;br /&gt;
8台全部になんか大入り袋が入れて &lt;br /&gt;
ＢＩＧ5回目をかけたらその袋の中身もらえるっていうイベをやった &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
極寒の中、朝５時から並んだ俺は無事グッドマン確保に成功 &lt;br /&gt;
終日稼動2人くらいのこの島が、久々満席大御礼となった &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、相手は大量獲得機、設定1は1/431である &lt;br /&gt;
みんな大入り袋を目指して、ひたすらＡＬＬ設定1であろうこの台をブンまわす &lt;br /&gt;
全然かからねーーｗでも、中途半端に3回とかかけたら、もうあとには引けないしな・・・ &lt;br /&gt;
3時間後・・ついに13時に、シマでＴＯＰのＢＩＧ5回達成者がでた！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あけられるドア &lt;br /&gt;
覗き込むほかの7人 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大入り袋から出てきたものは。。。「いつでも好きな台の設定5変更券」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「おおっ！！！」色めき立つ7人 &lt;br /&gt;
いままでボッタの印象しかないこの店が、ついに改心したか！！ &lt;br /&gt;
みんな一心不乱でブンまわす &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで2番目の達成者が！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
袋の中身は・・・・「コイン1000枚」&lt;br /&gt;
いいじゃないいいじゃないｗここは等価 &lt;br /&gt;
20,000円タダでくれたってことじゃん！店長！ふとっぱら！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次々と達成者がでて、「いつでも好きな台の設定4変更券」や &lt;br /&gt;
なんか知らんが「15インチ液晶ＴＶ」（当時は高価だったとおもう）など &lt;br /&gt;
お宝が続々と出始めていた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが、気がつくと、5回達成していないのは俺だけ・・・orz &lt;br /&gt;
普通はイジけるところだろう &lt;br /&gt;
しかし！しかしだ。。。。まだ出ていないのである &lt;br /&gt;
そう！「設定６変更券」が！！！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうこれはブンまわすっきゃないでしょｗｗｗｗｗ &lt;br /&gt;
もう、はた目からみたら、全然コインないのに残りクレジット20くらいから &lt;br /&gt;
次の1,000円をサンドにブチ込んでる様は、異常だったとおもう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
きたーー中段リプテン！2確！！ &lt;br /&gt;
しゃーー！ＢＩＧ！！5回目ＢＩＧ！！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の常連も「ニイチャン！やったな！」「設定6で何打つん？ええなあ！」 &lt;br /&gt;
と、中段に揃う777を祝福してくれていた！ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＢＩＧ消化後、店員が「おめでとうございまーす」と俺に大入り袋を手渡した &lt;br /&gt;
もう、ドキがムネムネなのを抑えて恐る恐る袋をあけると &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「こしひかり複数原料米10kg」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おれは泣きながら、罰ゲームともとれる10kgの米を抱えて徒歩で帰った &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
－44Ｋ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
もぅマチ゛無理。 &lt;br /&gt;
またホラーがゎかれた。 ちょぉ数少なかったのに、ゥチゎどうせ黄金騎士にゎなれなぃんだって。 &lt;br /&gt;
どぉせゥチゎ守りし者ではなぃってコト、 &lt;br /&gt;
ぃまホラーが合体した。 &lt;br /&gt;
fog群無し青イナス゛マ。もぅマチ゛無理。。。 &lt;br /&gt;
ハァ。進撃アタック押そ。。。。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オォォｗｗｗオォｗｗｗｗｗオォｗｗｗｗｗｗオォォｗｗｗｗｗｗｗｗｗ&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
昨日、スロットやりに近所のホールに行ったんですよ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、北斗の台に座ったらさ、その隣にウチの母親が座ってたの。もうマジでびびった。 &lt;br /&gt;
そのホールは実家から遠い所にあるし、母親は基本的にパチのシマにしか行かなかった人だし。&lt;br /&gt;
それに勘当同然で家追い出されてから、一年ぶりくらいに顔合わせあってのもあって、もう本当に気まずくて。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シカトして席を立つ訳にもいかないし、&lt;br /&gt;
どうしようどうしようってテンパってたら向こうから「元気そうだね」って話しかけてきてさ。 &lt;br /&gt;
「うん」って答えたら、「あんたパチスロなんかやるのねー。お金も困ってなさそうね。安心した」って言われて。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その言葉に胸のあたりがウアーッて熱くなって、此処が店だって事も忘れて泣いちゃったのよ、恥ずかしいんだけどさ。 &lt;br /&gt;
んで「いつでも帰って来て良いんだからね」って言葉に更に大泣き。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は涙流しながら、母と一緒に仲良く打ちました。 &lt;br /&gt;
その後、私は単発地獄－50k。母はボヌス大爆発、ラオウ昇天×2。 &lt;br /&gt;
母はやはり偉大です。&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
成人式の為に買ってもらったスーツを着て &lt;br /&gt;
かっこいいと言われ、何枚も写真を取られ &lt;br /&gt;
車で会場まで送ってもらい &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「友達と飲むだろうけど、イッキなんてしたらいかんよ？遅くなるだろうから気をつけて帰ってらっしゃい」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう言われた後一人で会場を一周し、中に入ることが出来ず &lt;br /&gt;
友達と飲みに行くことになっている手前、そのまま帰ることも出来ず &lt;br /&gt;
夜まで時間つぶすためにその足でスロット店へ行き &lt;br /&gt;
親からもらったお年玉を使い切るのに2時間も持たず銀行から下ろした8万も消え&lt;br /&gt;
どうしようもなくなって、夕方頃に家に帰り &lt;br /&gt;
人が多すぎて友達と会えなかったと言う俺に &lt;br /&gt;
母さんは、じゃあ夕飯ちゃんとしたもの作らなきゃねと言い&lt;br /&gt;
俺は震えて声も出せないほど泣いた&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 海外でのパチスロ ==&lt;br /&gt;
パチスロは日本国内だけのものだと思われがちだが、実は[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[平壌]]市にある[[ボウリング]]場「平壌ゴールドレーン」の中にもあり、日本と同様、景品と交換できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[大韓民国|韓国]]では[[ソウル特別市|ソウル]]市内を中心に多数の店舗が存在する。台は日本国内で流通してる台がそのまま稼動している。説明書きなどは[[ハングル]]に直されている場合もある。機種は古いものでは『[[大花火]]』、新しいものでは『[[ヒデキに夢中!!]]』まで確認されている（2006年2月末日現在）。店の規模は40-50台程度のところが多く、ほとんどの店は韓国の法律に照らすと不法営業である。貸しコインは1万ウォン（約1200円）で90枚貸してくれ、交換するときは100枚で1万ウォン分の商品券をくれる。そのまま使えば1万ウォンは1万ウォンだが、現金に（それなりに堂々と）変えてくれるお兄さんを通すとそこから更に10%引かれるので、交換率で言うと6.3枚交換程度になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また[[モンゴル国|モンゴル]]でも、[[ウランバートル]]市内で数店舗が営業を行っている。[[台湾]]でも[[台中市]]などにパチスロ店が存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パチスロに関する法令や許認可等の関係から、日本国内では[[2007年]]秋以降4号機以前のパチスロ台を使用したホール営業が事実上困難になるのに対し、海外ではそのような問題が発生しないことから、業界関係者の間では「今後海外のカジノ等で、日本人客の集客アップを狙い旧式のパチスロ機による営業を行うところが増えるのではないか」との声も挙がっている。但し、パチスロのシステム上、同一のゲーム性でラスベガスのカジノに設置することは不可能（例えば、パチスロに備わっている設定機能はラスベガスに設置されるスロットマシンに存在してはならない機能である）など、ルール上パチスロが設置できない国や地域も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお日本国外でパチスロを打つ場合、日本における[[保安電子通信技術協会]]（保通協）や公安委員会による検定制度に相当する制度が存在しない、あるいは制度が存在しても検定基準が異なるといった理由から、台に改造が加えられゲーム性が当該機種本来のものと異なる（いわゆる「裏モノ」化している）可能性がある点には注意が必要である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本のパチスロメーカーの一覧 ==&lt;br /&gt;
すべて[[五十音]]順。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現存するメーカー ===&lt;br /&gt;
同一グループに属するメーカーは主メーカーのところにまとめて掲載している。&lt;br /&gt;
* [[アイジーティージャパン]]&lt;br /&gt;
* [[アクト技研]]&lt;br /&gt;
* [[アスワン東京]]&lt;br /&gt;
* [[アビリット]]&lt;br /&gt;
* [[アリストクラートテクノロジーズ]]&lt;br /&gt;
* [[アルゼ]]（エレコ・ミズホ・メーシー）&lt;br /&gt;
* [[イレブン (パチスロ)|イレブン]]&lt;br /&gt;
* [[エール (パチスロ)|エール]]&lt;br /&gt;
* [[SNKプレイモア]]&lt;br /&gt;
* [[エマ (企業)|エマ]]&lt;br /&gt;
* [[オーイズミ]]&lt;br /&gt;
* [[岡崎産業]]&lt;br /&gt;
* [[北電子]]&lt;br /&gt;
* [[KPE]]&lt;br /&gt;
* [[サミー]]（[[銀座 (企業)|銀座]]・[[ロデオ (企業)|ロデオ]]）&lt;br /&gt;
* [[三共 (パチンコ)|SANKYO]]（[[ビスティ]]）&lt;br /&gt;
* [[三洋物産]]&lt;br /&gt;
* [[日本回胴式遊技機工業|JSI（日本回胴式遊技機工業）]]&lt;br /&gt;
* [[JPS (パチスロ)|ジェイピーエス]]&lt;br /&gt;
* [[清龍ゲームジャパン]]&lt;br /&gt;
* [[大一商会]]&lt;br /&gt;
* [[大都技研]]&lt;br /&gt;
* [[タイヨー]]&lt;br /&gt;
* [[タイヨーエレック]]&lt;br /&gt;
* [[トリビー]]&lt;br /&gt;
* [[西陣 (企業)|西陣]]&lt;br /&gt;
* [[ネット (パチスロメーカー)|ネット]]&lt;br /&gt;
* [[パイオニア (パチスロ)|パイオニア]]&lt;br /&gt;
* [[バルテック]]&lt;br /&gt;
* [[バンガード (企業)|バンガード]]&lt;br /&gt;
* [[藤興]]&lt;br /&gt;
* [[藤商事]]&lt;br /&gt;
* [[平和 (パチンコ)|平和]]（[[オリンピア (パチスロ)|オリンピア]]）&lt;br /&gt;
* [[ベルコ (パチスロ)|ベルコ]]&lt;br /&gt;
* [[弁慶 (企業)|弁慶]]&lt;br /&gt;
* [[ヤーマ]]&lt;br /&gt;
* [[山佐]]（[[ニイガタ電子精機]]）&lt;br /&gt;
* [[ユニオンマシーナリ]]&lt;br /&gt;
* [[ラスター]]&lt;br /&gt;
* [[リックコーポレーション]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== かつて存在したメーカー ===&lt;br /&gt;
* [[アークテクニコ]]&lt;br /&gt;
* [[クリエイトツーワン]]&lt;br /&gt;
* [[ナコル]]&lt;br /&gt;
* [[パル工業]]&lt;br /&gt;
* [[マックスアライド]]&lt;br /&gt;
* [[マツヤ商会]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 社名変更したメーカー ===&lt;br /&gt;
* エイペックス→[[トリビー]]&lt;br /&gt;
* エーアイ→[[大都技研]]&lt;br /&gt;
* エレクトロコインジャパン（ECJ）→[[アルゼ|エレコ]]&lt;br /&gt;
* 興進産業→テクノコーシン→[[ラスター]]&lt;br /&gt;
* サミー工業→[[サミー]]&lt;br /&gt;
* 尚球社→[[岡崎産業]]&lt;br /&gt;
* 大東音響→[[藤興]]&lt;br /&gt;
* ダイドー→[[ビスティ]]&lt;br /&gt;
* 日活興業→[[ネット (パチスロメーカー)|ネット]]&lt;br /&gt;
* バークレスト→[[ロデオ (企業)|ロデオ]]&lt;br /&gt;
* 瑞穂製作所→[[アルゼ|ミズホ]]&lt;br /&gt;
* メーシー販売→[[アルゼ|メーシー]]&lt;br /&gt;
* ユニバーサル販売→[[アルゼ]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==営業方法==&lt;br /&gt;
等価～6枚交換は無制限営業、7枚交換以下は1回交換が多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[5号機 (パチスロ)|5号機]]時代になって、従来のメダル1枚20円から5円ないし10円に単価を下げた営業もみられるようになった。特徴としては中間設定付近をメインとし、客を長時間座らせることを目的としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連項目==&lt;br /&gt;
*[[パチスロ用語の一覧]]&lt;br /&gt;
*[[4号機までのパチスロ機一覧]]&lt;br /&gt;
*[[5号機以降のパチスロ機一覧]]&lt;br /&gt;
*[[パチンコ・パチスロ情報誌]]&lt;br /&gt;
*[[パチスロのタイアップ機]]&lt;br /&gt;
*[[パチンコ]]&lt;br /&gt;
*[[パロット (パチスロ)]]&lt;br /&gt;
*[[設定判別ツール]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:はちすろ}}&lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ギャンブル]]&lt;br /&gt;
'''リバティーベルIII'''は、[[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]系列が2-2号機として発売した[[パチスロ]]機。0号機として発売された同社のパチスロ機'''リバティーベル'''に由来する。兄弟機の'''リバティーベルIV'''、'''センチュリー21'''についてもこの記事で扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
2号機における「リバティーベル」シリーズは、3種類のバリエーションが発売された。&lt;br /&gt;
*センチュリー21（瑞穂製作所）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIII（メーシー販売）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIV（ユニバーサル販売）&lt;br /&gt;
以上の3機種であるが、当時[[エーアイ]]から発売された「ロックンロール」もほぼ同じ内容（同じセット打法で攻略できた）であった。この特殊な[[ボーナス]]抽選システムや[[リール]]制御は、「[[メーカー]]の仕込みネタである。」と噂されていたが、後発の「[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]シリーズ」疑惑で限りなく黒に近いものとされた。この無理な抽選システムが機種の寿命を縮め、[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]でも同じ失敗をすることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のアルゼの機種の基本形とも言える、大きな洗練されたデザインの「7」の絵柄、テンパイ音等の特徴的なアイデアが存在した。又、ボーナス絵柄が「7・7・7」でビッグボーナス、「7・7・ピエロ」でレギュラーボーナスと、右リールを停止するまで、どちらか分からないというアイデアもこのシリーズから。これらの「大きな絵柄」、「テンパイ音」、「BR共通のテンパイ形」は後の[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]において「BAR・BAR・7」でビッグボーナスという発想など、ゲーム性を引き継いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== リーチ目 ==&lt;br /&gt;
リーチ目は左リールが「7」で停止し、15枚小役の絵柄を、中リールにて否定する形の「7」テンパイというもので、中段テンパイ、右上がりテンパイは2確リーチ目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連商品 ==&lt;br /&gt;
*『パチスロ・サウンド・コレクション』（[[キングレコード]]、[[1992年]]1月16日、KICA-1052）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略2ユニバーサル・コレクション』（[[アスク講談社]]、[[1995年]]7月21日、[[スーパーファミコン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略 ユニバーサル・ミュージアム』（アスク講談社、[[1996年]]6月14日、[[セガサターン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りはていへる}}&lt;br /&gt;
{{Pachi-stub}} &lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ機種]]&lt;br /&gt;
[[Category:売国奴]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E9%A2%A8%E4%BF%97%E5%96%B6%E6%A5%AD%E7%AD%89%E3%81%AE%E8%A6%8F%E5%88%B6%E5%8F%8A%E3%81%B3%E6%A5%AD%E5%8B%99%E3%81%AE%E9%81%A9%E6%AD%A3%E5%8C%96%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B&amp;diff=220456</id>
		<title>風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律</title>
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				<updated>2014-02-12T15:54:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律'''は、[[日本]]の[[法律]]。略称は'''風営法'''（ふうえいほう）、'''風適法'''（ふうてきほう）、'''風俗営業法'''（ふうぞくえいぎょうほう）など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
* [[1948年]] 「風俗営業取締法」として制定&lt;br /&gt;
* [[1959年]][[4月1日]] 「風俗営業等取締法」に題名改正&lt;br /&gt;
* [[1984年]][[8月14日]] 大幅改正（[[1985年]][[2月13日]]施行）&lt;br /&gt;
*: 題名を「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」に改正。営業時間は午前0時まで、のぞき部屋、ファッションマッサージなども届出対象となる。この影響で[[ノーパン喫茶]]が姿を消す。&lt;br /&gt;
* [[1998年]]5月 大幅改正（一部の規定を除き[[1999年]]4月施行）&lt;br /&gt;
*: 出張マッサージなど無店舗型の営業や、インターネットでのアダルト映像送信営業が届出対象となる。&lt;br /&gt;
* [[2005年]]11月 大幅改正（一部の規定を除き[[2006年]][[5月1日]]施行）&lt;br /&gt;
** 罰則強化&lt;br /&gt;
** [[公安委員会]]に営業届を行い、届出確認書を店に備え、客や警察など関係者から提示を求められたら直ちにそれを提示しなければならない&lt;br /&gt;
** 営業に関し客引きをすること、そのために人の前に立ちふさがる・つきまとうなどの行為も禁止&lt;br /&gt;
** 派遣型[[ファッションヘルス]]（[[デリバリーヘルス|デリヘル]]）に関しては、'''受付所は店舗'''とみなされ、住所などの届出が必要とされ、営業禁止区域内にある施設は摘発対象となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
風俗営業に関する営業時間（営業開始時刻 - 午前0時または1時まで。ただし午前0時または1時 - 日の出までの深夜時間は[[都道府県]]により異なる）における酒類提供飲食店営業の許可を受けた店を除く。営業場所（[[住宅地]]や[[学校]]、[[病院]]）付近の営業を制限し、青少年（18歳未満）の立ち入りを規制することにより、風俗業務の適正化を図ることを目的としている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、一部業種（例として、8号営業）において、1984年の新法制定時に「対象設備の概念が不明確であり、犯罪構成要件を規則等に委ねているため、罪刑法定主義に反し、違憲立法である」という批判があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、営業時間および営業区域は各[[都道府県]]の条例で定められることになっており、地域によっては祭礼等で営業時間の延長が認められている。例として、[[石川県]]の[[パチンコ店]]は[[4月]]から[[5月]]にかけての[[ゴールデンウィーク]]、[[6月]]の[[金沢百万石まつり]]の期間中（[[金沢市]]内に限る）、[[8月]]の[[お盆#お盆休み|旧盆]]、[[12月21日]]から[[1月10日]]は午前1時までの営業が認められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この法律の第40条が定める全国風俗環境浄化協会とは、[[全国防犯協会連合会]]のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この法律は性風俗関連特殊営業の範疇を「'''異性'''を相手にした性的サービスを行う店」という前提で成立しているため、同性相手の性的サービスを行う店は対象に含まれず、戸籍上の性別が男性である[[ニューハーフ]]が男性客を取る場合、取締対象とならない場合がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 対象 ==&lt;br /&gt;
=== 風俗営業 ===&lt;br /&gt;
店舗所在地の各都道府県公安委員会の許可を受け営業。&lt;br /&gt;
* [[接待]]飲食等営業&lt;br /&gt;
** 1号営業 - 営業フロアの床面積が66㎡以上かつダンス等をするためのスペースを備え、客を接待して飲食させる営業。（[[キャバレー (接待飲食店) |キャバレー]]）&lt;br /&gt;
** 2号営業 - 営業フロアの床面積が66㎡未満で客を接待して飲食させる営業。（料理店・社交飲食店（[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]]・[[ホストクラブ]]、[[キャバクラ]]など））&lt;br /&gt;
** 3号営業 - [[ダンス]]飲食店&lt;br /&gt;
** 4号営業 - [[ダンスホール]]など&lt;br /&gt;
*** 当初は社交ダンス教室も規制対象となっていたが、映画『[[Shall we ダンス?]]』に始まる[[社交ダンス]]の流行とともに愛好者や関連団体の努力があり、[[1998年]]に規制除外となった。&lt;br /&gt;
** 5号営業 - 低照度飲食店（10[[ルクス]]以下の暗い喫茶店・[[バー (酒場)|バー]]。接待はできない。）&lt;br /&gt;
** 6号営業 - 区画席飲食店（[[カップル喫茶]]）&lt;br /&gt;
*** 2005年10月27日の[[参議院]][[内閣委員会]]における[[黒岩宇洋]]の質問によれば、許可を受けている5号営業は17店、6号営業は6店である。&lt;br /&gt;
* その他（[[遊技場]]営業）&lt;br /&gt;
** 7号営業 - [[麻雀|マージャン]]店（[[雀荘]]）・[[パチンコ]]店など&lt;br /&gt;
** 8号営業 - [[ゲームセンター]]など&lt;br /&gt;
*** 「7号営業」と「8号営業」の違いは、「7号営業」が「設備を設けて客に射幸心をそそる恐れのある遊技をさせる営業（遊技方法自体が射幸心をそそる恐れがあるもの）」、「8号営業」は 「遊技設備で本来の用途以外の用途として射幸心をそそる恐れのある遊技に用いることができるもの（遊技方法は射幸心をそそるつもりはないが、遊技設備が本来の用途と別に射幸心をそそる可能性があるもの）」とされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 性風俗関連特殊営業 ===&lt;br /&gt;
営業する各都道府県公安委員会に[[届出制|届出]]をして営業。&lt;br /&gt;
* 店舗型性風俗特殊営業&lt;br /&gt;
** 1号営業 - [[ソープランド]]&lt;br /&gt;
** 2号営業 - 店舗型[[ファッションヘルス]]など&lt;br /&gt;
** 3号営業 - [[ストリップティーズ|ストリップ]]劇場・[[ポルノ映画]]館など&lt;br /&gt;
** 4号営業 - [[ラブホテル]]&lt;br /&gt;
** 5号営業 - [[アダルトショップ]]など&lt;br /&gt;
** 6号営業 - 政令で定める（2011年1月1日から[[出会い喫茶]]が指定された）&lt;br /&gt;
* 無店舗型性風俗特殊営業&lt;br /&gt;
** 1号営業 - [[デリバリーヘルス|派遣型ファッションヘルス]]&lt;br /&gt;
** 2号営業 - [[アダルトビデオ]]など[[通信販売]]営業&lt;br /&gt;
* 映像送信型性風俗特殊営業（[[インターネット]]を利用した画像配信など、風俗店を紹介する風俗情報サイトもこれに含まれる場合がある）&lt;br /&gt;
* 店舗型電話異性紹介営業（[[テレフォンクラブ]]など）&lt;br /&gt;
* 無店舗型電話異性紹介営業（携帯電話を利用した[[テレフォンクラブ]]など）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 深夜（午前0時 - 日の出）における酒類提供飲食店営業 ===&lt;br /&gt;
営業する場合は各都道府県公安委員会に[[届出制|届出]]をして営業。&lt;br /&gt;
午前0時から日の出まで酒類を提供できない業種は本法33条で規定されており、本法33条に該当する店舗は深夜における酒類提供飲食店営業を行うための届出ができない。風俗営業に該当する業種が多く該当している。また、[[ファミリーレストラン]]が午後10時以降保護者同伴のない18歳未満の青少年の入店を禁止しているのは、本法32条（都道府県によっては[[青少年保護条例]]も）の規制のためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 許可と届出 ==&lt;br /&gt;
上記の「風俗営業」を行う場合には店舗所在地の都道府県の[[公安委員会]]に[[許可]]申請を行い、許可を受けることを要する。「性風俗関連特殊営業」および「深夜における酒類提供飲食店営業」を行う場合は許可ではなく公安委員会への[[届出制|届出]]を要する。法律の改正時に性風俗関連特殊営業を許可制にするかどうか議論されたが、性風俗を公安委員会が「許可」するのは適当でないことや、実態として性的なサービスを行っているかどうかを把握するにはまずは届出制にすることが妥当とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[風俗店]]&lt;br /&gt;
* [[風俗営業]]&lt;br /&gt;
* [[風俗街]]&lt;br /&gt;
* [[売春防止法]]&lt;br /&gt;
* [[日の出営業]]&lt;br /&gt;
* [[性風俗産業に対する差別]]&lt;br /&gt;
* [[セックスワーカー]]&lt;br /&gt;
* [[Hoo! Ei! Ho!]]&lt;br /&gt;
* [[ライブハウス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO122.html 風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律] - 総務省法令データ提供システム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふうそくえいきようとうのきせい}}&lt;br /&gt;
[[Category:日本の法律]]&lt;br /&gt;
[[Category:風俗営業|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:性風俗関連特殊営業|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:1948年の法]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の行政規制法]]&lt;br /&gt;
[[Caregory:売国奴]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC21&amp;diff=220455</id>
		<title>センチュリー21</title>
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				<updated>2014-02-12T15:53:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''リバティーベルIII'''は、[[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]系列が2-2号機として発売した[[パチスロ]]機。0号機として発売された同社のパチスロ機'''リバティーベル'''に由来する。兄弟機の'''リバティーベルIV'''、'''センチュリー21'''についてもこの記事で扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
2号機における「リバティーベル」シリーズは、3種類のバリエーションが発売された。&lt;br /&gt;
*センチュリー21（瑞穂製作所）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIII（メーシー販売）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIV（ユニバーサル販売）&lt;br /&gt;
以上の3機種であるが、当時[[エーアイ]]から発売された「ロックンロール」もほぼ同じ内容（同じセット打法で攻略できた）であった。この特殊な[[ボーナス]]抽選システムや[[リール]]制御は、「[[メーカー]]の仕込みネタである。」と噂されていたが、後発の「[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]シリーズ」疑惑で限りなく黒に近いものとされた。この無理な抽選システムが機種の寿命を縮め、[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]でも同じ失敗をすることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のアルゼの機種の基本形とも言える、大きな洗練されたデザインの「7」の絵柄、テンパイ音等の特徴的なアイデアが存在した。又、ボーナス絵柄が「7・7・7」でビッグボーナス、「7・7・ピエロ」でレギュラーボーナスと、右リールを停止するまで、どちらか分からないというアイデアもこのシリーズから。これらの「大きな絵柄」、「テンパイ音」、「BR共通のテンパイ形」は後の[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]において「BAR・BAR・7」でビッグボーナスという発想など、ゲーム性を引き継いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== リーチ目 ==&lt;br /&gt;
リーチ目は左リールが「7」で停止し、15枚小役の絵柄を、中リールにて否定する形の「7」テンパイというもので、中段テンパイ、右上がりテンパイは3確リーチ目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連商品 ==&lt;br /&gt;
*『パチスロ・サウンド・コレクション』（[[キングレコード]]、[[1992年]]1月16日、KICA-1052）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略2ユニバーサル・コレクション』（[[アスク講談社]]、[[1995年]]7月21日、[[スーパーファミコン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略 ユニバーサル・ミュージアム』（アスク講談社、[[1996年]]6月14日、[[セガサターン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りはていへる}}&lt;br /&gt;
{{Pachi-stub}} &lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ機種]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユニバーサルエンターテインメントのパチスロ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>センチュリー21</title>
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				<updated>2014-02-12T15:53:22Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''リバティーベルIII'''は、[[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]系列が2-2号機として発売した[[パチスロ]]機。0号機として発売された同社のパチスロ機'''リバティーベル'''に由来する。兄弟機の'''リバティーベルIV'''、'''センチュリー21'''についてもこの記事で扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
2号機における「リバティーベル」シリーズは、3種類のバリエーションが発売された。&lt;br /&gt;
*センチュリー21（瑞穂製作所）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIII（メーシー販売）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIV（ユニバーサル販売）&lt;br /&gt;
以上の3機種であるが、当時[[エーアイ]]から発売された「ロックンロール」もほぼ同じ内容（同じセット打法で攻略できた）であった。この特殊な[[ボーナス]]抽選システムや[[リール]]制御は、「[[メーカー]]の仕込みネタである。」と噂されていたが、後発の「[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]シリーズ」疑惑で限りなく黒に近いものとされた。この無理な抽選システムが機種の寿命を縮め、[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]でも同じ失敗をすることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のアルゼの機種の基本形とも言える、大きな洗練されたデザインの「7」の絵柄、テンパイ音等の特徴的なアイデアが存在した。又、ボーナス絵柄が「7・7・7」でビッグボーナス、「7・7・ピエロ」でレギュラーボーナスと、右リールを停止するまで、どちらか分からないというアイデアもこのシリーズから。これらの「大きな絵柄」、「テンパイ音」、「BR共通のテンパイ形」は後の[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]において「BAR・BAR・7」でビッグボーナスという発想など、ゲーム性を引き継いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== リーチ目 ==&lt;br /&gt;
リーチ目は左リールが「7」で停止し、15枚小役の絵柄を、中リールにて否定する形の「7」テンパイというもので、中段テンパイ、右上がりテンパイは2確リーチ目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連商品 ==&lt;br /&gt;
*『パチスロ・サウンド・コレクション』（[[キングレコード]]、[[1992年]]1月16日、KICA-1052）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略2ユニバーサル・コレクション』（[[アスク講談社]]、[[1995年]]7月21日、[[スーパーファミコン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略 ユニバーサル・ミュージアム』（アスク講談社、[[1996年]]6月14日、[[セガサターン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りはていへる}}&lt;br /&gt;
{{Pachi-stub}} &lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ機種]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユニバーサルエンターテインメントのパチスロ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC21&amp;diff=220453</id>
		<title>センチュリー21</title>
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				<updated>2014-02-12T15:53:15Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''リバティーベルIII'''は、[[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]系列が2-2号機として発売した[[パチスロ]]機。0号機として発売された同社のパチスロ機'''リバティーベル'''に由来する。兄弟機の'''リバティーベルIV'''、'''センチュリー21'''についてもこの記事で扱う.&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
2号機における「リバティーベル」シリーズは、3種類のバリエーションが発売された。&lt;br /&gt;
*センチュリー21（瑞穂製作所）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIII（メーシー販売）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIV（ユニバーサル販売）&lt;br /&gt;
以上の3機種であるが、当時[[エーアイ]]から発売された「ロックンロール」もほぼ同じ内容（同じセット打法で攻略できた）であった。この特殊な[[ボーナス]]抽選システムや[[リール]]制御は、「[[メーカー]]の仕込みネタである。」と噂されていたが、後発の「[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]シリーズ」疑惑で限りなく黒に近いものとされた。この無理な抽選システムが機種の寿命を縮め、[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]でも同じ失敗をすることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のアルゼの機種の基本形とも言える、大きな洗練されたデザインの「7」の絵柄、テンパイ音等の特徴的なアイデアが存在した。又、ボーナス絵柄が「7・7・7」でビッグボーナス、「7・7・ピエロ」でレギュラーボーナスと、右リールを停止するまで、どちらか分からないというアイデアもこのシリーズから。これらの「大きな絵柄」、「テンパイ音」、「BR共通のテンパイ形」は後の[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]において「BAR・BAR・7」でビッグボーナスという発想など、ゲーム性を引き継いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== リーチ目 ==&lt;br /&gt;
リーチ目は左リールが「7」で停止し、15枚小役の絵柄を、中リールにて否定する形の「7」テンパイというもので、中段テンパイ、右上がりテンパイは2確リーチ目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連商品 ==&lt;br /&gt;
*『パチスロ・サウンド・コレクション』（[[キングレコード]]、[[1992年]]1月16日、KICA-1052）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略2ユニバーサル・コレクション』（[[アスク講談社]]、[[1995年]]7月21日、[[スーパーファミコン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略 ユニバーサル・ミュージアム』（アスク講談社、[[1996年]]6月14日、[[セガサターン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りはていへる}}&lt;br /&gt;
{{Pachi-stub}} &lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ機種]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユニバーサルエンターテインメントのパチスロ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC21&amp;diff=220452</id>
		<title>センチュリー21</title>
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				<updated>2014-02-12T15:52:43Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「'''リバティーベルIII'''は、ユニバーサル販売系列が2-2号機として発売したパチスロ機...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''リバティーベルIII'''は、[[ユニバーサルエンターテインメント|ユニバーサル販売]]系列が2-2号機として発売した[[パチスロ]]機。0号機として発売された同社のパチスロ機'''リバティーベル'''に由来する。兄弟機の'''リバティーベルIV'''、'''センチュリー21'''についてもこの記事で扱う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
2号機における「リバティーベル」シリーズは、3種類のバリエーションが発売された。&lt;br /&gt;
*センチュリー21（瑞穂製作所）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIII（メーシー販売）&lt;br /&gt;
*リバティーベルIV（ユニバーサル販売）&lt;br /&gt;
以上の3機種であるが、当時[[エーアイ]]から発売された「ロックンロール」もほぼ同じ内容（同じセット打法で攻略できた）であった。この特殊な[[ボーナス]]抽選システムや[[リール]]制御は、「[[メーカー]]の仕込みネタである。」と噂されていたが、後発の「[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]シリーズ」疑惑で限りなく黒に近いものとされた。この無理な抽選システムが機種の寿命を縮め、[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]でも同じ失敗をすることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在のアルゼの機種の基本形とも言える、大きな洗練されたデザインの「7」の絵柄、テンパイ音等の特徴的なアイデアが存在した。又、ボーナス絵柄が「7・7・7」でビッグボーナス、「7・7・ピエロ」でレギュラーボーナスと、右リールを停止するまで、どちらか分からないというアイデアもこのシリーズから。これらの「大きな絵柄」、「テンパイ音」、「BR共通のテンパイ形」は後の[[コンチネンタル (パチスロ)|コンチネンタル]]において「BAR・BAR・7」でビッグボーナスという発想など、ゲーム性を引き継いでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== リーチ目 ==&lt;br /&gt;
リーチ目は左リールが「7」で停止し、15枚小役の絵柄を、中リールにて否定する形の「7」テンパイというもので、中段テンパイ、右上がりテンパイは2確リーチ目である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連商品 ==&lt;br /&gt;
*『パチスロ・サウンド・コレクション』（[[キングレコード]]、[[1992年]]1月16日、KICA-1052）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略2ユニバーサル・コレクション』（[[アスク講談社]]、[[1995年]]7月21日、[[スーパーファミコン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
*『ビッグ一撃!パチスロ大攻略 ユニバーサル・ミュージアム』（アスク講談社、[[1996年]]6月14日、[[セガサターン]]用ゲームソフト）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:りはていへる}}&lt;br /&gt;
{{Pachi-stub}} &lt;br /&gt;
[[Category:パチスロ機種]]&lt;br /&gt;
[[Category:ユニバーサルエンターテインメントのパチスロ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%88%90%E7%94%B0%E3%83%9F%E3%82%A4%E3%83%A9%E5%8C%96%E9%81%BA%E4%BD%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6&amp;diff=220450</id>
		<title>成田ミイラ化遺体事件</title>
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				<updated>2014-02-12T15:50:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{最高裁判例 |事件名=殺人被告事件 |事件番号=平成15(あ)1468  |裁判年月日=2005年(平成17年)7月4日 |判例集=刑集第59巻6号403頁  |裁判...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{最高裁判例&lt;br /&gt;
|事件名=殺人被告事件&lt;br /&gt;
|事件番号=平成15(あ)1468 &lt;br /&gt;
|裁判年月日=2005年(平成17年)7月4日&lt;br /&gt;
|判例集=刑集第59巻6号403頁 &lt;br /&gt;
|裁判要旨=脳内出血による意識障害に陥った重篤な患者に対して、患者の親族からの「シャクティ治療」の依頼を受けた者が、主治医らの警告を無視した上で入院中の患者を運び出し、未必の故意による殺意をもって、患者の生命維持に必要とされる医療措置を何ら施さずに放置し、死亡させた事案において、不作為の殺人罪が成立するとした事例。&lt;br /&gt;
 |法廷名=第二小法廷&lt;br /&gt;
|裁判長=[[中川了滋]]&lt;br /&gt;
|陪席裁判官=[[福田博]]、[[滝井繁男]]、[[津野修]]、[[今井功 (裁判官)|今井功]]&lt;br /&gt;
|多数意見=全員一致&lt;br /&gt;
|意見=なし&lt;br /&gt;
|反対意見=なし&lt;br /&gt;
|参照法条=刑法199条&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''成田ミイラ化遺体事件'''（なりたミイラかいたいじけん）は、[[1999年]]（[[平成]]11年）[[11月11日]]、[[千葉県]][[成田市]]のマロウド・インターナショナル・ホテルで発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[遺棄罪|保護責任者遺棄致死]]事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
かねて[[ライフスペース]]の主催者は、頭部を手で軽く叩く「シャクティパット」と呼ぶ方法で病気を癒すことができると喧伝していた。これを信じた男性が、高齢の家族を病院から連れ出し、成田市のマロウド・インターナショナル・ホテルで主催者によるこの治療法を試みた。この家族はそのまま死亡したが、主催者はこの家族はまだ生きていると主張し、男性をはじめとした周囲もこれを信じた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1999年11月11日、マロウド・インターナショナル・ホテルから「4ヶ月以上も宿泊している不審な客がいる」と通報を受けた[[成田警察署]]署員が、ホテルの部屋を捜索して[[ミイラ]]化した遺体を発見した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件の異常さや、主催者が記者会見で「定説」として「（被害者は）[[司法解剖]]されるまで生きていた」などと主張したことから、[[ワイドショー]]などで大きく報道された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[2000年]]に主催者と男性を含む11名が保護責任者遺棄致死で逮捕され、主催者が殺人で、男性が保護責任者遺棄致死で[[起訴]]された（残りの9名は[[起訴猶予]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 裁判の経過 ==&lt;br /&gt;
裁判でライフスペース側は無罪を主張して争ったが、男性は[[2001年]][[9月28日]]に懲役2年6月・執行猶予3年の判決で確定。主催者は、裁判でも「定説」を訴えて争ったが、1審で懲役15年、2審では不作為犯と認定され懲役7年の判決を受けた。主催者は上告したが、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は[[2005年]][[7月4日]]に上告を棄却し、懲役7年の判決が確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記者会見 ==&lt;br /&gt;
事件を受けて記者会見が開かれたが、ここでの主催者の発言があまりにも滑稽なので、人が1人亡くなっている中で不謹慎ながら記者が爆笑するような内容となった。&amp;lt;br&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会見での主催者の主張は次のとおり。&lt;br /&gt;
*警察がホテルに家宅捜索に入った時点では被害者は生きていたと断言できる。&lt;br /&gt;
*被害者の死因は司法解剖をしたことが原因である。&lt;br /&gt;
*自分の体内には血液は巡っておらず、空気が循環している。&lt;br /&gt;
*6000年前から自分は[[サイババ]]と関係していた。&lt;br /&gt;
*10歳は成人である。&lt;br /&gt;
*以前は税理士だった事を問われるや「過去世です」と発言。&lt;br /&gt;
*事件に対する報道が激化し自己の責任を強く問われた際、「はっきり言って私はサイババとは何の関係もないんですよ」と6000年前から関係している筈なのに矛盾に満ちた発言をしたため、集まっていた記者らがここで爆笑。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 裁判後 ==&lt;br /&gt;
2011年12月、ライフスペース関係者は「千葉成田ミイラ事件①の再審支援の会」を発足させ、再審請求へ向けた活動（毎週都内で、シンポジウム＆ライブの夕べを開催）をしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2012年1月、「千葉成田ミイラ事件①の再審支援の会」は、本件事件のきっかけを紀藤正樹弁護士の発言やリークが作り出していると主張して懲戒請求を申し立てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ライフスペース]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:なりたみいらかいたいしけん}}&lt;br /&gt;
[[Category:成田市の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:1999年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:カルト事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の判例]]&lt;br /&gt;
{{Crime-stub}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9A%AE%E9%87%8C&amp;diff=220448</id>
		<title>西日暮里</title>
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				<updated>2014-02-12T15:47:27Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Otheruseslist|町名としての「西日暮里」|JR東日本・東京メトロ・東京都交通局の駅|西日暮里駅}} {{Pathnav|日本|東京都|荒川区|frame=...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruseslist|町名としての「西日暮里」|JR東日本・東京メトロ・東京都交通局の駅|西日暮里駅}}&lt;br /&gt;
{{Pathnav|日本|東京都|荒川区|frame=1}}&lt;br /&gt;
{{Infobox Settlement&lt;br /&gt;
|official_name =  西日暮里&lt;br /&gt;
|native_name = &lt;br /&gt;
|image_skyline = Nishi-Nippori Station.jpg&lt;br /&gt;
|imagesize = 240px&lt;br /&gt;
|image_caption = 西日暮里駅と道灌山通り（西日暮里五丁目）&lt;br /&gt;
|image_flag = &lt;br /&gt;
|image_seal = &lt;br /&gt;
| image_map = 荒川区西日暮里位置図.png&lt;br /&gt;
| map_caption = [[荒川区]]における西日暮里の位置。&lt;br /&gt;
|subdivision_type = [[国の一覧|国]]&lt;br /&gt;
|subdivision_type1 = [[都道府県]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name = [[ファイル:Flag of Japan.svg|border|25px]] [[日本]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name1 = [[東京都]]&lt;br /&gt;
|subdivision_type2 = [[東京都特別区|特別区]]&lt;br /&gt;
|subdivision_name2 = [[荒川区]]&lt;br /&gt;
|established_title = &lt;br /&gt;
|established_date =&lt;br /&gt;
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|leader_title = &lt;br /&gt;
|leader_name = &lt;br /&gt;
|area_magnitude = &lt;br /&gt;
|area_total_sq_mi =&lt;br /&gt;
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|area_land_sq_mi =&lt;br /&gt;
|area_land_km2 = &lt;br /&gt;
|area_urban_sq_mi = &lt;br /&gt;
|area_urban_km2 = &lt;br /&gt;
|area_metro_km2 = &lt;br /&gt;
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|population_as_of= [[2004年]]（平成16年）2月現在&lt;br /&gt;
|population_footnotes = &lt;br /&gt;
|population_total = 16919&lt;br /&gt;
|population_urban = &lt;br /&gt;
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|population_density_sq_mi = &lt;br /&gt;
|population_density_km2 =&lt;br /&gt;
| timezone = [[日本標準時|JST]]&lt;br /&gt;
| utc_offset = +9&lt;br /&gt;
|timezone_DST =&lt;br /&gt;
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|elevation_m = &lt;br /&gt;
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|postal_code_type = [[郵便番号]]&lt;br /&gt;
|postal_code = 116-0013　&lt;br /&gt;
|area_code = 03&lt;br /&gt;
|registration_plate = 足立&lt;br /&gt;
|website = &lt;br /&gt;
|footnotes =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''西日暮里'''（にしにっぽり）は、[[東京都]][[荒川区]]の[[町丁|町名]]。[[住居表示]]実施済み区域。現行行政地名は西日暮里一丁目から西日暮里六丁目。[[2004年]][[平成]]16年）2月現在の世帯数は8,758、総人口は16,919人。[[郵便番号]]は116-0013。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 地理 ==&lt;br /&gt;
荒川区南西部に位置し、[[下町]]的界隈が広がる町である。町域の北を[[東尾久]]、[[荒川 (荒川区)|荒川]]および[[北区 (東京都)|北区]]と、東を荒川と、南を東日暮里および[[台東区]]と、西を[[文京区]]と接する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町域を東西に分断する形で[[京浜東北線]]（[[山手線]]）の路線が南北に縦貫しており、その以東と以西で若干町並みが異なる。路線以東には主要幹線道路に加え、鉄道では貨物鉄道線、地区南端の[[日暮里駅]]からは[[京成本線]]や[[常磐線]]、さらに[[日暮里・舎人ライナー]]などの路線が縦横に走り回っている。このため、これらの鉄道路線を潜るか跨ぐかしない限り、町域の端から反対側へ移動することはできないほどの鉄道過密地帯であり、幹線道路以外の道はどれも狭く曲がりくねっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以西は南北に西日暮里三丁目・四丁目の町が、山の手台地に登る傾斜地に広がる。南側の西日暮里三丁目は町域の大半は寺社が占め、北側の西日暮里四丁目は[[学校法人開成学園|開成学園]]（中学校・高等学校）が所在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===日暮里富士見坂===&lt;br /&gt;
日暮里富士見坂は、西日暮里3丁目に所在する坂であり、東京に多くある[[富士見坂]]のひとつである。[[日暮里駅]]の[[谷中 (台東区)|谷中]]側に位置し、実際には東京都内において「歩行者が坂に立った状態で実際に富士山が望める」最後の富士見坂となっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;sakawo-mamoru&amp;quot;&amp;gt;[http://www1.ttcn.ne.jp/~fujimizaka-hozen/shinnookubo/leaflet2.pdf 風景遺産の継承を] 日暮里富士見坂のリーフレット 日暮里富士見坂を守る会 平成23年11月10日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日暮里富士見坂は、良好な[[富士山]]眺望の得られる地点として[[国土交通省]]が[[2005年]]（[[平成]]17年）に選定した「[[関東の富士見百景]]（128景）」において、東京都内で7ヶ所選定された「[[東京富士見坂]]」にも含まれている。また、この坂からは毎年1月30日頃と11月11日頃、[[ダイヤモンド富士]]が観察できることでも知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、[[住友不動産]]が新宿区[[大久保 (新宿区)|大久保]]3丁目で地上45階建て、高さ160メートルの[[タワーマンション]]など三棟の[[超高層ビル]]の建設を計画しており、これらの大型建築物が計画通りに建設された場合、[[2013年]]（[[平成]]25年）の完成時には日暮里富士見坂からの富士山の[[景観]]が大部分損なわれることが判明している&amp;lt;ref name=&amp;quot;sakawo-mamoru&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;tokyo231222&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;newspapers&amp;quot;&amp;gt;都心の富士見坂全滅　『東京新聞』　平成23年10月21日、都心から消えゆく「富士見坂」　『朝日新聞』　平成23年11月9日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[住友不動産]]によるこの大型建築では[[明治神宮外苑]]・[[聖徳記念絵画館]]の景観も損なわれることが懸念されており、計画通りの建設に対しては反対運動も起こっている&amp;lt;ref name=&amp;quot;tokyo231222&amp;quot;&amp;gt;[http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011122202000048.html 「日暮里富士見坂」損なうビル計画　神宮外苑絵画館　景観にも影響] 『東京新聞』　平成23年12月22日朝刊掲載&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;sakawo-mamoru&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通 ==&lt;br /&gt;
=== 鉄道 ===&lt;br /&gt;
; [[東日本旅客鉄道]]&lt;br /&gt;
* [[山手線]]・[[京浜東北線]]：[[西日暮里駅]]、[[日暮里駅]]&lt;br /&gt;
* [[常磐線]]：日暮里駅、[[三河島駅]]&lt;br /&gt;
; [[京成電鉄]]&lt;br /&gt;
* [[京成本線]]：[[新三河島駅]]、日暮里駅&lt;br /&gt;
; [[東京地下鉄|東京メトロ]]&lt;br /&gt;
* [[東京メトロ千代田線|千代田線]]：西日暮里駅&lt;br /&gt;
; [[東京都交通局]]&lt;br /&gt;
* [[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]：西日暮里駅、日暮里駅&lt;br /&gt;
=== バス ===&lt;br /&gt;
{{節stub}}&lt;br /&gt;
=== 道路 ===&lt;br /&gt;
* [[東京都道・埼玉県道58号台東川口線|東京都道58号台東川口線]]（尾久橋通り）&lt;br /&gt;
* [[東京都道306号王子千住南砂町線]]（[[明治通り (東京都)|明治通り]]）&lt;br /&gt;
* [[東京都道313号上野尾竹橋線]]（[[尾竹橋通り]]）&lt;br /&gt;
* [[東京都道457号駒込宮地線]]（道灌山通り）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
* [[荒川税務署]]&lt;br /&gt;
* [[開成中学校・高等学校]]&lt;br /&gt;
* [[荒川区立第六日暮里中学校]]&lt;br /&gt;
* [[荒川区立第一日暮里小学校]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日暮里]]&lt;br /&gt;
* [[東日暮里]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.city.arakawa.tokyo.jp/ 荒川区公式ホームページ]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{荒川区の町名}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:にしにつほり}}&lt;br /&gt;
[[Category:日暮里|*にし]]&lt;br /&gt;
[[Category:荒川区の町名]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%8D%97%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89&amp;diff=220447</id>
		<title>南トンスルランド</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%8D%97%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89&amp;diff=220447"/>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: 大韓民国へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[大韓民国]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

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		<title>金正男</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{otheruses|北朝鮮の人物|韓国のサッカー選手|金正男 (サッカー選手)|アニメーター|金正男 (アニメーター)}} {{正確性|date=2006年6月}...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{otheruses|北朝鮮の人物|韓国のサッカー選手|金正男 (サッカー選手)|アニメーター|金正男 (アニメーター)}}&lt;br /&gt;
{{正確性|date=2006年6月}}&lt;br /&gt;
{{北朝鮮の事物&lt;br /&gt;
|title=金正男&lt;br /&gt;
|hangeul=김정남&lt;br /&gt;
|hanja=金正男&lt;br /&gt;
|hiragana=[[漢音|漢]]: きん せいだん&amp;lt;br /&amp;gt;[[呉音|呉]]: きん しょうなん&lt;br /&gt;
|katakana=キム・ジョンナム&lt;br /&gt;
|latin=Kim Chŏng-nam&lt;br /&gt;
|alphabet-type=[[英語]]表記&lt;br /&gt;
|alphabet=Kim Jong-nam&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''金 正男'''（キム・ジョンナム、[[1971年]][[5月10日]] - ）は、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の第二代最高指導者[[金正日]]の[[長男]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==プロフィール==&lt;br /&gt;
===出生===&lt;br /&gt;
金正日を父に、[[成恵琳]]を母に北朝鮮の[[平壌]]で生まれる。出生当初、父・正日は息子の存在を外部に知られないようにしていた。また、正男のことを[[金日成]]主席は、かなり可愛がっていたという。[[スイス]]の[[ジュネーヴ]]の[[インターナショナルスクール]]などに[[留学]]歴があると言われている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.pyongyangology.com/index.php?option=com_content&amp;amp;task=view&amp;amp;id=24&amp;amp;Itemid=2 金正日・金正男、愛憎の父子関係 ]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;が詳細は不明。なお、12歳から14歳までは[[ソビエト連邦]]の[[モスクワ]]で暮らしていたという&amp;lt;ref name=rosiannews&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2012/02/17/0200000000AJP20120217001000882.HTML&lt;br /&gt;
|title = 金正男氏　送金中断でホテル代にも困窮＝露週刊誌&lt;br /&gt;
|date = 2012-02-17&lt;br /&gt;
|work = 聯合ニュース&lt;br /&gt;
|publisher = yonhapnews&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年4月26日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
母国語の[[朝鮮語]]の他に[[英語]]や[[フランス語]]（それぞれ[[2007年]][[2月12日]]と[[2007年]][[11月13日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の夕方のニュースで記者とのやり取りが報道された）を話し、また[[ロシア語]]、[[中国語]]（[[広東語]]）もある程度話せるようである。[[日本語]]については、日本人記者の「日本語は分かりますか？」という朝鮮語の質問に、日本語で「日本語ワカリマセン」と答えたことが、ネット掲示板等で話題になった&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20111225/zsp1112251000000-n1.htm&lt;br /&gt;
|title = 金総書記急死で“長男・金正男待望論”再燃か！&lt;br /&gt;
|date = 2011-12-25&lt;br /&gt;
|work = zakzak&lt;br /&gt;
|publisher = 産経デジタル&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年1月11日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 現在の職務と生活 ===&lt;br /&gt;
現職はコンピュータ委員会委員長&amp;lt;ref&amp;gt;[http://news.pyongyangology.com/archives/2001/04/it_11.html 金正日の長男がIT政策の最高責任者]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;、 &amp;lt;!--[[朝鮮人民軍]]保衛局長、中将説もあるが確認されていない。--&amp;gt;ソフト産業の振興発展、光ファイバー情報ネットワーク「光明」の構築などを指導したといわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://news.pyongyangology.com/archives/2001/07/post_1487.html 北、内部コンピューター網のホームページを初めて公開]North Korea Today&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[2007年]][[8月27日]]に[[大韓民国]]の「[[朝鮮日報]]」は、金正男が2007年6月帰国し、以前父親の金正日が所属していた組織指導部に所属していると報道した。ただこれに関しては、金正男は[[平壌]]に年に数回来ることはあるが、平壌で暮らしてはいないとする情報もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]][[1月30日]]に在[[香港]]の複数の情報筋が、金正男と思われる男が、[[中華人民共和国]]の[[特別行政区]]である[[マカオ]]入りしたことを明らかにした。[[アメリカ]]の北朝鮮に対する金融制裁により、マカオの金融機関「[[匯業銀行|バンコ・デルタ・アジア]]（BDA）」にあった約2400万ドルに上る北朝鮮関連口座が凍結されており、中朝関係筋は、北京で同日始まった金融制裁問題に関する米朝専門家会合に関連して、金正男がマカオ入りした可能性を指摘している。なお、[[エレベーター]]内の取材で「日本の[[拉致問題]]」の事を話すとノーコメントだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、同時に日本や韓国のメディアで、「金正男とその家族がマカオ市内に住居を構え長期間滞在し、[[マンダリン・オリエンタルホテルグループ|マンダリン・オリエンタルホテル]]などで[[ヨーロッパ]]の高級[[ブランド]]品などのショッピングを楽しんでいる」と報道された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2011年]]現在も[[マカオ]]に滞在して活動しているとみられる。金正日の長男という立場でありながら、後継者問題（後述）に現北朝鮮の政治体制をゆるがしかねない批判あるいは意見を広く西側に向けて発信していることから、軍部を中心に北朝鮮側にとって疎まれる存在であるとみられている。近年では父親である金正日への接触はもちろん、公式非公式問わず北朝鮮への入国や北朝鮮指導部とも接触が報道されたことはない。同年12月17日の金正日の死去においても、テレビで初めて知らされたことが伝えられている。しかし金正男は直後に「金哲（キムチョル）」という名義のパスポートを使い、平壌直行便のある北京経由ルートを避けて本国に帰国、金正日の霊前との対面を果たし金正恩を含む家族とともに別れを告げたとみられる。数日後にはマカオに戻った&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111231-OYT1T00563.htm&lt;br /&gt;
|title = 金正男氏、総書記死亡直後に帰国…国葬は不参加&lt;br /&gt;
|date = 2012-1-1&lt;br /&gt;
|work = Yomiuri Online&lt;br /&gt;
|publisher = [[読売新聞]]&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年5月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。なお、公式な葬儀への参列は確認されていない&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://mainichi.jp/select/world/news/20111226dde007030005000c.html&lt;br /&gt;
|title = 北朝鮮の金正日総書記が17日に死去、正恩氏が権力継承へ&lt;br /&gt;
|date = 2011-12-26&lt;br /&gt;
|work = 毎日jp&lt;br /&gt;
|publisher = [[毎日新聞]]&lt;br /&gt;
|accessdate = 2011年12月30日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、ロシアメディアなどが、金正男氏が妻や子供は中華人民共和国の支援によりマカオ市内の高級マンションに住み、金正男本人は北朝鮮支援によるホテル住まいであることなどが伝えられていたが、北朝鮮本国で[[金正恩]]体制が確立された[[2012年]]に入り、ホテルの1万5000ドルの宿泊代を払えずに退去し、これは北朝鮮側からの送金停止によるものではないかと伝えられた&amp;lt;ref name=rosiannews /&amp;gt;。さらに、4月22日に、[[金永日]][[朝鮮労働党]]書記が北京で[[戴秉国]]国務委員と会談した中で、マカオに住む金正男の身柄引き渡しを要求し、中華人民共和国側が拒否したと伝えられた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;amp;k=2012042400410&lt;br /&gt;
|title = 北朝鮮、正男氏引き渡し要求＝中国は拒否－韓国紙&lt;br /&gt;
|date = 2012-04-24&lt;br /&gt;
|work = 時事ドットコム&lt;br /&gt;
|publisher = 時事通信&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年4月26日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし別のメディアでは、5月に平壌に戻って再度出国したと報じられるなど、現政権との関係については情報が錯綜している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==後継者問題==&lt;br /&gt;
長男であることから後継者候補であるとされてきたが、上述のとおり略奪愛の末にできた子であることから金正日は彼の存在を隠しており、金正日の料理人であった[[藤本健二]]は「将軍（金正日）や軍大将、党幹部らが集まる宴席で彼の姿を見たことはないし、噂話として語られたことは一度も無い」一方「[[金正哲]]や[[金正恩]]の話は将軍からよく聞きましたし、遊び相手でもありました。きっと彼は長男の存在を隠し通したかったのではないでしょうか」と否定的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]2月25日に、日本や韓国のメディアで金正男が後継者問題について「関心が無く、させられてもやらない」と知人に述べていることが報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070226k0000m030037000c.html 北朝鮮：後継者問題「関心もなく、やらない」金正男氏語る][[毎日新聞]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ニュースでも「色々な所に行って　後継者になったりするのか」、「後継者とは考えられない」という発言があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、金正日に[[ロシア語]]を教えた金賢植によると、「正男は出生当時、出生が極秘にされたことから、後継者になるのは難しい」との見解を示した&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&amp;amp;k=2008101200110&amp;lt;/ref&amp;gt;。ところが、次男の[[金正哲]]を推す軍部の強硬派である[[李済剛]]が失脚し、正男を推す金正日の義弟の[[張成沢]]が権力を掌握、正男が後継者になる可能性が高まったとの報道もある。その後[[2008年]]9月には金正日の重病説が流れたこともあり、一部では後継者問題に再び火がついたという見方をされている。&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.zakzak.co.jp/top/200810/t2008102140_all.html&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2009年]][[6月5日]]に、西側諸国のメディアで「金正男が滞在先のマカオから中華人民共和国（もしくはアメリカか韓国）に亡命する見込みが強まっている」との報道がなされた&amp;lt;ref&amp;gt;http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090605/kor0906050737001-n1.htm&amp;lt;/ref&amp;gt; 三男の[[金正恩]]を後継とする体制づくりが急ピッチで進んでいるとされる。だが、[[6月9日]]にマカオで[[テレビ朝日]]の「[[報道ステーション]]」の単独インタビューに応じ、「政治には興味が無い。[[金正恩]]との関係は自分の弟であるという関係である。後継者については報道で知り、後継は父が決めたことだからそれに従う。マカオは旅行で滞在し亡命ではない」と語った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=116421&amp;amp;servcode=500&amp;amp;sectcode=500 金正男氏「私は政治に興味がない」 中央日報]&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、「[[独立総合研究所]]」の[[青山繁晴]]によれば、かつて正男と同じ立場にあった父の異母弟の[[金平一]]は、後継者争いに敗れた後、去勢手術を受けさせられているとされる&amp;lt;ref&amp;gt;『[[サンデースクランブル]]』2009年6月7日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。なおこの頃、金正恩によって暗殺されかねない状況にまで追い込まれたことがある。慌てた金正日が金正男暗殺阻止のため、中国政府に彼の身辺擁護を依頼したほどである&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133425&amp;amp;servcode=500 キム・ジョンウン氏、金正男氏を暗殺しようとした]2010年9月30日 中央日報日本語版&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三男の金正恩が後継者として就任するのを反対している。反対している主な理由は、[[天安沈没事件]]と2009年に行われた[[デノミネーション|デノミ]]施策が金正恩指揮の下で行われたため&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133912&amp;amp;servcode=500&amp;amp;sectcode=500 金正男「天安艦は金正恩の仕業」　父に抗議…KBS報道]2010年10月15日 中央日報日本語版&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年9月、金正恩への権力世襲について、韓国の民主平和統一諮問会議の李首席副委員長は、金正男と親密な関係者から、『正男が「滅びるのに。長続きすると思うか」と述べた』と聞いた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201010/2010102600500 「正男氏、北朝鮮崩壊を示唆？ - 親密な関係者に漏らす」] 2010年10月26日 [[時事通信社]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年10月9日、金正男は[[テレビ朝日]]のインタビューで、「個人的に'''3代世襲に私は反対します'''。ですが然るべき内部的要因があったならそれに従うべきだと思います」と述べている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.youtube.com/watch?v=FO6OKX1CB_c 長男・金正男氏重大発言「3代世襲に反対」（北京市内9日）] 2010年10月11日 テレビ朝日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==日本への密入国==&lt;br /&gt;
観光などを目的に偽造[[パスポート]]を使い[[日本]]に何度か不法入国していたことを本人が認めている。来日時に「[[東京ディズニーランド]]」にも出入りしていたと伝えられているほか、赤坂の韓国バーなどで[[朝鮮総連]]関係者や[[暴力団]]関係者と接触していたと伝えるメディアもある{{要出典|date=2013年12月}}。また密輸資金の回収が過去数回の不法来日の目的ではないかとも報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2001年]][[5月1日]]に、「金正男と見られる男性」が[[成田国際空港|成田空港]]で[[地方入国管理局|入国管理局]]に拘束されるという事件が発生した。男は妻子を連れており、[[ドミニカ共和国]]の偽造パスポートを使用して中国名の『'''{{lang|zh|胖熊}}'''』&amp;lt;ref&amp;gt;[[ピン音]]: Pàng Xióng パンシォン - 『太った熊』の意。（[http://www.atimes.com/atimes/Korea/FI02Dg01.html Death of Kim's consort: Dynastic implications] アジア・タイムズ 2004年9月2日付）&amp;lt;/ref&amp;gt;という偽名で入国を図ったところを拘束・収容され、その際に背中に[[トラ|虎]]の[[刺青]]が施されていることが判明。同月3日に身柄拘束の事実が報道によって明らかとなったが、外交問題に発展することを恐れたことと、当時北朝鮮にいた日本人観光客の人命を保護するために政府（[[小泉純一郎]]首相、{{要出典範囲|[[田中真紀子]][[外務大臣 (日本)|外相]]ら）の判断により|date=2010年6月}}、[[退去強制]]処分（事実上の[[超法規的措置]]）とされ、翌4日に、2階席を貸し切り状態にされた[[全日本空輸]]の[[ボーイング747-400]]型機で[[中華人民共和国]]の[[北京市]]に向けて出国した。なお同社の同路線は通常[[ボーイング767]]型機で運航されていることから、金正男とその家族の移送のために、予備機として成田空港にあったボーイング747-400型機に振り替えて運行されたものと思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
北京に移送される際の映像がテレビで何度も放映された&amp;lt;ref&amp;gt;これが西側のテレビ映像に捕らえられた初のケースといわれている&amp;lt;/ref&amp;gt;。この男について、日本及び北朝鮮政府いずれからも、金正男本人かどうかの正式な発表はないが、[[大韓民国|韓国]]政府筋は「金正男本人」であるとした。この男は、「東京ディズニーランドに行きたかった」と弁明した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実際に、[[2009年]]1月24日に[[北京首都国際空港|北京国際空港]]に現れた金正男本人が、日本のマスコミにインタビューを受けた際のやり取りにおいて、2001年に日本に不法入国しようとした理由につき、「日本という国に興味があったので旅行にいきました」、「日本はとても清潔で美しい。また経済的にも非常に発展している国だと思います」と答え、日本へ入国した過去があることと、2001年5月に成田空港で拘束された「金正男とみられる男性」が、本人であることを事実上認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==その他==&lt;br /&gt;
* [[2002年]]12月には、[[パリ]]郊外の[[ディズニーランド・パリ|ディズニーランド]]を訪れるために[[フランス]]入国を申請したがフランス政府に拒否された、とフランス紙に報じられた。&lt;br /&gt;
* [[2004年]][[9月25日]]には、[[北京首都国際空港|北京国際空港]]に現れ、居合わせた報道陣の問いに金正男本人だと認めた。渡航理由は不明だが、付き人もなく一人で北京市内のホテルに滞在したという。また同年[[12月3日]]、本人と思われる人物が複数の日本の[[新聞]]社に年末年始の挨拶の[[電子メール]]を送った事が報じられた。これが実際に本人からのものであるならば、先述の9月の北京国際空港での取材時に渡された名刺に書かれた[[メールアドレス]]を見て送ったのだろうと推測されている。&lt;br /&gt;
**このメール騒動について、北朝鮮問題に詳しい[[恵谷治]]は偽者説を、[[コリアレポート]]の[[辺真一]]は本物か周辺によるメール送信説を述べた。評論家の河信基は「後継者から外され、焦っている」と語る。北京を主に活動しているようである。&lt;br /&gt;
* 異母弟の[[金正恩]]とは一度も会ったことがないと発言している&amp;lt;ref&amp;gt;2011年2月28日放送の「[[情報7daysニュースキャスター]]」より&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 尚、[[中央日報]]によると、金正男は金正恩によって暗殺されそうになったとする記事がある&amp;lt;ref&amp;gt;[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=133425&amp;amp;servcode=500 「キム・ジョンウン氏、金正男氏を暗殺しようとした」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2011年9月、正男の長男である[[キム・ハンソル]]が[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]の[[モスタル]]にある[[インターナショナル・スクール]]に入学し&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/09/29/2011092900744.html http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/09/29/2011092900744.html] - 朝鮮日報 2011年9月29日&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[フェイスブック]]に顔写真が公開されていると報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/10/01/2011100100407.html 「僕は民主主義がいい」　金総書記の孫が顔写真公開] - 朝鮮日報 2011年10月1日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2011年10月、フェイスブックのアカウントを取得したと報道された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2011/10/01/2011100100408.html 金正男氏がフェイスブック開設か] - 朝鮮日報 2011年10月1日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2012年1月20日、文藝春秋より「父・金正日と私：金正男独占告白」[[五味洋治]]/著 が出版された。2004年に名刺を交換した東京新聞の五味編集委員との150通にわたるメールのやりとりと、7時間のロングインタビューによって構成されている。この中で金正男は北朝鮮の三世代世襲制を批判し、また金正日も生前これを否定したことを語っている。この本の出版時期については金正男は、金正日の喪が明けたあとに考えたいとしていたが、五味によって半ば強行されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{金正日家系図}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references/&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連文献==&lt;br /&gt;
* 『北朝鮮はるかなり　金正日官邸で暮らした20年』（叔母の[[成恵琅]]著、[[萩原遼]]訳、[[文藝春秋]]上・下　2001年、[[文春文庫]]、2003年）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きむ しよんなむ}}&lt;br /&gt;
[[Category:北朝鮮の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:平壌直轄市出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1971年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:全州金氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本へ密入国した人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正日]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正恩]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%AD%A6%E6%9C%AC%E7%99%BB&amp;diff=220445</id>
		<title>東京大学武本登</title>
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				<updated>2014-02-12T15:40:57Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:武本登1.jpg|350px|thumb|東大生　武本登]]&lt;br /&gt;
'''東京大学武本登'''(たけもと　のぼる)とは、「俺は東大生だぞ」「おまえらとは格が違う」と駅員を殴打した東大生である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件概要 ==&lt;br /&gt;
大阪府警阿倍野署は[[2012年]][[1月8日]]、公務執行妨害の疑いで東京都文京区白山、東京大学2年武本登（20）を現行犯逮捕した。同署によると「覚えていない」と容疑を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕容疑は8日午後10時10分ごろ、大阪市阿倍野区の市営地下鉄御堂筋線天王寺駅の構内で、男性駅員（49）の顔を右手で殴った疑い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
武本は成人式に出席するため実家に帰省中だった。事件前は同駅付近で[[大阪教育大学教育学部附属天王寺小学校]]の同窓会に出席。その後、実家の最寄りの梅田駅に向かおうとしたが、間違えて反対方面のホームに出てしまったという。階段を使えば逆のホームに行くことができたが、ホームから線路に下り、横断して反対側に移動。渡りきったところで駅員が注意した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「危ないですよ」と注意した駅員に、武本は「現に渡りきってる。何の文句があるんだ」と激高。口論の末、駅員に手をあげたという。駅員にケガはなかった。武本は当時かなり酒に酔った状態で、通報を受け駆けつけた同署署員に「俺は東大生だぞ」「おまえらとは格が違う」などと言って抵抗したという。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
阿倍野署によると武本は当初「覚えていない」と容疑を否認していたが、署で夜を明かし酒が抜けると「すいません」と平謝り。9日昼すぎに釈放された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* [[大阪教育大学教育学部附属天王寺小学校]]卒業(123期)&lt;br /&gt;
* [[灘中学校・高等学校]]卒業(62期)&lt;br /&gt;
* [[東京大学]]文Ⅱ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Noboru.T 　@ariettan &lt;br /&gt;
:人生を最高に旅せよ/東大経済学部金融学科/灘62nd/附天123rd/大阪/Boston/Candybowl/TOEIC960/R＆B/HipHop/SOUL’d OUT/BENNIE K/西野カナ/スムルース/大阪近鉄/スポーツ観戦/海外旅行/起業/留学/一眼レフ/お酒/漫才優勝/洋画/テニサー…and more&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
灘62回の同窓会メール来てない人多いから拡散。12/29の1800スタートで出欠をハガキからメールに変更。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
出欠確認メールは11月末頃らしいので、その時に来なかった人はメールくれたら転送します。 @ariettan &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 武本登の画像 ==&lt;br /&gt;
[[Image:武本登2.jpg|300px]][[Image:武本登3.jpg|300px]][[Image:武本登4.jpg|300px]][[Image:武本登5.jpg|300px]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[東京大学高木宏徳]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:たけもと　のほる}}&lt;br /&gt;
[[Category:東京大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:2012年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落人生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%B9%B3%E5%9E%A3%E5%B7%A8%E5%B9%B9&amp;diff=220444</id>
		<title>平垣巨幹</title>
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				<updated>2014-02-12T15:39:20Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: /* エリート人生の裏 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''平垣　巨幹'''とは、[[インターネット]]の[[チャット]]で知り合った太田佐知子さん＝当時25歳を殺害した、[[埼玉県]][[桶川市]]の51歳(2012年時点)である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 不倫関係を清算…エリート男の計画殺人、4年半越しで解決 ==&lt;br /&gt;
栃木県内の山林で[[平成20年]]6月にスーツケースに入った女性の遺体が見つかった事件で、元交際相手の男が殺人罪で起訴された。男は[[平成19年]]9月、不倫関係を清算するために女性を殺害・遺棄したと供述。遺体発見から身元判明まで3年余。一度は迷宮入りも懸念された事件の全容が、犯行から4年半近い歳月をかけて明らかになりつつある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 遠距離の不倫 ===&lt;br /&gt;
殺人罪で宇都宮地裁に起訴されたのは、埼玉県桶川市、元会社員、平垣巨幹被告(51)。平垣は[[平成19年]][[9月18日]]午後11時半ごろ、東京都江東区のホテルで備え付けのタオルを使い、大阪府守口市の無職、太田佐知子さん＝当時(25)＝の首を絞めるなどして窒息死させた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
持参したスーツケースに遺体を押し込め、粘着テープやひもを巻き付け、車で栃木県塩谷町の山林に運び、遺棄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平垣は、[[平成13年]]から[[平成21年]]まで[[宇都宮市]]内の住宅販売会社に勤務していた。太田さんとはインターネットのチャットを通じて知り合い、「大阪と栃木」「20代と40代」という地理的、年齢的な距離を超え交際を開始。東京都内や愛知県内で逢瀬を重ねていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、平垣は結婚しており、3人の息子の父親でもある。「太田さん以外にも複数の女性と交際していた」（捜査関係者）とされ、真剣交際を望んでいた太田さんとの心の距離が縮まることはなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 計画的な行動 ===&lt;br /&gt;
「会社にも電話をかけられて、関係を続けるのが嫌になり清算したかった」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平垣は、不倫関係を清算するために太田さんの殺害を決意したと供述している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
平垣は遺体を入れたスーツケースのほか、粘着テープやひもなどをあらかじめ用意。機械を通じてチェックインするタイプのホテルを選び、東京に呼び出した太田さんと合流する前に、ホテルの部屋にスーツケースを運び込むなど、周到な犯行計画を練った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遺棄現場についても「仕事の関係で土地勘があり、事前に遺棄する場所として目星をつけていた」（捜査幹部）。もくろみ通り、スーツケースは遺棄後9カ月近く、発見されないまま山林に放置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 難航した身元特定 ===&lt;br /&gt;
固く閉ざされたスーツケースの封が開けられたのは[[平成20年]][[6月1日]]だった。中からは、ひざを抱えるように折りたたまれた遺体が見つかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
県警は死体遺棄事件として捜査本部を設置。しかし、所持品はなく、白骨化した遺体からは死因も特定できなかった。頭蓋骨をもとに生前の顔を再現した“復顔”を作成し、関東地方を中心に情報提供を呼びかけたが、有力情報はなく捜査は難航した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「不法入国の外国人ではないか…」との憶測も浮上する中、[[平成23年]]6月に死体遺棄罪の公訴時効が成立。県警は殺人事件も視野に捜査を継続したものの、事件は「コールドケース（長期未解決事件）」になるかと思われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
事件が再び動いたのは[[平成23年]]10月。太田さんの家族から家出人捜索願を受理していた大阪府警の捜査員が、太田さんと復顔が似ていることに気付いたのだ。DNA型や歯形を照会し、太田さんと確定した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、栃木県警と大阪府警が太田さんの遺族から提供を受けたパソコンを解析したところ、平垣が浮上。容疑を認めたため、[[平成24年]][[1月24日]]、殺人容疑で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エリート人生の裏 ===&lt;br /&gt;
大阪大学を卒業し、犯行当時は大手不動産販売会社で役職を得ていた平垣被告。販売会社の幹部は「真面目な人だった」と振り返る。しかし、不倫の末の身勝手な犯行からは、エリート会社員とは異なる一面が見え隠れする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
逮捕後は一貫して反省の態度を示し、調べにも素直に応じている。ただ、「時間がたっていて、裏付けが取れないことも多い」（捜査幹部）ため、２人の間に何があったのか詳細は定かではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判員裁判対象となるこの事件。裁判員は、被告の言い分をどう判断するのだろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日野OL不倫放火殺人事件]]&lt;br /&gt;
* [[坂東志郎]]&lt;br /&gt;
* [[薄化粧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ひらかき}}&lt;br /&gt;
[[Category:平成時代の殺人事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:栃木県の歴史]]&lt;br /&gt;
[[Category:2007年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落人生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%99%A2%E7%94%9F%E3%83%BB%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%81%A5%E5%A4%AA&amp;diff=220443</id>
		<title>東大院生・五島健太</title>
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				<updated>2014-02-12T15:36:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''五島　健太'''(ごとう　けんた)とは、眠れずもんもんとした[[東京大学大学院新領域創成科学研究科]]2年生である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== JR車内で強制わいせつ。帰省中の東大院生を逮捕(2012年10月) ==&lt;br /&gt;
電車内で[[JK画像3|女子高校生]]の下半身を触ったとして、[[大阪府警]][[天王寺署]]は[[10月3日]]、強制わいせつの疑いで、[[東京大学]]大学院2年、五島健太(25)＝[[千葉県]][[流山市]]こうのす台＝を逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「被害者を見て痴漢をしたいという衝動にかられた」と容疑を認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[9月18日]]午前7時35分ごろ、[[JR関西線]]久宝寺－天王寺駅間の快速電車内で、通学中の大阪府内の10代の女子高校生の背後から、スカートの中に手を入れて下半身を触った。女子高生が近くの男性に「この人痴漢です」と助けを求め、[[天王寺駅]]で駅員に引き渡した。五島は実家が大阪府内にあり、帰省中だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 眠れずもんもん…東大院生、電車で女子高生触る ==&lt;br /&gt;
満員電車で女子高生にわいせつな行為をしたとして、大阪府警天王寺署は10月3日、千葉県流山市、東京大学大学院新領域創成科学研究科2年五島健太(25)を強制わいせつ容疑で逮捕、送検した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五島は当初は否認していたが、「実家のクーラーが壊れ、暑苦しくて眠れずにもんもんとしていたので衝動的にやってしまった。両親に知られたくなかった」と容疑を認めている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五島は9月18日午前7時40分頃、JR関西線加茂発天王寺行きの区間快速車内で、通学途中の女子高生の下半身を触るなどした。女子高生が乗り合わせた男性に助けを求め、逃げようとした五島を取り押さえて駅員に引き渡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五島は[[大阪府立大]]を卒業後、2011年4月から同研究科に在籍し、スポーツ運動学を専攻。2012年9月16日から[[大阪府]][[柏原市]]内の実家に帰省していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[パンチラ]]&lt;br /&gt;
* [[プリクラ]]&lt;br /&gt;
* [[尻フェティシズム]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{東京大学}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ことう　けんた}}&lt;br /&gt;
[[Category:大学院]]&lt;br /&gt;
[[Category:学際領域]]&lt;br /&gt;
[[Category:東京大学]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の性犯罪]]&lt;br /&gt;
[[Category:2012年の日本の事件]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落人生]]&lt;br /&gt;
[[Category:フェチシズム]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E9%9C%9C%E8%A6%8B%E8%AA%A0&amp;diff=220442</id>
		<title>霜見誠</title>
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				<updated>2014-02-12T15:34:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: /* セレブ夫婦 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;[[Image:霜見誠1.jpg|350px|thumb|殺害された霜見　誠さんと妻・美重さん]]&lt;br /&gt;
'''霜見　誠'''(しもみ　まこと)とは、[[宮崎県]]出身の[[スイス]]在住の[[投資ファンド]]マネージャー。運用額300億円、本人年収は5億円だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2012年]]12月に運用トラブルから、水産加工物販売会社社長、渡辺剛らに妻・美重さんとともに殺害された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== セレブ夫婦 ==&lt;br /&gt;
2012年12月の一時帰国中に事件に巻き込まれた霜見さんは、多額の資金を運用するスゴ腕ファンドマネジャーとして知られ、人脈には、芸能界と通じる有名実業家の名も浮かぶ。華麗な生活の半面、市場環境の急激な悪化で「トラブルを抱えていた」との指摘もある。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現代の神隠しが一気に動いた。霜見誠さんと妻、美重さんとみられる遺体が[[2013年]][[1月29日]]、[[埼玉県]][[久喜市]]内の元農地で発見された。警視庁捜査1課は、死体遺棄で住所不定、職業不詳の桑原隆明を潜伏先の[[沖縄県]][[宮古島市]]で逮捕。同容疑で食品関連会社役員の男ら数人の行方を追っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
霜見さんは宮崎県出身。親族によると、同県内に住む妹と中部地方に姉がいる。親族の女性の一人は「優しく物静かな子だった。『これ』と決めたらテコでも動かない所があった」と振り返り、悲しみに暮れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[熊本県]]内の熊本学園大学を卒業後、東京に本社がある証券会社に入り、福岡・北九州支店に配属。短大を卒業して同期入社した美重さんと職場結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
証券会社で同僚だった男性は「人懐っこく明るい性格で、顧客の信頼も厚かった」と評価する一方、「若い頃から野心家。会社より自分のために人脈を広げ、多少危なくても、うまい話があれば逃さないタイプだった」と話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
約20年前に独立し、「数年前には約300億円の資産を運用し、年収が約5億円に達したと聞いた」（関係者）。ファンドマネジャーとして成功を収め、現在は[[リヒテンシュタイン]]を本社とする投資ファンドの運営に携わり、スイスと日本を行き来していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫妻には子供がおらず、飼い犬をかわいがり、高級食材の大間のマグロやフォアグラを与えるほど溺愛していたという。美重さんは、自身のブログに愛犬とともに欧州各地を周遊する様子を「夏の思い出は、地中海クルージング」「クリスマス直前のパリへ」などと綴っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人脈の幅広さも有名だった。霜見さんの運営するファンドが新株予約権の一部を引き受けた上場企業は、[[女性タレント]]と結婚した有名実業家が一時、役員にいたことで知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「（霜見さんの）周辺人脈の中には、引退した元有名[[プロ野球選手]]の資産運用に関わった人もいたようだ。ただ、取引は不調に終わり、元プロ野球選手が『多額の損失を出した』と騒いでもめたと聞いている」（証券業界関係者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
死体遺棄容疑で逃亡を続ける食品関連会社役員の男は、霜見さんと投資を通じて知り合ったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「[[2008年]]の[[リーマン・ショック]]以降、株価暴落などの金融危機でファンドマネジャーのほとんどが厳しい環境に置かれた。霜見さんは富裕層を対象に高額の資産を運用していただけに、運用をめぐってトラブルになっていたとも考えられる」（捜査関係者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「数年前は年収５億」「明るくて美人」 ===&lt;br /&gt;
スイスから一時帰国中に殺害されたとみられる霜見誠さんと美重さん夫婦。霜見さんは敏腕投資家として世界を股にかけて活躍し、スイスの自宅ほか、東京都心にも複数のマンションを所有していた。美重さんとともに愛犬2匹をかわいがり、ヨットやダイビングに興じるなど優雅な暮らしぶりだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知人らによると、霜見さんは宮崎県出身で、熊本県内の大学を卒業後、東京に本社がある証券会社に就職した。福岡・北九州支店に配属され、地元出身で短大を卒業して同期入社した美重さんと職場結婚した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、霜見さんは国際部門に異動し、海外の投資家らと交流を深めたのを機に、約20年前に独立。数年前には約300億円の資産を運用し、年収が約5億円に上っていたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
証券会社で同僚だった男性は「人懐っこく明るい性格で、顧客の信頼も厚かった」と評価する一方、「若い頃から野心家。会社より自分のために人脈を広げ、多少危なくても、うまい話があれば逃さないタイプだった」と話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在はリヒテンシュタインに本社がある投資ファンドのマネジャーで、スイスと日本を行き来する生活。最後に生存が確認された銀座のほか、六本木や赤坂、千葉にも高級マンションを所有し、高級外車2台を乗り回していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫婦共通の趣味はヨットで、数年前に入会金170万円、年会費24万円のヨットクラブに入会。2012年8月には東京・江戸川の花火大会をクルーザーから楽しんだ。関係者は「クルージング中にも、よく仕事の電話がかかってきて、英語で会話していた」と語る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美重さんは「はきはきとした明るい美人」で、愛犬2匹をいつも連れ歩いていた。美重さんのものとみられるブログによると、愛犬家仲間を招待してホテルでパーティーを開き、日本からスイスにトリマーを呼び寄せるなどしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「日本に一時帰国です」「お洋服を見る暇もない」。ブログでは、11月下旬にスイスから帰国後、京都や福島に旅行するなど、余暇を満喫している様子がうかがえる。最後に更新されたのが失踪前日の12月6日午後11時ごろで、犬の写真などが掲載されていた。失踪当日の同月7日も愛犬2匹と一緒にマンションを出た夫婦。2人とみられる遺体は発見されたが、愛犬は見つかっていないという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 年収5億、愛犬に大間マグロ ===&lt;br /&gt;
霜見誠さんは、周囲から「センスの良い投資家」と評される手腕で、資産を築いた。知人らへの取材からは、妻美重さんとともに愛犬を連れ、世界を股に掛けて活躍する姿が浮かぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
霜見さんは宮崎県出身。大学卒業後、東京都内に本社がある証券会社に就職し、初任地は北九州支店だった。当時から海外志向があったのか、その後は国際部門にも所属。元同僚は「今につながる人脈を築いたのだろう」と指摘する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
霜見さんは十数年前に証券会社を退社し、スイスに拠点を置いて投資、資産管理の事業で成功した。元同僚によると、6、7年前に年収を尋ねた際、霜見さんは「5億円だね」と答えた。時価総額300億円近い株を取引していたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
美重さんとは二十数年前、証券会社時代に職場結婚。子どもがいない夫婦は愛犬2匹をかわいがり、ある知人は「家族そのものだった」と溺愛ぶりを語る。近所の愛犬家を招いた犬の誕生会では、高級な[[青森県]][[大間]]産のマグロを食べさせることもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チューリヒ、パリ、モナコ…。美重さんとみられる人物のブログには、愛犬を連れ世界を飛び回る様子がつづられていた。更新は失踪の前日、[[12月6日]]に途絶えていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 「パソコン1台に携帯3台」を駆使する多忙な仕事ぶり === &lt;br /&gt;
複数のメディアの情報によると、霜見誠さんと美重さん夫婦は「3年ぐらい前に、日本は税金が高いから」といって、スイス･チューリッヒに住むようになった。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本にも頻繁に帰国。最後に生存が確認された東京・銀座の自宅マンションのほか、六本木や赤坂、千葉市にも高級マンションを所有し、フェラーリとベンツの2台の高級外車に乗っていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
趣味は夫婦でヨット。子供がいないこともあってか、2匹のトイ･プードルを溺愛していたようで、愛犬家を招いた犬の誕生会では高級な青森県大間産のマグロを食べさせた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
美重さんのものとみられるブログによると、わざわざ日本からスイスにトリマーを呼び寄せるなど、セレブ暮らしを楽しんでいた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫の誠さんは、リヒテンシュタインに本社がある投資ファンドの敏腕マネジャーとして活躍していた。宮崎県出身。熊本県内の大学を卒業後、東京に本社がある証券会社に入社。営業部門を経て国際部門に異動。海外の投資家らと交流を深めたのをきっかけに、約20年前に独立したという。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
証券会社で同僚だった男性の証言では、「人懐っこく明るい性格で、顧客の信頼も厚かった」。半面、「野心家で会社より自分のために人脈を広げ、多少のリスクがあっても、ハイリターンを狙っていくタイプだった」とも話している。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その仕事ぶりは、「優秀なトレーダーで、飲みに行く時もパソコン1台に携帯3台を持っていた」と、超が付く多忙ぶりだった。時価総額で約300億円の資産を運用し、6、7年前の年収が「5億円」にのぼっていたという。優雅な生活ぶりからは「年収5億円」もウソではなさそうだし、たしかにファンドマネジャーの年収は高額で知られてもいる。そうだとしても、そんなにも &lt;br /&gt;
高い収入を得られるのだろうか――。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投資家は「敏腕マネジャー」について回る === &lt;br /&gt;
国際金融アナリストの[[小田切尚登]]氏は、「証券会社に勤めるサラリーマンのファンドマネジャーではどうかと思いますが、海外でまさに『腕一本』でやっていたのであれば、可能性はあります」と話している。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファンドマネジャーの報酬は、大きく2つ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一つは手数料収入（信託報酬）で、これは資産残高に応じて、毎年2～3％が確実に得られる。たとえば、資産残高が100億円あれば、2億円のもうけ。運用資産が多ければ多いほど、ファンドマネジャーは儲かる。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
もう一つは成功報酬。これは契約ごとに異なるが、運用した儲けの一部を得られる。たとえば、20％で契約した場合は年間10億円儲かれば、2億円が成功報酬として得られるわけだ。一方、運用損失した場合には、成功報酬は得られないが、信託報酬は得られる。損失を肩代わりすることもない。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小田切氏は「日本でも証券会社などに勤めるファンドマネジャーは運用成績によってボーナスをもらうことはありますが、あくまでボーナス。欧米では投資ファンドの手法が定着していて、実績を上げたファンドマネジャーが信託報酬から成功報酬まで得られます。運用実績のある、凄腕のファンドマネジャーに投資家がついていることもあります」と説明する。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おそらく、霜見誠さんもこれまでの証券会社時代や、投資ファンドで相当高い運用成績を収めていたであろうことがうかがえる。ただ、いまは「金融緩和で金利が付かない時代なので、ファンドマネジャーにとって運用益を上げることはかなり難しくなっています」とも、小田切氏は指摘する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 失踪から遺体発見へ ==&lt;br /&gt;
=== 遺棄容疑で職業不詳男逮捕。多額の預金奪う目的か ===&lt;br /&gt;
スイス在住の日本人資産家夫婦が2012年12月から行方不明になっている事件で、埼玉県久喜市で男女の遺体が見つかり、警視庁捜査1課は2013年1月29日、失踪した投資会社役員の霜見誠さんと確認した。もう一体は妻の美重さんとみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれも首に絞められた痕があり、捜査1課は殺人・死体遺棄事件と断定して築地署に捜査本部を設置。死体遺棄容疑で、職業不詳の桑原隆明を潜伏先の沖縄・宮古島で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫婦は「栃木県日光市で有名男性歌手が参加するパーティーに知人から誘われた」と言い残して失踪。捜査本部は同容疑で、嘘のパーティー話で2人を誘い出した主犯格の40代の会社役員ら男数人の逮捕状を取り、行方を追っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
失踪前に霜見さんのスイスにある金融機関の口座から、日本の口座に多額の預金が移されており、捜査本部は会社役員の男がこの預金を狙って犯行を計画した可能性もあるとみている。桑原は「全く身に覚えがない」と容疑を否認している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
霜見さん夫婦は2012年12月7日午後5時ごろ、東京・銀座の自宅マンションを出た後、行方不明となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
捜査1課はマンション近くで夫婦を乗せた車を割り出し、久喜市の空き地で男女の遺体が埋められているのを発見。同じ敷地内にあった車の中から霜見さんとみられる血痕が見つかった。車と空き地は会社役員の知人男性名義だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
遺体は死後1カ月以上が経過し、失踪直後に殺害、遺棄されたとみられる。空き地は2012年11月10日ごろ、この知人男性が購入。その後、男数人が出入りし、高さ約2メートルの銀色のフェンスで取り囲み、重機で穴を掘って立ち去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
失踪後、マスク姿の男が霜見さんのクレジットカードを使い、[[東京駅]]で[[新幹線]]の回数券約300万円分を購入しようとしたほか、夫婦の財布が都内の質店に持ち込まれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、逮捕状が出た別の男の運転する[[レンタカー]]が、[[銀座]]のマンション近くから[[栃木県]][[日光市]]に立ち寄り、北上した後、都内に戻っており、捜査本部で関連を調べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== すし店で「偶然隣りに」車好きで意気投合。被害者に接近 ===&lt;br /&gt;
「趣味の車を通じて意気投合した」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
滞在先のスイスから一時帰国中に行方不明となり、遺体で見つかった金融会社役員・霜見誠さんは生前、死体遺棄の疑いで2013年1月30日に逮捕された会社役員・渡辺剛について、仕事仲間にそう話していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2012年春ごろ、立ち寄ったすし店で、渡辺とたまたま出会ったという霜見さん。「偶然隣に座り、お互い車が好きという共通点があって盛り上がった。それから飲み友達になった」といい、一緒にゴルフに行くこともあったという。霜見さんは高級外車2台を所有していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡辺が経営する会社は[[インターネット]]を活用した海産物の販売事業を展開。霜見さんは仕事仲間に対し、渡辺の仕事について「[[オマーン]]に会社をつくり、売却したらしい」と関心を寄せている様子だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 資産家遺棄事件、失踪1か月前に計画か ===&lt;br /&gt;
死体遺棄容疑で警視庁に逮捕された水産加工物販売会社社長、渡辺剛が夫婦失踪の約1か月前から、同容疑で逮捕された住所不定、職業不詳・桑原隆明と頻繁に携帯電話で通話していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほかにも両容疑者と連絡を取り合っていた人物がおり、同庁は事件に関与した可能性があるとみて調べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両容疑者が頻繁に連絡を取り始めたのは2012年11月上旬。同月10日、渡辺は埼玉県の男性に依頼して、遺体が埋められた同県久喜市の更地を購入しており、この頃から計画が具体的に動き出したとみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同月下旬には遺体で見つかった金融業の霜見誠さんと、妻の美重さんが滞在先のスイスから帰国。同月23日頃には更地に複数の男が集まり、重機を入れて穴を掘ったり、外から内部が見えないように鋼材で囲いを作ったりしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 資産家夫婦帰国前にさら地購入指示か ===&lt;br /&gt;
資産運用会社の役員の男性と妻とみられる遺体が埼玉県のさら地に埋められているのが見つかった事件で、逮捕された男が夫婦が一時帰国する2か月ほど前に、現場のさら地の購入を知り合いに指示していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資産運用会社の役員、霜見誠さんの遺体と妻の美重さんの遺体が埼玉県久喜市のさら地に埋められているのが見つかった事件で、警視庁は、東京の食品関連会社の役員、渡邉剛を死体遺棄で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡邉は、2013年1月29日、逃亡先の沖縄県宮古島市でトイレの洗剤とみられる液体を飲んで自殺を図り、警察官が見つけたとき、「東京で人を殺してきた。遺体が発見されたのを知って死のうと思った」と話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡邉は1年ほど前から投資の相談などで霜見さんと連絡を取り合っていた。霜見さん夫婦は、2012年11月に滞在先のスイスから一時帰国したが、この2か月ほど前に渡邉が現場のさら地の購入を知り合いに指示していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夫婦が帰国する直前には購入の契約が結ばれ、まもなくして数人が穴を掘り始めた。警視庁は計画的に準備を進めていたとみて調べるとともに投資などを巡ってトラブルがなかったかどうか捜査している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 資産家事件、逮捕の社長「投資で損させられた」 ===&lt;br /&gt;
東京・銀座の資産家男性と、妻とみられる遺体が埼玉県内で見つかった事件で、警視庁は[[2013年]][[1月30日]]、住所不詳、水産加工物販売会社社長、渡辺剛(43)を死体遺棄容疑で逮捕した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
29日に潜伏先の[[沖縄]]・[[宮古島]]で自殺を図って入院していた。渡辺は殺害された男性の知人で、同庁は事件を主導したとみて、殺人容疑でも事情を聞く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡辺は[[12月7日]]頃、経営していた会社の社員だった桑原隆明(41)(死体遺棄容疑で逮捕)らと共謀し、金融業の霜見　誠さんと妻、美重さんとみられる女性の遺体を、埼玉県久喜市の更地に埋めて遺棄した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
調べに対し、「間違いありません」と容疑を認めている。自殺を図って発見された際、警察官に「人を殺した。遺体が発見され死のうと思った」と話した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡辺は約1年前に霜見さんと知り合い、事件前には周囲に「投資で損をさせられた」と漏らしていた。同庁は、投資を巡って霜見さんに恨みを抱いていた可能性があるとみて調べている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 投資で数億の損、資金繰り悪化、会社傾いた ===&lt;br /&gt;
東京・銀座のファンドマネジャー霜見誠さん夫婦の遺体が埼玉県内で見つかった事件で、死体遺棄容疑で逮捕された水産加工物販売会社社長、渡辺剛が、2008年、霜見さんに持ちかけられた投資事業で数億円の損失を出していた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
中東を舞台にビジネスを展開していた渡辺はその後、生活を一変させており、警視庁は5年前の恨みが事件の動機になった可能性があるとみて調べている。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「霜見さんを恨んでいた。投資を勧められ、数億円の損をさせられた」&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
渡辺は取調官に対し、霜見さんと妻の美重を絞殺したと供述した上で、淡々と説明した。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
渡辺は20年ほど前から、神奈川・逗子のリゾートレストランで調理を担当したり、山口県下関市のふぐ仲卸業者の下でふぐの取り扱いを学んだりするなど、飲食関係の職を転々としていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1990年代後半には、東京都江東区の水産加工物販売会社で働くようになり、2001年に社長に就任。当初は鯨肉をスーパーなどに卸す業務が中心だったが、2007年頃からは海外に進出、オマーンの複数の大手水産会社から魚介類を輸入するようになった。社員に「いつかは、中東での日本向け水産加工物を独占的に扱い、自社の漁船も持ちたい」と夢を語っていた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同社元社員の男性(50)は「押しが強く、中東の企業を相手に一歩も引かないやり手の実業家という印象だった」と振り返る。高級外車を乗り回し、「年収は3億円以上」と豪語する姿も記憶している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、同社の資金繰りは2008年後半から2009年春頃にかけて急速に悪化。2009年夏以降は会社は休眠状態に陥った。業績悪化のきっかけとみられるのが、霜見さんが2008年頃に手がけた食品企業の買収に絡む投資への参加だった。霜見さんの元上司などによると、この企業買収は失敗に終わり、その頃から渡辺は周囲に「大きな損をさせられ、会社が傾いた」などと霜見さんへの不満を漏らすようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 殺害されたセレブ夫妻。その背景の「闇」 ==&lt;br /&gt;
誠さんは、ある投資家から民事訴訟を起こされていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
訴状などによると、この投資家は[[2008年]]ごろ、[[ドバイ]]で不動産・株式投資を行っていたM社に[[湾岸協力会議]]（GCC）諸国の上場企業などへの株式投資のためとして5千万円を預託した。M社社長は誠さんの指示で、このうち3千万円を、別の会社名義でスイスのプライベートバンクに預金。結局、この3千万円は無関係の女性の手に渡り、投資家に返金されなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
投資家の代理人は「一連の資金の流れにはYという人物がかかわっていたとみられ、金を手にした女性はYの愛人でした。Yはすでに病気で亡くなっていますが、誠さんはYの指示で動いていたようです」と話す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、誠さんがマネジャーを務めるジャパン・オポチュニティ・ファンドは2007年に[[ジャスダック]]上場の「[[クロニクル]]」(旧社名・エフアール)の新株予約権付社債を13億5千万円引き受けている。クロニクルは宝飾事業などを手がけており、[[1998年]]の[[親和銀行]]不正融資事件、タレントの[[山口もえ]]さんの元夫、[[尾関茂雄]]氏が役員を務めていたことでも知られる。ジャパン社は2011 年にも再び、クロニクルの新株予約権を引き受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このクロニクル社は2012年12月に開示検査を受け、1月25日、「一部の会計処理の訂正を要する可能性のある事象が判明」し、「金融商品取引法違反（有価証券報告書の虚偽記載）の疑義に関する事実関係の調査分析をする」とするIR情報を発表。第三者委員会の設置を決めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後クロニクルは業績悪化など会社機能を無くし2013年7月に上場廃止となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誠さんは、闇の世界が見え隠れする仕事をしていた。現在、主犯として逮捕されている渡辺は闇世界の差し金で犯行に及んだのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「事件後、元従業員の共犯者に、誠さんのクレジットカードで新幹線の回数券300万円分を買わせようとし、不審がられ通報されています。防犯カメラやNシステムにも形跡を残しており、逃げた場所も宮古島と中途半端。素人の手口です」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 殺害された霜見氏を取り巻く「ドバイ闇人脈」 ===&lt;br /&gt;
1月30日、潜伏先の沖縄県宮古島市で渡辺剛（43）が、死体遺棄容疑で逮捕された。渡辺は2012年12月7日、スイス在住で11月末に一時帰国していたファンドマネジャー・霜見誠氏（51）と妻の美重さん（48）を、架空の「福山雅治のパーティー」をうたって誘い出し、首を絞めて殺害。前もって知人に購入させていた埼玉県久喜市内の空き地に遺体を埋めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、殺害された霜見氏は中東のドバイを舞台にした投資トラブルでも、東京地裁に民事訴訟を起こされている。裁判資料によると、この話に登場するのは闇社会にも太い人脈を持つといわれる実業家のY氏（2009年1月に死去）と、その「愛人」S。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Y氏は自らが実質的なオーナーとなり、ドバイで不動産投資や株式投資を行うB社を経営していた。ところがY氏の死去と前後して、和歌山県に住む資産家男性からの5千万円の投資をめぐってトラブルとなり、S氏と霜見氏が被告となって損害賠償請求を起こされているのである。訴状で霜見氏は、「Yオーナーのマネーロンダリングに加担していた者である」と指摘されている。原告側関係者の男性が説明する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「霜見氏はY氏の指示で、5千万円の一部を出資者の資産家男性に無断で別の会社の口座に移すなどの操作を行っていた。顧客の資産家男性とトラブルになった後も、『自分は顧客であるY氏の指示に従っただけ』と、悪びれる様子もなかった。その一方で、Y氏にも株をすすめて、損をさせていたこともあったようです」。この裁判で、霜見氏は1月下旬に出廷する予定だったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Y氏をめぐる人間関係では、こんな証言も出てきた。「08年ごろ、Y氏がドバイに進出してくる日本人として『日鯨の渡辺』という名前を何度か口にしていた」（Y氏に近かった人物）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 資産家殺害事件。被害者は「曰くつき」銘柄で稼いでた？ ===&lt;br /&gt;
「そもそも渡辺剛(43)は、2011年7月ごろから宮古島で地元女性と一緒に暮らし、東京と行き来しながら釣り三昧の生活をしていた。それが、なぜ2012年9月に急に殺人の準備を始めたのか。捜査員も困惑している」（警視庁関係者）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
疑念が広がる原因の一つには、被害者である霜見誠（51）氏が持つ“人脈”の特殊さがある。霜見氏の知人が証言する。「霜見氏にとって大きな分岐点となったのは1990年代末、[[仕手筋]]によく狙われることで有名な宝石販売会社のエフアール(店頭公開企業・現[[クロニクル]])の株で大きく稼いだことでした。『あれが人生を大きく変えた』と、本人も話していた。大物仕手筋の故・[[西田晴夫]]が絡んだともいわれ、以来、業界の“大物”たちと交流が生まれ、曰くつきの銘柄で稼いできたのです」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なかでも指摘されるのが、宝飾品や高級時計などの販売会社で暴力団のフロント企業・エフアール(現[[クロニクル]])社との関係だ。エフアール社は1998年に発覚した、[[親和銀行]]による巨額不正融資事件の舞台として知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
暴力団関係者にも多額の資金が流れたとされるこの事件で、エフアール社の社長・[[鈴木道彦]]氏は特別背任罪で逮捕された。そんなエフアール社に、霜見氏が管理するリヒテンシュタインのファンド「ジャパン・オポチュニティー・ファンド」が、2007年と2011年に出資している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回、霜見氏の事件が発覚する直前の2013年1月中旬、それまで10円台前半で横ばいだった[[クロニクル]]社の株価が突如、40円近くまで急騰した。これには、当のA社関係者も首をかしげる。「経営陣の誰もなぜ上がったのかわからず、社内は騒然としていました。当時、社内で意見が一致したのは、霜見氏が鈴木氏のカネを持って来日し、株価を釣り上げたのではないかということでした。もともと霜見氏と鈴木道彦氏は近い関係だという見方がありましたから」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[グローバリー外務員殺人事件]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しもみ　まこと}}&lt;br /&gt;
[[Category:殺人被害者]]&lt;br /&gt;
[[Category:宮崎県出身の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:投資家]]&lt;br /&gt;
[[Category:転落人生]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E9%87%91%E6%AD%A3%E5%93%B2&amp;diff=220441</id>
		<title>金正哲</title>
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				<updated>2014-02-12T15:31:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{正確性|date=2006年6月}} {{特殊文字}} {{北朝鮮の事物| title=金正哲| hangeul=김정철| hanja=金正哲| hiragana=漢: きん せいてつ&amp;lt;br ...」&lt;/p&gt;
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&lt;div&gt;{{正確性|date=2006年6月}}&lt;br /&gt;
{{特殊文字}}&lt;br /&gt;
{{北朝鮮の事物|&lt;br /&gt;
title=金正哲|&lt;br /&gt;
hangeul=김정철|&lt;br /&gt;
hanja=金正哲|&lt;br /&gt;
hiragana=[[漢音|漢]]: きん せいてつ&amp;lt;br /&amp;gt;[[呉音|呉]]: きん しょうてち|&lt;br /&gt;
katakana=キム・ジョンチョル|&lt;br /&gt;
latin=Kim Chŏngch'ŏl|&lt;br /&gt;
alphabet-type=[[英語]]表記|&lt;br /&gt;
alphabet=Kim Jong-chol|&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''金 正哲'''（キム・ジョンチョル、[[1981年]][[9月25日]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;realtime09.7.2&amp;quot;&amp;gt;1980年生まれ説もあり。2009年7月2日放送『NNN News リアルタイム』より。&amp;lt;/ref&amp;gt; - ）は、[[北朝鮮]]の最高指導者[[金正日]]の次男。母は[[大阪]][[鶴橋]]生まれの[[在日朝鮮人]]二世で、帰国した[[高英姫]]。同母弟に[[金正恩]]、同母妹に[[金汝貞]]がいる。また、異母兄 [[金正男]]（母：[[成蕙琳]]）がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 来歴 ==&lt;br /&gt;
[[1996年]]頃に[[スイス]]のインターナショナルスクールに「Pak Cheol」（パク・チョル）という名前で留学していたことが確認されている。スクール内では[[バスケットボール]]を好んでいたとの証言がある。[[1998年]]に卒業を前にして突如帰国した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2007年]]には[[金日成軍事大学]]で軍事学を修め、金正日の軍視察に同行していたと報じられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== エリック・クラプトン・ファン ==&lt;br /&gt;
[[2006年]]6月、[[ドイツ]]を旅行中の様子を[[フジテレビジョン|フジテレビ]]によって報道された。この旅行は何らかの治療のためだとの観測があった。しかし、この件が発端で大のエリック・クラプトンのファンであることが知られるようになった。この旅行中にドイツで開催された[[エリック・クラプトン]]のコンサートに4日間全て訪れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なおこの頃に金正哲は[[ピョンヤン]]で公演できないかを韓国側に打診するよう要望したと伝えられている。身辺保障の覚書が交わされ、会場は綾羅島メーデースタジアムと決定するほどまで進展したものの、クラプトン側が「独裁体制で公演した初の有名ミュージシャン」になるのを嫌がり取り消された&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011021901000267.html クラプトン平壌公演を打診　北朝鮮、正哲氏希望で] TOKYO Web（東京新聞）2011年2月19日より。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=clapton&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://saenulee.com/board/index.php?mid=asiab&amp;amp;search_target=tag&amp;amp;search_keyword=%E9%87%91%E6%AD%A3%E5%93%B2&amp;amp;document_srl=19943&lt;br /&gt;
|title = 金正哲氏がソウル公演に？　クラプトンが懸念（上）&lt;br /&gt;
|date = 2011-02-19&lt;br /&gt;
|publisher = 朝鮮日報&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年5月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://saenulee.com/board/index.php?mid=asiab&amp;amp;search_target=tag&amp;amp;search_keyword=%E9%87%91%E6%AD%A3%E5%93%B2&amp;amp;document_srl=19946&lt;br /&gt;
|title = 金正哲氏がソウル公演に？　クラプトンが懸念（下）&lt;br /&gt;
|date = 2011-02-19&lt;br /&gt;
|publisher = 朝鮮日報&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年5月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに2011年2月14日には、[[シンガポール]]のライブハウスで、エリック・クラプトンのライブを鑑賞しに来た際の彼の映像が韓国の[[韓国放送公社|KBS]]で公開された。この際、正哲同行が20人以上おり、さらに会場警備と取材陣が一部もみあいになったという&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web&lt;br /&gt;
|url = http://www.47news.jp/CN/201102/CN2011021501000943.html&lt;br /&gt;
|title = 金正哲氏がクラプトン公演に　シンガポールで、韓国報道&lt;br /&gt;
|date = 2011-02-16&lt;br /&gt;
|work = 47news&lt;br /&gt;
|publisher = [[共同通信]]&lt;br /&gt;
|accessdate = 2012年5月1日&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=clapton /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/world/news/110215/kor11021523540006-n1.htm 正哲氏がクラプトン公演に　シンガポールで、韓国報道] [[MSN産経ニュース]]（[[産経新聞]]）、2011年2月15日&amp;lt;/ref&amp;gt;。正哲は耳には[[ピアス]]をし、着ていた服は黒の[[Tシャツ]]というラフな姿であった。また、韓国のマスコミが正哲への直撃取材を試みた際、韓国マスコミのカメラマンと、同じく正哲の取材をしていた[[テレビ朝日]]のカメラマンが数人の正哲の関係者に悪態をつかれた上、暴行された。正哲は取材に何も答えることなく去っていった&amp;lt;ref&amp;gt;「[[ワイド!スクランブル]]」 テレビ朝日 2011年2月17日放送&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 金正日の後継者候補 ==&lt;br /&gt;
北朝鮮では最高指導者の地位が[[金日成]]から実子・[[金正日]]に継がれたため、日本、韓国などのメディアでは[[金正日]]の後も、指導者の地位が世襲されることを前提にした報道が多かった。そのため、日韓のメディアにおいては金正日の後継者が実子のうち誰なのかがしばしば取り沙汰され、実母の故高英姫が偶像化されたことで金正哲の名前も挙げられた。また、金正日の妻であり後継者選びに大きな影響力を持つと言われる[[金玉 (秘書)|金玉]]は金正哲を推しているが、この背景には高英姫が死の直前に金正哲、金正恩の面倒を見るよう託したことも関係しているとされる。ただ本当に後継者と国内で目されているのであれば、ほんの数人の同行者を伴うだけで外国を歩き回り、外国メディアにその姿を追跡・撮影されつづけることを、[[朝鮮労働党]]や[[朝鮮人民軍]]の支持者らが黙認するとは考えにくいともいわれる&amp;lt;ref name=&amp;quot;jeonsiku&amp;quot;&amp;gt;『朝鮮半島最後の陰謀』 李鍾植, [[幻冬舎]] ISBN 978-4344013230&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年12月17日の金正日の死去後、三男である[[金正恩]]が後継者として発表された。先述の2006年にドイツ旅行の姿をメディアに撮影されたことが、後継者争いから脱落した原因になっているという見方もある（[[開かれた北韓放送]]代表の[[河泰慶]]の主張）&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news&lt;br /&gt;
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100929-OYT1T00287.htm&lt;br /&gt;
|title=金3兄弟後継レース、メディア露出が致命傷に&lt;br /&gt;
|work=YOMIURI ONLINE&lt;br /&gt;
|newspaper=[[読売新聞]]&lt;br /&gt;
|date=2010-09-29&lt;br /&gt;
|accessdate=2010-09-29&lt;br /&gt;
|language=日本語&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。金正日死去後はしばらく動向が確認されていなかったが、2013年4月、[[TBSテレビ|TBS]]は、北朝鮮最高幹部らの子弟によるグループ「[[烽火組]](ポンファ組)」のトップに金正哲が就任したと報じた&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite news&lt;br /&gt;
|url=http://japanese.joins.com/article/697/170697.html&lt;br /&gt;
|title=日本TBS「金正哲、北朝鮮版太子党の首長に就任」&lt;br /&gt;
|newspaper=[[中央日報]]&lt;br /&gt;
|date=2013-04-19&lt;br /&gt;
|accessdate=2013-05-20&lt;br /&gt;
|language=日本語&lt;br /&gt;
}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。2013年の11月から12月にかけて張成沢と側近が粛清された際には、金正哲の主導によるとする説が朝鮮日報によって報じられている&amp;lt;ref&amp;gt;北序列2位失脚：正恩氏の兄、正哲氏が主導か　朝鮮日報 2013年12月10日&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--（金正日総書記の側近中の側近であった張成沢労働党組織指導部第1副部長が昨年春に失脚した後、組織指導部第1副部長(党実務の最高責任者)に任命されたとの情報があったが不確かなままである。)張成沢はまた復権しましたしね…--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
「ホルモン分泌障害」により、体つきと声が女性のように変化している健康不安説がある。金正日が「ジョンチョルは性格が女っぽくてダメだ」と発言していたとも言われる。そのため後継者として有力なのは同母弟[[金正恩]]（キム・ジョンウン）ではないかとも言われる。（下記リンク先)[[2007年]][[11月]][[23日]]に金正哲が[[朝鮮労働党]]組織指導部副部長に任命されたことが分かった「中央党本庁舎」に執務室を持ち、金正日の指示を仰いでいるという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/18/20060618000015.html 金正哲氏のホルモン分泌障害は筋肉増強剤の副作用]&lt;br /&gt;
*[http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/18/20060618000018.html 金正哲氏、北朝鮮の後継者争いから脱落か]&lt;br /&gt;
http://japanese.joins.com/article/697/170697.html 日本TBS「金正哲、北朝鮮版太子党の首長に就任」&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{金正日家系図}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==脚注==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==参考文献==&lt;br /&gt;
*[[河信基]]（ハ・シンギ）著『金正日の後継者は「在日」の息子』（講談社）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{People-stub}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きむ しよんちよる}}&lt;br /&gt;
[[Category:北朝鮮の人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:1981年生]]&lt;br /&gt;
[[Category:全州金氏]]&lt;br /&gt;
[[Category:存命人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正日]]&lt;br /&gt;
[[Category:金正恩]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A0%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87&amp;diff=220440</id>
		<title>グレシャムの法則</title>
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				<updated>2014-02-12T15:29:09Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''グレシャムの法則'''（グレシャムのほうそく）は、経済学の法則のひとつ。一般には内容の要約「'''悪貨は良貨を駆逐する'''」で知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[貨幣]]の額面価値と実質価値に乖離が生じた場合、より実質価値の高い貨幣が流通過程から駆逐され、より実質価値の低い貨幣が流通するという法則の事である。従って、主に[[金貨]]や[[銀貨]]など、それ自体に価値のある貨幣に当てはまる法則で、貨幣自体に大して価値のない信用貨幣の場合は殆ど当てはまらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば、[[金]]の含有量の多い[[金貨]]と少ない金貨の二種類が、同じ額面で同時に流通したとする。この二種類には、通貨としての価値は同じでも貴金属としての価値は違うという、二重の価値が生じる。仮に、貴金属としての価値の高い方を良貨、低い方を悪貨と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すると、人々は良貨を手元に置いておき、日々の支払いには悪貨を用いる傾向が生じる。貨幣を用いるとはその貨幣を手放すという事であり、貴金属としての価値の高い良貨は手放したくなくなり、日々の支払いには貴金属としての価値の低い悪貨で間に合わせておこうと考えるからである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『グレシャムの法則』という名称は、16世紀のイギリス国王財政顧問[[トーマス・グレシャム]]が、[[1560年]]に[[エリザベス1世 (イングランド女王)|エリザベス1世]]に対し「イギリスの良貨が外国に流出する原因は貨幣改悪のためである」と進言した故事に由来する。これを19世紀イギリスの経済学者[[ヘンリー・マクロード]]が自著『政治経済学の諸要素』([[1858年]])で紹介し『グレシャムの法則』と命名、以後この名称で呼ばれるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、悪貨が良貨を駆逐するという現象自体は、古くから各地で知られていた。[[古代ギリシア]]の劇作家[[アリストパネス]]は、自作の登場人物に「この国では、良貨が流通から姿を消して悪貨がでまわるように、良い人より悪い人が選ばれる」という台詞を与え、当時の[[アテナイ]]で行われていた[[陶片追放]]を批判している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、天文学者として知られる[[ニコラウス・コペルニクス]]も、グレシャムの進言に先駆けて同様の説を唱えていたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代はグレシャムより下るが、日本の江戸時代中期の思想家[[三浦梅園]]も、自著『価原』([[1773年]])の中で「悪幣盛んに世に行わるれば、精金皆隠る」という説を独立して唱えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、「悪貨が良貨を駆逐する」という言葉は、悪人がはびこるような治安の悪い状態や、軽佻浮薄な文化が流行するような場合を指すときにもよく引き合いに出される。前述のアリストパネスの例のように、これはもともと転義的用法だが、主流や流行を非難する際に便利な言葉なので、本来の意義を離れてよく用いられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グレシャムが主張した「悪貨は良貨を駆逐する」という原則。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
品位量目の違う二種の貨幣に、同一の名目価格をつけて流通させる時、実質価値の高い貨幣（良質）は蓄蔵されたり、地金として使用されたりして市場から姿を消し、実質価値の低い貨幣（悪貨）のみ残るというもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
↑&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グレシャム Thomas Gresham &amp;amp;dagger;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(1519頃-1579) イギリスの貿易商人。王室財務官。エリザベス一世時代に王室為替取引所を設立、貨幣改鋳を行なった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
【噴水台】鋳潰の自由&lt;br /&gt;
 「悪貨は良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」は、実は誤って付けられた名前だ。 英国女王エリザベス１世の財政顧問だったグレシャムが著述した『備忘録』(１５５９）にはそうした主張が入っていない。 ただし、女王あてに送る書簡で「鋳貨の低質化が英国鋳貨（英ポンド）の交換比率を落とすはずであり、良い金貨が国外に流出している」と指摘しているだけだ。 グレシャムの法則が、通常、国内の流通過程で起きるものだが、グレシャムは対外貿易で発生するのを見たのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは「コペルニクスの法則」になるべきだった。 地動説で有名なコペルニクスは『貨幣論』(１５１７）で「良質と低質の鋳貨が共に流通すれば、細工師らが良質の鋳貨を選び出して、銀を溶かした後、無知な大衆に売るだろう。．．．.劣等鋳貨が良貨を追い出すために導入される」と主張した。 彼はまた、ポーランド国王に低質な鋳貨を発行し利得を取るよう建議する学者らに対し「貨幣は王の法に従うのではなく、自身の法に従う」と雄弁した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コペルニクスの話にきちんと従った国がスウェーデンだった。 銅が豊かなスウェーデンでは、金・銀の代わりに小銭が使われた。 ところが、額面にあわせているため、小銭の重さが途方もなく重くならざるを得なかった。 初めて小銭を作ったクリスティーナ女王（１６３２～５４）の当時、１０ドルの小銭の重さは１９．７５キロに達した。 金持ちは家が崩れるのを防ぐために、地下室にお金を保管しなければならなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１次世界大戦の前まで広範囲に施行されていた金本位制は、このように鋳貨の金属含有量、すなわち「内在価値（地金）が鋳貨に彫られた名目価値（額面）と一致する良貨」を前提としたものだ。 それを裏付けるのが、鋳造と鋳潰（いつぶすこと）の自由である。 金の価値が、同じ重さの金貨の額面価格より下落すれば、金の所持者らは中央銀行に金貨を作ってほしい、と要求できる権利が鋳造の自由だ。 反対に、金の価格が上がり金塊が金貨より高い場合、金貨を溶かして金塊に作れる権利が鋳つぶす自由だ。 それを通じて金貨と金塊の価値が一致できた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
銅と亜鉛を混ぜて作った１０ウォン（約１円）のコインが超優良の鋳貨になったもようだ。 材料費と額面が同じくなる「メルティングポイント」が崩れ、小銭を溶かして他の物を作るほうが良い状況に至った。 そのため、中央銀行の韓国銀行は１０ウォンのコインを、さらに安い材料で、さらに小さく変える予定らしい。 すでに貨幣としての価値を失って久しいが、せめて所持者のポケットを軽くしてやりたい、というサービスマインドのようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:経済学|くれしやむのほうそく]]&lt;br /&gt;
[[Category:通貨制度|くれしやむのほうそく]]&lt;br /&gt;
[[Category:経済現象|くれしやむのほうそく]]&lt;br /&gt;
[[Category:社会科学の法則|くれしやむのほうそく]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[en:Gresham's Law]]&lt;br /&gt;
*[[wiki:グレシャムの法則]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;diff=220439</id>
		<title>神聖ローマ帝国</title>
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				<updated>2014-02-12T15:28:11Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Fix bunching|beg}}{{基礎情報 過去の国 |略名          =ドイツ帝国 |日本語国名    =神聖ローマ帝国 |公式国名      ={{lang-de-short|Heiliges R...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Fix bunching|beg}}{{基礎情報 過去の国&lt;br /&gt;
|略名          =ドイツ帝国&lt;br /&gt;
|日本語国名    =神聖ローマ帝国&lt;br /&gt;
|公式国名      ={{lang-de-short|Heiliges Römisches Reich}}&amp;lt;br/&amp;gt;{{lang-la-short|Sacrum Romanum Imperium}}&lt;br /&gt;
|建国時期      =[[800年]]または[[962年]]&lt;br /&gt;
|亡国時期      =[[1806年]]&lt;br /&gt;
|先代1         =東フランク王国&lt;br /&gt;
|次代1         =オーストリア帝国&lt;br /&gt;
|次旗1         =Flag of the Habsburg Monarchy.svg&lt;br /&gt;
|次代2         =プロイセン王国&lt;br /&gt;
|次旗2         =Flag of Prussia (1803).gif&lt;br /&gt;
|次代3         =ライン同盟&lt;br /&gt;
|次旗3         =Flag of the Confederation of the Rhine.svg&lt;br /&gt;
|国旗画像      =Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg&lt;br /&gt;
|国旗リンク    = &amp;lt;!--「&amp;quot;略名&amp;quot;の国旗」以外を指定--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗説明 = &lt;br /&gt;
|国旗幅 = &amp;lt;!--初期値125px--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国旗縁 = &amp;lt;!--no と入力すると画像に縁が付かない--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|国章画像      =Quaterionenadler David de Negker.svg&lt;br /&gt;
|国章リンク    =[[神聖ローマ帝国の紋章一覧|国章]]&lt;br /&gt;
|国章説明 =&lt;br /&gt;
|国章幅 =  &amp;lt;!--初期値85px--&amp;gt;&lt;br /&gt;
|標語          =&lt;br /&gt;
|国歌名        =&lt;br /&gt;
|国歌追記      =&lt;br /&gt;
|位置画像      =HRR.gif&lt;br /&gt;
|位置画像説明  =領土の変遷&lt;br /&gt;
|公用語        =[[ドイツ語]]、[[ラテン語]]、[[イタリア語]]、[[チェコ語]]、[[オランダ語]]、[[フリジア語]]、[[フランス語]]、[[スロベニア語]]、[[ソルブ語]]、[[ポーランド語]]&lt;br /&gt;
|首都          =[[ウィーン]]([[1483年]]-[[1806年]])&lt;br /&gt;
国会[[レーゲンスブルク]]([[1663年]]-[[1806年]])&lt;br /&gt;
[[プラハ]]([[1346年]]-[[1437年]]、[[1583年]]-[[1611年]])&lt;br /&gt;
|元首等肩書    =[[皇帝]]&lt;br /&gt;
|元首等年代始1 =[[962年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終1 =[[973年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名1   =[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]（初代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始2 =[[1355年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終2 =[[1378年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名2   =[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]（第16代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始3 =[[1452年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終3 =[[1493年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名3   =[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]（第18代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始4 =[[1519年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終4 =[[1530年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名4   =[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]（第20代）&lt;br /&gt;
|元首等年代始5 =[[1792年]]&lt;br /&gt;
|元首等年代終5 =[[1806年]]&lt;br /&gt;
|元首等氏名5   =[[フランツ2世]]（最後）&lt;br /&gt;
|面積測定時期1 =&lt;br /&gt;
|面積値1       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期2 =&lt;br /&gt;
|面積値2       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期3 =&lt;br /&gt;
|面積値3       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期4 =&lt;br /&gt;
|面積値4       =&lt;br /&gt;
|面積測定時期5 =&lt;br /&gt;
|面積値5       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期1 =[[1550年]]&lt;br /&gt;
|人口値1       =17,000,000&lt;br /&gt;
|人口測定時期2 =&lt;br /&gt;
|人口値2       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期3 =&lt;br /&gt;
|人口値3       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期4 =&lt;br /&gt;
|人口値4       =&lt;br /&gt;
|人口測定時期5 =&lt;br /&gt;
|人口値5       =&lt;br /&gt;
|変遷1         =成立&lt;br /&gt;
|変遷年月日1   =[[962年]][[2月2日]]&lt;br /&gt;
|変遷2         =金印勅書&lt;br /&gt;
|変遷年月日2   =[[1356年]]&lt;br /&gt;
|変遷3         =ヴェストファーレン条約&lt;br /&gt;
|変遷年月日3   =[[1648年]][[10月24日]]&lt;br /&gt;
|変遷4         =&lt;br /&gt;
|変遷年月日4   =&lt;br /&gt;
|変遷5         =滅亡&lt;br /&gt;
|変遷年月日5   =[[1806年]][[8月6日]]&lt;br /&gt;
|通貨          =&lt;br /&gt;
|注記          =&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
{{Collapse top|各国の歴史}}&lt;br /&gt;
{{オーストリアの歴史}}&lt;br /&gt;
{{フランスの歴史}}&lt;br /&gt;
{{ドイツの歴史}}&lt;br /&gt;
{{Collapse bottom}}&lt;br /&gt;
{{FixBunching|end}}&lt;br /&gt;
'''神聖ローマ帝国'''（しんせいローマていこく、{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|Heiliges Römisches Reich}}, {{llang|la|言語記事名=ラテン語|Sacrum Romanum Imperium}},{{llang|la|言語記事名=イタリア語|Sacro Romano Impero}} , [[800年]]/[[962年]] - [[1806年]]）は、現在の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[チェコ]]、[[北イタリア|イタリア北部]]を中心に存在していた[[国家]]&amp;lt;ref name=yshinsei/&amp;gt;&amp;lt;ref name=daijirin/&amp;gt;&amp;lt;!--左記の百科事典、辞典は神聖ローマ帝国を「政体」ではなく「国家」と定義している--&amp;gt;。1512年以降の正式名称は「'''ドイツ国民の神聖ローマ帝国'''」（{{lang-de|Heiliges Römisches Reich Teutscher Nation}}）である&amp;lt;ref group=&amp;quot;nb&amp;quot;&amp;gt;TeutscherはDeutscherと同じ意味を持ち、後年にはHeiliges Römisches Reich Deutscher Nationという表記もなされた。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=&amp;quot;nb&amp;quot;&amp;gt;1804年の皇帝称号変更命令では「ローマ＝ドイツ帝国」（{{lang-de|Römisch-Deutschen Reiche}}）、1806年8月6日の[[s:de:Die_Siegel_der_deutschen_Kaiser_und_Könige_Band_5/Beilagen#Beilage_3|神聖ローマ帝国の解散詔勅]]では「ドイツ帝国」（{{lang-de|Deutschen Reich}}）とも表現される。ただし皇帝の称号は終始神聖ローマ皇帝（{{lang-de|Erwählter römischer Kaiser}}）である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国の体制は皇帝の権力が諸侯によって弱められることにより、[[中世]]から[[近世]]にかけて変化した。最後の数世紀にはその体制は諸領域の連合体に近いものになっている。現在の[[ドイツ]]、[[オーストリア]]、[[ベルギー]]、[[チェコ]]、[[リヒテンシュタイン]]、[[ルクセンブルグ]]、[[モナコ]]、[[オランダ]]、[[クロアチア]]、[[サンマリノ]]、[[スロベニア]]、[[スイス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[ポーランド]]を支配(連合国も含む)した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==概要 ==&lt;br /&gt;
日本では通俗的に、[[962年]][[ドイツ王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]が[[教皇|ローマ教皇]][[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]により、カロリング朝的[[ローマ帝国]]の継承者として[[皇帝]]に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している&amp;lt;ref group=&amp;quot;nb&amp;quot;&amp;gt;たとえば、山川出版社の受験参考書である『詳説 世界史研究』はカール大帝の帝権を「西ローマ帝国の復活」、オットー大帝の帝権以降を「神聖ローマ帝国」とし、両者の断絶を想定している。しかしながら、おなじ山川出版社による専門的な概説書『世界歴史大系 ドイツ史』では、オットーの帝権はカール大帝のフランク・ローマ的な帝権を継承したものであることが強調されており、オットーの帝権がカロリング的支配者の伝統に位置づけられている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、ドイツの歴史学界ではこの帝国を[[カール大帝]]から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。すなわち、カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期（[[800年]]-[[911年]]）・オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期（[[962年]]-[[1254年]]）・中世後期から[[1806年]]にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], pp. 15-49。&amp;lt;/ref&amp;gt;。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた[[選挙王制]]の形式を取っていたが、中世盛期の三王朝時代（[[ザクセン朝]]、[[ザーリアー朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]）では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=yshinsei/&amp;gt;。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた（[[帝国教会政策]]）&amp;lt;ref name=teikokukyoukai/&amp;gt;。また、歴代の皇帝は「ローマ帝国」という名目のために[[イタリア]]の支配権を唱え、度々侵攻した（[[イタリア政策]]）。当初、皇帝権は教皇権に対して優勢であり、皇帝たちは度々[[教皇庁]]に介入していた。だが、[[グレゴリウス改革|教会改革運動]]が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ、[[11世紀]]後半から[[12世紀]]にかけての[[叙任権闘争]]は皇帝側の敗北に終わった&amp;lt;ref name=horikosi174/&amp;gt;。この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている&amp;lt;ref name=yshinsei/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1254年]]に[[ホーエンシュタウフェン朝]]が断絶すると、20年近くも王権の影響力が空洞化する[[大空位時代]]となり、諸侯への分権化がより一層進んだ&amp;lt;ref&amp;gt; [[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]], p. 76。&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[14世紀]]の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]による[[金印勅書]]以降、皇帝は有力な7人の封建領主（[[選帝侯]]）による選挙で選ばれるようになり、さらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。この間、異なる家門の皇帝が続く、[[跳躍選挙]]の時代が続いたが、[[1438年]]に即位した[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]以降は[[ハプスブルク家]]が帝位をほぼ独占するようになった&amp;lt;ref group=nb name=dokusen/&amp;gt;。[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]治世の[[1495年]]から[[帝国改造]]が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる&amp;lt;ref name=bsinseir/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[16世紀]]の[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の治世に始まった[[宗教改革]]によって帝国は[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]に分裂し、宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、[[アウクスブルクの和議]]によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。宗教対立は収まらず、[[1618年]]に[[三十年戦争]]が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権（[[主権]]）が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった&amp;lt;ref name=wilson45/&amp;gt;。しかしながら、その後[[プロイセン王国|プロイセン]]が台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、帝国はやがて機能不全に陥った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.110-110&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[19世紀]]初頭にはフランス皇帝[[ナポレオン・ボナパルト]]の侵攻を受け、フランスに[[従属国|従属]]する[[ライン同盟]]に再編された。帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していた神聖ローマ皇帝[[フランツ2世]]は退位し、帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
[[File:Flag of the Holy Roman Empire (1200-1350).svg|thumb|神聖ローマ帝国旗（1200–1350）]]&lt;br /&gt;
古代[[ローマ帝国]]の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。&lt;br /&gt;
* [[11世紀]]まで - '''ローマ帝国'''（または単に'''帝国'''&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ドイツ語の {{lang|de|Reich}} は「帝国」を意味し、ラテン語の {{lang|la|imperium}} に対応する概念である。&amp;lt;/ref&amp;gt;）&lt;br /&gt;
:{{llang|de|言語記事名=ドイツ語|表示言語名=独|Römisches Reich}}&lt;br /&gt;
:{{llang|la|言語記事名=ラテン語|表示言語名=羅|Imperium Romanum}}&lt;br /&gt;
* [[12世紀]] - '''神聖帝国'''&lt;br /&gt;
:羅：{{lang|la|Sacrum Imperium}}&lt;br /&gt;
* [[13世紀]] - '''神聖ローマ帝国'''&lt;br /&gt;
:独：{{lang|de|Heiliges Römisches Reich}}&lt;br /&gt;
:羅：{{lang|la|Sacrum Romanum Imperium}}&lt;br /&gt;
* [[1512年]] - '''ドイツ国民の神聖ローマ帝国'''&lt;br /&gt;
:独：{{lang|de|Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation}}&lt;br /&gt;
:羅：{{lang|la|Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae}}&lt;br /&gt;
「神聖」（''Sacrum''）の形容詞は、[[1157年]]に[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]がドイツの[[諸侯]]に発布した召喚状に初めて現れる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.96-97&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
元々、古代[[ローマ帝国]]や[[カール大帝]]の[[フランク王国]]の後継帝国を自称していた。フランク王国は[[西ローマ帝国]]の後継国家を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」は、（西）ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国である、ということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者が[[教皇|ローマ教皇]]によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位したのである。しかしこの帝国は、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としているものの[[ローマ]]は含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、古代[[ローマ帝国]]の正統な後継国家としては、15世紀中期までは[[コンスタンティノポリス]]を首都とする[[東ローマ帝国]]（'''中世ローマ帝国'''）が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主が「[[ローマ皇帝]]」であることも承認しなかった（二帝問題）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.243-245&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことを「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.245&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時代が下って[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が政権を握ると、彼らは自らを「ドイツ'''[[第三帝国]]'''」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国（ドイツ第一帝国）、[[ドイツ帝国]]（ドイツ第二帝国）に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味である&amp;lt;ref&amp;gt;[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&amp;amp;p=%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;amp;dtype=0&amp;amp;dname=0na&amp;amp;stype=0&amp;amp;pagenum=1&amp;amp;index=13523911157500 だいさん‐ていこく【第三帝国】]（大辞泉，[[JapanKnowledge]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 領域 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float:right;width:500px;height:450px;overflow:hidden;position:relative;margin-left:15px;font-size:15px&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
[[File:HRR.gif|thumb|450px|現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷]]&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:22%;left:65%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[プロイセン王国|プロイセン]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:25%;left:52%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:30%;left:52%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ザクセン]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:36%;left:43%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[プファルツ選帝侯領|プファルツ]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:31%;left:30%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ネーデルラント]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:39%;left:59%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ボヘミア]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:41%;left:48%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[バイエルン選帝侯領|バイエルン]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:46%;left:62%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[オーストリア]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:46%;left:45%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[シュヴァーベン]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:53%;left:54%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[シュタイアーマルク]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:44%;left:35%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ブルグント王国|ブルグント]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:51%;left:45%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[スイス]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:57%;left:48%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ミラノ]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;position:absolute;top:70%;left:56%;&amp;quot;&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;[[ローマ]]&amp;lt;/small&amp;gt;&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
神聖ローマ帝国の領域は今日の[[ドイツ]]（[[南シュレスヴィヒ]]{{enlink|Southern Schleswig|en}}を除く）、[[オーストリア]]（[[ブルゲンラント州]]を除く）、[[チェコ|チェコ共和国]]、[[スイス]]と[[リヒテンシュタイン]]、[[オランダ]]、[[ベルギー]]、[[ルクセンブルク]]そして[[スロベニア]]（[[プレクムリェ地方]]を除く）に加えて、[[フランス]]東部（主に[[アルトワ]]、[[アルザス]]、[[フランシュ＝コンテ地域圏|フランシュ＝コンテ]]、[[サヴォワ]]と[[ロレーヌ]]）、[[北イタリア]]（主に[[ロンバルディア州]]、[[ピエモンテ州]]、[[エミリア＝ロマーニャ州]]、[[トスカーナ]]、[[南チロル]]）そして[[ポーランド]]西部（主に[[シレジア]]、[[ポメラニア]]、および[[ノイマルク]]{{enlink|Neumark|en}}&lt;br /&gt;
）に及んでいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国は当初、[[ドイツ王]]兼[[イタリア王]]が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していた[[ボヘミア]]（現在のチェコ共和国）は[[1158年]]（または[[1159年]]）に大公から[[ボヘミア王国|王国]]へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.61-62&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9C%E3%83%98%E3%83%9F%E3%82%A2/ 【ボヘミア】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1032年]]に[[ブルグント王国]]の王家が断絶すると、[[1006年]]にブルグント王[[ルドルフ3世 (ブルグント王)|ルドルフ3世]]とドイツ王（のち皇帝）[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.54&amp;lt;/ref&amp;gt;。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[13世紀]]半ば、皇帝不在の[[大空位時代]]を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した&amp;lt;ref name=bsinseir&amp;gt;【神聖ローマ帝国】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;。ブルグントには[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]を初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;北イタリア諸邦は帝国クライスに属さず、帝国議会にも出席していない。ただし、近年の研究では帝国と帝国イタリアとの結びつきについて再評価も行われている。[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.105-108&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]（ウェストファリア条約）の結果、[[エルザス＝ロートリンゲン]]（アルザス＝ロレーヌ）のいくつかの都市がフランスに割譲され、[[スイス]]と[[オランダ]]が独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス＝ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==歴史==&lt;br /&gt;
=== カロリング帝国 ===&lt;br /&gt;
====西ローマ帝国復興====&lt;br /&gt;
小ピピンの死後、[[イタリア]]の[[ランゴバルド王国]]の国王{{仮リンク|デシデリウス|en|Desiderius}}は王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威をとりのぞき、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした。なお、ランゴバルドは、イタリア語では「ロンバルド」と呼び、[[ロンバルディア州]]、ロンバルディア平原の語源となった。[[770年]]、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、[[773年]]、[[ローマ教皇]][[ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス1世]]（在位:[[772年]]－[[795年]]）がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父にあたるランゴバルド王と対決することに方針を定め、妃を追い返して[[アルプス山脈]]を越えイタリアに攻め込んだ。翌[[774年]]にはランゴバルドの首都[[パヴィア]]を占領し、デシデリウス王を捕虜として「[[鉄の王冠]]」を奪い、[[ポー川]]流域一帯の旧領を握ると、みずからランゴバルド王となって[[ローマ教皇領]]の保護者となった。さらに父王ピピンの例にならって中部イタリアの地を教皇に寄進した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Charlemagne and Pope Adrian I.jpg|right|thumb|280px|カール大帝とローマ教皇ハドリアヌス1世]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[772年]]には、[[ドイツ]]北部にいたゲルマン人の一派[[サクソン人|ザクセン族]]を服属させようとし、[[ウィドゥキント]]を降伏させたほか、10回以上の遠征をおこなった[[ザクセン戦争 (カール大帝)|ザクセン戦争]]をすすめ [[804年]]には完全にこれを服属させ、今日あるドイツの大半を征服することで領土を拡大した。カールは、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、[[フランク人]]を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[778年]]、カールは[[スペイン]]の[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]に遠征した。この時のカールの遠征を題材にしたのが『[[ローランの歌]]』である。ローランはカールの甥で最も危険な後衛部隊をひきいていたが、味方の裏切りにあいイスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のローランは助けを求めず、カールより賜った剣[[デュランダル]]で最後のひとりになっても戦った。このなかでカールは200歳を越す老騎士として登場する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カールのスペイン遠征の成果により、[[後ウマイヤ朝]]の[[イスラム]]勢力を討って[[エブロ川]]以北を占領して[[795年]]にはスペイン辺境領をおいた。北の[[フリース族]]とも戦い、西では[[ブルターニュ]]を鎮圧して、東方では[[ドナウ川]]上流で土豪化していた[[バイエルン人|バイエルン族]]を攻めて[[788年]]にはこれを征服するとともに、[[791年]]以降はドナウ川中流の[[スラヴ人]]（ヴェンド族）や[[パンノニア平原]]にいた[[アヴァール]]を討伐してアヴァール辺境領をおき、[[792年]]には[[ウィーン]]にペーター教会を建設している。アヴァールは、[[中央アジア]]に住んでいたアジア系[[遊牧民族]]で[[モンゴル人|モンゴル系]]もしくは[[テュルク]]系ではないかと推定される。6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後は[[マジャル人|マジャール人]]や[[スラヴ人]]に同化していったと考えられる&amp;lt;ref&amp;gt;中国の[[柔然]]との同族説もあるが、確証はない。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[ファイル:Empire carolingien 768-811.jpg|thumb|left|350px|カール時代のフランク王国（'''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領）]]&lt;br /&gt;
結果としてカールの王国は現在のフランス、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]、[[スイス]]、[[オーストリア]]、[[スロヴェニア]]、[[モナコ]]、[[サンマリノ]]、[[バチカン市国]]の全土と、ドイツ、スペイン、[[イタリア]]、[[チェコ]]、[[スロヴァキア]]、[[ハンガリー]]、[[クロアチア]]の各一部に広がった。このことにより、[[イギリス]]、[[アイルランド]]、[[イベリア半島]]、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、[[イングランド]]、[[デンマーク]]、[[スカンジナビア半島]]をのぞく全ゲルマン民族を支配してフランク王国は最盛期を迎えた。カールは、[[ゲルマン民族の大移動]]以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、住民を、キリスト教の[[アタナシウス派]]（[[カトリック教会]]）に改宗させてフランク化もおこなった。カールはまた、広い領土を支配するために全国を州に分け、それぞれの州に「[[伯]]」（Comes、Graf）という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えるとともにその世襲を禁じた&amp;lt;ref&amp;gt;カールの死後は世襲化が進み、かえって地方の分権化をうながした。&amp;lt;/ref&amp;gt;。荘園経営の指針として荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に[[巡察使]]（ミッシ・ドミニ）を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ファイル:Charlemagne-liege-1.jpg|200px|right|thumb|カール大帝像（[[ベルギー]]、[[リエージュ]]）]]&lt;br /&gt;
しかし、征服化されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な[[ゲルマン法|部族法]]があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の[[封建社会|封建]]化の進行を完全に抑えることができなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[画像:Sacre de Charlemagne.jpg|right|280px|thumb|[[ジャン・フーケ]],「カールの戴冠」（1455-1460）]]&lt;br /&gt;
カールは、[[800年]]11月、[[バチカン]]の[[サン・ピエトロ大聖堂]]でのクリスマス・ミサに列席するため、長男[[カール少年王（フランク王）|カール]]、高位の聖職者、伯、兵士たちからなる大随行団をしたがえ、イタリアへ向かって5度目のアルプス越えをおこなった。ローマから約15kmのところでカールはローマ教皇よりじきじきの出迎えをうけた。そして、サンピエトロ大聖堂まで旗のひるがえる行列の真ん中で馬上にあって群衆の歓呼を浴びつつ進むと、教皇はカールを大聖堂のなかへ導いた&amp;lt;ref&amp;gt;印象的なこのローマ入城は、あたかもローマ時代の儀礼「皇帝到来」の再現のようであったという。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
800年[[12月25日]]の午前中のミサで、[[ペトロ]]の墓にぬかずき、身を起こしたカールに、教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]（在位:795年－[[816年]]）は「'''ローマ皇帝'''」（神により加冠されし至尊なる[[アウグストゥス]]、偉大にして平和的なる、ローマ帝国を統治する[[インペラートル]]；serenissimus Augustus a Deo coronatus, magnus pacificus Imperator Romanorum gubernans Imperium）として帝冠を授けた&amp;lt;ref&amp;gt;通常、これをもって「カールの[[西ローマ帝国]]皇帝即位」（在位:800年－[[814年]]）としている。強い政治力や軍事力をもたなかった当時のローマ教皇は、カールを西ローマ皇帝とすることで、はじめて[[東ローマ帝国|東ローマ皇帝]]や、その支配下にある[[正教会|コンスタンティノープル教会]]に対抗することが可能になったのである。ただし、半面、カールが整備された道路、統一された官僚群、常備された軍隊を欠いた状態で、広大な領土の統治するため、ローマ皇帝の権威とカトリックの教会組織を必要としていたことも事実である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。このとき、周囲の者はみな、「けだかきカール、神によって加冠され、偉大で平和的なるローマ人の皇帝万歳」&amp;lt;ref&amp;gt;古代ローマ皇帝の理念は「キリスト教皇帝」に変質していたので、敬虔なローマ・カトリック教徒の最高の王者であれば、ゲルマン人であっても、カールが皇帝になることは差し支えなかったことをあらわしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;と叫んだという。なお、レオ3世は前年（[[799年]]）、対立する勢力に命を襲われ、カールのもとに逃げ込んだことがあった。カールの戴冠は、教皇をたすけたことへの報酬でもあり、教皇権の優位の確認でもあり、[[東ローマ帝国]]への対抗措置でもあったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、この「戴冠」については教皇レオ3世とカールとの間には認識の差があり、アインハルトは「もし、前もって戴冠があることを知っていたら、サンピエトロ大聖堂のミサには出席しなかっただろう」というカール自身の言葉を伝えている。[[コンスタンティノポリス]]の東ローマ帝国は、'''皇帝'''の称号を名乗るためには東ローマ皇帝の承認が必要であることを強硬に主張していたし、それは西欧世界においても伝統的な認識であった（そもそも、ローマ教皇が皇帝を任命するという慣習はそれまでにはまったくなかった。また古代の東西ローマ分割時代は、東西の皇帝は即位時に互いの帝位を承認し合っていた）。その意味で、カールの戴冠は東ローマ側から見ると皇帝称号の[[僭称]]にすぎないと見なされた。そこでカールは自らの皇帝称号を東ローマ側に承認させるための'''皇帝補任運動'''を繰り広げた。カールは、彼自身が東ローマの女帝[[エイレーネー]]と結婚することによって皇帝の称号を正式のものとするといった奇策も考えたが、これは実現することはなかった。東ローマ帝国では当初カールの皇帝権を容易に承認しようとはしなかったが、女帝[[エイレーネー]]の死後の[[812年]]にようやく両者の間で妥協が成立&amp;lt;ref&amp;gt;東ローマ帝国との関係が悪化したとき、カールは、ハールーン・アッ＝ラシード（アッバース朝全盛期の[[カリフ]]）とも提携して対抗しようとしている。なお、「[[シャルルマーニュの護符]]」はハールーン・アッ＝ラシードより贈られたものと言われる。&amp;lt;/ref&amp;gt;し、東ローマはカールの帝位を認めた。その代わりカールは南イタリアの一部と商業のさかんな[[ヴェネツィア]]を東ローマ領として譲り渡すことを承認した。ただ、この時にも東ローマ側としては'''[[ローマ皇帝]]（ローマ人の皇帝）はコンスタンティノポリスの東ローマ皇帝のみ'''であるとしており、カールには'''ローマ皇帝ではなく、フランクの「皇帝」としての地位'''しか認めていない&amp;lt;ref&amp;gt;これは後の[[第一次ブルガリア帝国]]の皇帝[[シメオン1世]]などに対しても同様である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、そうだったとしても、西欧的立場から見るならば、これまでは[[地中海世界]]で唯一の皇帝であった東ローマ皇帝に対し、西ヨーロッパのゲルマン社会からも皇帝が誕生したことは大きな意味を持っていた。ここでローマ教会と西欧は東ローマ皇帝の宗主権下からの政治的、精神的独立を果たしたと評価されている。このことは、西欧の政治統合とともに、ローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる一つの文化圏の成立&amp;lt;ref&amp;gt;それはまた、世俗権力と教権とが並立する独自の世界の成立でもあった。&amp;lt;/ref&amp;gt;を象徴することでもあったとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ローマ皇帝'''に即位した[[カール大帝]]は[[教皇|ローマ教皇]]によって戴冠される伝統を開くことにより神聖ローマ帝国の先駆けとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Pagden(2008)|Pagden(2008)]],p.147&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=yshinsei&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD/ 【神聖ローマ帝国】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。教皇による戴冠は[[16世紀]]まで神聖ローマ帝国にとっての重要な制度となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Bryce(1968)|Bryce(1968)]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。カール大帝の「ローマ帝国復興」（''renovatio Romanorum imperii''）政策は、帝国が消滅する[[1806年]]まで（少なくとも原理上は）帝国の公的な地位であり続ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====帝国分裂====&lt;br /&gt;
[[814年]]に[[カール大帝]]が歿すると、「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」[13]に従い、806年に「国王分割令」（ディヴィシオ・レグノールム）を定め、三人の嫡子、すなわち嫡男カール・ランゴバルド分国王ピピン・アクイタニア分国王ルートヴィヒを後継者とした。しかし、810年にピピンが、翌年には嫡男カールが父に先立って没したため、813年、ただ一人残った息子ルートヴィヒを共同皇帝とした。翌814年1月28日、カールはアーヘンにおいて死去した。彼の後を継いだルートヴィヒ敬虔王 (Ludwig der Fromme) は[[817年]]、「帝国整備（計画）令 (Ordinatio Imperii)」を発布。長男ロタール (Lothar) を共同統治者とすると共に、ロタールには王国本土を、次男ピピン (Pippin) と三男ルートヴィヒ (Ludwig) にはそれぞれアクィタニアと[[バイエルン州|バイエルン]]とを与える分割統治案を定め、分権的統一王国の創出を図った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランク族には「領土相続権を長子のみに与えるのではなく、分割相続させる」という慣習が存在した。帝国計画令は、この分割相続の理念と統一国家維持の理念との妥協点を見出すために発布されたものであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、[[823年]]に第2妃ユーディットとの間に末弟カール (Karl) が誕生すると、彼を偏愛する敬虔王はカールが不利益を被ることを避けるため、[[831年]]、国土分割的理念を新たな統治案に盛り込み、カールにも領土を与えることを決めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ロタールら3兄は、手中に収まるはずの領土が削減されたことに不満を募らせた。&lt;br /&gt;
リヨン大司教アゴバルト (Agobard) ら有力聖職者もこの案に反発した。統一王国の理念を奉じ、[[832年]]に3兄が敬虔王への反乱を企てた際には、これを支持。翌[[833年]]に敬虔王は廃位された。しかし、その後行われた3兄間の取引は決裂、更に[[834年]]に復位を果たした敬虔王は、なおもカールに有利な分割案に執着した。この相続争いは、[[838年]]にピピンが死去したことにより、一層激化した。&lt;br /&gt;
[[File:Traktat verdun jp.svg|400px|right|thumb|[[ヴェルダン条約]]によるフランク王国の分割&lt;br /&gt;
{| width=&amp;quot;400&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! bgcolor=&amp;quot;#f0f0f0&amp;quot; nowrap=&amp;quot;nowrap&amp;quot;|[[西フランク王国|西フランク]]王[[シャルル2世_(西フランク王)|シャルル2世]]&lt;br /&gt;
| [[アキテーヌ]]｜[[ガスコーニュ#バスコニア|ガスコーニュ]]｜[[ラングドック]]｜[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]｜[[スペイン辺境領|イスパニア辺境]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! bgcolor=&amp;quot;#f0f0f0&amp;quot; nowrap=&amp;quot;nowrap&amp;quot;|[[中部フランク王国|中フランク]]王[[ロタール1世]]&lt;br /&gt;
| [[ロタリンギア|ロレーヌ]]｜[[イタリア王国_(中世)|イタリア]]｜[[ブルグント王国|ブルゴーニュ]]｜[[アルザス]]｜[[ロンバルディア]]｜[[プロヴァンス]]｜[[オランダの歴史#フランク王国|ネーデルランデン]]｜[[コルシカ島|コルシカ]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! bgcolor=&amp;quot;#f0f0f0&amp;quot; nowrap=&amp;quot;nowrap&amp;quot;|[[東フランク王国|東フランク]]王[[ルートヴィヒ2世_(東フランク王)|ルートヴィヒ2世]]&lt;br /&gt;
| [[ザクセン大公|ザクセン]]｜[[フランケン大公|フランケン]]｜[[テューリンゲン#歴史|テューリンゲン]]｜[[バイエルン大公|バイエルン]]｜[[ケルンテン公国|ケルンテン]]｜[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
]]&lt;br /&gt;
[[840年]]に敬虔王が薨去するに至って、領土を巡る兄弟の対立は頂点を迎えた。[[841年]]、[[フォントノワの戦い]] (Schlacht von Fontenoy) で3者は会戦。王国全土を領有せんとするロタールに対し、ルートヴィヒとカールは同盟を結び、ロタール軍を撃破した。更に翌[[842年]]、[[ストラスブールの誓約]]（Serments de Strasbourg（仏）、Straßburger Eide（独））で2人は同盟関係を再確認、国土の分割をロタールに迫った。こうした圧力の結果、843年8月10日にルートヴィヒとカールは[[ヴェルダン]] (Verdun) において、王国を3分する案をロタールに呑ませた。ロタールの野望はここに潰えたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ヴェルダン条約]]によって[[カロリング帝国]]{{enlink|Carolingian Empire|en}}はシャルル2世の[[西フランク王国]]、ルートヴィヒ2世の[[東フランク王国]]そしてロタール1世の[[中部フランク王国]]（[[イタリア]]、[[ロタリンギア]]、[[プロヴァンス]]）に分裂し、ロタール1世の帝位は保たれたものの東西両フランク王国に対する宗主権は失われた。ロタール1世が没すると[[ロドヴィコ2世]]{{enlink|Louis II of Italy|en}}（ルートヴィヒ2世）が帝位を継いだが、[[870年]]の[[メルセン条約]]によって中部フランク王国は分割されプロヴァンスは西フランク領、ロタリンギアは東フランク領になり、皇帝ロドヴィコ2世にはイタリアと西ローマ皇帝の称号のみが保たれ、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型が形づくられた&amp;lt;ref&amp;gt;【メルセン条約】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[875年]]に皇帝ロドヴィコ2世が死去すると西フランク王シャルル2世がイタリアに侵攻して帝位に就いた。[[881年]]にシャルル2世が死去するとルートヴィヒ2世の三男のアレマニア=イタリア王[[カール3世 (フランク王)|カール3世]]（肥満王）が西ローマ皇帝となり、その後、彼は遺領相続によって東フランク王と西フランク王を兼ねてカロリング帝国の再統一がなされた。しかし、カール3世にはこの時期にヨーロッパへ侵攻していた[[ノルマン人]]、[[イスラム教徒]]そして[[マジャール人]]に対処する力量がなく&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.28&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[887年]]にカール3世は東フランク王を廃位されてしまい、翌[[888年]]に彼が死去すると帝国は分裂し、再建されることはなかった。年代記編者[[プリュムのレギーノ]]{{enlink|Regino of Prüm|en}}は各々の領域は自分たちの身内（''bowels''）から小王（''kinglet''）を選出するようになっていたと述べている。東フランク王国では[[フランケン地方|フランケン]]、[[ザクセン]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]、[[アレマニア]]{{enlink|Alamannia|en}}（[[シュヴァーベン]]）、[[ロレーヌ地域圏|ロートリンゲン]]が[[大公国|大公]]として発達し、[[部族大公制]]{{enlink|Stem duchy|en}}と呼ばれる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]]，pp.20-21&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルートヴィヒ2世の子[[バイエルン大公|バイエルン公]][[カールマン (東フランク王)|カールマン]]の庶子[[アルヌルフ (東フランク王)|アルヌルフ]]が東フランク王に選出され（在位：887年 - 899年）、[[896年]]にはイタリアへ侵攻して西ローマ皇帝に即位している（在位：896年 - [[899年]]）。カール3世の死後、教皇によって戴冠された皇帝はイタリアのみを統治する状態になり、この形式の最後の西ローマ皇帝が[[ベレンガーリオ1世]]（在位：888年 - [[924年]]）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[911年]]にアルヌルフの後継者の[[ルートヴィヒ4世 (東フランク王)|ルートヴィヒ4世（幼童王）]]（在位：[[899年]] - 911年）が死去すると東フランクのカロリング家は断絶した。ロートリンゲンの貴族たちは西フランク王[[シャルル3世 (西フランク王)|シャルル3世（単純王）]]を擁立するが、西フランクに併合されることを嫌った部族大公たちは、カロリング家と同じフランク族（フランケン族）の[[コンラディン家|コンラート家]]（コンラディン家）のフランケン公コンラートが東フランク王アルヌルフの外孫に当たるということで、これを王に選出した（[[コンラート1世 (ドイツ王)|コンラート1世（若王）]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.100-101&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.29-30&amp;lt;/ref&amp;gt;。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.30&amp;lt;/ref&amp;gt;。コンラート1世はロートリンゲンを西フランクに奪われて統制勢力を弱め&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.101&amp;lt;/ref&amp;gt;、反抗する部族大公との抗争の最中に負傷し、[[918年]]に死去した。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====オットー大帝の戴冠 ====&lt;br /&gt;
[[File:Otto the Great.jpg|thumb|200px|オットー大帝像、[[マクデブルク]]]]&lt;br /&gt;
コンラート1世は敵対していたザクセン公の[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]（[[リウドルフィング家]]）を後継者に指名し、翌[[919年]]に[[フリッツラー]]{{enlink|Fritzlar|en}}の会合でザクセン人とフランケン人によって新国王に選出され（ハインリヒ1世）、ザクセン朝（[[オットー朝]]{{enlink|Ottonian dynasty|en}}、[[リウドルフィング朝]]）が開かれた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.112&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ1世はシュヴァーベンとバイエルンを臣従させると、ロートリンゲンに出兵して西フランク王国と戦い、[[921年]]に和議が結ばれ西フランク王シャルル3世はハインリヒ1世を同格の東フランク王（''Rex Francorum Orientalum''）と認めた（[[ボン条約 (921年)|ボン条約]]）&amp;lt;ref name=taikei115&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.115&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.52&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後、西フランクが混乱状態に陥るとハインリヒ1世はロートリンゲンを奪回し、東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、またスラブ諸族を制圧した&amp;lt;ref name=taikei115/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.31-32&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[933年]]にはマジャール人を[[リアデの戦い]]{{enlink|Battle of Riade|en}}で撃破し、解体しかけていた東フランク王国はハインリヒ1世の業績によって再統一がなされた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.115-116&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ1世は[[929年]]に王令を出して次男の[[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー]]を後継者に指名し、その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[936年]]にハインリヒ1世が死去すると[[アーヘン]]においてオットーが国王に選出され即位した（オットー1世）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.118-119&amp;lt;/ref&amp;gt;。即位して程なく発生した異母兄と弟の反乱を平定すると、オットー1世は諸大公領を王族の支配下に置く体制を構築して国内を固めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.120-121&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]]，p.35&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、部族大公を抑え込むためにオットー1世は教会勢力と結びつき、司教や修道院に所領を寄進して特権を与えて世俗権力からの保護するとともに、[[司教]]の任命権を握って聖職者の忠誠を受け、国家行政を聖職者に委ねた（{{仮リンク|帝国教会政策|de|Ottonisch-salisches Reichskirchensystem}}）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]]，p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]]，p.14&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=teikokukyoukai&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%94%BF%E7%AD%96/ 【帝国教会政策】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[951年]]、オットー1世はイタリア王[[ロターリオ2世]]の未亡人[[アデライーデ (神聖ローマ皇后)|アデライーデ]]{{enlink|Adelaide of Italy|en}}の要請によりイタリア遠征を敢行して敵対者[[ベレンガーリオ2世]]を駆逐した後にアデライーデと結婚し、彼女との婚姻関係に基づきイタリア王となる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.123-124&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このイタリア遠征の際に王息ロイドルフとの間に亀裂が起こり、[[953年]]にロートリンゲン公をはじめとする諸侯とともに大反乱を起こし、オットー1世は危機に陥った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.121&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、ロイドルフの了解の元にマジャール人が侵入すると危機感を持った諸侯はオットー1世に臣従し、結束を強めたオットー1世は[[955年]]の[[レヒフェルトの戦い]]でマジャール人に大勝して、その脅威に終止符を打った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.121-122&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[960年]]、ベレンガーリオ2世により[[教皇領]]を侵害された教皇[[ヨハネス12世 (ローマ教皇)|ヨハネス12世]]がオットー1世に救援を要請した。翌[[961年]]にオットー1世はイタリアへ遠征し、[[962年]][[2月2日]]にローマにおいて教皇ヨハネス12世によりローマ皇帝に戴冠した（'''オットー大帝'''）。以降、皇帝はローマにおいて教皇の手による戴冠を必要とするようになる（[[イタリア政策]]）。この戴冠が一般的には'''神聖ローマ帝国'''の始まりとされる&amp;lt;ref name=daijirin&amp;gt;[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&amp;amp;p=%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD&amp;amp;dtype=0&amp;amp;dname=0ss&amp;amp;stype=0 しんせいローマていこく 【神聖ローマ帝国】]（大辞林，三省堂）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしながら、当時は「神聖ローマ帝国」（''Heiliges Römisches Reich''）なる名称は存在せず、オットー1世の戴冠によって新たな国家が誕生した訳でもなく、同時代の意識としてはあくまでもカロリング帝国からの連続としての教会の保護者そして西洋世界の普遍的支配者たる「ローマ皇帝」であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.134-136&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.36-37&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.29&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===中世盛期===&lt;br /&gt;
==== ザクセン朝とザーリアー朝====&lt;br /&gt;
[[File:HRR 10Jh.jpg|thumb|250px|left|10-11世紀の神聖ローマ帝国の領域。&amp;lt;br&amp;gt;{{legend-line|red solid 2px|オットー1世時代}}{{legend-line|red dotted 2px|コンラート2世時代}}]]&lt;br /&gt;
[[10世紀]]後半から[[11世紀]]初めの時点で、東王国はいわゆる「ドイツ」ではなく、アレマニア、バイエルン、フランケンそしてザクセンといったゲルマン部族大公の連合であった&amp;lt;ref name=yshinsei/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[973年]]にオットー1世が死去すると皇后アデライーデとの子の[[オットー2世 (神聖ローマ皇帝)|オットー2世]]が即位した。即位から程なく発生した従兄弟の[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ2世 (バイエルン公)|ハインリヒ2世]]の反乱を鎮圧すると続いて西フランク王[[ロテール (西フランク王)|ロテール]]と戦って[[パリ]]へ進撃した。皇帝権の拡大を目指し「至高なるローマ人の皇帝」（''Imeprium Augustu Romanorum''）の称号を用いたオットー2世は[[980年]]にはイタリア遠征を行うが、イスラム教徒に大敗を喫し、東方ではバルト・スラブ人の蜂起が起きた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.38&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.128-130&amp;lt;/ref&amp;gt;。オットー2世は局面の打開を図るべく再度のイタリア遠征を企図するが[[983年]]にローマで死去した。&lt;br /&gt;
[[File:Meister der Reichenauer Schule 002.jpg|thumb|250px|オットー3世]]&lt;br /&gt;
僅か3歳の[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]が後継者となり、母[[テオファヌ]]が摂政となった。テオファヌはその任をよく果たして王国の安定に尽くした&amp;lt;ref name=doitusi38&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.38-39&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[994年]]に親政を開始したオットー3世はイタリア遠征を敢行し、[[996年]]に従兄を教皇[[グレゴリウス5世 (ローマ教皇)|グレゴリウス5世]]となして皇帝に戴冠した。オットー3世は父以上に「ローマ帝国の再興」に意欲を示し、教皇と結合した世界帝国を目指して活動したが、[[1002年]]に22歳で死去した&amp;lt;ref name=doitusi38/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;【オットー3世】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.132-134&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オットー3世が未婚のまま死去したため、幾人かの候補者が名のりを上げ、駆け引きの後に唯一の男系のバイエルン公ハインリヒ4世がバイエルン、フランケン、オーバーロートリンゲンによって選出され（[[ハインリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ2世]]）、その後国内を巡行してその他の諸侯の臣従を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.140-142&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ2世は「フランク王国の復興」を標榜してドイツ支配強化を打ち出し&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.142-143&amp;lt;/ref&amp;gt;、諸大公の力を抑制するとともに帝国教会体制を強化させ帝国統治の要となした&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.143-147&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=kimura41&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.41-42&amp;lt;/ref&amp;gt;。また3度のイタリア遠征を行って[[1014年]]にローマで戴冠して、教会の守護者として教会改革に取り組んでいる&amp;lt;ref name=kimura41/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1024年]]にハインリヒ2世が子を残さずに死去し、ザクセン朝は断絶した。[[オッペンハイム (ドイツ)|オッペンハイム]]に聖俗諸侯が参集してザーリアー家のシュパイエル伯コンラート（オットー1世の外玄孫）が国王に選出され[[ザーリアー朝]]{{enlink|Salian|en}}が開かれた（[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]）。政治的連合体としての帝国はハインリッヒ1世やオットー1世など国王の個人的な影響力によって保たれており、公的にはゲルマン諸部族の選挙によって選出されるが、実際には彼らは後継者を指名できており、この王朝交代が「選挙」としての国王選出の最初の機会となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.153&amp;lt;/ref&amp;gt;。コンラート2世の時代に帝国は[[ブルグント王国]]を併呑し、皇帝はドイツ王、イタリア王に加えてブルグント王も兼ねるようになった。また「'''ローマ帝国'''」（''Imperium Romanum''）の国名を公文書で用い始めている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.62&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1039年]]に後を継いだ[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は地盤の[[フランケン大公|フランケン公]]領に加えて、[[シュヴァーベン大公|シュヴァーベン公]]領とバイエルン公領をも手に入れて王権の基盤を固め、更に[[ボヘミア]]公を服属させて帝国の威信を高めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.66&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時、聖職売買や私婚が横行するなどローマ教会は乱脈を極めており、教会紀律刷新を主張する[[クリュニー会|クリュニー教会改革運動]]をハインリヒ3世は積極的に支持した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.69&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],p.170&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ3世はイタリアへ遠征して[[ローマ教皇庁]]に介入し、3人のローマ教皇（[[ベネディクトゥス9世 (ローマ教皇)|ベネディクトゥス9世]]、[[シルウェステル3世 (ローマ教皇)|シルウェステル3世]]、[[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]]）を罷免して、教会改革派のドイツ人聖職者[[クレメンス2世 (ローマ教皇)|クレメンス2世]]、[[ダマスス2世 (ローマ教皇)|ダマスス2世]]、[[レオ9世 (ローマ教皇)|レオ9世]]、[[ウィクトル2世 (ローマ教皇)|ウィクトル2世]]を次々と教皇位につけている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.163-164&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====叙任権闘争====&lt;br /&gt;
{{Main|叙任権闘争|カノッサの屈辱|ヴォルムス協約}}&lt;br /&gt;
[[File:Schwoiser Heinrich vor Canossa.jpg|thumb|200px|『カノッサの屈辱』&amp;lt;br&amp;gt;エドゥ・シュワイザー画（19世紀）]]&lt;br /&gt;
[[1056年]]にハインリヒ3世が死去し、僅か3歳の[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]が即位して母[[ポワトゥーのアグネス|アグネス]]{{enlink|Agnes of Poitou|en}}が摂政となるが王権は弱体化し、幼主は諸侯たちの政争の具となる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.74-75&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1057年]]にドイツ人教皇ウィクトル2世が死去するとクリュニー教会改革派の教皇庁は帝国の関与を排して[[ステファヌス10世 (ローマ教皇)|ステファヌス10世]]を選出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.70-71&amp;lt;/ref&amp;gt;。次の[[ニコラウス2世 (ローマ教皇)|ニコラウス2世]]は教皇選挙から世俗権力の干渉を排除する[[教皇勅書]]を発して、皇帝支配からの脱却を図った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.71-72&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして、[[1073年]]に教皇至上権の確立（[[グレゴリウス改革]]）を目指す[[グレゴリウス7世 (ローマ教皇)|グレゴリウス7世]]が教皇に選出される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、ドイツでは成人したハインリヒ4世が帝権の強化を企図して諸侯と対立していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.75-76&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)|ザクセン戦争]]）。[[1075年]]、教皇グレゴリウス7世は俗人による聖職者叙任を禁止する教皇勅書を発した。俗権叙任は君主による各地域の教会支配と忠誠獲得の有効な手段であり、ハインリヒ4世はこれを拒否してドイツ司教に教皇廃立を決議させ、「ヒルデブラント（グレゴリウス7世の修道名）は（中略）教皇ではなく偽りの修道士である」と宣言した。これに対して、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を[[破門]]となし、その臣下たちの忠誠義務の解除を宣言する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ諸侯は諸侯会議を開いて破門赦免が得られなければ国王を廃位すると決議し、ハインリヒ4世は自らに対する政治的支持がほとんどない事に気づかされた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.50&amp;lt;/ref&amp;gt;。窮地に陥ったハインリヒ4世はドイツを出て、[[1077年]]に北イタリアの[[カノッサ]]でグレゴリウス7世に赦免を乞う屈辱を強いられた（[[カノッサの屈辱]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、抗争はこれでは終わらず、反国王派ドイツ諸侯はシュヴァーベン公[[ルドルフ・フォン・ラインフェルデン|ルドルフ]]{{enlink|Rudolf of Rheinfelden|en}}を対立国王に選出し、教皇グレゴリウス7世もこれを支持して[[1080年]]にハインリヒ4世を再度の破門に処した。だが、この破門は効果がなくハインリヒ4世は[[クレメンス3世 (対立教皇)|クレメンス3世]]を対立教皇に立てて対抗し、シュヴァーベン公ルドルフに打ち勝って戦死させると、イタリアへ侵攻した。ローマは開城し、教皇グレゴリウス7世は亡命地の[[サレルノ]]で失意の内に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
教皇庁は[[ウィクトル3世 (ローマ教皇)|ウィクトル3世]]、次いで[[ウルバヌス2世 (ローマ教皇)|ウルバヌス2世]]を立てて皇帝に対抗した。外交の名手教皇ウルバヌス2世は南ドイツと北イタリア一帯を味方に引き入れ、更にはハインリヒ4世の長男[[コンラート (イタリア王)|コンラート]]をも寝返らせた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.53&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ4世はコンラートを廃嫡して次男を後継者としてドイツ国王に選出させるが（[[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]）、ハインリヒ5世もまた教皇との和解を望み[[1105年]]に父を捕らえて幽閉してしまう&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.54&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ4世は脱出して息子と戦うが、翌[[1106年]]に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1122年]]にハインリヒ5世と教皇[[カリストゥス2世 (ローマ教皇)|カリストゥス2世]]との間で皇帝は高位聖職者の叙任権を放棄し、授封権のみを留める内容（聖権と俗権の分離）の[[ヴォルムス協約]]が結ばれて叙任権闘争は決着し、抗争は皇帝の敗北で終わった&amp;lt;ref name=horikosi174&amp;gt;[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.174-175&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.81-82&amp;lt;/ref&amp;gt;。この結果、教会領は帝国権威の従属物ではなく、帝国政治体制における独立した諸侯と化すことになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.176-177&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== ホーエンシュタウフェン朝 ====&lt;br /&gt;
{{Main|ホーエンシュタウフェン朝}}&lt;br /&gt;
[[File:Friedrich I. Barbarossa.jpg|thumb|200px|フリードリヒ1世（赤髭王）像。[[カッペンベルク|カッペンベルク城]]{{enlink|Kapfenberg|en}}所蔵。1160年頃。]]&lt;br /&gt;
[[1125年]]にハインリヒ5世が子を残さずに死去してザーリアー朝は断絶した。生前、ハインリヒ5世は協力的であった甥で[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]のシュヴァーベン大公[[フリードリヒ2世 (シュヴァーベン大公)|フリードリヒ2世]]を後継者にと望んだが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.211&amp;lt;/ref&amp;gt;、国王選挙で選出されたのは[[ズップリンブルク家]]のザクセン大公ロタールであった（[[ロタール3世 (神聖ローマ皇帝)|ロタール3世]]）。教皇との紛争は皇帝の不利となり、ロタール3世は重要な権利を放棄したと伝えられる&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;実際にはロタール3世はヴォルムス協約で認められた権利を行使している。[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.213&amp;lt;/ref&amp;gt;。ロタールは教皇に献身的であったが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.85&amp;lt;/ref&amp;gt;、イタリア遠征中の[[1137年]]に死去した。ロタール3世にも息子はなく、婿で[[ヴェルフ家]]の[[ハインリヒ10世 (バイエルン公)|ハインリヒ10世]]（傲岸公）を後継者に望んだが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.213&amp;lt;/ref&amp;gt;、国王選挙ではホーエンシュタウフェン家のコンラートが選出された（[[コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート3世]]）。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の対立はイタリアへ及び[[教皇派と皇帝派|皇帝派（ギベリン）と教皇派（ゲルフ）]]の抗争が引き起こされ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.86&amp;lt;/ref&amp;gt;、紛争は[[15世紀]]末まで続き、イタリア諸都市を分裂させている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コンラート3世は[[1152年]]に死去し、甥のシュヴァーベン大公フリードリヒが国王に選出された（[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世赤髭王]]）。フリードリヒ1世の政策はイタリアに重点が置かれた。彼はこの地域における帝権の回復を目指しており、6度ものイタリア遠征を行っている。[[1155年]]にフリードリヒ1世は皇帝に戴冠し、以後「'''神聖帝国'''」（''Sacrum Imperium''）の国名を使用するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.64&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、南イタリアのノルマン人に対する戦役の際に教皇との対立が高まり&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.221&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[東ローマ帝国|ビザンツ帝国]]との関係も悪化した。フリードリヒ1世がイタリアにおける帝国の行政権を強化するために北イタリアの{{仮リンク|ロンカーリャ|it|Roncaglia}}で帝国議会を開催すると、[[ミラノ]]をはじめとする裕福な諸都市からの激しい抵抗に直面した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.92&amp;lt;/ref&amp;gt;。関係は悪化し、北イタリア諸都市は[[ロンバルディア同盟]]を結成してホーエンシュタウフェン家に対抗した。新教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]の選出は論争を呼び起こし、フリードリヒ1世は承認を拒否した。だが、皇帝軍は[[1167年]]にローマでの疫病で多数の死者を出して撤退を余儀なくされ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.227-228&amp;lt;/ref&amp;gt;、そして[[1176年]]の[[レニャーノの戦い]]{{enlink|Battle of Legnano|en}}で惨敗を喫したことにより、軍事的勝利が望めないと思い知らされた彼は[[1177年]]に教皇との[[ヴェネツィア条約]]{{enlink|Treaty of Venice|en}}を締結した。北イタリア諸都市との和解もなされたが、フリードリヒ1世はもはやイタリアでの計画を実行することは叶わなくなっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリードリヒ1世は従兄弟にあたるヴェルフ家のザクセン＝バイエルン公[[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ]]（獅子公）と対立するようになる。ハインリヒ獅子公はロンバルディア遠征への参加を拒否し、フリードリヒ1世は大敗した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.93-94&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1180年]]にハインリヒ獅子公は裁判にかけられてザクセンとバイエルンを没収され、帝国追放に処された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1190年]]、フリードリヒ1世は[[第3回十字軍]]の最中に死去した。彼の次男が[[ハインリヒ6世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ6世]]として後を継ぐ。[[1186年]]には既に[[カエサル (称号)|カエサル]]の称号を父から授けられており、事実上の後継者と見なされていた。[[1191年]]に皇帝に戴冠するとハインリヒ6世は南イタリアにある[[ノルマン朝|ノルマン王朝]]の[[シチリア王国]]の併合を企てた。彼はシチリア王[[グリエルモ2世]]の王女[[コスタンツァ (シチリア女王)|コスタンツァ]]と結婚しており、グリエルモ2世が子を残さずに死去したために王位は彼女とハインリヒ6世に回るはずであった&amp;lt;ref name=naruse247&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.247&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ6世は王位継承を主張したが、反ドイツ派が[[タンクレーディ (シチリア王)|タンクレーディ]]を擁立したため失敗した&amp;lt;ref name=naruse247/&amp;gt;。[[1194年]]にハインリヒ6世は南イタリアを制圧して、ハインリヒ6世とコスタンツァがシチリア王となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.247&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼はドイツ王国の国王選挙制度を廃してフランスやシチリアと同様の世襲王国とする世襲帝国計画（''Erbreichsplan''）を提案するが、諸侯の抵抗に遭い失敗に終わった&amp;lt;ref name=naruse249&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p249&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、彼は十字軍による聖地奪回だけでなく、東方支配をも視野に入れた野心的な地中海政策も構想したが&amp;lt;ref name=naruse249/&amp;gt;、[[1197年]]に32歳で急死してしまい、彼の早世によって帝国に強力な中央集権を確立せんとする最後の試みは頓挫した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Busto di Federico II di Svevia.jpg|thumb|left|200px|[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]像。イタリア・[[バルレッタ|バルレッタ城]]所蔵。]]&lt;br /&gt;
ハインリヒ6世の息子[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は[[1196年]]に2歳で既にドイツ王に選出されていたが&amp;lt;ref name=naruse249/&amp;gt;、幼少であった彼の王位は排除されて&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.250&amp;lt;/ref&amp;gt;当初はシチリア王とのみとなり、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]が後見人として摂政となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.104&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツでは[[1198年]]の二重選挙によって[[ミュールハウゼン]]でホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン公[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]、[[ケルン]]ではヴェルフ家の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]の2人の国王が各々選出され対立した。情勢はフィリップに有利に傾いたが、[[1208年]]に[[暗殺]]された。教皇インノケンティウス3世の支持を受けたオットー4世が[[1209年]]に皇帝に戴冠したが、シチリア王国に侵攻したため翌[[1209年]]に教皇から破門されてしまう&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.106-107&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ諸侯はオットー4世の廃位を決議して、教皇インノケンティウス3世が支持する[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]を国王に選出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.107&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリードリヒ2世は[[1220年]]に皇帝に戴冠するが、やがて教皇庁と対立するようになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.108-110&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリードリヒ2世は[[1228年]]の[[第6回十字軍]]の際に教皇[[グレゴリウス9世 (ローマ教皇)|グレゴリウス9世]]の怒りを受けて破門されるが、破門の身でありながら（[[アイユーブ朝]]の[[スルタン]][[アル＝カーミル]]との交渉によって）エルサレムの奪回に成功し、[[エルサレム王国|エルサレム王位]]をも手に入れて多くの人々を驚かせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリードリヒ2世は帝国の勢力を大いに高めたが、その解体の主な契機をももたらしている。彼はシチリアにおいて公共事業や財政その他の改革によって革新的な国家建設に努める一方で、ドイツでは諸侯に大幅な特権を授与して大きな権限を与え、以降、王権がこれを取り戻すことはできなかった。[[1220年]]にドイツ司教との間に「[[聖界諸侯との協約]]」（''[[:en:Confoederatio cum principibus ecclesiasticis|Confoederatio cum principibus ecclesiasticis]]''）を結び、[[1232年]]には嫡男[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ]]の反乱に際して諸侯を味方につけるために「[[諸侯の利益のための協定]]」（''[[:en:Statutum in favorem principum|Statutum in favorem principum]]''）を発して、関税徴収請求権、貨幣鋳造権そして城塞構築権といった多くの[[レガリア]]（大権）を放棄して聖俗諸侯の特権を拡大させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.65&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの協定が中世後期の帝国における領邦国家形成の始まりとなる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.116&amp;lt;/ref&amp;gt;。これらの特権の多くはこれ以前から既成事実化していたが、これによって法的な確認が与えられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.272-273&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリードリヒ2世はアルプス以北のドイツ諸侯は各々の領地の経営を行い、自身はシチリア本国の経営に専念することを望んだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.116-117&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリードリヒ2世は教皇や北イタリア諸都市と紛争を起こすようになり&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.281&amp;lt;/ref&amp;gt;、 教皇はフリードリヒ2世を[[反キリスト]]であると非難した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Weyland(2002)|Weyland(2002)]], p. 146&amp;lt;/ref&amp;gt;。最終的にフリードリヒ2世が軍事的に優勢となるが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.283&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[1250年]]に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、東方では[[1226年]]に[[マゾフシェ公]][[コンラト1世 (マゾフシェ公)|コンラト1世]]によって[[プロイセン]]のキリスト教化のために[[ドイツ騎士団]]が招聘された。修道会国家[[ドイツ騎士団国]]（''Deutschordensstaat''）は帝国と密接な関係を保っていはいたが、領域に属していたか否かは定かではない&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.56,pp.64-66&amp;lt;/ref&amp;gt;。ホーエンシュタウフェン朝の皇帝たちが長期間イタリアに滞在している間にドイツ諸侯の勢力は拡大し、ドイツ農民や商人による東方移住が促された。東方移住やスラブ人地域領主との婚姻によって帝国の影響力は[[ポメラニア]]や[[シレジア]]にまで拡大している。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====大空位時代====&lt;br /&gt;
{{Main|大空位時代}}&lt;br /&gt;
[[File:Balduineum Wahl Heinrich VII.jpg|thumb|300px|選帝侯（''Kurfürst''）]]&lt;br /&gt;
フリードリヒ2世が死去した1250年（またはコンラート4世の死の[[1254年]]あるいはヴィルヘルム・フォン・ホラントの死の[[1256年]]）から[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が国王に選出された[[1273年]]までの期間を統一国王の存在しない'''大空位時代'''（''Interregnum''）と呼ぶ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.129,p.131&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.64&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.71&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリードリヒ2世の共治王に立てられていた次男の[[コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート4世]]が単独王になるが、反皇帝派は[[1246年]]に[[テューリンゲンの君主一覧|テューリンゲン方伯]][[ハインリヒ・ラスペ]]を対立王に立てており、翌年に彼が死ぬと[[ホラント伯]][[ウィレム2世 (ホラント伯)|ウィレム2世]]（ヴィルヘルム・フォン・ホラント）を選出して対抗した。[[1254年]]にコンラート4世が死去してヴィルヘルム・フォン・ホラントが唯一のドイツ王となった。その後、コンラート4世の遺児[[コッラディーノ]]と異母弟[[マンフレーディ]]も[[カルロ1世 (シチリア王)|シャルル・ダンジュー]]とシチリア王位を争って殺されており、ホーエンシュタウフェン家は断絶している。1254年にヴィルヘルムは「'''神聖ローマ帝国'''」（''Imperium Romanum Sacrum''）の国名を初めて用いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.131&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、ヴィルヘルムはその2年後の[[1256年]]の[[フリースラント]]遠征中に戦死してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1257年]]の二重選挙が空位期の長期化をもたらした。この選挙の際に[[マインツ大司教]]、[[ケルン大司教]]、[[トリーア大司教]]、[[ライン宮中伯]]（プファルツ）、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン大公]]、そしてボヘミア王といった、後に[[選帝侯]]（''Kurfürst''）と呼ばれるグループが現れた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.285&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初、プファルツ、ケルンそしてマインツの3人の選挙人（主に教皇派）はヴィルヘルムの後継国王として[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]（[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の弟）に投票した。しばらく後に4人目のボヘミアもこの選択に加わった。しかしながら、その数ヵ月後にトリーア、ブランデンブルクそしてザクセン（主に皇帝派）そしてボヘミアが[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]]に投票する。ボヘミアの二重投票によりドイツに二人の国王が並び立つことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アルフォンソ10世はスペインに留まり一度もドイツに入ることなく、リチャードもまたほとんど不在で国王がドイツにいない状態が長期化した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.286&amp;lt;/ref&amp;gt;。この大空位時代に帝国の秩序は乱れ、諸侯は特権獲得と領域形成を強固にして、より一層自立した統治者と化した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.132-134&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.286&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、この時期、ドイツ西部で諸侯の勢力伸張に対して都市の利益を守るためのライン同盟が結成されるといった現象が起こっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.265-266&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.286-289&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中世後期 ===&lt;br /&gt;
==== 跳躍選挙 ====&lt;br /&gt;
{{Main|ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策}}&lt;br /&gt;
[[File:HRR 14Jh.jpg|250px|thumb|神聖ローマ帝国の領域（1273-1378）と主要王家の領地{{legend|#99CC66|[[ヴィッテルスバッハ家]]}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ffaa00|[[ハプスブルク家]]}}&lt;br /&gt;
{{legend|#BF80FF|[[ルクセンブルク家]]}}]]&lt;br /&gt;
1272年にリチャードが死去すると、弱体な君主を望む諸侯の思惑から現在の[[スイス]]北西部と[[ライン川|上ライン]]の小領主に過ぎない[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]が国王に選出された&amp;lt;ref name=abe71&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.71&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.22-23&amp;lt;/ref&amp;gt;。ボヘミア王[[オタカル2世]]がルドルフ1世への臣従を拒否して戦争になり、[[1278年]]の[[マルヒフェルトの戦い]]{{enlink|Battle on the Marchfeld|en}}でルドルフ1世が勝利し、この結果、ハプスブルク家は後に地盤となる[[オーストリア公|オーストリア]]と[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク]]を獲得している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.139-141&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ルドルフ1世の死からカール4世即位までの時期はすべての国王選挙で異なる家門が選出されており、'''跳躍選挙'''（''Springende Wahlen''）と呼ばれている。帝国西部へのフランスの進出によって旧ブルグンド王国への影響力が衰えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]], p. 170&amp;lt;/ref&amp;gt;。この影響力の衰退はイタリア（主にロンバルディアや[[トスカーナ州|トスカーナ]]）にも及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1291年]]にルドルフ1世が死去するとハプスブルク家の勢力伸長を警戒した諸侯は世襲を認めず、[[ナッサウ家]]の[[アドルフ (神聖ローマ皇帝)|アドルフ]]を国王に選出した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.30&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]]pp.139-140&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=abe71/&amp;gt;。だが、アドルフは[[1298年]]に廃位されてしまい、再びハプスブルク家の国王が選出されてルドルフ1世の子の[[アルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト1世]]が即位するが、[[1308年]]に一族の者によって暗殺されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
代わって[[ルクセンブルク家]]の[[ハインリヒ7世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ7世]]が国王に選出された。皇帝権の再建を企図する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.297&amp;lt;/ref&amp;gt;ハインリヒ7世は[[1310年]]から[[1313年]]にかけてイタリア遠征を行い帝国のイタリア政策を再興した。ハインリヒ7世は[[1312年]]にフリードリヒ2世以降初めてローマで皇帝戴冠をなしたが、[[1309年]]に教皇庁はローマの政争から逃れるために南フランスの[[アヴィニョン]]へ動座しており（[[アヴィニョン捕囚]]）、教皇ではなく枢機卿の手で戴冠されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.145&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Ludovico il Bavaro.jpeg|thumb|200px|left|ルートヴィヒ4世&amp;lt;br&amp;gt;[[ミュンヘン聖母教会]]{{enlink|Munich Frauenkirche|en}}]]&lt;br /&gt;
教皇と帝国の間のキリスト教社会自体の支配を巡る対立は[[ルートヴィヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ルートヴィヒ4世]]の治世に再燃している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Rapp(2000)|Rapp(2000)]], p.250&amp;lt;/ref&amp;gt;。1313年にハインリヒ7世が死去すると諸侯は二つの党派に分裂してハプスブルク家の[[フリードリヒ3世 (ドイツ王)|フリードリヒ]]（美王）と[[ヴィッテルスバッハ家]]のバイエルン公ルートヴィヒが選出され、8年の戦争の後にルートヴィヒ4世が勝利したが、進取的で権威主義者の教皇[[ヨハネス22世 (ローマ教皇)|ヨハネス22世]]はこの状況を利用すべく、教皇の認可のない「バイエルン人ルートヴィヒ」の国王選出を無効であると宣言した&amp;lt;ref name=naruse299&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.299&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヨハネス22世は教皇は皇帝が不在の間の帝国のイタリア地方における代理人であると主張し、[[ナポリ王]][[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]をトスカナの代官に任命する。ルートヴィヒ4世は上訴を行い、国王権力の独立を主張して教皇の異端を告発し、これに対しヨハネス22世は破門で応じた。[[1328年]]、ルートヴィヒ4世はイタリア遠征を敢行してローマを占領し、[[パドヴァのマルシリウス]]の人民主権論『平和の擁護者』を理論根拠に教皇ではなくローマ人民の名で皇帝に戴冠した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.300&amp;lt;/ref&amp;gt;。皇帝と教皇の紛争は[[フランシスコ会]]士[[オッカムのウィリアム]]や同会聖霊派の清貧論争や教皇世俗支配問題と結びつき、神学と政学の論争を引き起こしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.299-301,pp.303-306&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
紛争が長期化した[[1338年]]、6人の選帝侯がレンスで会議を開き、選帝侯による選挙によってのみ国王は選出されると議決して、教皇からの承認の必要性を拒否した（レンス判告）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.73&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.301-302&amp;lt;/ref&amp;gt;。ルートヴィヒ4世はこれを受けて帝国法「リケット・ユーリス」（''Licet iuris''）と皇帝命令書「フィデム・カトリカム」（''Fidem catholicam''）を発布して、教皇絶対権を否定し、選挙によって国王に選出された者が直ちに「真のローマ王にして皇帝」になると規定した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.73-74&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.302&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1346年]]、[[チロル|チロル伯爵領]]での強引な家門拡大策で教皇から破門を受けたルートヴィヒ4世は廃位され&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],pp.45-46&amp;lt;/ref&amp;gt;、ルクセンブルク家の[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]が選出された。カール4世は即位に際して教皇にかなりの譲歩を行い、[[1355年]]にローマで皇帝戴冠を行った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.152-153&amp;lt;/ref&amp;gt;。中世後期の皇帝たちは帝国ドイツ部分の統治に専念するようになり、自らの領地の利害をより重視するようになっており&amp;lt;ref name=yshinsei/&amp;gt;、ボヘミア王でもある[[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]はその典型であった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#鈴本(1997)|鈴本(1997)]],pp.63-65&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Meister der Wenzel-Werkstatt 002.jpg|thumb|200px|金印勅書]]&lt;br /&gt;
[[1356年]]、カール4世は国王選出の際にほとんど必ず発生して帝国の威信を傷つけてきた紛争を避けるために[[金印勅書]]（''bulla aurea''）を発布した。帝国初の基本法と見なされるこの勅書によって7人の選帝侯による選挙方式が定められ、国王は過半数の得票で選出されて直ちに皇帝になると見なされ、これによって教皇の介入を排除することができた&amp;lt;ref name=kimura74&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.74-75&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=naruse311&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.311&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、選帝侯領の世襲制と領地不可分が確認され、裁判権や関税権、貨幣鋳造権などの諸特権が認められた&amp;lt;ref name=kimura74/&amp;gt;&amp;lt;ref name=naruse311/&amp;gt;。その他、[[国会 (ドイツ)|帝国議会]]（''Reichstag''）の成文化、私闘（フェーデ）の禁止や諸侯の利益に反する都市同盟の結成の禁止なども含まれている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.155-156&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カール4世の時代にヨーロッパの人口の3分の1が犠牲になったとされる黒死病（[[ペスト]]）の大流行が発生している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#堀越(2006)|堀越(2006)]],pp.380-381&amp;lt;/ref&amp;gt;。ドイツでは[[1350年]]に発生し、14世紀末まで断続的に続いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.365&amp;lt;/ref&amp;gt;。この際にドイツ各地で宗教的集団ヒステリーによる[[ポグロム]]（ユダヤ人虐殺）が発生して多数の[[ユダヤ人]]が犠牲となり、カール4世はこれを阻止しえず、却って助長することまでしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.53-54&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.74-75&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、商人ハンザから都市ハンザが成立し（[[ハンザ同盟]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B6%E5%90%8C%E7%9B%9F/ 【ハンザ同盟】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;、やがて北ヨーロッパにおける巨大勢力へと成長することになる。[[1241年]]に結成されたこの同盟は[[ハンブルク]]、[[リューベック]]、[[リガ]]そして[[ノヴゴロド]]を含み、[[15世紀]]には200におよぶ都市が加盟していた&amp;lt;ref&amp;gt; [[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.350-351&amp;lt;/ref&amp;gt;。当時、ハンザ同盟は主要な政治的アクターとなっており、[[デンマーク王国|デンマーク]]と戦って勝利しバルト海における覇権を認めさせるまでになっていた（[[シュトラールズントの和約]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.80&amp;lt;/ref&amp;gt;。同時期、シュヴァーベン公に併合されることを恐れた諸都市が{{仮リンク|シュヴァーベン都市同盟|de|Schwäbischer Bund|en|Swabian League}}を結成している。シュヴァーベンはライン川と[[ドナウ川]]が合流し、[[アルプス山脈]]を通って[[ポー川]]流域につながるヨーロッパ全域を結ぶ中心地に位置していた。カール4世は世襲工作の資金調達のために自ら金印勅書に違反してまで、この同盟を許して諸侯を憤慨させている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.170-171&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1378年]]にカール4世は死去し、息子の[[ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)|ヴェンツェル]]が国王に選出されたが、諸侯と対立して[[1400年]]に選帝侯たちによって廃位されてしまう&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.376&amp;lt;/ref&amp;gt;。代わってヴィッテルスバッハ家のプファルツ選帝侯[[ループレヒト (神聖ローマ皇帝)|ループレヒト]]が国王に選出された。効果的な統治を行うには彼の権力基盤は弱体でありすぎ、加えてヴェンツェルは王位を失うことを認めていなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.376&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1410年]]にループレヒトが死去するとルクセンブルク家最後の皇帝となる[[ハンガリー王]][[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]（ヴェンツェルの異母弟）が選出された。当時、[[1378年]]の[[教会大分裂]]（シスマ）による政教問題が持ち上がっており、ジギスムント即位の時点で3人の教皇が鼎立する異常な状態になっていた。ジギスムントはシスマを解消すべく介入し、[[1414年]]に[[コンスタンツ公会議]]（1414年-[[1418年]]）を開催させた。公会議によって3人の教皇いずれもが廃位・辞任させられ、新たに[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]が選出されてシスマは除去された。しかし、この公会議でボヘミアの教会改革派[[ヤン・フス]]を[[異端|異端者]]として火刑に処したことで、[[フス派]]が武装蜂起し[[フス戦争]]（[[1419年]]-[[1436年]]）を引き起こすことになった。ジギスムント（1419年からボヘミア王を兼ねる）は[[1431年]]まで5回にわたる十字軍を派遣するが連敗を喫した&amp;lt;ref name=iketani&amp;gt;[[#池谷(1994)|池谷(1994)]],pp.108-109&amp;lt;/ref&amp;gt;。宗教戦争はフス派の内紛により過激派タボル派が壊滅したことで終結するが&amp;lt;ref name=iketani/&amp;gt;、ジギスムントの地盤であるボヘミアは荒廃し、ルクセンブルク家の手から離れた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.171-172&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1437年]]にジギスムントが死去するとルクセンブルク家の帝位は終焉した。帝位はハプスブルク家へ渡り、帝国が消滅するまで同家が事実上独占することとなった&amp;lt;ref group=nb name=dokusen&amp;gt;例外は[[オーストリア継承戦争]]中に短期間在位した[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|カール7世]]（ヴィッテルスバッハ家）のみ。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====帝国改造====&lt;br /&gt;
[[File:Hans Burgkmair d. Ä. 005.jpg|thumb|200px|フリードリヒ3世]]&lt;br /&gt;
ハプスブルク家は{{仮リンク|原初同盟|de|Alte Eidgenossenschaft|en|Old Swiss Confederacy|label=スイス誓約同盟}}（Eidgenossenschaft）との戦争（[[1315年]]の{{仮リンク|モルガルテンの戦い|de|Schlacht am Morgarten|en|Battle of Morgarten}}、[[1386年]]の{{仮リンク|ゼンパッハの戦い|en|Battle of Sempach}}）に敗れて発祥の地は事実上失ったが、東方では家領を増やしてオーストリア公領、シュタイヤーマルク公領、[[ケルンテン公爵|ケルンテン公領]]、[[クライン公爵|クライン公領]]{{enlink|Carniola|en}}、チロル伯領を獲得していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],p.51,p.54,p.210&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]（建設公）の時に特許状を偽造して「[[オーストリア大公|大公]]」（''Erzherzog''）を自称し、カール4世に黙認させている&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ルドルフ4世は5通の特許状に添えて証拠として提出した手紙の差出人を[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]と[[ネロ]]とし、偽書であることをあからさまにしてカール4世を暗に恫喝している。[[#菊池(2004)|菊池(2004)]],pp.201-208&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1437年]]、ジギスムントの娘婿でハプスブルク家のオーストリア公[[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]が選出されるが（ボヘミア王とハンガリー王も相続&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.179-178&amp;lt;/ref&amp;gt;）、僅か1年ほどで急死してしまう。代わって従兄弟のシュタイヤーマルク公フリードリヒ5世が選出された（[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]]）。フリードリヒ3世は「帝国第一の就寝帽」&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ドイツ語では'''Erz'''herzog（オーストリア大公）とSchlafmütze （寝帽/眠たがり屋）を語呂あわせしたReichs'''erz'''schlafmutze。[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.33&amp;lt;/ref&amp;gt;と評されるほどの無能な人物だったが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.179-181&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.36&amp;lt;/ref&amp;gt;、歴代最長の53年の治世となり、その長寿と婚姻政策の成功によって結果的にハプスブルク家発展の道を開くことになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.87&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.36-38&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;【フリードリヒ3世】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリードリヒ3世の治世に帝国の領域をドイツに限定する意味で、国名に「'''ドイツ国民の'''」（''Deutscher Nation''）を付け始めている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.184-185&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1453年]]に[[コンスタンティノープルの陥落|コンスタンティノープルが陥落]]して[[オスマン帝国]]の脅威が迫るとフリードリヒ3世は帝国会議を開いて諸侯に戦費調達を要請した。諸侯はこの機会に[[帝国裁判所]]{{enlink|Reichskammergericht}}の設置を要求したが、皇帝に不利な内容だったため彼はこれを拒否している&amp;lt;ref name=kimura88&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],p.88&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1455年]]、フリードリヒ3世はローマで皇帝戴冠をなし、彼がローマで戴冠式を挙行した最後の皇帝となった。&lt;br /&gt;
[[File:Albrecht Dürer 084b.jpg|thumb|left|200px|マクシミリアン1世]]&lt;br /&gt;
[[1457年]]にオーストリア公、ボヘミア王、ハンガリー王を兼ねるアルブレヒト2世の子の[[ラディスラウス・ポストゥムス]]が死去し、オーストリアはハプスブルク家が確保したが、ボヘミアとハンガリーはその手から離れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1474年]]に史上初の[[国際裁判所#アドホック刑事裁判|国際アドホック刑事裁判]]として知られる[[ブルゴーニュ戦争]]の{{仮リンク|ペーター・フォン・ハーゲンバッハ|de|Peter von Hagenbach|en|Peter von Hagenbach}}の公判が神聖ローマ帝国で行なわれ、ハーゲンバッハは{{仮リンク|指揮官の責任|en|Command responsibility}}の罪状で法的に有罪とされ、斬首刑に処された&amp;lt;ref&amp;gt;[[ペロポネソス戦争]]後に行なわれた[[ソクラテス]]へ裁判、[[ソクラテスの弁明]]で知られる、と同様によく知られた[[戦争犯罪|戦争裁判]]である。こちらは法的に有罪とされた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1485年]]にはハンガリー王[[マーチャーシュ1世]]がオーストリアへ攻め込み、[[ウィーン]]を占領される事態に陥る。救援を要請したフリードリヒ3世に対して諸侯は嫡男[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ公]]マクシミリアンへのドイツ王譲位を要求し&amp;lt;ref name=kimura88/&amp;gt;、翌[[1486年]]、マクシミリアンはドイツ王（ローマ王）に即位した（[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]）。[[1493年]]にフリードリヒ3世は死去してマクシミリアン1世が単独統治者となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マクシミリアン1世は亡妻[[マリー・ド・ブルゴーニュ|ブルゴーニュ女公マリー]]（[[1482年]]没）の遺領相続を主張してフランス王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と敵対していた。彼は単独統治開始直後の[[1494年]]に[[ミラノ公|ミラノ公女]][[ビアンカ・マリア・スフォルツァ]]と再婚し、[[ミラノ公国]]の支配を巡って当時イタリア半島に侵攻していたフランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]との戦争状態に入った（[[イタリア戦争]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1495年]]、マクシミリアン1世は[[ヴォルムス]]で帝国議会を開催して諸邦の代表に対して軍資金だけでなく、帝国税の導入と兵士の提供を求めた。当時、解体しつつある帝国に新体制を構築しようとする動きがあり、この改革の基本的な考えは、主に[[ニコラウス・クザーヌス]]によって提唱された皇帝と[[帝国等族]]{{enlink|Imperial State|en}}との政治的協調論に基づいている。マインツ大司教[[ベルトルト・フォン・ヘンネブルク]]{{enlink|Bertold von Henneberg-Römhild|en}}を中心とした代表たちは一般帝国税（''Gemeiner Pfennig''）の導入には基本的に同意したが、同時に諸改革案を提案し、マクシミリン1世は妥協してこれに同意した&amp;lt;ref name=kimura88/&amp;gt;。その後、[[1500年]]の[[アウクスブルク]]帝国議会、[[1512年]]のケルン帝国議会でも改革が決議された。以下の骨子のこれらの諸改革を一般に'''帝国改造'''（''Reichsreform''）と呼ぶ。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
#[[永久ラント平和令]](''Ewiger Landfriede'')の制定 ：帝国に単一の法体系を確立して武力行使の合法性を独占（''Gewaltmonopol des Staates''）し、封臣間の政治的争いを解決する手段としての私闘（[[フェーデ]]）を禁止する。&lt;br /&gt;
#[[帝国最高法院]]（''Reichskammergericht''）の設置：上記に関連する機関としての帝国全領域における最高裁判所で、帝国行政府の長としての皇帝個人から管轄権を分離していた。マクシミリアン1世はこれと並存する[[帝国宮内法院]]{{enlink|Aulic Council|Reichshofrat}}を1497年に設置して対応した。帝国裁判所は[[フランクフルト・アム・マイン]]に置かれ、[[1523年]]に[[シュパイアー]]へ移転し、最終的に[[1693年]]に[[ヴェッツラー]]に落ち着いた。&lt;br /&gt;
#[[帝国統治院]]（''Reichsregiment''）の設置：扱いづらく旧態依然としており、これまで充分な影響力を持ち得なかった帝国会議（Reichstag）に代わることを意図した帝国行政府。20人の聖俗諸侯と[[帝国自由都市]]の代表からなり、皇帝の財政と外交を司る。当初、マクシミリアン1世は自らの権力の制限を拒否しており、諸邦が[[ランツクネヒト]]（傭兵:''Landsknecht''）を彼に提供することに同意した後に開かれた1500年のアウクスブルク帝国会議まで承認しなかった。しかしながら、その僅か2年後の1502年に廃止されている。&lt;br /&gt;
#[[帝国クライス]]（''Reichskreise''）の設置：[[クライス議会]]（''Kreistage''）を有する6管区（1512年以降は10管区）。クライスは元々は1500年から設立された帝国最高法院の選挙区を意味し、1512年に治安維持機能が付与され、各管区は永久ラント平和令の施行や徴税そして軍隊の編成をより効率的に管理運営することを目的とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら。新しい法令が普遍的に受け入れられて新裁判所が機能し始めるのには、なお数十年を必要とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1508年]]、マクシミリアン1世はローマでの教皇の手による戴冠を受けることなく皇帝を称し、以後、皇帝はローマでの戴冠を必要としなくなる&amp;lt;ref name=Schulze228&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.228&amp;lt;/ref&amp;gt;。1512年のケルン帝国議会から「'''ドイツ国民の神聖ローマ帝国'''」（''Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation''）の国名が公文書で用いられ始めた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.189&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 近世 ===&lt;br /&gt;
====カール5世の世界帝国と宗教改革====&lt;br /&gt;
{{Main|宗教改革|イタリア戦争}}&lt;br /&gt;
[[File:Empire-Roman-Emperor-Charles-V.jpg|thumb|300px|カール5世時代のハプスブルク帝国。&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;{{legend|#c71585|カスティーリャ|border=1px solid #000}}{{legend|#ff0000|アラゴン|border=1px solid #000}}{{legend|#ffa500|ブルゴーニュ|border=1px solid #000}}&amp;lt;/div&amp;gt;{{legend|#ffd700|オーストリア|border=1px solid #000}}{{legend-line|black solid 2px|神聖ローマ帝国の境界}}]]&lt;br /&gt;
[[16世紀]]に入ったこの時期、フランス、[[イングランド王国|イングランド]]、[[スペイン]]では中央集権化が進められていたが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木下他(2008)|木下他(2008)]],p.290&amp;lt;/ref&amp;gt;、既述の通りにドイツでは逆に諸侯の特権が強化される傾向にあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マクシミリアン1世は嫡子ブルゴーニュ公[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ]]（美公）を[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]＝[[アラゴン王国|アラゴン]]（以後スペインと記す）王家の王女[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]]と結婚させ、[[1500年]]に二人の間に嫡子[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール]]が生まれた。カールは父フィリップの死去（[[1506年]]）によってブルゴーニュ公（領地はブルゴーニュの一部と[[スペイン領ネーデルラント|ネーデルラント]]）を継承し、[[1516年]]には母方の祖父のスペイン王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の死去により、祖父の有していたスペイン王、ナポリ王、シチリア王等の称号を継承する。母フアナとの共同統治であったが、フアナは精神障害のために政務が執れず&amp;lt;ref&amp;gt; 【フアナ・ラ・ロカ】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;、実質的にはカールの単独統治となった（スペイン王カルロス1世）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.72&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1519年]]に父方の祖父である皇帝マクシミリアン1世が死去した。カールはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]との選挙戦に勝ち、皇帝に選出された（神聖ローマ皇帝カール5世）。[[1526年]]には弟のオーストリア大公[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]]がハンガリー＝ボヘミア王位を継承しており、こうしてハプスブルク家はスペイン、ドイツ、ネーデルラント、ナポリ＝シチリア、[[サルデーニャ]]、オーストリア、ハンガリー＝ボヘミアそして広大なスペインの[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|新大陸領土]]を治める「普遍的君主制」&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.36&amp;lt;/ref&amp;gt;（''monarchia universalis''）に君臨することになった。だが、ドイツではカール5世の治世に神聖ローマ帝国の解体を決定的にさせる事態が生じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カール5世が神聖ローマ帝国を統治し始める以前の[[1517年]]に[[マルティン・ルター]]が[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ヴィッテンベルク大学]]で発表した『[[95ヶ条の論題]]』が[[宗教改革]]の発端となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.53&amp;lt;/ref&amp;gt;。ローマ・カトリック教会の大きな財源となっていた[[贖宥状]]の効力に疑義を呈するこの論題は[[活版印刷]]の普及もあってドイツ各地に広まって大きな反響を呼び&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.57-60&amp;lt;/ref&amp;gt;、事態を憂慮した教皇[[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]はルターにローマ出頭を命じるが、ルターは領主であるザクセン選帝侯[[フリードリヒ3世 (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ3世]]（賢公）の庇護を受けてこれに応じなかった。ドイツ内のアウクスブルクと[[ライプツィヒ]]で行われた異端審問でルターは教皇庁側と決裂した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.60-64&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1520年]]にルターは『[[ドイツ貴族に与える書]]』、『[[教会のバビロニア捕囚]]』、『[[キリスト者の自由]]』を発表し（三大宗教改革論）、これに対して教皇庁はルターに破門を通告する[[教皇勅書|勅書]]を送って自説の撤回を迫る。ルターはヴィッテンベルクの公衆の前で、この勅書を燃やして答えた。&lt;br /&gt;
[[File:Лютер в Вормсе.jpg|thumb|300px|left|ヴォルムス帝国議会におけるルター]]&lt;br /&gt;
[[1520年]]にカール5世は[[ヴォルムス帝国議会 (1521年)|ヴォルムス帝国議会]]を開き、先代マクシミリアン1世から引き継いだフランスとのイタリア戦争のために諸侯に妥協し、帝国統治院の再設置を承認させられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.75&amp;lt;/ref&amp;gt;。この帝国議会にルターが召喚されて審問を受けたが、彼は断固たる態度で自説の撤回を拒否した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.152-154&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.76&amp;lt;/ref&amp;gt;。カール5世は{{仮リンク|ヴォルムス勅令|de|Wormser Edikt}}を発してルターを帝国追放に処して著書を禁圧したが、ルターはフリードリヒ賢公に匿われ、[[ヴァルトブルク城]]で[[ルター聖書|新約聖書のドイツ語翻訳]]を成し遂げた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.57-58&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ヴォルムス帝国議会が終わるとカール5世はスペインへ帰国し&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.90&amp;lt;/ref&amp;gt;、以後約10年間もドイツでは皇帝不在となる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],p.77&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]で皇帝軍はフランス王フランソワ1世を捕虜とする大勝をおさめ、カール5世は北イタリアからフランス勢力を駆逐できた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.77-78&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランソワ1世は不利な内容の[[マドリード条約 (1526年)|マドリード条約]]の締結を余儀なくされたが、解放され帰国するとこの条約を反故にしてしまい&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],p.95&amp;lt;/ref&amp;gt;、戦争はなおも継続し、更にスペインを脅威と感じた新教皇[[クレメンス10世 (ローマ教皇)|クレメンス10世]]がフランスに加担する事態まで生じる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.78-79&amp;lt;/ref&amp;gt;（第二次イタリア戦争）。この戦争の最中の[[1527年]]に皇帝軍による「[[ローマ略奪|ローマ劫掠]]」が発生し、ヨーロッパ[[精神世界]]に大きな衝撃を与えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.80-81&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],p.109&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Emperor charles v.png|thumb|200px|カール5世&amp;lt;br&amp;gt;[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]画]]&lt;br /&gt;
一方、ドイツでは[[1521年]]から[[1524年]]にかけてルターの[[福音主義]]は大きく広がり&amp;lt;ref&amp;gt; [[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.61&amp;lt;/ref&amp;gt;、ルターの支持者たちは独自解釈を始めて過激な改革運動が各地で引き起こされた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.154-155&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、スイスでは[[チューリッヒ|チューリッヒ市]]の[[フルドリッヒ・ツヴィングリ]]が宗教改革運動を主導し、更にはより急進的な[[再洗礼派]]が現れてスイス諸州や南ドイツに波及している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.94-101&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1522年]]に宗教改革運動に乗じて地位回復を図った[[騎士|騎士階層]]が蜂起して[[騎士戦争]]が起こったが、短期間で諸侯連合軍に敗北した&amp;lt;ref name=morita/&amp;gt;。続いて、[[1524年]]から急進的な宗教改革を唱える[[トマス・ミュンツァー]]らに主導された農民層が各地で蜂起して[[ドイツ農民戦争]]が勃発する。農民たちは[[農奴制]]の廃止や司祭任免権の要求といった「12ヶ条の要求」を掲げた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.63&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.107-109&amp;lt;/ref&amp;gt;。ルターは当初は農民、諸侯双方を非難したが、やがて諸侯の側に立ち農民反乱軍を激しく非難している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.64-65&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=abe110&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],pp.110-111&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=morita&amp;gt;[[#森田(1994)|森田(1994)]],pp.112-114&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;,[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。統制を欠いた農民反乱軍は短期間で鎮圧され&amp;lt;ref name=morita/&amp;gt;、7-10万人が殺された&amp;lt;ref name=abe110/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
農民戦争鎮圧を通して諸侯の権力は強まり&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.200&amp;lt;/ref&amp;gt;、以降ドイツにおける宗教改革は諸侯に主導される&amp;lt;ref name=morita/&amp;gt;。宗教改革は諸侯にとって教皇庁の支配から逃れられる政治的経済的メリットがあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.65&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1528年]]までに[[ドイツ騎士団]]、[[ヘッセン方伯]]、[[ブランデンブルク＝アンスバッハ辺境伯]]、[[マンスフェルト伯]]などの諸侯、そして[[ストラスブール]]、[[フランクフルト・アム・マイン|フランクフルト]]、[[ニュルンベルク]]といった諸都市がルター派になっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.65-66&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[フィリップ1世 (ヘッセン方伯)|ヘッセン方伯フィリップ1世]]や[[ヨハン (ザクセン選帝侯)|ザクセン選帝侯ヨハン]]を中心とするルター派は教会改革を要求し、[[1529年]]の[[シュパイエル]]帝国議会でヴォルムス勅令の実施が重ねて決定されると、ルター派の5人の諸侯と14の帝国都市が「抗議書」（''Protestatio''）を提出し、これにちなんでルター派をはじめとする教会改革派は[[プロテスタント]]と呼ばれるようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)| 成瀬(1978)]],pp.86-88&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、オスマン帝国の脅威が神聖ローマ帝国へ迫っていた。[[1396年]]の[[ニコポリスの戦い]]でハンガリー王ジギスムント率いる対オスマン十字軍が大敗を喫して以降、オスマン帝国はバルカン半島の支配を固めており&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/ 【ニコポリスの戦い】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;、1520年に即位した[[スルタン]]・[[スレイマン1世]]はヨーロッパ進攻を開始した。彼はまずハンガリーを攻撃して[[ベオグラード]]を奪取し、1526年の[[モハーチの戦い]]でハンガリー王[[ラヨシュ2世]]を戦死させる決定的勝利をおさめた。その後、カール5世の弟フェルディナントがハンガリー＝ボヘミア王を継承したが、ハンガリーは中部の[[オスマン帝国領ハンガリー|オスマン帝国占領地]]、西部のフェルディナントの支配する[[王領ハンガリー|西ハンガリー王国]]そして東部は対立王を立てた現地諸侯にと各々支配され、いわゆる三分割時代となった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A2%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%81%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/ 【モハーチの戦い】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1529年]]にオスマン軍はウィーンを包囲する（[[第一次ウィーン包囲]]）。ウィーンは陥落を免れたが、この後もカール5世はオスマン帝国との戦いを強いられ、フランス王フランソワ1世がオスマン帝国と結んだためにより困難なものとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#井上他(1968)|井上他(1968)]],pp.160-161&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#赤井他(1974)|赤井他(1974)]],pp.193-194&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬(1978)|成瀬(1978)]],pp.84-85&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ローマ劫掠後、フランス王フランソワ1世はイングランド王[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]と盟約を結んでナポリへ侵攻したが、[[ジェノヴァ共和国|ジェノヴァ]]が離反したため遠征は失敗に終わった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.99-104&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランスの形勢が悪化すると教皇クレメンス10世はカール5世と講和を結び、イングランド王ヘンリー8世もフランスを見離し始める&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.105&amp;lt;/ref&amp;gt;。1529年にカンブレーの和が結ばれ、フランスはイタリアにおける権益を放棄させられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.106&amp;lt;/ref&amp;gt;。イタリアにおける覇権を確立したカール5世は、[[1530年]]に[[ボローニャ]]において教皇の手による皇帝戴冠式を挙行し、彼が教皇による戴冠を受けた最後の皇帝となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],p.112&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== アウクスブルクの和議 ====&lt;br /&gt;
{{Main|シュマルカルデン同盟|シュマルカルデン戦争|アウクスブルクの和議}}&lt;br /&gt;
[[File:Augsburger-Reichstag.jpg|250px|left|thumb|アウクスブルク帝国議会（[[1530年]]）]]&lt;br /&gt;
同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書として[[フィリップ・メランヒトン]]起草による「[[アウクスブルク信仰告白]]」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった&amp;lt;ref name=morita27&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.27&amp;lt;/ref&amp;gt;。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする[[1521年]]のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた&amp;lt;ref name=morita27/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1531年]]に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移し、またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、[[1535年]]には[[地中海]]を渡り[[チュニジア|チュニス]]にまで遠征している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.124-150&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1536年]]にフランス王フランソワ1世が[[ミラノ公国]]継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1992)|江村(1992)]],pp.156-159&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌[[1531年]]2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とする[[シュマルカルデン同盟]]が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し[[1532年]]にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された&amp;lt;ref name=morita31&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.31&amp;lt;/ref&amp;gt;。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した&amp;lt;ref name=morita31/&amp;gt;。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが[[1534年]]に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、[[1539年]]にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し（[[ヴィッテンベルク一致信条]]）、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった&amp;lt;ref name=morita31/&amp;gt;。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.100&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。[[1536年]]にプロテスタント神学の基礎と評価される&amp;lt;ref&amp;gt; 【キリスト教綱要】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;『[[キリスト教綱要]]』を著わしたフランスの[[神学者]][[ジャン・カルヴァン]]が亡命生活中に立ち寄った[[ジュネーヴ]]で教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる[[長老制]]を創始する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.71&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼の30年近くにわたる[[神権政治]]により、ジュネーヴは福音主義の牙城となり、[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]はやがて一大勢力に成長することになる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%B3/ 【カルバン】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Druck Augsburger Reichsfrieden.jpg|200px|right|thumb|アウクスブルク宗教平和令&amp;lt;br/&amp;gt;[[1555年]]に[[マインツ]]で印刷された版本の表紙]]&lt;br /&gt;
[[1544年]]にフランスとの[[クレピー条約]]{{enlink|Treaty of Crépy|en}}が締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;（オスマン帝国とは1547年に講和）。[[1546年]]にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主[[ヨハン・フリードリヒ (ザクセン選帝侯)|ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ（寛大公）]]の一族である[[モーリッツ (ザクセン選帝侯)|ザクセン公モーリッツ]]が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.45&amp;lt;/ref&amp;gt;。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(1994)|森田(1994)]],p.114&amp;lt;/ref&amp;gt;。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年[[シュマルカルデン戦争]]をおこし、[[ミュールベルクの戦い]]{{enlink|Battle of Mühlberg|en}}でシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「[[アウクスブルク仮信条協定]]」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市の[[ツンフト]]（職業団体）が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],pp.33-36&amp;lt;/ref&amp;gt;。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男[[フェリペ2世|フェリペ]]にドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],p.86&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.40&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが[[1552年]]にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.47-48&amp;lt;/ref&amp;gt;。カール5世は敗北し、[[パッサウ条約]]によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟の[[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]に宗教問題の解決を任せ、[[1555年]]のアウクスブルク帝国議会で、[[アウクスブルクの和議|アウクスブルク宗教平和令]]が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」（''[[:en:cujus regio, ejus religio|cujus regio, ejus religio]]''）という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという[[領邦教会制度]]が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.87-88&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただしこの時点では[[カルヴァン派]]・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#森田(2010)|森田(2010)]],p.40&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、同帝国議会で発布された[[帝国執行令]]（{{lang|de|''Reichsexekutionsordnung''}}）は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.411&amp;lt;/ref&amp;gt;。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.410-411,pp.420-421&amp;lt;/ref&amp;gt;。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.88,&amp;lt;/ref&amp;gt;。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Angermeier(1991)|Angermeier(1991)]],p. 303&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌[[1556年]]、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位（皇帝フェルディナント1世）を、嫡男フェリペにはスペイン王位（スペイン王フェリペ2世）をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]],p. 315&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 宗派対立 ====&lt;br /&gt;
[[File:Nicolas Neufchâtel 002.jpg|thumb|200px|マクシミリアン2世]]&lt;br /&gt;
この時期、ルター派はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;1613年にブランデンブルク選帝侯[[ヨーハン・ジギスムント]]はルター派からカルヴァン派に改宗している。[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.48&amp;lt;/ref&amp;gt;をはじめとする北ドイツ一帯に広まっており、帝国領域外ではドイツ騎士団も改宗して[[プロイセン公国]]が成立し、[[デンマーク＝ノルウェー|デンマーク]]と[[スウェーデン]]もルター派を導入している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.88-89&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、カルヴァン派は西部に浸透し、プファルツ選帝侯が改宗した。諸侯の数では依然としてカトリックが多かったが、人口ではプロテスタントが圧倒していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.476,p.503&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フェルディナント1世はプロテスタント諸侯に対して融和的な施策を取り&amp;lt;ref&amp;gt;【フェルディナント1世】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;、1560年代前半まで大きな軍事的紛争を起こすことなく帝国を統治した。[[1564年]]にフェルディナント1世が死去すると、彼の息子[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]が皇帝になり、父と同様にプロテスタントの存在と時々の妥協の必要性を受け入れていた&amp;lt;ref group=nb name=naruse474&amp;gt;マクシミリアン2世はルター派に近い信仰を持っていた。[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.474-475&amp;lt;/ref&amp;gt;。スペインに対するオランダ人プロテスタントの反乱（[[八十年戦争]]）では帝国は中立を守っている。だが、この宗教融和は「単なる休戦」に過ぎなかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;rovan340&amp;quot;&amp;gt;[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]], p. 340&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1570年代から[[イエズス会]]を尖兵とする[[対抗宗教改革|反宗教改革]]がドイツに浸透し始めており、各地でカトリック勢力によるプロテスタント弾圧が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.472-473&amp;lt;/ref&amp;gt;。これに対して、プロテスタント勢力はルター派と西部ドイツに勢力を広げるカルヴァン派とが対立しており、カトリックに対して統一行動が取れない状態になっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.470-471&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1577年]]に選帝侯であるケルン大司教[[ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルク]]{{enlink|Gebhard Truchsess von Waldburg|en}}がカルヴァン派の女性と結婚するために改宗を表明し、これに反対して大司教罷免を強行するカトリック諸侯との[[ケルン戦争]]{{enlink|Cologne War|en}}が勃発するが、ルター派の多いプロテスタント諸侯はこれを傍観している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大野他(1961)|大野他(1961)]],p.1&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.473&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Hans von Aachen 003.jpg|thumb|left|200px|ルドルフ2世]]&lt;br /&gt;
プロテスタントに寛容な&amp;lt;ref group=nb name=naruse474/&amp;gt;マクシミリアン2世が[[1576年]]に死去すると、頑迷なカトリックである彼の息子[[ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ2世]]&amp;lt;ref&amp;gt;【ルドルフ2世】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&amp;lt;/ref&amp;gt;は父の政策を廃棄して帝国宮内法院と帝国最高法院の判事の過半数にカトリックを任命する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Rovan(1999)|Rovan(1999)]],pp. 339-340&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=naruse473&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.473-474&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国諸制度は次第に麻痺化し&amp;lt;ref name=naruse473/&amp;gt;、[[1588年]]には既に帝国最高法院が機能しなくなっていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#Albrecht(1998)|Albrecht(1998)]], p. 404&amp;lt;/ref&amp;gt;。16世紀初めにはプロテスタント諸邦はもはやカトリックによって独占的に運営される帝国宮内法院を認めなくなり、事態はさらに悪化した。同時期、帝国クライスの選帝侯や諸侯は宗派によって集団を形成するようになっていた。[[1608年]]のレーゲンスブルク帝国議会は閉会宣言なく終了し &amp;lt;ref&amp;gt;[[#Frisch(1993)|Frisch(1993)]], p. 18&amp;lt;/ref&amp;gt;、カルヴァン派のプファルツ選帝侯とその他の出席者たちは皇帝が彼らの信仰を認めなかったために退席している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同年、プファルツ選帝侯[[フリードリヒ4世 (プファルツ選帝侯)|フリードリヒ4世]]を盟主に6人の諸侯が[[プロテスタント同盟]]（''Protestantische Union''）を結成した&amp;lt;ref name=&amp;quot;rovan340&amp;quot; /&amp;gt;。その後、その他の都市や諸侯もこの同盟に加入する。当初、ザクセン選帝侯と北部諸侯は加盟を拒否したが、後にザクセン選帝侯も同意している。これに対して、翌[[1609年]]にカトリック諸侯が[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|バイエルン公マクシミリアン]]を盟主とする[[カトリック連盟]]（''Katholische Liga''）を結成した。連盟は帝国におけるカトリックの優位を守ることを目的としていた。帝国諸機関は麻痺状態となり、戦争は不可避となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Schillinger112&amp;quot;&amp;gt;[[#Schillinger(2002)|Schillinger(2002)]],p. 112&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、皇帝ルドルフ2世は[[プラハ]]に引きこもって神秘諸術に耽る状態で、事態に対処する能力を持たなかった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.218&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#江村(1990)|江村(1990)]],pp.134-135&amp;lt;/ref&amp;gt;。ルドルフ2世は不満を持った弟・[[マティアス (神聖ローマ皇帝)|マティアス]]と争って1608年にハンガリー王位を奪われ、ボヘミア・プロテスタント等族の支持を得るためにプロテスタントに信仰の自由を与える「勅許状」を出すが、マティアスに軟禁され[[1612年]]に死去した&amp;lt;ref name=naruse486&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.486&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.44&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ルドルフ2世とマティアスの争いは[[グリルパルツァー]]の戯曲「ハプスブルク家の兄弟の諍い」（''Ein Bruderzwist im Hause Habsburg''）に描かれている。&amp;lt;/ref&amp;gt; 。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝位を継いだマティアスは宗教対立の仲裁を試みるが失敗に終わり、ボヘミア王位を従弟の[[シュタイアーマルク州|シュタイアーマルク公]][[フェルディナント2世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント]]に譲らざるをえなくなる&amp;lt;ref name=naruse486/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====三十年戦争====&lt;br /&gt;
{|style=&amp;quot;float:right&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
!　!! style=&amp;quot;background-color:#ddf&amp;quot;|'''三十年戦争関係地図'''&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|style=&amp;quot;width:1em&amp;quot;|&lt;br /&gt;
|&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float:right;width:330px;height:300px;overflow:hidden;position:relative;margin-left:0px;font-size:0px&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{| cellpadding=0 cellspacing=0 style=&amp;quot;position:absolute;top:-0px;left:-0px;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[File:Map Thirty Years War-en.svg|330px]]&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| || style=&amp;quot;width:22em;border:1px solid #431&amp;quot; &amp;quot; |{{Indent|&lt;br /&gt;
{{legend|#f4c1ba|プロテスタント多数派国・領邦|border=1px solid #000}}{{legend|#f1eb76|スペイン・ハプスブルク|border=1px solid #000}}{{legend|#ffa954|オーストリア・ハプスブルク|border=1px solid #000}} &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;small&amp;gt;①1620-1623：ボヘミアとプファルツ選帝侯の敗北。&amp;lt;br&amp;gt;②1625-1629：デンマーク王クリスチャン4世の介入。&amp;lt;br&amp;gt;③1630-1632:スウェーデン王グスタフ2世アドルフの介入。&amp;lt;br&amp;gt;④1635-1643：フランスの介入。&amp;lt;br&amp;gt;⑤1645-1648:[[テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ|テュレンヌ将軍]]とスウェーデンのドイツ戦役。&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
{{Main|三十年戦争|ヴェストファーレン条約}}&lt;br /&gt;
[[File:Defenestration-prague-1618.jpg|thumb|left|250px|プラハ窓外投擲事件]]&lt;br /&gt;
ボヘミア王となったフェルディナント2世はイエズス会の教育を受けた厳格なカトリックであり、ルドルフ2世の「勅許状」を反故にしてボヘミアのプロテスタントに迫害を加えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.83&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1618年]]、弾圧に反抗するボヘミア貴族がプラハ城に押し掛け、フェルディナントの代官2名と秘書官を城外に投げ落とす事件を起こした（[[プラハ窓外投擲事件]]）。この事件を契機にボヘミアで大規模な反乱が発生し、[[シレジア]]、[[ラウジッツ]]そして[[モラヴィア]]といったこれ以前からカトリックとプロテスタントに分裂していたボヘミア全土に広がる。[[1619年]]に皇帝マティアスの死去により、フェルディナント2世が皇帝に選出されるとほぼ同時にボヘミア貴族はカルヴァン派の[[フリードリヒ5世 (プファルツ選帝侯)|プファルツ選帝侯フリードリヒ5世]]（冬王）を新国王として迎えた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.45&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フェルディナント2世はカトリック連盟のバイエルン公[[マクシミリアン1世 (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン1世]]のみならず、カルヴァン派を憎むルター派のザクセン選帝侯[[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]の支持をも受けて反撃に転じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.56-58&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1620年]]にプラハ郊外で行われた[[白山の戦い]]でボヘミア反乱軍は[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス]]率いる皇帝軍に大敗を喫した。プファルツへはスペイン軍が侵攻し、プファルツ選帝侯フリードリヒ5世は没落して反乱軍は事実上瓦解した。ボヘミアではプロテスタントに対する徹底的な弾圧が行われ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.84&amp;lt;/ref&amp;gt;、15世紀の[[フス派]]以降、プロテスタント諸派の勢力が根強かったこの国&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.45-46&amp;lt;/ref&amp;gt;を再びカトリックへ引き戻すことを確実にした&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;2001年時点のチェコ共和国の宗教は無宗教（59%）に次いでカトリック（26.8%）が多く、プロテスタント諸派は2.1%と少数派になっている。[https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ez.html CIA - The World Factbook]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この事態にプロテスタントであるデンマーク国王[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスチャン4世]]が戦争への介入を決意する&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;クリスチャン4世が参戦した直接的な動機は王子のハルバーシュタット司教職就任を皇帝に拒否されたことである。[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.75-76&amp;lt;/ref&amp;gt;。クリスチャン4世は反ハプスブルク政策を取るフランスの宰相[[リシュリュー]]枢機卿の仲介により、プロテスタントの[[グレートブリテン王国|イギリス]]、オランダそしてスウェーデンとの[[対ハプスブルク同盟]]（ハーグ同盟）を結んだ&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.74&amp;lt;/ref&amp;gt;。デンマーク軍は[[1625年]]に帝国へ侵攻し、フェルディナント2世は窮地に陥る。皇帝を救ったのがボヘミア貴族で資産家でもある[[アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン]]であった。彼は5万の[[傭兵]]軍を集めて皇帝に提供し、皇帝軍総司令官に任命された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.88-89&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方、プロテスタント陣営内では内部不和が生じており、デンマーク軍と別れたプロテスタント諸軍はヴァレンシュタインに各個撃破されてしまう&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.89-90&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1626年]]、クリスチャン4世は[[ルッターの戦い]]でティリー伯に大敗を喫した。以降、デンマーク軍は劣勢に陥り、[[1629年]]に{{仮リンク|リューベック条約|en|Treaty of Lübeck|label=リューベックの和約}}が締結されてデンマークは戦争から脱落した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
軍事的優位を確保したフェルディナント2世は帝国議会を無視する態度に出るとともに、[[3月6日]]に「{{仮リンク|復旧令|de|Restitutionsedikt|en|Edict of Restitution|label=復旧勅令}}」（{{lang-de-short|Restitutionsedikt}}）を布告して宗教改革以来、プロテスタントに没収された教会財産の返還を命じた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],p.64,93&amp;lt;/ref&amp;gt;。復旧勅令の過激さとフェルディナント2世の[[絶対君主]]的な振る舞いはプロテスタント諸侯のみならず、カトリック諸侯からも反発を受ける&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.93-94&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.489&amp;lt;/ref&amp;gt;。皇帝軍を支えるヴァレンシュタインは強引な軍税徴発によって諸侯から憎まれており、彼らはヴァレンシュタイン罷免を強硬に要求し、フェルディナント2世もこれを受け入れざる得なくなった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.95-103&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Carl Wahlbom Lützen.JPG|thumb|250px|left|リュッツェンの戦い]]&lt;br /&gt;
ポーランドとの戦争に勝利した[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|スウェーデン王グスタフ2世アドルフ]]は[[1630年]]に帝国への介入に乗り出した。グスタフ2世アドルフはフランスと軍資金援助を含んだ[[ベールヴァルデ条約]]を結び&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.111-112&amp;lt;/ref&amp;gt;、軍制改革によって近代的徴兵軍となっていたスウェーデン軍を率いてポンメルンに上陸する&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.62-65&amp;lt;/ref&amp;gt;。当初、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯はスウェーデンへの加担を躊躇っていたが、皇帝軍総司令官ティリー伯による[[マクデブルクの戦い|マクデブルク略奪]]が起こるとスウェーデンとの連合に踏み切った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.113-116&amp;lt;/ref&amp;gt;。グスタフ2世アドルフは[[ブライテンフェルトの戦い (1631年)|ブライテンフェルトの戦い]]と[[レヒ川の戦い]]で皇帝軍を連破してティリー伯を戦死させた。スウェーデン軍はバイエルンの首都[[ミュンヘン]]を陥れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
再び窮地に陥ったフェルディナント2世はヴァレンシュタインに皇帝軍総司令官復帰を要請し、ヴァレンシュタインは皇帝から有利な条件を引き出した上でこれを承諾した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.123-124&amp;lt;/ref&amp;gt;。グスタフ2世アドルフとヴァレンシュタインとの決戦は[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]で行われた。戦闘ではスウェーデン軍が勝利したもののグスタフ2世アドルフは戦死しており、事実上の痛み分けで終わった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.65-66&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後もヴァレンシュタインは皇帝軍総司令官の地位に留まり隠然たる勢力を保っていたが、独自に講和を行おうとしたため、[[1634年]]にフェルディナント2世から反逆を疑われ、[[暗殺]]されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp491-492&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.135-143&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国王を失ったスウェーデン軍は、なおも[[宰相]]兼[[摂政]]である[[アクセル・オクセンシェルナ|オクセンシェルナ]]の元でドイツに留まり戦争を継続、プロテスタント諸侯と[[ハイルブロン同盟]]を結び、皇帝軍と対峙したが、[[1634年]]の[[ネルトリンゲンの戦い (1634年)|ネルトリンゲンの戦い]]でスペイン軍を投入した皇帝軍に敗れた。この敗戦で打撃を受けたザクセン選帝侯をはじめとするプロテスタント諸侯の大半は翌[[1635年]]に復旧勅令の撤回を条件とする[[プラハ条約 (1635年)|プラハ条約]]を締結して皇帝に帰順した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.148-150&amp;lt;/ref&amp;gt;。これによって孤立したスウェーデンは窮地に陥るが、プラハ条約発表直前に、これまで間接的な参戦に留まっていたフランスがスウェーデンとベールヴァルデ条約の更新を行い、スペインおよび皇帝に対する本格参戦に踏み切った&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(1995)|菊池(1995)]],pp.151-150&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1637年]]にフェルディナント2世は死去して嫡男[[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]が帝位を継承した。戦争はなお10年以上続き、決定的な戦闘こそなかったものの戦況は次第にフランス、スウェーデン優位に傾き、スペインは国内事情の悪化から介入を続ける余力を失い、帝国諸侯も脱落し始める&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.492-493&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方スウェーデン軍は、背後を脅かすデンマークを撃破し（[[トルステンソン戦争]]）、北方での地位を安定させると、今度は[[ボヘミア]]へ侵攻した。フランス軍も[[ロクロワの戦い]]でスペイン軍に勝利し、皇帝やカトリック諸侯を追い詰めて行った。&lt;br /&gt;
[[File:Westfaelischer_Friede_in_Muenster_(Gerard_Terborch_1648).jpg|thumb|300px|right|ミュンスターにおけるヴェストファーレン条約締結&amp;lt;br&amp;gt;[[ヘラルト・テル・ボルフ]]画]]&lt;br /&gt;
[[1642年]]にリシュリュー枢機卿が死去し、それから5か月後に[[ルイ13世 (フランス王)|フランス王ルイ13世]]も死去しており、僅か4歳の[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]が即位して[[ジュール・マザラン|マザラン枢機卿]]が宰相となった。マザラン枢機卿は戦争終結に動き、一方のスウェーデンも[[親政]]を開始した女王[[クリスティーナ (スウェーデン女王)|クリスティーナ]]の元で皇帝との和平交渉の末、[[1648年]]にミュンスター講和条約およびオスナブリュック講和条約（総称して[[ヴェストファーレン条約]]）が締結されて戦争は終わった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同条約により、[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]が公式に容認され、領民は領主と異なる信仰を持つことが認められた（ハプスブルク世襲領は除く）&amp;lt;ref name=naruse494&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.494&amp;lt;/ref&amp;gt;。全ての領邦には選帝侯と同等の[[領邦高権]]（''Landeshoheit''：[[主権|国家主権]]に近い権利）が与えられ、帝国に敵対する同盟を結ぶことができないなど依然として幾つかの制約はあったが[[外交権]]まで加わっていた&amp;lt;ref name=naruse494/&amp;gt;&amp;lt;ref name=kikuti224&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.224&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.93&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、バイエルン公が選帝侯に加えられている。一方、皇帝の権限は帝国議会によって大きく制限されることになる&amp;lt;ref name=naruse494/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
加えて、事実上の独立状態にあったスイス連邦と[[オランダ|北ネーデルラント]]（オランダ）が帝国から離脱した&amp;lt;ref name=kikuti224/&amp;gt;。フランスはエルザス＝ロートリンゲン（[[アルザス＝ロレーヌ]]）を獲得、スウェーデンは[[ポメラニア公国|西ポメラニア]]をはじめとする北ドイツの領土を獲得して戦後における大国の地位を確保した（[[バルト帝国]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらによって、皇帝の有名無実化と帝国の解体が決定的になったとして同条約は一般に「'''帝国の死亡証明書'''」といわれる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.226&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#大野他(1961)|大野他(1961)]],p.26&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしながら、近年のドイツ史学では統一された国民国家を到達点とする従来の歴史観から離れ、ヴェストファーレン条約によりドイツにおいては平和的な仲裁により宗派対立を解決する体制が確立されたとする研究もある&amp;lt;ref name=wilson45&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.45-46&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[ヴェストファーレン体制]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この戦争によって引き起こされた破壊の規模は歴史家の間で長い間論議されてきた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.94-98&amp;lt;/ref&amp;gt;。従来はドイツ人口が30-40％減少し、経済水準が回復するまでに200年を必要としたとされてきたが、この見積もりについては現在では疑問視されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.500-502&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.95-96&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===近代===&lt;br /&gt;
====オーストリアとプロイセン====&lt;br /&gt;
{{See|ハプスブルク君主国|プロイセン王国}}&lt;br /&gt;
[[File:Holy Roman Empire 1648.svg|thumb|right|300px|ヴェストファーレン条約後の神聖ローマ帝国&lt;br /&gt;
{{legend|#e6e6e6|プファルツ選帝侯領}}&lt;br /&gt;
{{legend|#b3de69|バイエルン選帝侯領}}&lt;br /&gt;
{{legend|#fdb462|ブランデンブルク選帝侯領}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ccebc5|オーストリア・ハプスブルク領}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ffed6f|スペイン・ハプスブルク領}}]]&lt;br /&gt;
ヴェストファーレン条約によって帝国は300以上の[[領邦|領邦国家]]と帝国自由都市の集合体となり&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%A0%98%E9%82%A6%E5%9B%BD%E5%AE%B6/ 【領邦国家】] （日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;、その中には極めて小規模な領邦も存在していた。一方、ハプスブルク家はオーストリアその他の世襲公領とボヘミア王国、[[王領ハンガリー|西ハンガリー王国]]との[[同君連合]]を統治し、この[[ハプスブルク君主国]]における絶対主義国家形成へと向かう（オーストリア絶対主義）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.14-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Kaiser-Leopold1.jpg|thumb|left|180px|レオポルト1世]]&lt;br /&gt;
[[1657年]]にフェルディナント3世が死去するが、皇位継承者だった[[フェルディナント4世 (ローマ王)|ローマ王フェルディナント4世]]は父に先立って既に死去していた。皇帝選挙ではマザラン枢機卿がハプスブルク家を排除してフランス王ルイ14世を将来の皇帝とすべく、中継ぎとしてバイエルン選帝侯[[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|フェルディナント・マリア]]を推す動きもあったが、結局、フェルディナント3世の次男[[レオポルト1世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト1世]]が選出された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.6&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.70-72&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかしながら、この為にレオポルト1世は選挙協約で諸侯に対するより一層の譲歩を余儀なくされている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.72&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1663年]]にレーゲンスブルク帝国議会が開催されたが、この帝国議会は以降、議決も散会もされずに帝国が消滅するまで継続して「永続的帝国議会」（''Immerwahrender Reichstag''）と呼ばれるようになり、諸侯の使節会議と化してしまった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.8&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.104&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
レオポルト1世の治世、帝国は度重なるルイ14世の領土的野心とオスマン帝国の脅威に直面している。[[1667年]]に始まった一連の[[ネーデルラント継承戦争]]（帰属戦争、[[オランダ侵略戦争]]）でフランスはスペイン、ネーデルラントそして神聖ローマ帝国に戦いを仕掛け、[[ナイメーヘンの和約]]でスペインから[[フランシュ＝コンテ]]、帝国からは[[フライブルク・イム・ブライスガウ]]その他の領土を獲得し、その後、ルイ14世は東部国境地帯の「再統合」を推し進め、[[1681年]]にはシュトラースブルク（[[ストラスブール]]）を占領した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.11&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1683年]]、ルイ14世からの中立の約束を得たオスマン帝国が軍事行動を起こし、20万の兵力をもってウィーンを包囲した（[[第二次ウィーン包囲]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.17&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストリア軍は包囲戦を耐え抜き、到着した[[ポーランド王]][[ヤン3世 (ポーランド王)|ヤン3世]]やドイツ諸邦の援軍がオスマン帝国軍を決定的に打ち破った。以後もオスマン帝国との戦争は16年に渡り続くが（[[大トルコ戦争]]）、[[1697年]]に[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]率いる帝国軍が[[ゼンタの戦い]]で大勝して勝敗は決した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.74&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1699年]]に[[カルロヴィッツ条約]]が結ばれてオスマン帝国はヨーロッパ領土の割譲を余儀なくされ、オーストリアは[[オスマン帝国領ハンガリー]]と[[トランシルヴァニア]]、[[スロヴェニア]]、[[クロアチア]]を獲得した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.18&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
[[File:Louis XIV 1666 Charles le Brun.jpg|thumb|right|200px|ルイ14世]]&lt;br /&gt;
一方、ルイ14世はオーストリアとオスマン帝国との戦いに乗じて[[1688年]]にプファルツ選帝侯領へ侵攻して多大な被害をもたらした（[[大同盟戦争|プファルツ継承戦争]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.12-13&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、フランスはオーストリア、ドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデンそしてイギリスが加わった[[アウクスブルク同盟]]諸国と敵対することになり、戦争は長期化して1697年に終結したが、フランスはプファルツのみならず、以前の戦争で獲得した領土の大半を放棄せざる得なくなった&amp;lt;ref&amp;gt;【ライスワイク条約】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[レイスウェイク条約]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期のスペイン王[[カルロス2世 (スペイン王)|カルロス2世]]は生来病弱の上に子がなく、スペイン・ハプスブルク家は断絶しようとしていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。レオポルト1世のオーストリア・ハプスブルク家、そしてルイ14世の[[ブルボン家]]ともに有力な王位継承権を有しており&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.20-21&amp;lt;/ref&amp;gt;、スペイン王位継承を巡る対立が高まる中、カルロス2世はルイ14世の孫[[フェリペ5世 (スペイン王)|アンジュー公フィリップ]]を後継者に指名した。[[1700年]]にカルロス2世が死去するとルイ14世はアンジュー公フィリップのスペイン王継承に同意するが（スペイン王フェリペ5世）、オーストリア、イギリスを初めとする諸国がこれに反対して[[スペイン継承戦争]]が勃発する。この戦争では帝国諸侯のほとんどが皇帝軍に加わったが、バイエルン選帝侯[[マクシミリアン2世エマヌエル (バイエルン選帝侯)|マクシミリアン2世エマヌエル]]と弟のケルン大司教[[ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルン]]がフランスに味方して皇帝軍と戦っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.20&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ブレンハイムの戦い]]でオーストリア＝イギリス軍はフランス＝バイエルン軍に勝利するものの、戦争は膠着状態に陥り、[[1713年]]と[[1714年]]にそれぞれ[[ユトレヒト条約]]と[[ラシュタット条約]]が締結され、各国がフェリペ5世の王位を承認する見返りにスペインが多くの領土を割譲することで終わっている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A6%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%92%E3%83%88%E6%9D%A1%E7%B4%84/ 【ユトレヒト条約】]＆[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%88%E6%9D%A1%E7%B4%84/ 【ラスタット条約】] （日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストリアはスペイン領ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャを獲得した。レオポルト1世は戦争中の[[1705年]]に死去しており、ルイ14世も戦争終結から程ない[[1715年]]に死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代、聖俗諸侯領では絶対主義化が進行していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.27-31&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.103&amp;lt;/ref&amp;gt;。フランスやオスマン帝国の脅威を受けていた中小領邦はその存立を守護する存在としての帝国国制を必要としていた&amp;lt;ref name=naruseb31/&amp;gt;。特に西南ドイツでは帝国クライスが地域自治機関として機能しており、クライス議会が活発に活動し、クライス軍制はその防衛機能をある程度だが果たしている&amp;lt;ref name=naruseb31&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.9,pp.31-32&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
[[File:Acprussiamap2.gif|thumb|left|300px|ブランデンブルク＝プロイセンの拡大（1600-1795）&lt;br /&gt;
{{legend|#f6e1b9|ブランデンブルク選帝侯領（1600年）|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#627d0f|プロシア公領（1600年）|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ef9421|1772年までに獲得した領土|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#fff3a2|ポーランド分割（1772-1795）で獲得した領土|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
]]&lt;br /&gt;
ハプスブルク家のオーストリアがフランスやオスマン帝国との戦争を行いつつ大国としての地位を固めている間に、帝国内では[[ブランデンブルク＝プロイセン]]が台頭し始めていた。[[1618年]]に[[プロシア公領]]とブランデンブルク辺境伯領との同君連合が成立した[[ホーエンツォレルン家]]のブランデンブルク＝プロイセンは[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯)|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]（大選帝侯）の治世にヴェストファーレン条約によって東ポメラニアを獲得し、戦後は[[ポーランド王国]]の影響力を排除するとともに等族との対決に打ち勝って絶対主義に基づく統治体制を構築していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.49-52&amp;lt;/ref&amp;gt;。この間に大選帝侯は、スウェーデンの影響力を排除して海上にも進出した（[[植民地#その他のヨーロッパ諸国|ドイツ領黄金海岸]]）。そして、[[1701年]]、[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]はスペイン継承戦争でオーストリアに味方する見返りに帝国領域外での戴冠の承認を受け「[[プロイセンの王]]」（''König '''in''' Preußen''）を名乗る&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.112-113&amp;lt;/ref&amp;gt;。次代の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム1世]]（兵隊王）は軍制改革を実施してプロイセン王国を軍事国家となさしめた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#長谷川他(2009)|長谷川他(2009)]],pp.506-509&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時期、プロイセン＝ブランデンブルク以外にもザクセン選帝侯[[アウグスト2世 (ポーランド王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]が[[ポーランド・リトアニア共和国]]の王位（アウグスト2世）を[[ハノーファー選帝侯]][[ジョージ1世 (イギリス王)|ゲオルク1世ルートヴィヒ]]がイギリス王位（ジョージ1世）をそれぞれ帝国領域外で獲得している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スペイン継承戦争と並行して東方では[[大北方戦争]]（1700年 - 1721年）が行われており、スウェーデンと[[反スウェーデン同盟|北方同盟]]諸国（[[ロシア・ツァーリ国|ロシア]]、ザクセン＝ポーランド＝リトアニア、[[デンマーク＝ノルウェー]]：後にプロイセン、ハノファー＝イギリスが加わる）とが戦い、ザクセン選帝侯領やスウェーデン領ポメラニアなど帝国領域も戦場になった。[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]率いるスウェーデンは、攻勢に出てバルト海沿岸諸国を圧倒するも、ロシア国内での大敗を機に優位を失った。長期化した戦争は、ロシアがポーランドまで影響力を伸張し、さらに帝国内での影響力を失ったスウェーデンの最終的な敗北に終わった（[[ストックホルム条約]]の締結により、ハノーファー選帝侯やプロイセン王国が帝国北部において勢力を拡大した）。勝利したロシアのツアーリ・[[ピョートル1世]]は[[1721年]]に皇帝（[[インペラトル]]）を名乗り、[[ロシア帝国]]が成立した。スウェーデンは[[バルト海]]世界の[[覇権]]を失い、ロシアが代ってヨーロッパの[[列強]]の一角として浮上した（[[ニスタット条約]]）。[[ロシア皇帝]]は東ローマ皇帝の後継者を主張しており&amp;lt;ref name=Ykoutei&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%9A%87%E5%B8%9D/ 【皇帝】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;、1453年に東ローマ帝国が滅亡して以来、約300年ぶりにキリスト教世界に二人の皇帝が並び立つこととなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ヨーゼフ1世]]の短い在位を経て[[1711年]]に即位した[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は対外戦争によってハプスブルク家の領土を拡大したが、唯一の男子が夭逝して女子しか子がなく、この為、カール6世は皇女[[マリア・テレジア]]を後継者とすべく[[国事詔書]]（''Pragmatische Sanktion''）を出し、諸国にこれを認めさせるために多くの外交的・領土的な譲歩をしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.25-26&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[File:Kaiserin Maria Theresia (HRR).jpg|150px]]|| [[File:Friedrich1763o.jpg|150px]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot; |&amp;lt;small&amp;gt;マリア・テレジア（左）とプロイセン王フリードリヒ2世（右）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
だが、[[1740年]]にカール6世が死去すると[[ルイ15世 (フランス王)|フランス王ルイ15世]]、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|プロイセン王フリードリヒ2世]]（大王）を初めとする諸国がマリア・テレジアのハプスブルク家世襲領継承に異議を唱え[[オーストリア継承戦争]]が勃発した。また、帝国法は女子の皇帝を認めておらず、このためハプスブルク家はマリア・テレジアの夫[[フランツ1世 (神聖ローマ皇帝)|フランツ・シュテファン]]の皇帝選出を目論んでいたが、選出されたのはフランスと結んだバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト（ヴィッテルスバッハ家）であった&amp;lt;ref name=kikuti95&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],p.95&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1742年]]にカール・アルブレヒトは[[カール7世 (神聖ローマ皇帝)|神聖ローマ皇帝カール7世]]として即位し、彼が1437年に即位したアルブレヒト2世以降、唯一のハプスブルク家以外の皇帝である。だが、即位の直後にバイエルンの首都ミュンヘンをオーストリアに占領され、カール7世はフランスの支援が十分に得られないまま各地を転戦するうちに僅か3年の在位で[[1745年]]に死去した&amp;lt;ref name=kikuti95/&amp;gt;。オーストリアとバイエルンとの和議が成立して次の皇帝にはマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンが選出された（神聖ローマ皇帝フランツ1世）。[[1748年]]に[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]が成立してマリア・テレジアはハプスブルク家世襲領継承を承認させることに成功したが、[[シレジア|シュレジエン]]をプロイセンに割譲せねばならなかった（[[シュレージエン戦争]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
英明な君主であったマリア・テレジアはオーストリアの内政改革を進める一方&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.109-110&amp;lt;/ref&amp;gt;、シュレジエンを奪回するべく外交を展開してロシア、ザクセンそして長年の宿敵だったフランスとの同盟を成立させ対プロイセン包囲網を構築した（[[外交革命]]）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.110-111&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[1756年]]に勃発した[[七年戦争]]でイギリスと同盟したフリードリヒ2世は圧倒的な国力の差にもかかわらず幾つかの戦いで勝利して持ちこたえるが、[[1761年]]にはイギリスの援助が打ち切られ苦境に陥った&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89/ 【七年戦争】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、[[1762年]]にフリードリヒ2世の信奉者だった[[ピョートル3世]]がロシア皇帝に即位するとロシアは戦線を離脱し、フリードリヒ2世は危機を脱した&amp;lt;ref name=narusetan113&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.113&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストリア、プロイセンそしてザクセンとの間で[[1763年]]に締結された[[フベルトゥスブルク条約]]により、プロイセンはシュレジエンを確保してヨーロッパの列強にのし上がる。これがドイツの覇権をめぐるオーストリアとプロイセンの対立の始まりとなった（[[ドイツ二元主義]]）&amp;lt;ref name=narusetan113/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランツ1世は[[1765年]]に死去し、後を継いで皇帝に即位した嫡男[[ヨーゼフ2世]]は母マリア・テレジアとハプスブルク君主国の共同統治に入った。マリア・テレジアとヨーゼフ2世は啓蒙的諸政策を実施して、オーストリアにおける「[[啓蒙専制君主|啓蒙専制主義]]」を確立した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2/ 【マリア・テレジア】]、[http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/ 【オーストリア - 歴史】]（日本大百科全書，小学館）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1780年]]にマリア・テレジアが死去して単独統治に入ったヨーゼフ2世は宗教寛容令や修道院の廃止、死刑制度の廃止といった急進的な啓蒙諸改革（[[ヨーゼフ主義]]）を実施するも、反発を受け治世の晩年にはその大部分の撤回を余儀なくされている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.119-121&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーストリアとプロイセンは[[1772年]]に[[ポーランド分割]]を行って領土を拡張させており、ヨーゼフ2世は更にバイエルン選帝侯領獲得を企て、[[1777年]]に[[バイエルン継承戦争]]を起こすが、プロイセンの干渉によって一部の領土を獲得したに留まった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.126-127&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヨーゼフ2世は尚もバイエルン獲得を諦めなかったが、プロイセン、ザクセン、ハノーファーに諸小邦が加わって「帝国国制の維持」を掲げる「[[君侯同盟]]」（''Fürstenbund''）を結成し、ヨーゼフ2世の企てを挫折させた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.127-128&amp;lt;/ref&amp;gt;。ヨーゼフ2世は[[1790年]]に死去し、弟の[[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]が帝位を継承した。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
====フランス革命と帝国消滅====&lt;br /&gt;
{{Main|フランス革命戦争|帝国代表者会議主要決議}}&lt;br /&gt;
[[File:HRR 1789 EN.png|thumb|250px|1789年時点の神聖ローマ帝国。[[ハプスブルク君主国]]（茶色）とプロイセン王国（青）が過半を占め、その他の中小領邦国家を取りまいている。]]&lt;br /&gt;
[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発した。当初、諸外国は武力干渉を控えていたが、[[1791年]]に[[ルイ16世 (フランス王)|フランス王ルイ16世]]と[[マリー・アントワネット]]の国外逃亡失敗事件（[[ヴァレンヌ事件]]）が起こると、皇帝レオポルト2世と[[フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王)|プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世]]はフランスにおける王権復旧を要求する宣言（[[ピルニッツ宣言]]）を発し、これに対してフランス革命政府は宣戦布告で応じた（[[フランス革命戦争]]）&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ピルニッツ宣言の時点では諸国はフランスへの武力干渉に否定的で、文面的には直接行動断念を表明したものだったが、フランス革命政府はこれに過剰に反応した。[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.133&amp;lt;/ref&amp;gt;。レオポルト2世は開戦直前に死去しており、[[フランツ2世]]が皇帝に選出された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーストリア＝プロイセン軍はフランス軍に進撃を阻まれて反攻を受け、[[1795年]]までにフランス軍はオーストリア領ネーデルラントとライン川西岸を制圧し、プロイセンは戦争から脱落した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.131-132&amp;lt;/ref&amp;gt;。オーストリアは戦争を継続したが、イタリアで[[ナポレオン・ボナパルト]]に敗れ（[[イタリア戦役 (1796-1797年)|イタリア戦役]]）、[[1797年]]に[[カンポ・フォルミオ条約]]の締結を余儀なくされた。同条約により、オーストリアは[[ヴェネチア共和国|ヴェネチア]]を獲得したものの、ミラノの放棄とオーストリア領ネーデルラントの喪失を承認させられた。&lt;br /&gt;
[[File:Napoleon4.jpg|thumb|left|200px|『アルプス越えのナポレオン』&amp;lt;br&amp;gt;[[ジャック＝ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]画]]&lt;br /&gt;
[[1799年]]に[[第二次対仏大同盟]]が結ばれて戦争が再開したが、[[ブリュメールのクーデター]]で権力を掌握したナポレオンがアルプス越えを敢行して[[マレンゴの戦い]]でオーストリア軍を撃破し、戦争は[[1802年]]の[[リュネヴィルの和約]]により終結し、フランツ2世はフランスによるライン川西岸地域の併合を承認させられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
リュネヴィルの和約でナポレオンはフランス併合地域の代替地をプロイセンその他の諸侯に提供するよう要求し、これを受けて帝国は[[1803年]]にレーゲンスブルク帝国議会の代表者会議を開催して帝国諸邦の再編成を決議した（[[帝国代表者会議主要決議]]：''Reichsdeputationshauptschluss''）。これによってマインツ大司教以外のすべての聖界諸侯領の俗界諸侯領への併合（世俗化{{enlink|Secularization|en}}）および小規模領邦国家と帝国都市の廃止と大諸侯領への編入（[[陪臣化]]）が進められ、西南ドイツに新たな幾つかの中規模国家が成立した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],pp.137-138&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、プロイセンは北西ドイツの領土を獲得している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1804年]][[5月18日]]、フランス共和国政府は元老院令を発して共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、ナポレオンは[[フランス第一帝政|フランス皇帝]]（''Empereur des Français''）を称した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#桑原他(1975)|桑原他(1975)]],pp.381-382&amp;lt;/ref&amp;gt;（戴冠式は[[12月2日]]）。フランス皇帝は神聖ローマ皇帝やロシア皇帝と異なり、もはや古代ローマ帝国との理念・歴史的関連性を持たない皇帝である&amp;lt;ref name=Ykoutei/&amp;gt;。これに対して、フランツ2世はハプスブルク家世襲領と皇帝の称号を守るべく、[[8月11日]]に神聖ローマ皇帝とは別の[[オーストリア皇帝]]（''Kaiser von Österreich''）を称した（オーストリア皇帝フランツ1世）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2009)|菊池(2009)]],pp.103-104&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1805年]]に[[第三次対仏大同盟|第三次対仏大同盟戦争]]が始まった。オーストリア主力軍は[[ウルムの戦い|ウルム]]でナポレオンの罠に陥って降伏し、フランス軍はウィーンを占領した。フランス軍は追撃を行い、[[スラフコフ・ウ・ブルナ|アウステルリッツ]]でフランツ2世とロシア皇帝[[アレクサンドル1世]]の率いるオーストリア＝ロシア連合軍と会戦して勝利した（[[アウステルリッツの戦い|三帝会戦]]）。[[プレスブルクの和約]]でオーストリアはヴェネチア、チロルの割譲と[[バイエルン王国|バイエルン]]、[[ヴュルテンベルク王国|ヴュルテンベルク]]の王国、[[バーデン (領邦)|バーデン]]の大公国への昇格を認めさせられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| border=&amp;quot;0&amp;quot; cellpadding=&amp;quot;1&amp;quot; cellspacing=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;margin:5px; width:20%; border:solid 1px #bbb; float:right;&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| [[File:Franz I (II) half-length portrait in Austrian uniform.jpg|150px]]||[[File:Niederlegung Reichskrone Seite 1.jpg|115px]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| colspan=&amp;quot;2&amp;quot; style=&amp;quot;text-align: left;&amp;quot; |&amp;lt;small&amp;gt;最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世（左）と退位宣言書（右）&amp;lt;/small&amp;gt;&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
中小帝国領邦はナポレオンを「守護者」とすることを決め、[[1806年]]7月にバイエルン、ヴュルテンベルクを初めとする帝国16領邦が[[カール・テオドール・フォン・ダールベルク|マインツ大司教ダールベルク]]を首座大司教侯とする[[ライン同盟]]を結成して帝国脱退を宣言した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここに至り、フランツ2世は[[8月6日]]にドイツ皇帝（神聖ローマ皇帝）退位と帝国の解散を宣言する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|朕はライン同盟の結成によって皇帝の権威と責務は消滅したものと確信するに至った。それ故に朕は帝国に対する全ての義務から解放されたと見なし、これにより、朕とドイツ帝国との関係は解消するものであるとここに宣言する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに伴い、朕は帝国の法的指導者として選帝侯、諸侯そして等族その他全ての帝国の構成員、すなわち帝国最高法院そしてその他の帝国官吏の帝国法によって定められた義務を解除する。&lt;br /&gt;
|[[:de:s:Erklärung Franz II. zur Niederlegung der Krone des Heiligen Römischen Reiches|フランツ2世のドイツ皇帝退位宣言―1806年8月6日]]&amp;lt;small&amp;gt;（全文は左記リンク）&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王として[[オーストリア＝ハンガリー帝国]]を、[[第一次世界大戦]]の敗北により瓦解するまで統治し続けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ナポレオンの敗北により始まった[[ウィーン体制]]により、[[1815年]]にオーストリア、プロイセンを含むドイツ諸邦39カ国によって構成される[[ドイツ連邦]]が成立した。[[ドイツ統一]]を巡るオーストリアとプロイセンの対立は[[19世紀]]後半まで続いたが、[[1866年]]の[[普墺戦争]]でのプロイセンの勝利によってドイツ連邦は解体され、翌[[1867年]]に新たにオーストリアと南ドイツ4カ国を除いた[[北ドイツ連邦]]が成立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オーストリアを除くドイツ諸邦が統一されるのは、[[普仏戦争]]でプロイセンと南北ドイツ諸邦が[[フランス第二帝政|フランス帝国]]に勝利し、プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]が[[ヴェルサイユ宮殿]]で皇帝に即位して[[ドイツ帝国]]（''Deutsches Kaiserreich''）が成立する[[1871年]][[1月18日]]のことである。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==国制==&lt;br /&gt;
神聖ローマ帝国は今日の国々のような高度に中央集権化された国家ではなく、[[帝国等族|等族]]と呼ばれる[[国王|王]]&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;帝国内で「国王」の称号を許された諸侯はボヘミア王のみである。その他の国王の称号を有する諸侯は帝国領域外の王国の統治者である。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[公爵]]、[[伯爵]]、[[司教]]、[[修道院長]]及びその他の統治者に支配される数十の（最終的には千以上の&amp;lt;ref name=naruseb26/&amp;gt;）領邦に分かれていた。また、皇帝に直接支配される地域もあった。皇帝が単純に法令を発布して、帝国全域を自律的に統治しえた時代は存在しなかった。皇帝の権限は様々な地方領主たちによって厳しく制限されていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中世盛期以降、神聖ローマ帝国は帝権を排除しようと抵抗する地方諸侯との不安定な共存政策に特徴づけられる。フランスやイングランドなどの中世の諸王国と比較して、皇帝は自らの統治する領土を十分に支配する力を獲得し得なかった。反対に、皇帝たちは廃位を避けるために聖俗領主たちにより一層の権限を授与することを強いられた。このプロセスは11世紀の叙任権闘争に始まり、1648年のヴェストファーレン条約でおおよそ完了している。幾人かの皇帝たちはこの自らの権力の弱体化を食い止めようと試みたが、教皇や諸侯によって妨げられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===皇帝===&lt;br /&gt;
{{Main|神聖ローマ皇帝|神聖ローマ皇帝一覧|ローマ王}}&lt;br /&gt;
[[File:Holy Roman Empire crown dsc02909.jpg|thumb|[[ウィーン]]王宮宝物館にある神聖ローマ帝国の王冠（10世紀頃）]]&lt;br /&gt;
皇帝は[[ドイツ王国]]&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;当初は東フランク王国の政体を踏襲し、一般にはフランク王国やドイツ王国、正式にはローマ帝国と呼ばれていた。「[[ドイツ人]]の[[国家]]」という概念は後年に生まれた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]]、[[ブルグント王国]]（[[1032年]]以降）の3つの[[王国]]の統治者であった。これは[[カロリング朝]]フランク王の正式な称号が「[[フランク人]]、[[ランゴバルト人]]、[[ローマ人]]の保護者」であった伝統を引き継いでいる。皇帝となるためには、その人物はまず3つの国王としての戴冠式をそれぞれ別の場所で行い、その上で、教皇により「ローマ皇帝」に戴冠された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国の重要な特徴は[[選挙王制]]である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.57&amp;lt;/ref&amp;gt;。9世紀以降、ドイツ王は国王選挙によって選ばれており、この時期、彼らは最も有力な部族（[[サリ＝フランク族|サリ＝フランク]]{{enlink|Salian Franks|en}}、[[ロートリンゲン公|ロートリンゲン]]、[[リプアリ族|リプアリ]]{{enlink|Ripuarian Franks|en}}、[[フランケン大公|フランケン]]、[[ザクセン]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]そして[[シュヴァーベン]]）の5人の指導者たちによって選出されていた。ただし、中世盛期の三王朝時代（[[ザクセン朝]]、[[ザリエル朝]]、[[ホーエンシュタウフェン朝]]）では事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.48-49&amp;lt;/ref&amp;gt;。ハインリヒ3世は皇帝戴冠式を挙行するまでの7年間、[[ローマ王]]（羅: ''Rex romanorum''; 独: ''römischer König''）を称しており、以降、皇帝予定者はまずローマ王を称するようになった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],pp.64-66&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、皇帝の存命中に後継者をローマ王に選出させることもあった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.57&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大空位時代以降においては選挙原理が働くようになり、ドイツ王国内の主要な公爵や司教たちがローマ王を選出している。1356年にカール4世は金印勅書を発布して7人の選帝侯を定めた。皇帝候補者たちは票固めのために選帝侯たちと[[選挙協約]]（''[[:de:Wahlkapitulation|Wahlkapitulation]]''）を結んで特権面での譲歩を約束させられた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.59-60&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p160&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
選出されたローマ王は名目上は教皇による戴冠を受けねば「皇帝」を名乗ることができなかった。多くの場合、国王たちは他の責務に時間を取られて皇帝戴冠には数年を要しており、しばしば、彼らはまずは北イタリアの反乱や教皇本人との不和を解決せねばならなかった。[[1508年]]に[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が教皇から戴冠されることなく「皇帝」を称してからは、後期の皇帝たちは「ローマ皇帝に選ばれし者」（''Erwählter Römischer Kaiser''）の体裁を取り、教皇による戴冠を省略してドイツ王＝ローマ王に選出された時点で皇帝を名乗るのが慣例化した&amp;lt;ref name=Schulze228/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.65&amp;lt;/ref&amp;gt;。教皇によって戴冠された最後の皇帝は1530年のカール5世である。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 皇帝＝ドイツ王の権力所在地 ===&lt;br /&gt;
[[File:GoslarMaltermeister.jpg|thumb|250px|ゴスラーの歴史都市（[[世界遺産]]）]]&lt;br /&gt;
帝国は特定の首都を持たず、中世初期から中世盛期の皇帝＝ドイツ王は王国を巡り、その時々の皇帝の所在地で宮廷会議や教会会議そして法廷の開催や授封といった行政を執り行う、「旅する王権」（''Reisekönigtum''）の統治方式を取っていた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.71-72&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],pp.149-151&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしながら、帝国統治の中心は全土に隈なく所在する訳でもなく、ザクセン朝、ザリエル朝の諸王は[[ハルツ山地]]周辺のプファルツに王宮を造営して国王支配領域を形成しており、[[ランメルスベルク鉱山およびゴスラーの歴史都市|ゴスラーの歴史都市]]はそのひとつである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],pp.73-74&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]以降は帝国内の司教管区も一時的な政庁として活用するようになっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997a)|成瀬他(1997a)]],p.151&amp;lt;/ref&amp;gt;。ホーエンシュタウフェン朝は権力基盤のシュヴァーベンに加えて、ザーレ・ウンストルート川流域やライン・マイン川流域、ライン川上流域に国王支配領域を形成した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.75&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大空位時代以降は諸侯の自立性の高まりにより、国王支配領域を形成することはできなくなり、皇帝たちは各々の家門の領地から帝国の統治を行っている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(2005)|シュルツェ(2005)]],p.76&amp;lt;/ref&amp;gt;。フェルディナント2世（在位:1619年-1637年）以降はハプスブルク家所領の[[ウィーン]]が恒常的な宮廷所在地となった&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.15&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 封建制 ===&lt;br /&gt;
[[File:Lehnseid.png|thumb|200px|国王に対する誠実宣誓。&amp;lt;br&amp;gt;1512年製作の木版画。]]&lt;br /&gt;
{{Main|レーエン}}&lt;br /&gt;
初期のドイツ王は[[部族大公]]（''Stammesherzog''）によって選出されていた。部族大公は[[フランク王国]]によって征服統合されたゲルマン諸族で、フランク王から大公（''duces''）の官職を任命された者たちである。フランク王国の部族大公は8世紀頃に解体されたが、カロリング朝末期に復活し、[[ザクセン大公]]、[[フランケン大公]]、[[バイエルン大公]]、[[シュヴァーベン大公]]そして[[ロートリンゲン大公]]が確立した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.17&amp;lt;/ref&amp;gt;。部族大公は12世紀末まで帝国における主要な役割を果たしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.18&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オットー1世に始まる[[帝国教会政策]]により、三王朝時代の皇帝たちは大司教、司教、修道院長を任命して所領を寄進し、特権を与えるなど彼らとの[[レーエン]]（知行制・封建制）的な絆を結び、教会を帝国の制度基盤となした&amp;lt;ref name=teikokukyoukai/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.48&amp;lt;/ref&amp;gt;。ザクセン朝とザリエル朝の皇帝たちは大公領、辺境伯領、伯領はレーエン的なものではなく官職として扱おうとしていたが、ロタール3世（在位：1106年 - 1137年）の時代に帝国の封建化は発展し、12世紀から13世紀のホーエンシュタウフェン朝の時代にレーエン化が進められて部族大公領が解体され、国王を最高封主とする帝国国制の封建化が完了した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],pp.48-49&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12世紀末の時点で聖界諸侯の他に以下の20の世俗諸侯がいた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#シュルツェ(1997)|シュルツェ(1997)]],p.49&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*'''大公'''：[[バイエルン公|バイエルン]]、[[ザクセン公|ザクセン]]、[[シュヴァーベン公|シュヴァーベン]]、[[ロートリンゲン公|ロートリンゲン]]、[[ブラバント公|ブラバント]]、[[オーストリア公|オーストリア]]、[[ケルンテン公|ケルンテン]]、[[シュタイアーマルク公|シュタイアーマルク]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]&lt;br /&gt;
*'''辺境伯'''：[[ブランデンブルク辺境伯|ブランデンブルク]]、[[マイセン辺境伯|マイセン]]、[[ラウジッツ辺境伯|ラウジッツ]]&lt;br /&gt;
*'''方伯'''：[[テューリンゲン方伯|テューリンゲン]]&lt;br /&gt;
*[[ライン宮中伯]]、[[アンハルト伯]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===帝国等族===&lt;br /&gt;
[[File:Ordines Sacri Romani Imperii.jpg|thumb|250px|&amp;quot;Ordines Sacri Romani Imperii&amp;quot;（神聖ローマ帝国の序列）。1606年作]]&lt;br /&gt;
{{Main|領邦|選帝侯}}&lt;br /&gt;
帝国領邦の数は相当数に及び、18世紀末の時点で領邦高権を有する領邦314、自立権力を有するその他の帝国騎士領は1475家に上った&amp;lt;ref name=naruseb26&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.26&amp;lt;/ref&amp;gt;。これら小邦（''[[:en:Kleinstaaterei|Kleinstaaten]]''）の幾つかは飛び地を含む数平方マイルの規模しかなく、そのため帝国はしばしば「パッチワーク」（''Flickenteppich''）と呼ばれた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],p.43&amp;lt;/ref&amp;gt;。皇帝と直接的な封建関係を結んで[[レーエン|帝国封]]（''Reichslehen''）を授封された者は[[帝国等族]]（''[[:en:Imperial State|Reichsstände]]''）と見なされた&amp;lt;ref name=wilson16&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.16&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.16-17&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国等族は以下のものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*選帝侯。金印勅書によって定められた[[マインツ大司教]]、[[ケルン大司教]]、[[トリーア大司教]]、[[ライン宮中伯]]（プファルツ）、[[ブランデンブルク辺境伯]]、[[ザクセン選帝侯|ザクセン公]]そして[[ボヘミア王]]。三十年戦争後に[[バイエルン選帝侯|バイエルン]]（1648年）と[[ハノーファー選帝侯|ハノーファー]]（1692年）が加わっている。1777年にライン宮中伯とバイエルンが統合され、帝国最末期の1803年の再編でケルン大司教とトリーア大司教が除かれ、[[ザルツブルク]]、[[ヴュルテンベルク]]、[[ヘッセン＝カッセル]]、[[バーデン]]が選帝侯に加えられた&amp;lt;ref name=wilson69&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.69&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
*大公、公爵、伯爵または[[帝国騎士]]（''[[:en:Imperial Knight|Reichsritter]]''）といった世襲貴族に統治されている領地&amp;lt;ref name=wilson16/&amp;gt;（俗界領邦）。&lt;br /&gt;
*大司教、司教または修道院長といった高位聖職者に統治されている領地（聖界領邦）&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.60&amp;lt;/ref&amp;gt;。一般的に[[司教領]]では、この一時的な領地はしばしばより広い[[教区]]と重なっており、司教に聖俗両方の権力を与えた。[[マインツ大司教|マインツ大司教領]]、[[ケルン大司教|ケルン大司教領]]、[[トリーア大司教|トリーア大司教領]]がその事例である。 &lt;br /&gt;
*皇帝直轄の[[帝国自由都市]]（''Freie Reichsstadt''）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1495年ヴォルムス帝国議会の時点では選帝侯7、聖界諸侯（大司教4、司教46、修道院長86）、俗界諸侯（公爵24、伯爵その他の領主145）、帝国自由都市83となっている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック（2005）]],p51&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===帝国議会===&lt;br /&gt;
{{Main|国会 (ドイツ)}}&lt;br /&gt;
[[File:Kurien des reichstages des Hieiligen Römischen Reiches.jpg|thumb|left|200px|1675年帝国議会]]&lt;br /&gt;
[[国会 (ドイツ)|帝国議会]]（''Reichstag''/''Reichsversammlung''）は神聖ローマ帝国の立法機関であり、その起源は皇帝が諸侯に重要事項を諮問する宮廷顧問会議（''Hofrat''）や大空位時代の選挙人集会であり、1356年の[[金印勅書]]によって成文化された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.68&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.174&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国議会は三つの部会に分かれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一部会である'''選帝侯部会'''（''Kurfürstenrat''）は1273年に現れ、ローマ王選挙権を有する選帝侯によって構成される&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.68-69&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二部会の'''諸侯部会'''（''Fürstenrat''）は1480年に成立したもので、その他の諸侯や帝国伯によって構成される&amp;lt;ref name=wilson69/&amp;gt;。諸侯部会は二つの「議席」に分かたれており、一つが世俗諸侯、もう一つが聖界諸侯である。高位諸侯は個人票を持ち、その他の伯や高位聖職者は地域別に分けられた集合票になっている。各々の集合票は1票扱いである。18世紀半ばの時点で個人票は100票（俗界諸侯65、聖界諸侯35）、集合票は高位聖職者2票、伯4票となっている&amp;lt;ref name=wilson70&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.70&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三部会が帝国自由都市の代表によって構成される'''都市部会'''（''Städtetag''）であり、シュヴァーベンと[[ライン川|ライン]]の二つの集合票に別けられる。各々の集合票は1票扱いである。帝国議会への自由都市代表の出席は中世後期から一般的になっていたが、彼らの出席が公式に確認されたのは1648年のヴェストファーレン条約以降のことである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.71&amp;lt;/ref&amp;gt;。都市部会は他の部会と対等ではなく、この部会がキャステングボードを握ることを防ぐべく、他の二部会の決定が下された後に意見を求められる形式になっていた&amp;lt;ref name=wilson70/&amp;gt;。1521年には87都市が出席権を有していたが、都市の衰退などの事情により1803年の時点では3都市に激減している&amp;lt;ref name=wilson70/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===帝国裁判所===&lt;br /&gt;
[[File:Audienz Reichskammergericht.jpg|thumb|200px|18世紀の帝国最高法院]]&lt;br /&gt;
帝国の司法機関としては皇帝が主催する宮廷裁判所（''Hofgericht''）が存在していたが、15世紀の帝国改造運動の一環として司法改革が求められた。フリードリヒ3世は司法は皇帝の[[レガリア]]（大権）であるとして改革に抵抗していたが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.77-78&amp;lt;/ref&amp;gt;、マクシミリアン1世は諸侯、等族の要求に妥協をし、1495年に[[永久ラント平和令]]を施行させる機関として専門の法律家による[[帝国最高法院]]（''[[:en:Imperial Chamber Court|Reichskammergericht]]''）が開設された&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村(2001)|木村(2001)]],p.89&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#フルブロック(2005)|フルブロック(2005)]],pp.51-52&amp;lt;/ref&amp;gt;。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である[[帝国宮内法院]]（''[[:en:Aulic Council|Reichshofrat]]''）をウィーンに開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帝国最高法院はフランクフルトに開設され、その後、ヴォルムス、アウクスブルク、[[ニュルンベルク]]、[[レーゲンスブルク]]、[[シュパイヤー]]、[[エスリンゲン]]{{enlink|Esslingen am Neckar|en}}、再びシュパイヤーへと移転した。[[大同盟戦争|アウクスブルク同盟戦争]]の際にシュパイヤーが破壊されたため、裁判所は[[ヴェッツラー]]へ移転し、1689年から帝国が消滅する1806年までここに所在している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.80&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使（[[フェーデ]]）ではなく法的手続きによって解決することを目的としており&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],pp.68-69&amp;lt;/ref&amp;gt;、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.79-82&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===帝国クライス===&lt;br /&gt;
[[File:Map of the Imperial Circles (1560)-EN.svg|thumb|300px|1560年時点の帝国クライス地図]]&lt;br /&gt;
{{Main|帝国クライス}}&lt;br /&gt;
帝国改造の一環として、1500年に6管区の[[帝国クライス]]が設置され、更に4管区が1512年に設置されている。クライスは帝国最高法院陪席判事の選出、平和維持と防衛の分担調整、貨幣制度の監督、そして公共平和の維持を目的とした帝国内諸邦のほとんどを含む地域行政単位である&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.94-95&amp;lt;/ref&amp;gt;。各々のクライスは[[クライス会議]]（''Kreistag''）の名で知られる独自の議会とクライス内の問題を調停する1-3人のクライス公示事項担当諸侯（''Kreis Ausschreibender Fürst''）を有していた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.95-96&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;div style=&amp;quot;float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;&amp;quot;&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{legend|#55ddff|バイエルン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ffcc00|シュヴァーベン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#71c837|オーバーライン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#d38d5f|ヴェストファーレン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#d40000|フランケン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{legend|#8080ff|ニーダーザクセン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#c83737|ブルグント・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ff7f2a|オーストリア・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#ffaacc|オーバーザクセン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
{{legend|#d35fbc|クールライン・クライス|border=1px solid #000}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/div&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全ての領域が帝国クライスに含まれている訳ではなく、ボヘミア王の領土{{enlink|Lands of the Bohemian Crown|en}}、帝国騎士領や帝国内のドイツ騎士団領地などの小邦&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.98-99&amp;lt;/ref&amp;gt;、そして、スイス、北イタリアの帝国諸侯は除外されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{-}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評価 ==&lt;br /&gt;
18世紀フランスの思想家[[ヴォルテール]]による「[[q:神聖ローマ帝国|神聖でもなければ、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない]]」との神聖ローマ帝国評は特に有名であるが&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.1&amp;lt;/ref&amp;gt;、17世紀の法学者[[ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ|プーフェンドルフ]]も帝国を国家論の規則に外れた「妖怪に似たもの」と評した&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.41-42&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#阿部(1998)|阿部(1998)]],p.152&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、帝国解散の新聞記事を読んだ日の[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の素っ気ない日記も当時の人々の帝国に対する無関心ぶりを示す例として知られる&amp;lt;ref&amp;gt;[[#菊池(2003)|菊池(2003)]],p.14&amp;lt;/ref&amp;gt;。一方で、18世紀後半のドイツ法学者[[ヨハン・シュテファン・ ピュッター|ピュッター]]{{enlink|Johann Stephan Pütter|en}}は帝国の法維持機能を積極的に評価し、その国家性を強調している&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.41&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドイツ帝国が成立した19世紀中盤以降のドイツ歴史学界は権力国家志向であり、中央集権化に失敗してナポレオンに敗れて消滅した神聖ローマ帝国を民族を分裂させドイツの利益を守りえなかった政治的無能と断じ、これに対して権力国家を構築してドイツ統一を成し遂げたプロイセンを擁護するプロイセン中心主義的解釈を取って来た&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.2,p.6-9&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[ナチス・ドイツ]]の経験と[[第二次世界大戦]]の敗戦によって、権力国家概念は信用を失ったが、神聖ローマ帝国が近代国家への転換に失敗した体制であるとの解釈は続いた&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],p.9&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1960年代]]から[[西ドイツ]]の歴史学界で従来の集権的な国民国家を唯一の歴史的選択肢とはしない神聖ローマ帝国に対する修正主義的なアプローチが出始めた。[[1980年代]]以降、この修正主義的解釈は活発化し、その主な論旨は帝国の構造を皇帝と諸侯とに二元主義的に理解せず、帝国議会、帝国裁判所、帝国クライスなどの多様な構成員からなる帝国諸制度の相互作用や法共同体としての側面を考察することである&amp;lt;ref&amp;gt;[[#ウィルスン(2005)|ウィルスン(2005)]],pp.12-13&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#成瀬他(1997b)|成瀬他(1997b)]],p.32&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この修正主義的再評価から、帝国がヴェストファーレン条約以降まったくドイツで[[宗教戦争]]が起こることなく新旧両派が共存できたのはなぜか、あるいは小国に分裂したのであればなぜその小国群のほとんどが帝国崩壊まで命脈を保つことが出来たのか、といった疑問に答えるためにマクシミリアン1世に始まる帝国改造を指摘する者もいる&amp;lt;ref group=nb name=teikokukaizou&amp;gt;概説書としては、[[#成瀬他(1997a)|成瀬治、山田欣吾、木村靖二編『世界歴史大系　ドイツ史1』]]や、[[#ウィルスン(2005)|ピーター H. ウィルスン『神聖ローマ帝国 1495–1806』]]などが詳しい。&amp;lt;/ref&amp;gt;。帝国改造によって皇帝権力から独立した司法制度と、[[帝国クライス]]を単位とする軍隊制度が創設されたため、宗教対立などの紛争は裁判所において解決が図られ、対外戦争に対しては一致して対応することも可能になったという主張である&amp;lt;ref group=nb name=teikokukaizou/&amp;gt;&amp;lt;ref group=nb&amp;gt;ただし、この帝国改造運動は結局、成果はなかったと解説されることも少なくはない。【帝国改造運動】（ブリタニカ国際大百科事典　電子辞書対応小項目版）や【神聖ローマ帝国】（世界大百科事典巻14，平凡社,1988年）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ヴェストファーレン条約についても否定的側面のみでは捉えず、以後150年に渡り領邦の独自性を維持しつつドイツの完全な分解を防ぐ法共同体を構築した役割、更には今日に続くドイツ連邦制の基礎になったと評価する見方もある&amp;lt;ref&amp;gt;[[#坂井(2003)|坂井(2003)]],p.92&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[#木村他(2001)|木村他(2001)]],pp.114-115&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist|2|group=&amp;quot;nb&amp;quot;}}&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist|4}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor= [[井上幸治 (西洋史学者)|井上幸治]](編集)|translator=|year=1968|title=フランス史|series=世界各国史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634414303|ref=井上他(1968)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=[[大野真弓]](編集)||author=|translator=|year=1961|title=世界の歴史 8　絶対君主と人民|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4124005783|ref=大野他(1961)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=木下康彦,吉田寅,[[木村靖二]](編集)|translator=|year=2008|title=詳説世界史研究|publisher=山川出版社|isbn=978-4634030275 |ref=木下他(2008)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor= 木村靖二(編集)|translator=|year=2001|title=ドイツ史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn=978-4634414303|ref=木村他(2001)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor=[[桑原武夫]](編集)||author=|translator=|year=1975|title=世界の歴史10　フランス革命とナポレオン|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122001992|ref=桑原他(1975)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor= [[成瀬治]], 山田欣吾, 木村靖二(編集)|translator=|date=1997年a|title=ドイツ史〈1〉先史〜1648年|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634461208|ref=成瀬他(1997a)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|editor= 成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二(編集)|translator=|date=1997年b|title=ドイツ史〈2〉―1648年〜1890年|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634461307|ref=成瀬他(1997b)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=ピーター・H. ウィルスン|translator=山本文彦|year=2005|title=神聖ローマ帝国 1495‐1806|series=ヨーロッパ史入門|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000270977|ref=ウィルスン(2005)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=ハンス・クルト・シュルツェ|translator=千葉徳夫、五十嵐修、佐久間弘展、浅野啓子、小倉欣一|year=1997|title=西欧中世史事典―国制と社会組織|series=MINERVA西洋史ライブラリー|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027798|ref=シュルツェ(1997)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=ハンス・クルト・シュルツェ|translator=五十嵐修、小倉欣一、浅野啓子、佐久間弘展|year=2005|title=西欧中世史事典〈2〉皇帝と帝国|series=MINERVA西洋史ライブラリー|publisher=ミネルヴァ書房|isbn=978-4623039302|ref=シュルツェ(2005)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=メアリー・フルブロック|translator=高田有現、高野淳|year=2005|title=ドイツの歴史|series=ケンブリッジ版世界各国史|publisher=[[創土社]]|isbn=978-4789300322|ref=フルブロック(2005)}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=赤井彰、[[山上正太郎]]|translator=|year=1974|title=世界の歴史 7 文芸復興の時代|publisher=[[社会思想社]]|isbn=978-4390108270|ref=赤井他(1974)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[阿部謹也]]|translator=|year=1998|title=物語 ドイツの歴史―ドイツ的とはなにか|publisher=中央公論社|isbn=978-4121014207|ref=阿部(1998)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=池谷文夫|editor=（『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録）|translator=|year=1994|title=フス戦争|publisher=[[自由國民社]]|isbn=|ref=池谷(1994)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[江村洋]]|translator=|year=1990|title=ハプスブルク家|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061490178|ref=江村(1990)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=江村洋|translator=|year=1992|title=カール5世―中世ヨーロッパ最後の栄光|publisher=[[東京書籍]]|isbn=978-4487753796|ref=江村(1992)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=菊池良生|translator=|year=1995|title=戦うハプスブルク家|publisher=講談社|isbn=978-4061492820|ref=菊池(1995)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=菊池良生|translator=|year=2003|title=神聖ローマ帝国|publisher=講談社|isbn=978-4061496736|ref=菊池(2003)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=菊池良生|translator=|year=2004|title=ハプスブルクをつくった男|publisher=講談社|isbn=978-4061497320|ref=菊池(2004)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=菊池良夫|translator=|year=2009|title=図説 神聖ローマ帝国|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761275|ref=菊池(2009)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=坂井栄八郎|translator=|year=2003|title=ドイツ史10講|publisher=岩波書店|isbn=978-4004308263|ref=坂井(2003)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=鈴本達哉|translator=|year=1997|title=ルクセンブルク家の皇帝たち|series=|publisher=近代文芸社|isbn=978-4773361957|ref=鈴本(1997)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=成瀬治|translator=|year=1978|title=世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道|publisher=講談社|isbn=|ref=成瀬(1978)}}&lt;br /&gt;
* {{Cite book|和書|author=長谷川輝夫、[[土肥恒之]]、[[大久保桂子]]|translator=|year=2009|title=世界の歴史〈17〉ヨーロッパ近世の開花|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122051157|ref=長谷川他(2009)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=[[堀越孝一]]|translator=|year=2006|title=中世ヨーロッパの歴史|publisher=講談社|isbn=978-4061597631|ref=堀越(2006)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=森田安一|editor=（『世界の戦争・革命・反乱総解説』収録）|translator=|year=1994|title=ドイツ宗教改革の戦い|publisher=自由國民社|isbn=|ref=森田(1994)}}&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=森田安一|translator=|year=2010|title=図説 宗教改革|series=|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309761459|ref=森田(2010)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Albrecht | first =Dieter  | title =Maximilian I. Von Bayern 1573-1651 | publisher =Munich | year =1998 |ref=Albrecht(1998)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Angermeier | first =Heinz  | title =Das Alte Reich in der deutschen Geschichte | publisher =Studien über Kontinuitäten und Zäsuren | year =1991 |ref=Angermeier(1991)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last= Bryce | first = James | title = The Holy Roman Empire | publisher = Macmilan | year = 1968|ref=Bryce(1968)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last= Frisch | first = Michael | title = Das Restitutionsedikt Kaiser Ferdinands II. Vom 6. März 1629 | publisher = Tübingen | year = 1993|ref=Frisch(1993)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last= Pagden | first = percy | title = World's at War: The 2,500-Year Struggle Between East and West | publisher = Random House | year = 2008 | edition = First |ref=Pagden(2008)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Rapp | first =Francis  | title =Le Saint-Empire romain germanique. D'Otton le Grand à Charles Quint | publisher =Paris | year =2000 |ref=Rapp(2000)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Rovan | first =Joseph | title =Histoire de l'Allemagne des origines à nos jours | publisher = Paris| year = 1999|ref=Rovan(1999)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last=Schillinger | first =Jean  | title =Le Saint-Empire | publisher =Paris | year =2002 |ref=Schillinger(2002)}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last= Weyland | first = Uli | title = Strafsache Vatikan. Jesus klagt an | publisher = Weisse Pferd Verlag | year = 2002|ref=Weyland(2002)}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*{{Cite book|和書|author=|translator=|year=|title=|series=|publisher=|isbn=|ref=}}&lt;br /&gt;
*{{cite book | last= | first = | title = | publisher = | year = |ref=}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連図書 ==&lt;br /&gt;
*Karl Otmar Freiherr von Aretin, ''Das Alte Reich 1648–1806''. 4 vols. Stuttgart, 1993–2000&lt;br /&gt;
*Peter Claus Hartmann, ''Kulturgeschichte des Heiligen Römischen Reiches 1648 bis 1806''. Wien, 2001&lt;br /&gt;
*Georg Schmidt, ''Geschichte des Alten Reiches''. München, 1999&lt;br /&gt;
*[[:en:James Bryce, 1st Viscount Bryce|James Bryce]], ''The Holy Roman Empire''. ISBN 0-333-03609-3&lt;br /&gt;
*Jonathan W. Zophy (ed.), ''The Holy Roman Empire: A Dictionary Handbook''. Greenwood Press, 1980&lt;br /&gt;
*George Donaldson, ''Germany: A Complete History''. Gotham Books, New York 1985&lt;br /&gt;
*[http://www.historischekommission-muenchen.de/seiten/projekte.html Deutsche Reichstagsakten]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[神聖ローマ皇帝]]&lt;br /&gt;
* [[神聖ローマ皇帝一覧]]&lt;br /&gt;
* [[帝国クライス]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Holy Roman Empire}}&lt;br /&gt;
{{Wikiquote|{{PAGENAME}}}}&lt;br /&gt;
* [http://www.uni-muenster.de/FNZ-Online/recht/reich/unterpunkte/nation.htm The constitutional structure of the Reich]&lt;br /&gt;
* [http://www.dasheiligereich.de/ Das Heilige Reich (German Museum of History, Berlin)]&lt;br /&gt;
* [http://www.zum.de/whkmla/military/germany/milxhrempire.html List of Wars of the Holy Roman Empire]&lt;br /&gt;
* [http://www.mgh-bibliothek.de/lexikothek/reich2.html Deutschland beim Tode Kaiser Karls IV. 1378 (Germany at the death of emperor Charles IV.) taken from &amp;quot;Meyers Kleines Konversationslexikon in sechs Bänden. Bd. 2. Leipzig u. Wien : Bibliogr. Institut 1908&amp;quot;, map inserted after page 342]&lt;br /&gt;
* [http://www.altes-reich.de/literatur.html Books and articles on the Reich]&lt;br /&gt;
* [http://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm The Holy Roman Empire]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Good article}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しんせいろまていこく}}&lt;br /&gt;
[[Category:神聖ローマ帝国|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:かつて存在したヨーロッパの国家]]&lt;br /&gt;
[[Category:帝国]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドイツの領邦|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:宗教国家]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|de}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|fr}}&lt;br /&gt;
{{Link FA|ru}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%81%96%E6%95%99%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE&amp;diff=220438</id>
		<title>聖教新聞社</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%81%96%E6%95%99%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE&amp;diff=220438"/>
				<updated>2014-02-12T15:21:53Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Otheruses|日本の新聞社である聖教新聞社|発行している新聞|聖教新聞}} {{基礎情報 会社 |社名               = 聖教新聞社 |英文社名 ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses|日本の新聞社である聖教新聞社|発行している新聞|聖教新聞}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 会社&lt;br /&gt;
|社名               = 聖教新聞社&lt;br /&gt;
|英文社名           = SEIKYO SHIMBUN&lt;br /&gt;
|ロゴ               = &lt;br /&gt;
|画像               = [[ファイル:Seikyo Shimbunsha (head office).jpg|thumb|250px|聖教新聞社（東京・信濃町）]]&lt;br /&gt;
|画像説明           = &lt;br /&gt;
|種類               = &lt;br /&gt;
|市場情報           = &lt;br /&gt;
|略称               = &lt;br /&gt;
|国籍               = {{JPN}}&lt;br /&gt;
|本社郵便番号       = 160-8070&lt;br /&gt;
|本社所在地         = [[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]]18番地&lt;br /&gt;
|本店郵便番号       = &lt;br /&gt;
|本店所在地         = &lt;br /&gt;
|設立               = &lt;br /&gt;
|業種               = &lt;br /&gt;
|統一金融機関コード = &lt;br /&gt;
|SWIFTコード        = &lt;br /&gt;
|事業内容           = &lt;br /&gt;
|代表者             = 名誉社主：[[池田大作]]（創価学会名誉会長）&amp;lt;br /&amp;gt;代表理事：原田光治（創価学会副理事長、中央社会協議会議長、広布新聞会議副議長、文化本部長）&lt;br /&gt;
|資本金             = &lt;br /&gt;
|発行済株式総数     = &lt;br /&gt;
|売上高             = &lt;br /&gt;
|経常利益           = &lt;br /&gt;
|営業利益           = &lt;br /&gt;
|純利益             = &lt;br /&gt;
|純資産             = &lt;br /&gt;
|総資産             = &lt;br /&gt;
|従業員数           = &lt;br /&gt;
|支店舗数           = &lt;br /&gt;
|決算期             = &lt;br /&gt;
|主要株主           = &lt;br /&gt;
|主要子会社         = &lt;br /&gt;
|関係する人物       = &lt;br /&gt;
|外部リンク         = http://www.seikyoonline.jp/&lt;br /&gt;
|特記事項           = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''聖教新聞社'''（せいきょうしんぶんしゃ）は、[[創価学会|宗教法人創価学会]]の出版部門である。創価学会の機関紙、『[[聖教新聞]]』の発行などを手がけている。聖教新聞社は[[第三文明社]]とは違い株式会社などの[[法人]]格を取得しておらず、創価学会から分離独立はしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 沿革 ==&lt;br /&gt;
* [[1951年]] - 『[[聖教新聞]]』創刊&lt;br /&gt;
* [[1959年]] - 『聖教グラフ』（現・『[[グラフSGI]]』）創刊&lt;br /&gt;
* [[1965年]] - 『聖教新聞』が日刊化&lt;br /&gt;
* [[1970年]] - 本社ビル落成&lt;br /&gt;
* [[2004年]] - [[ISO 14000|ISO 14001]]取得&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 発行している新聞・雑誌 ==&lt;br /&gt;
=== 新聞 ===&lt;br /&gt;
* [[聖教新聞]]&lt;br /&gt;
* [[創価新報]]&lt;br /&gt;
* [[小学生文化新聞]]&lt;br /&gt;
* [[中学生文化新聞]]&lt;br /&gt;
* [[高校新報]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 雑誌 ===&lt;br /&gt;
* [[大白蓮華]]&lt;br /&gt;
* [[グラフSGI]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[公明新聞]]&lt;br /&gt;
* [[第三文明社]]&lt;br /&gt;
* [[潮出版社]]&lt;br /&gt;
* [[東日印刷]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.seikyoonline.jp/ SEIKYO online] - 聖教新聞社の公式サイト&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{聖教新聞社}}&lt;br /&gt;
{{創価学会}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:せいきようしんふんしや}}&lt;br /&gt;
[[Category:聖教新聞社|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:創価学会]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E4%BF%A1%E6%BF%83%E7%94%BA&amp;diff=220437</id>
		<title>信濃町</title>
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				<updated>2014-02-12T15:21:18Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Pathnav|日本|東京都|新宿区|frame=1}} '''信濃町'''（しなのまち）は、東京都新宿区の町名。町域の人口は979人&amp;lt;ref&amp;gt;...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|日本|東京都|新宿区|frame=1}}&lt;br /&gt;
'''信濃町'''（しなのまち）は、[[東京都]][[新宿区]]の[[町丁|町名]]。町域の[[人口]]は979人&amp;lt;ref&amp;gt;[[2010年]]（[[平成]]22年）8月1日。[[住民票|住民基本台帳]]による。新宿区調べ&amp;lt;/ref&amp;gt;。[[住居表示]]は実施しておらず、[[郵便番号]]は160-0016。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町域にはJR[[中央線]]の[[信濃町駅]]があり、[[外苑東通り]]を境界として西側には[[慶應病院]]、東側には[[創価学会]]関連施設が多数所在することで知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
新宿区の南部に位置する。町域北部は、[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]と一部[[左門町]]に接し、東部から南東部にかけては、[[南元町 (新宿区)|南元町]]に接する。東部の一部は、[[若葉 (新宿区)|若葉]]三丁目に接している。南部は、JR[[中央線快速|中央線]]の線路などを境に、[[霞ヶ丘町]]に繋がり、西部は[[大京町]]に繋がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外苑東通りの西側は、[[慶應義塾大学病院]]・[[慶應義塾大学]]信濃町キャンパス（医学部）や[[東京電力病院]]、[[民音]]音楽博物館などが見られる。反対に地域南部の外苑東通りの東側では、[[創価学会]]本部など創価学会の関連施設が立ち並ぶ地域となっており、「学会村」とも呼ばれる&amp;lt;ref name =systemtositeno&amp;gt;[[古川利明]]　『システムとしての創価学会＝公明党』（[[第三書館]]　1999年10月25日）　ISBN 978-4807499229 &amp;lt;/ref&amp;gt;。地域の南端付近には[[中央・総武緩行線|中央・総武線]]の[[信濃町駅]]がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
町域中央を[[外苑東通り]]が縦貫している。幹線道路沿いは、各種ビルが立ち並ぶが、道路から離れると、北部は住宅地になっている。&lt;br /&gt;
* 宗教事情や政界事情を語る際、創価学会のことを本部がある所在地である「信濃町」という隠語で表現することがある（政界に関しては[[公明党]]を指す。政界隠語として各党の本部を所在地で表すのはよくあることである）。&lt;br /&gt;
* 「信濃町商店振興会」加盟店の[[ステッカー]]は創価学会のシンボルである三色旗と同じく赤、黄、青の三色のものである&amp;lt;ref name =systemtositeno/&amp;gt;。また、町内では三色をワンポイントとして用いた[[商店]]等の[[看板]]が随所にみられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 地名の由来 ===&lt;br /&gt;
地名の由来は、当地に[[江戸時代]]の[[幕臣]]・[[永井尚政]]（[[信濃守]]）の屋敷があったことによっている&amp;lt;ref name =systemtositeno/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 沿革 ===&lt;br /&gt;
* [[1873年]]（[[明治]]6年）外苑東通りを境に四谷東信濃町と千駄ヶ谷西信濃町ができる。&lt;br /&gt;
* [[1943年]]（[[昭和]]18年）四谷東信濃町と千駄ヶ谷西信濃町が合併し、信濃町となる。&lt;br /&gt;
* [[1953年]]（昭和28年）創価学会本部が信濃町に移転。&lt;br /&gt;
* [[1966年]]（昭和41年）[[9月12日]]、創価学会本部の要請により[[池田大作]]が信濃町に転居。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 町名と町域の変遷 ==&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot;&lt;br /&gt;
![[1872年]]（[[明治]]5年）7月&amp;lt;br /&amp;gt;&lt;br /&gt;
![[1879年]]（[[明治]]12年）4月&lt;br /&gt;
![[1891年]]（[[明治]]24年）3月&lt;br /&gt;
![[1911年]]（[[明治]]44年）5月&lt;br /&gt;
![[1943年]]（[[昭和]]18年）4月&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|四ッ谷東信濃町||→||→||東信濃町&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;4&amp;quot; |信濃町&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|千駄ヶ谷西信濃町&lt;br /&gt;
|（[[南豊島郡]]千駄ヶ谷村）&amp;lt;br /&amp;gt;字西信濃町&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |（四谷区に編入）&amp;lt;br /&amp;gt;四ッ谷西信濃町&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;3&amp;quot; |西信濃町&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|千駄ヶ谷仲町一丁目&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;2&amp;quot; |（南豊島郡千駄ヶ谷村）&amp;lt;br /&amp;gt;字火薬庫前&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|千駄ヶ谷仲町二丁目&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;行政区分の変遷&lt;br /&gt;
*[[1868年]]（[[明治]]元年） - ：　[[東京府]]&lt;br /&gt;
*[[1878年]]（[[明治]]11年） - ：　東京府[[四谷区]]&lt;br /&gt;
*[[1889年]]（[[明治]]22年） - ：　東京府[[東京市]]四谷区&lt;br /&gt;
*[[1943年]]（[[昭和]]18年） - ：　[[東京都]]四谷区&lt;br /&gt;
*[[1947年]]（[[昭和]]22年） - ：　東京都[[新宿区]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
[[File:Keio Byoin hospital.JPG|thumb|right|200px|慶應病院]]&lt;br /&gt;
[[File:東京電力病院.jpg|200px|right|thumb|東京電力病院]]&lt;br /&gt;
;旧・西信濃町地区&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾大学]]信濃町キャンパス&lt;br /&gt;
* [[慶應義塾大学病院]]&lt;br /&gt;
* [[東京電力病院]]&lt;br /&gt;
* 信濃町煉瓦館&lt;br /&gt;
* [[文学座]]&lt;br /&gt;
;旧・東信濃町地区&lt;br /&gt;
* [[創価学会]]本部（ほか関連諸施設も所在）&lt;br /&gt;
** [[聖教新聞社]]本社&lt;br /&gt;
** [[民音]]（民主音楽協会）&lt;br /&gt;
* 四谷郵便局&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{新宿区の町名}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:しなのまち}}&lt;br /&gt;
[[Category:新宿区の町名]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%82%B0&amp;diff=220436</id>
		<title>ワンセグ</title>
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				<updated>2014-02-12T15:19:29Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Redirectlist|1セグメント放送|音声を主とした放送|デジタルラジオ|その他のデジタル放送|デジタル放送|「セグ」の意味|セグメ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Redirectlist|1セグメント放送|音声を主とした放送|デジタルラジオ|その他のデジタル放送|デジタル放送|「セグ」の意味|セグメント}}&lt;br /&gt;
[[画像:W33sa 2.JPG|right|thumb|220px|日本で初めてのワンセグ対応携帯電話&amp;lt;br /&amp;gt;[[三洋電機]]（現・[[京セラ|京セラ SANYOブランド]]）[[W33SA]]。]]&lt;br /&gt;
'''ワンセグ'''（欧文表記では'''1seg'''もしくは'''One seg'''）は、[[日本]]において主に[[携帯電話]]などの[[携帯機器]]を受信対象とする[[地上デジタルテレビ放送]]（地デジ）。正式名称は「'''携帯電話・移動体端末向けの1セグメント部分受信サービス'''」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2006年]][[4月1日]]の11時（[[日本標準時|日本時間]]）から[[東京都]]など、29都府県で開始し同年[[12月1日]]にはハイビジョン放送と同時に全43県の[[県庁所在地]]および近接する一部の[[市町村|市・町・村]]でも受信できるようになり、2011年現在[[放送大学学園]]を除く全ての地上波放送局で行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2008年]]3月末まで一つの放送局から同一番組を流す[[サイマル放送]]が義務付けられており、ワンセグで見られる番組は12のセグメントを使用する地上デジタル放送の主番組と同じだったが2008年4月1日改正放送法の施行によってサイマル放送の義務化が解かれ部分的なワンセグ放送独自の番組の放送が始まった&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://company.tv-asahi.co.jp/contents/press/0122/data/080924-WANSEGU.pdf 5時間独立スペシャル]}}、[[テレビ朝日]]&amp;lt;br /&amp;gt;[http://www.rsk.co.jp/special/oneseg/index.html ワンセグ専用番組放送（ワンセグ独立放送）]、[[山陽放送]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお正式名称は前述の通りだが、本項では「'''ワンセグ'''」として解説する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[日本の地上デジタルテレビ放送]] ([[ISDB]]-T) では[[極超短波|UHF]]帯の470MHz - 710MHzを13 - 52チャンネルと呼ぶ40のチャンネルに分け、そのチャンネル1つの周波数帯域幅6MHz（実効帯域幅5.57MHzとチャンネル間約430kHzのガードバンド）が13の[[セグメント]]に分かれた構造となっている。13セグメント中[[ハイビジョン]]放送 ([[高精細度テレビジョン放送|HDTV]]) には12セグメント、[[標準画質映像|標準画質]]放送には4セグメント割り当てられている。モバイル端末（携帯電話など）は画面を小さく性能を低くして携帯性や移動性を重視し、1セグメントを割り当てて解像度が[[Quarter Video Graphics Array]] (QVGA、320×240/320×180) の放送を行うこととなった。この「1セグメント」を略して「ワンセグ」と呼ばれている。持ち運びできる新しい媒体として期待されている。音声は2chステレオであり5.1chサラウンドステレオには対応していない。詳細は[[ISDB#ISDB-T]]を参照。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NHKは携帯電話などで視聴する場合においても放送契約が必要であるとしているが、通信端末として使用するのみで、TVの視聴を目的としていない場合は放送契約の必要はない（[[#NHK受信料|後述]]）。データ放送からさらに詳しい情報を受信するために放送局と[[インターネット]]を通したパケット通信をする場合には、携帯電話の場合別途パケット通信料金がかかる。この場合、携帯電話の設定を変更していない限り、画面にサーバー受信可否を問う画面が表示される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワンセグは既存の地上デジタルテレビ放送と同じアンテナから送出されるので、放送局側の準備が整い次第、「地上デジタルテレビ放送が受信できる地域」では「ワンセグも受信できる」ことになる。ただし、一部ハイビジョン放送の放送開始から遅れる地域もある。また当初は県庁所在地から（地理的に遠く）離れた[[市町村]]（山村・[[離島]]など）は地上デジタルテレビジョン放送そのものが開始されておらず、受信できない地域もあったが、[[2007年]]以降、中継局の開局・増加に伴い、それらの一部地域でも受信できるようになった。ただし、依然として全域でのワンセグの受信ができていない（ワンセグが受信できない場合、[[ケーブルテレビ]]の代替で受信できる場合はある）。放送開始当初、受信可能な機器は[[P901iTV]]、[[W33SA]]、[[W41H]]の携帯電話3機種のみだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 独立編成 ==&lt;br /&gt;
現在のワンセグ放送は12セグメント放送との[[サイマル放送]]が義務付けられているが、実験として12セグメント放送とは別編成を組んでの放送も行われており、その場合、アナログ・デジタル放送で放送されている通常番組は視聴できない（[[マルチチャンネル]]参照）。例として[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]では、関東ローカルでナイター期間中にプロ野球中継の放送を21時からハイライト形式で放送を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、大規模な独立編成では[[2008年]][[12月21日]]に『[[M-1グランプリ]]』の敗者復活戦を[[テレビ朝日]]・[[朝日放送]]・[[北海道テレビ放送]]・[[名古屋テレビ放送]]・[[九州朝日放送]]の5局で放送。ワンセグ独自番組としては初の同時ネットを行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[札幌テレビ放送]]では土曜日9:25 - 9:29および11:54 - 11:59に12セグメント放送では各地域ごとの番組を放送するが、ワンセグでは道内一律で札幌局発の番組（『[[小樽フラッシュニュース]]』および『[[札幌ふるさと再発見]]』、ともに札幌放送局管内の12セグメント放送と同一内容）を放送しているため差し替え放送を行っている地域では実質ワンセグ独自番組となっている。また、CMも12セグメント放送では一部時間帯で各地域ごとの内容に差し替えられるが、ワンセグでは道内一律ですべて札幌局発のCMを放送しているため、これも差し替え放送を行っている地域では実質ワンセグ独立編成の扱いとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NHKについては放送法の他条項等の規定により、当初独自放送は認められていなかったが[[2009年]]度より解禁となり、まず[[NHK教育テレビジョン|教育テレビ]]で独立編成（[[NHKワンセグ2]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;1seg2&amp;quot;&amp;gt;「[[NHKワンセグ2]]」と「[[ワンセグ2サービス]]」は各放送局が名付けた呼称であり、「ワンセグ」の単一セグメントを兼用して同時に第2の別番組のマルチ編成の放送を行うもの&amp;lt;/ref&amp;gt;）を行うこととなった。総合テレビについても実施に向けた準備作業を続ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エリアワンセグ ===&lt;br /&gt;
独自編成の一種である。別名に「ワンセグローカルサービス」などの言い方もある。これは受信エリアを通常の県域放送とは別に特定の地域に限定して配信するもので、これまでに[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の試合会場や[[渋谷駅]]付近等で実用試験が実施されている。また[[テレビ大分]]も[[2010年]]4月に県域民放で初めて、同局主催のイベント「TOSまつり」の会場（TOS本社社屋周辺）限定のワンセグを放送したことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== マルチ編成 ==&lt;br /&gt;
地上デジタル放送では通常のテレビ放送でのマルチ編成が一部の局で行われているが、ワンセグによるマルチ編成もストリームレベルの多重化により可能である。2007年[[11月16日]]、[[東京メトロポリタンテレビジョン]] (TOKYO MX) はワンセグによるマルチ編成の実験に成功したと発表し&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=15666 ワンセグでマルチch編成の実証実験に成功]、文化通信.COM&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20071116-283801.html MXテレビがワンセグマルチ放送実験成功]、[[日刊スポーツ]]、[[2007年]][[11月16日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;翌2008年[[6月23日]]にワンセグによるマルチ編成「[[ワンセグ2サービス]]」&amp;lt;ref name=&amp;quot;1seg2&amp;quot;/&amp;gt;を開始した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mxtv.co.jp/jyushin/oneseg.html#yokuaru 2008年6月23日、ワンセグにもう一つチャンネルが増えます]、[[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]、[[2008年]]6月20日&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.mxtv.co.jp/schedule/ TOKYO MX週間番組表] TOKYO MX&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.nikkei.co.jp/news/sangyo/20080521AT1D200AD20052008.html 東京MX、ワンセグで2チャンネル放送・周波数2分割]、[[日本経済新聞]]、2008年[[5月21日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし通常のテレビ放送ではマルチ編成が3分割できるのに対し、ワンセグでは2分割しかできないのが現状である。なおTOKYO MXでは通常のデジタル放送でも2分割放送までしか行っていないため、同局の番組においてはこの問題は発生しない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、民放で最後発のワンセグ開始となる[[奈良テレビ放送]]は開始当初より全時間帯でのマルチ編成を実施している。片方のチャンネルで地デジとアナログ放送のサイマル放送、もう片方では地デジ・アナログ向け番組を放送時間をずらして放送するほかワンセグ独自の番組を放送し全く別編成のチャンネルとなっている。固定テレビとワンセグを全時間帯でマルチ編成を行なう局は奈良テレビが初めてとなる&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=34312 最後のワンセグ未実施局・奈良テレビ、マルチch編成で12月開始]、文化通信 [[2009年]][[10月5日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開局状況 ==&lt;br /&gt;
本放送開始前の2006年2月に[[都営地下鉄]]で[[地下鉄]]構内での再送信による受信の実験が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4月1日に、同日までに地上デジタル放送が始まっている地域の[[放送#放送区域|放送区域]]で本放送が開始された。ただし移動体端末での受信のため路上・屋内など地上10m未満の高さで受信する場合、放送区域内でも[[電界強度]]が弱い場合は受信できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12月1日には各都道府県の[[日本放送協会|NHK]]・[[民間放送|民放]]全局で地上デジタルテレビジョン放送が開始されたことに伴い、ワンセグ放送を行う放送局も全国に拡大した。&lt;br /&gt;
ただし、[[放送大学学園|放送大学]]はワンセグ放送を行っていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[遊園地]]・[[博物館]]・[[大学]]などで狭小な地域を対象とする[[エリア放送]]もある。&lt;br /&gt;
[[東京国際空港|羽田空港]]などで実験が数例行われた後、2011年4月に総務省が「[[ホワイトスペース (電波)|ホワイトスペース]]特区」を認定して一部地域についてエリア限定型ワンセグ放送の研究開発や実証実験を行った。&lt;br /&gt;
これらの結果を受け2012年4月には、エリア放送が制度化&lt;br /&gt;
&amp;lt;ref&amp;gt;平成24年総務省令第23号による放送法施行規則改正&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
され[[地上一般放送局]]として免許されることとなった。&lt;br /&gt;
（[[日本の地上デジタルテレビ放送#ホワイトスペースを利用した放送]]も参照）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、エリア放送は12セグメント放送でも免許され、[[森ビル#エリア放送|六本木ヒルズ]]や[[南相馬チャンネル]]ではサイマル放送を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ワンセグ用データ放送 ==&lt;br /&gt;
[[ファイル:1seg TV screen and data transmission reception.jpg|thumb|250px|[[携帯電話]]で上部に映像、下部にデータ放送を表示。[[日本放送協会|NHK]]携帯Gチャンネル（総合テレビ）の例]]&lt;br /&gt;
ワンセグでは一般のテレビと同じ番組に加え、各テレビ局が番組を楽しむためにワンセグ専用に制作したデータ放送コンテンツも利用できるため放送局がそれぞれの特色を活かした展開を図っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワンセグ専用データ放送には「放送と通信の連携機能」が数多く用意されていることからデータ放送に対しては携帯電話事業者各社からもまた次世代のモバイル関連ビジネス活性化の観点からも各所から期待されており、今後テレビ各局による更なる活性化が予測される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
データ放送を含めたコンテンツ製作で、日本テレビはモバイルコンテンツフォーラムが主催するモバイルプロジェクトアワード2006や2006年[[グッドデザイン賞]]も受賞している。[[リクルート]]や[[NTTドコモ]]との連携も行っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ワンセグ用データ放送には、[[Broadcast Markup Language|BML]] Cプロファイルが用いられている。このプロファイルはBSデジタル放送や地上デジタル放送のAプロファイルとは異なる機能が追加されており、上記の「放送と通信の連携機能」が実現されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 番組表 ==&lt;br /&gt;
番組タイトルと詳細情報が送られており、対応機器で見ることができる。ただし送られているのはそのテレビ局の分だけであり、他局の番組表はそのテレビ局を受信しないと見ることができない。なお、機器によっては情報を蓄積して複数局分見られるものもある。また見ることができるのは現在の所放送中番組を含め最大10番組で、テレビ局によっては2番組分しか放送していないところもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 世界の移動体向けテレビ放送の動向 ==&lt;br /&gt;
日本以外の地域でも移動体向けの地上デジタルテレビ放送（[[マルチメディア放送]]）が始まりつつあり大きく分けて日本方式（ワンセグ : [[ISDB]]-Tの部分受信）、欧州方式 ([[DVB-H]])、韓国方式 (T-[[DMB]]) の3方式がある。このうち、セグメントの部分受信という方式を採っているのは日本方式だけである。この日本方式では、[[ブラジル]]が2007年後半にいくつかの都市圏から放送サービスが始まった。ただし使用周波数が日本は470および770MHzなのに対しブラジルは806MHz、毎秒フレーム数が日本の15fpsに対しブラジルは30fpsとシステムの相違が見られる。他には[[ペルー]]でも日本方式の地上波デジタル放送システム導入が決定し、ワンセグ放送開始への可能性が開けた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://sankei.jp.msn.com/economy/business/090424/biz0904240119000-n1.htm ペルーが地デジで日本方式導入を決定] [[産経新聞|MSN産経ニュース]] 2009年[[4月24日]]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ワンセグはテレビ放送の部分受信というその方式上、少ない基地局で欧州方式や韓国方式に比べて圧倒的に広い地域に放送することができる。ただし、比較的低い周波数帯域においてかつ狭い帯域を利用しなければならないために、他方式に比べて画質が劣る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 技術・仕様 ==&lt;br /&gt;
開発に至るまでは、[[MPEG-4]]のライセンス問題や従来のMPEG-4に替わってMPEG-4AVC/[[H.264]]を採用すると復調回路の演算性能を高くしなければならないなどの問題も生じた。さらに移動体の中で[[ハイビジョン]]放送（12セグメント、ワンセグに対して「12セグ」・「フルセグ」とも呼ばれる）の受信実験をしたところ、専用[[アンテナ]]を付ければ十分に受信できるという結果が出たため、必要性を疑われることもあった。実際に、[[カーナビゲーション|カーナビ]]のハイエンドモデルに関しては12セグのハイビジョン放送とワンセグの両方に対応した機器も登場している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 帯域 ===&lt;br /&gt;
移動体での受信では、固定で受信する通常の放送やハイビジョンに比べて受信環境が厳しくなる。そのため、[[変調]]には[[ノイズ]]に強いものが採用された。なお日本の地上デジタル放送 (ISDB-T) では13セグメントを最大3つの階層に分割し階層ごとに使用セグメント数、[[変調方式]]、[[畳み込み符号]]の符号化率などを変えることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* セグメント数 : 1 (channel #0 center area)&lt;br /&gt;
* 変調方式 : [[QPSK]] (Quadrature Phase Shift Keying)&lt;br /&gt;
* 畳み込み符号化率 (Convolutional code rate) : 2/3&lt;br /&gt;
* ガード比 : 1/8&lt;br /&gt;
* [[ビット毎秒|ビットレート]] : 最大416kbps (52KB/s)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 圧縮技術 ===&lt;br /&gt;
映像圧縮技術には[[MPEG-2]]に対しては2倍以上という圧縮品質を実現したH.264が採用された。さらに音声には[[AAC]]が採用されている。なお、低ビットレートにおいて音質を改善する追加技術[[Spectral Band Replication|SBR]]の適用に関しては放送局による。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 動画規格 : [[H.264|H.264/MPEG-4 AVC]] Baseline Profile 1.2&lt;br /&gt;
* 解像度 : 320×240（最大）&lt;br /&gt;
* 動画ビットレート : 128kbps (16KB/s) （例）&lt;br /&gt;
* フレームレート（コマ数） : 15fps（1秒あたり15枚）&lt;br /&gt;
* 音声規格 : MPEG-2 AAC（SBR技術の適用は放送局による）&lt;br /&gt;
* 音声仕様 : モノラル、ステレオ、デュアルモノ&lt;br /&gt;
* 音声ビットレート : 64kbps (8KB/s) （例）&lt;br /&gt;
* データ放送記述規格 : BML ([[Broadcast Markup Language]]) Cプロファイル&lt;br /&gt;
* データ放送ビットレート : 約60kbps（約7.5KB/s）（例）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ストリーム ===&lt;br /&gt;
通常の地上デジタル放送と同様[[MPEG-2システム]]に準拠したストリームとして伝送されるが、帯域削減のためあるストリームに含まれる多重化された番組をPMTのパケット番号で列挙するテーブルであるPATの送出を行わず、ある番組に含まれるストリームがどのパケット番号を使っているかを指定するPMTのパケット番号は固定の値0x1fc8を使用する。もし多重化された番組があるなら副番組は0x1fc9、帯域が許せば0x1fcfまで8番組を識別可能。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 回路構成 ===&lt;br /&gt;
ワンセグ受信回路はアンテナ、フィルタを含むチューナー回路、[[直交周波数分割多重方式|OFDM]]復調回路、MPEG-4AVC/H.264, MPEG-2 AAC復号回路から構成されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年現在ではワンセグ受信用にチューナ用IC、OFDM復調用IC、フィルタ、水晶発振子、受動部品が1つのモジュール組み込まれたワンセグ・チューナ・モジュールが使用されることが多いが、今後はチューナ回路とOFDM復調回路を1つに統合したICを周辺部品とともに直接、メイン基板に実装するものが増えると予想されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[電子情報技術産業協会|JEITA]]の統計によれば2011年1月でワンセグ機能付き携帯電話の日本国内出荷実績が2007年7月からの累積出荷台数で1億台を突破した。また2008年8月にはそれ以降の全携帯電話の出荷の85.1%がワンセグ機能付きである。[[ダイバーシティ]]受信を行なうため、アンテナとチューナー回路を複数備えるものも登場している。このように新規生産される携帯電話への搭載はほぼ行き渡りつつあり、今後はスマートフォンやカーナビへの広がりやノートパソコン、[[Ultra-Mobile PC|UMPC]]、携帯メディアプレーヤにも搭載が期待されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2008年現在は2010年のサンプル出荷を目指した12セグメント放送用受信モジュール（フルセグ・モジュール）の開発が進められているが、消費電力がワンセグ用の10倍程度であり、携帯電話のような電池容量の小さな携帯型情報機器に搭載するためには今後の改善が求められている。また受信状況も12セグは難しい点が多く、ワンセグと12セグの切り替えなども必要とされる&amp;lt;ref&amp;gt;佐伯真也「ケータイに始まりあらゆる機器へ 小型化、低消費電力化を追求」 日経エレクトロニクス [[2008年]][[11月17日]]号 85-90頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== チャンネル番号 ===&lt;br /&gt;
3桁で指定されているチャンネル番号については「12セグにおける数値+600」として指定され、以下のように12セグとは別の放送として扱うことが明示されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[パナソニック]]では、カーナビゲーション用のテレビ受信システムにおいて初期設定の際、受信できる3桁のチャンネル番号が表示されるが、12セグ・ワンセグ両対応の機種については両方のチャンネルが表示される。取扱説明書は同社サイトからダウンロードして読むことができる。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;「12セグにおける数値+207」は[[Gガイド]]用に割り当てられており、基本的に[[Japan News Network|JNN系列]]局の番号と連動する。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[NHK放送センター|NHK東京]]総合デジタルテレビジョンの場合、12セグは「011-013」だがワンセグは「611・612」&lt;br /&gt;
* [[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]デジタルテレビジョン・[[テレビ愛知]]デジタルテレビジョンの場合、12セグは通常「101-103」だがワンセグは「701・702」&lt;br /&gt;
ワンセグ受信に対応していない地デジ受信器でワンセグのチャンネル番号を入力すると、「サービス対象外」または「サービス非対応」である旨の警告メッセージが表示されるか、何も映らない。3桁入力に対応しているワンセグ受信機でも12セグに対応していない場合は逆のパターンで同様。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作権保護 ==&lt;br /&gt;
2007年現在、ワンセグの放送自体にはデジタル著作権管理 ([[デジタル著作権管理|DRM]]) は適用されていない。録画されたものにはその受信機のメーカーによって独自のデジタル著作権管理 (DRM) を付け加え、著作権保護を施し、他の媒体へのコピーができなくなっている。また機器によっては[[ダビング10]]に対応したものもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== NHK受信料 ==&lt;br /&gt;
ワンセグ端末は「NHKのテレビジョン放送を受信することのできる受信設備」&amp;lt;ref&amp;gt;日本放送協会受信規約 第2条第2項&amp;lt;/ref&amp;gt;であることから、NHKは'''「ワンセグ端末も受信契約の対象」であり、[[NHK受信料|受信料]]を支払う必要がある'''と主張している&amp;lt;ref&amp;gt;{{PDFlink|[http://www.soumu.go.jp/joho_tsusin/policyreports/chousa/kohei_futan/pdf/070601_2_si4.pdf NHKの概要、受信料体系の現状について、16ページ]}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし自宅などにあるテレビで受信料を払っている場合は自宅に複数台のテレビを所有している場合と同じ扱いになるため、追加で受信料を支払う必要はない。[[NHK総合テレビジョン|NHK総合チャンネル]]の[[データ放送]]を受信すると次の様に放送表示される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Quotation|受信料について ワンセグ受信端末もNHKの受信契約の対象です。ただしすでに受信契約を頂いているご家庭では、ワンセグ受信端末を購入されても新たに受信契約をして頂く必要はありません。|契約の案内文全文 2007年10月現在}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主要なワンセグ機器 ==&lt;br /&gt;
* ワンセグ対応携帯電話・メモリーカード転送対応機器 - いずれも通常の地上デジタル放送とは別の設定により同時にワンセグ録画をしたものを転送する。ほとんどは本来のワンセグ放送そのものの録画ではないことに注意。&lt;br /&gt;
** [[DIGA|ブルーレイDIGA]]（[[パナソニック]]）&lt;br /&gt;
*** 2009年春モデルより対応。携帯電話はパナソニック製のほか一部メーカーの機種でUSBケーブルで接続。またはSDメモリーカードに転送。&lt;br /&gt;
** ブルーレイレコーダー [[BDZ]]シリーズ（[[ソニー]]）&lt;br /&gt;
*** 2008年4月発売のモデルより対応。ソニー製のウォークマン、PSP、携帯電話、[[Xperia]](Android 4.0以降のスマートフォン・タブレット)に対応。他社メーカーではシャープ製携帯電話[[SH006]]にも対応。&lt;br /&gt;
** [[アクオス#AQUOSブルーレイ|AQUOSブルーレイ]]（[[シャープ]]）&lt;br /&gt;
*** 2009年3月発売のモデルより対応。シャープ製の一部携帯電話のみに対応。&lt;br /&gt;
* ワンセグ対応携帯電話・スマートフォン・タブレット&lt;br /&gt;
** [[AQUOSケータイ]]・[[AQUOS SHOT]]・[[AQUOS PHONE|AQUOS PHONE・AQUOS PAD]]（シャープ）&lt;br /&gt;
***このうち[[SoftBank 206SH|AQUOS PHONE Xx 206SH]]、[[SH-08E|AQUOS PAD SH-08E]]はフルセグも対応。&lt;br /&gt;
** [[BRAVIAケータイ|BRAVIAケータイ・BRAVIA Phone]]（ソニー・エリクソン（現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ|ソニーモバイル]]））※BRAVIAケータイは[[NTTドコモ|ドコモ]]向け、BRAVIA Phoneは[[Au (携帯電話)|au]]（[[KDDI]]／[[沖縄セルラー電話]]）向け。&lt;br /&gt;
** [[ソニー・サイバーショットシリーズ#サイバーショットケータイ|Cyber-Shotケータイ]]（ソニー・エリクソン（現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ|ソニーモバイル]]））※au（KDDI／沖縄セルラー電話）向けのみ。&lt;br /&gt;
** [[Xperia]]（ソニー・エリクソン（現・[[ソニーモバイルコミュニケーションズ|ソニーモバイル]]））※ドコモ、au（KDDI／沖縄セルラー電話）向け。&lt;br /&gt;
***このうち、[[Xperia Z1]] [[SO-01F]]/[[SOL23]]はフルセグも対応。&lt;br /&gt;
** [[Woooケータイ]]（[[日立製作所]]）※au（KDDI／沖縄セルラー電話）向け専売&lt;br /&gt;
** [[VIERAケータイ]] ([[パナソニック モバイルコミュニケーションズ|Panasonic]]) ※ドコモ、ソフトバンク向け。&lt;br /&gt;
** [[REGZAケータイ|REGZAケータイ・REGZA Phone]]（[[東芝]]）※REGZAケータイはソフトバンク向け、REGZA Phoneはau（KDDI／沖縄セルラー電話）、ドコモ向け。&lt;br /&gt;
** [[スマートフォン]] [[WS020SH]]・[[IS01]]・[[IS03]]・[[SH-10B]] （シャープ）&lt;br /&gt;
** TV&amp;amp;バッテリー（ソフトバンク、[[iPhone]]用ワンセグモジュール）&lt;br /&gt;
** その他にもAV機器ブランドを使用しない端末が各事業者・メーカーから多数販売されている。&lt;br /&gt;
* 携帯ゲーム機&lt;br /&gt;
** [[PlayStation Portable|プレイステーション・ポータブル]] PSP-2000・PSP-3000用ワンセグチューナー PSP-S310（[[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]）※2009年4月現在、[[群馬テレビ]]のワンセグ放送には未対応。&lt;br /&gt;
*** データ放送で通信を伴う場合は[[無線LAN]]を使用して通信が可能。&lt;br /&gt;
*** 別売のPSP-2000・PSP-3000用AVケーブルやD端子ケーブルなどでテレビに録画した番組を出力可能。&lt;br /&gt;
*** 録画した番組は[[PlayStation 3|PS3]]にムーブ可能。&lt;br /&gt;
*** [[ダビング10]]には未対応。&lt;br /&gt;
** [[ニンテンドーDS]]（[[ニンテンドーDS Lite|DS Lite]]・[[ニンテンドーDSi|DSi・DSi LL]]・[[ニンテンドー3DS|3DS]]含む）用[[ワンセグ受信アダプタ DSテレビ]]（[[任天堂]]）&lt;br /&gt;
* パソコン用[[Universal Serial Bus|USB]]接続チューナー&lt;br /&gt;
** [[ちょいテレ]]（[[バッファロー (パソコン周辺機器)|バッファロー]]）&lt;br /&gt;
** [[SEG CLIP]]（[[アイ・オー・データ機器]]）&lt;br /&gt;
* ワンセグ録画専用機&lt;br /&gt;
** [[ガラポンTV]]&lt;br /&gt;
* [[デジタルオーディオプレーヤー]]&lt;br /&gt;
** [[VIERA#VIERAワンセグ|ビエラ・ワンセグ]] SV-ME700・SV-ME750・SV-ME850 (Panasonic)&lt;br /&gt;
** [[ウォークマン]] NW-A919・NW-A918・NW-A916・NW-A919/BI（[[ソニー]]）&lt;br /&gt;
** [[gigabeat]] Vシリーズ（[[東芝]]）&lt;br /&gt;
* [[電子辞書]]&lt;br /&gt;
** [[Papyrus (電子辞書)|Papyrus]] PW-TC900・TC920・TC930（シャープ）&lt;br /&gt;
* なお、ワンセグチューナーを搭載したポータブルのテレビ受像機やモニター付きDVDプレーヤーも各社から発売されている。&lt;br /&gt;
* また、ラジオ受信機の中にはワンセグの音声を聞くことができるものも登場している。&lt;br /&gt;
* [[モジュール|ワンセグ・モジュール]]&lt;br /&gt;
** YTS-3103-G2 RF+BB+Multimedia Decoder (Young Tech System)&lt;br /&gt;
** MP3 Player、JPEG Viewer、ワンセグ録音等搭載したワンセグ・モジュールで簡単にポータブルのテレビ受像機やセットアップボックスが出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ワンセグ端末ギャラリー ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:NTTdocomoAquos.jpg|AQUOSケータイ（いずれもドコモ向け）&lt;br /&gt;
ファイル:HIY01-2.JPG|Mobile Hi-Vision CAM Wooo（HIY01・au（KDDI／沖縄セルラー電話）向け）&lt;br /&gt;
ファイル:S911T.jpg|911T（SoftBank向け）&lt;br /&gt;
ファイル:WILLCOM 03 WS020SH.jpg|WS020SH（ウィルコム向け）&lt;br /&gt;
ファイル:SHARP IS03.jpg|IS03（[[Android]][[スマートフォン]]）&lt;br /&gt;
ファイル:1segpsp.jpg|PSP-S310（PSP用チューナー）&lt;br /&gt;
ファイル:Nintendo DS television tuner (body-opened).jpg|ワンセグ受信アダプタ DSテレビ（Nintendo DSシリーズ用チューナー）&lt;br /&gt;
ファイル:P5180001.jpg|DH-ONE/U2P（PC用チューナー バッファロー製）&lt;br /&gt;
ファイル:GV-SC200 USBコネクタ展開状態.jpg|GV-SC200（PC用チューナー アイ・オー・データ機器製）&lt;br /&gt;
ファイル:NW-X1050 (ブラック）.JPG|WALKMAN NW-X1050&lt;br /&gt;
ファイル:NW-A900.JPG|WALKMAN NW-A900&lt;br /&gt;
ファイル:Gigabeat v30t.jpg|gigabeat V30T&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[テレビ]]&lt;br /&gt;
* [[デジタルテレビ放送]]&lt;br /&gt;
* [[NHKワンセグ2]]&lt;br /&gt;
* [[ワンセグ2サービス]]&lt;br /&gt;
* [[緊急地震速報]]&lt;br /&gt;
* [[地上デジタル音声放送]]（地上デジタルラジオ）&lt;br /&gt;
* [[地上デジタルテレビ放送]]&lt;br /&gt;
* [[1セグドット]]&lt;br /&gt;
* [[通信と放送の融合]]&lt;br /&gt;
* [[モバHO!]]&lt;br /&gt;
* [[NOTTV]]&lt;br /&gt;
* [[限定受信システム]]&lt;br /&gt;
* [[ロケーションフリー]]&lt;br /&gt;
* [[サイマル放送]]&lt;br /&gt;
* [[放送#放送区域|放送区域]]&lt;br /&gt;
* [[パケット]]&lt;br /&gt;
* [[マルチメディア放送]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.dpa.or.jp/1seg/index2.html ワンセグ] - Dpaデジタル放送推進協会&lt;br /&gt;
* [http://www.nttdocomo.co.jp/service/entertainment/1seg/ ワンセグ] - NTTドコモ&lt;br /&gt;
* [http://www.au.kddi.com/tv/index.html EZweb テレビ] - KDDI&lt;br /&gt;
* [http://www.nhk.or.jp/1seg-start/ NHKワンセグ]&lt;br /&gt;
* [http://www.tbs.co.jp/oneseg/ TBS ワンセグ]&lt;br /&gt;
* [http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0604/12/news016.html 箱根の山でもワンセグ放送は受信できるか]（[[ITmedia]]調査）&lt;br /&gt;
* [http://journal.mycom.co.jp/special/2005/digitaltv/menu.html 地デジのインフラ整ってますか - 意外と知られていない受信のツボ]、マイコミジャーナル&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Video formats}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:わんせく}}&lt;br /&gt;
[[Category:ワンセグ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:携帯電話]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ技術]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の地上波テレビ放送]]&lt;br /&gt;
[[Category:デジタルテレビ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93%E3%82%BA&amp;diff=220435</id>
		<title>ザ・ドラえもんズ</title>
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				<updated>2014-02-12T15:18:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Otheruses||田中道明による漫画作品|ザ・ドラえもんズ (田中道明版)|三谷幸広による漫画作品|ザ・ドラえもんズ スペシャ...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Otheruses||[[田中道明]]による漫画作品|ザ・ドラえもんズ (田中道明版)|[[三谷幸広]]による漫画作品|ザ・ドラえもんズ スペシャル}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Pathnav|frame=1|ドラえもん|ドラえもんの派生作品}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ザ・ドラえもんズ'''は、『[[ドラえもん]]』の派生作品『[[ドラえもん 友情伝説ザ・ドラえもんズ]]』に登場する猫型ロボット7人のチーム名、および彼らを主役とした[[メディアミックス]]作品。別称は「'''ドラズ'''」、「'''ドラドラ7(セブン)'''」など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
元々は[[3DO]]専用ソフト『ドラえもん 友情伝説ザ・ドラえもんズ』に登場したゲームオリジナルキャラクターであったが、後にドラえもんの原作者である[[藤子・F・不二雄]]の承諾を得て正式にシリーズ化し、本編には登場しないが、正式にドラえもんのキャラクターに設定された。その後、1995年の『[[2112年 ドラえもん誕生]]』から2002年の『[[ザ☆ドラえもんズ ゴール!ゴール!ゴール!!]]』まで毎年春に映画化された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不滅の友情を誓った彼達は、普段は別々の場所・時代に暮らすが、互いのピンチには必ず駆けつけ、協力して事件や強敵に立ち向かう。“幻の古代神殿”で入手した伝説のひみつ道具「[[ザ・ドラえもんズのひみつ道具#親友テレカ|親友テレカ]]」は、彼達の友情の証であり、また最大の武器でもある。ちなみに「テレカ」は「テレホンカード」ではなく「テレパシーカード」の略である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、[[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|2005年4月以降のリニューアルされたアニメ]]ではロボット養成学校時代には普通の黄色ドラえもんと同種のネコ型ロボットしか同級生が見られないため存在は不明、公式自身今まで明かすことはなかった。現在でもテレ朝チャンネル等で過去の映画が放送されることはある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メンバー ==&lt;br /&gt;
=== ドラえもん（日本） ===&lt;br /&gt;
声優 - [[大山のぶ代]]、[[横山智佐]]（黄色いドラえもん）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Main|ドラえもん (架空のキャラクター)}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドラえもんズという名前の通り、リーダー的位置づけにある（これは彼がドラえもんズ結成のきっかけになったことと、親友テレカ入手の際に彼が重要な役割を担ったためと思われる）。だが映画作品では彼が不在である（もしくはいても機能しない、或いは大して活躍しない）状況が少なくない。ドラパン達と合体した時も右足の部分と地味なポジションであった。ちなみに、ネズミが嫌いになった理由はネズミ型ロボットに耳をかじられたため（2112年 ドラえもん誕生）であるはずだが、ロボット学校時代から既にネズミを嫌っている。たまに悪人をも改心させてしまうなど優しい性格だが、落ちこぼれゆえに功名心が強く、ときにそれが友情を上回り仲間を信じようとしない一幕もあった。&lt;br /&gt;
*その他&lt;br /&gt;
** 「ロボット学校七不思議」ではドラミの卒業式を見る為にロボット学校を訪れていたが、校長先生と共に掃除機ロボットの襲撃に遭い、後にダディ13号の言い成りにされた。その後、ドラミとドラえもんズの活躍でダディをリフレッシュさせることに成功したが、自身はキッドに殴られて気絶していた。&lt;br /&gt;
** 「ドラパンの挑戦状」では、ドラミのいる部屋からどこでもドアを通じて登場した。&lt;br /&gt;
** 「ムシムシぴょんぴょん大作戦!」では、時期設定がロボット学校在学中の修学旅行時だった為、まだネズミ型ロボットに耳をかじられていない頃の黄色いドラえもんの姿だった。&lt;br /&gt;
** 「宇宙ランド危機イッパツ!」ではどら焼きの食べすぎで病院に搬送され、自分の招待チケットと親友テレカをドラミに渡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラ・ザ・キッド（アメリカ） ===&lt;br /&gt;
声優 - 横山智佐（1995年）→[[塩屋翼]]（[[ドラえもん 友情伝説ザ・ドラえもんズ|友情伝説]]）→[[難波圭一]]（1996年以降）&lt;br /&gt;
* 主役映画「[[ドラミ&amp;amp;ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?]]」、「[[ザ☆ドラえもんズ ドキドキ機関車大爆走!]]」&lt;br /&gt;
* 体色 - 黄色（昔のドラえもんより若干色が薄い）&lt;br /&gt;
* 別名 - Mr.アメリカン・ドリーム西部のガンマン、[[テキサス]]の[[バッファロー]]&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 6本（3対・長め）&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{USA}} 22世紀の開拓惑星ウエスタン&lt;br /&gt;
* 性格 - ガサツで短気だが、陽気で明るい頑張り屋&lt;br /&gt;
* 一人称 - 基本的に「オレ」もしくは「オレ様」別のバージョンでは「オイラ」、「わたし」&lt;br /&gt;
* 二人称 - 基本的に「お前」や「アンタ」もしくは「てめー」別のバージョンでは「君」、「貴様」&lt;br /&gt;
* 好物 - [[ケチャップ]]と[[マスタード]]をかけた[[どら焼き|ドラ焼き]]、[[寿司]]は[[鶏卵|玉子]]が好き&lt;br /&gt;
* 特技 - [[射撃]]（ドラえもんにショックガンと空気砲のレクチャーをしたこともある）、投げ縄、ケーキカット&lt;br /&gt;
* 弱点 - [[高所恐怖症]]で高いところから落ちるのが、特に嫌い。&lt;br /&gt;
* 道具 - 常に被っている「四次元ハット」に収納&lt;br /&gt;
* 仕事 - [[保安官]]代理（法執行官）。タイムパトロールの隊員でもある&lt;br /&gt;
* 夢 - [[宇宙飛行士]]&lt;br /&gt;
* 尊敬する人 - [[チャック・イェーガー]]（軍人・パイロット）&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** 通称キッド。右手は空気砲をはめたまま（左手にはめている場合もある）。ドラえもんの妹・ドラミとは恋仲だが、「へちゃむくれ」とからかっている。相棒として、ウマ型ロボット・エドを連れている（キッドのことは「あんさん」と呼ぶ）。&lt;br /&gt;
** 四次元ハットには、有害な電気などを防ぐ装置が備わっている。ベストには[[ガラス繊維|グラスファイバー]]製のロープが縫いこんであり、何度かドラえもん達の危機を救った。実は服を脱ぐと黄色いドラえもんと同じ体（ドラミより若干薄い）であり、さらに一時期黄色いドラえもんと[[横山智佐|同じ声]]だった事からドラえもんとは同型機の可能性がある。&lt;br /&gt;
** 高いところに登ると「高いとこ、こわ～い!」と言い、その場から動けなくなってしまうため（場合によっては泣きだしながら）、宇宙に行く際にはいつも自らスイッチを切って貨物扱いで行く。作品によっては仲間のために行動しているせいか高いところなのに平気であることがある。射撃では[[野比のび太]]と互角の勝負を繰り広げたことがある。&lt;br /&gt;
** 空気砲の持ち手から[[左利き]]を窺わせる。&lt;br /&gt;
** [[ザ・ドラえもんズ (田中道明版)|田中道明版]]では、「'''“余計な荷物を持つくらいなら、おやつを持っていこう”、って言ったのはキッドじゃあないかー!!'''」とマタドーラに何度か突っ込まれている。&lt;br /&gt;
** ドラえもんズ1番の大食いと呼ばれており、テレビスペシャルのロボット学校の同窓会でジェドーラの作った特大ケーキを跡形もなく食べた犯人だと王ドラとマタドーラに疑いの目を掛けられた（実際はジェドーラの味見のしすぎだった）。&lt;br /&gt;
** 友情伝説では、スーパー・タヌキの大ファンで、昔ドラえもんに「スーパー・タヌキのようなヒーローになりたい」と言っていた。また、キャサリンと言う彼女がいたが、交通事故で死亡したため、その悲恋が原因でビッグ・ザ・ドラに操られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 王ドラ（ワンドラ・中国） ===&lt;br /&gt;
声優 - [[西原久美子]]（1995年・友情伝説）→[[林原めぐみ]]（1996年以降）&lt;br /&gt;
* 主役映画「[[ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?]]」&lt;br /&gt;
* 体色 - オレンジ色&lt;br /&gt;
* 別名 - 中国四千年究極のカンフー、中国の短足ネコ&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 8本（4対・短め）、「友情伝説」のみ6本（3対）&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{CHN}}（[[清|清王朝]]末期の時代）、他にもカンフー修行のために様々な時代を飛び回っている&lt;br /&gt;
* 性格 - 真面目で礼儀正しいが、照れ屋な純情家&lt;br /&gt;
* 一人称 - 基本的に「わたし」（「ドキドキ機関車」のみ「ぼく」）。別のバージョンでは「わたくし」（アニメでも一度だけ使用している）、「王ドラ」&lt;br /&gt;
* 二人称 - 基本的に「アナタ」別のバージョンでは「お前」や「君」&lt;br /&gt;
* 好物 - [[ラー油]]と[[酢]]と[[醤油]]をかけたドラ焼き&lt;br /&gt;
* 特技 - [[カンフー]]、[[漢方医学]]、料理&lt;br /&gt;
* 弱点 - あがり癖、特に女性に対し顕著、[[5円玉]]（自分の金額を5円と診断されたことが原因）&lt;br /&gt;
* 道具 - 着用している拳法着の「四次元袖」に収納&lt;br /&gt;
* 仕事 - [[漢方医]]の助手&lt;br /&gt;
* 夢 - 古今東西の医学によって人々を救うこと&lt;br /&gt;
* 尊敬する人 - [[黄飛鴻]]（ウオン・フェイフォン 武術家・医師）&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** ロボット学校一番の秀才（但しドラミ入学後は、彼女にその座を奪われる）。常に[[丁寧語]]で喋る（但し友情伝説では[[協和語|語尾に「アル」をつけたチャイナ口調]]で喋り、[[敬語]]ではなかった）。基本的に女の子を前にすると骨抜きになる。優しい性格なのだが時々意地悪そうな笑みを浮かべながら口撃（言葉の攻撃）を繰り出すことがある。&lt;br /&gt;
** カンフーの蹴り技に不利なため、足が短いのを気にしている。ガールフレンドは看護師ロボットのミミ子（アニメ未登場）。尻尾が長く、色は緑。&lt;br /&gt;
** 真面目さゆえにドラえもんに頑固だと言われることもあるが、意外に柔軟。&lt;br /&gt;
** 女性に弱く、「おかしなお菓子なオカシナナ?」のハニー姫が視界に入っただけで骨抜き状態になっていた。また、「ドキドキ機関車大暴走!」のロビンに対しては当初普段通りの姿を見せていたが、ロビンが女だと知った途端に骨抜き状態になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラリーニョ（ブラジル） ===&lt;br /&gt;
声優 - 鈴木みえ（2000年より[[一龍斎貞友]]に改名）&lt;br /&gt;
* 主役映画「[[ザ☆ドラえもんズ 怪盗ドラパン謎の挑戦状!]]」 「[[ドラミ&amp;amp;ドラえもんズ 宇宙ランド危機イッパツ!]]」「[[ザ☆ドラえもんズ ゴール!ゴール!ゴール!!]]」&lt;br /&gt;
* 別名 - ブラジルの若きスーパーストライカー、ブラジル一の忘れん坊&lt;br /&gt;
* 体色 - 黄緑色&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 束ねている&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{BRA}}（ドラえもんとほぼ同じ時代）&lt;br /&gt;
* 性格 - 幼稚で純真。人を疑うことを知らない。&lt;br /&gt;
* 一人称 - 「ぼく」（ドラえもんズで唯一一人称の変更がなく統一している）&lt;br /&gt;
* 二人称 - 「君」、「お前」（ドラえもんズで唯一二人称の変更がなく統一している）&lt;br /&gt;
* 好物 - [[タバスコ]]をかけたドラ焼き&lt;br /&gt;
* 特技 - [[サッカー]]（俊足を始めとする、全ドラえもんズ中最高の[[運動能力]]を誇る）&lt;br /&gt;
* 弱点 - 物忘れが激しく騙されやすい&lt;br /&gt;
* 道具 - 腹部に装備している「[[四次元ポケット]]」に収納、[[ミニドラ]]軍団から出してもらう事もある。&lt;br /&gt;
* 仕事 - ブラジルのサッカー少年・ノビーニョの練習相手&lt;br /&gt;
* 夢 - Dリーグ（ドラリーグ）の人気選手になること&lt;br /&gt;
* 尊敬する人 - [[ペレ]]（“神”と評されたサッカー選手）&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** 著名なプロサッカー選手と親交がある。11人のミニドラ軍団（通称・ミニドラサッカーチーム）を連れている。&lt;br /&gt;
** ミニドラはドラリーニョと同じ色で耳もある。&lt;br /&gt;
** 1人だけ、白目の中に白目がある（黒目部分が点）が、ザ・ドラえもんズスペシャルでは普通の目であり、性格もやや真面目である。　&lt;br /&gt;
** 考えるより先に行動してしまうタイプだが、持ち前のプラス思考とずば抜けた運動神経を生かし逆に突破口を開かせることもある。&lt;br /&gt;
** ザ・ドラえもんズスペシャルの長編では頭が弱い描写は少ない。&lt;br /&gt;
** 「ドラ'''ニ'''ーニョ」と誤記される事がある。&lt;br /&gt;
** グループの中で一番単純なため、ちょっとやそっとのことでは怖がらない。しかし漫画版では幽霊に怯え、叫びだしたり、腰を抜かすほど怖がりである。&lt;br /&gt;
** ドラえもんズの中で一番のいたずら小僧である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラニコフ（ロシア） ===&lt;br /&gt;
声優 - 鈴木みえ（1995年・友情伝説）→[[桜井敏治]]（1996年以降）&lt;br /&gt;
* 主役映画「[[ザ☆ドラえもんズ ムシムシぴょんぴょん大作戦!]]」&lt;br /&gt;
* 体色 - 茶色&lt;br /&gt;
* 別名 - 氷の大地ロシアさすらいの星、ロシアの殺し屋、謎の人&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 6本（3対）&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{RUS}}（[[冷戦|米ソ冷戦]]の時代）に在住。仕事の関係で[[ハリウッド]]にいることも多い&lt;br /&gt;
* 性格 - とにかく無口というより狼の言葉しか話せず謎が多いが、心根は優しい。しかし、丸いものを見ると[[オオカミ]]に変身し凶暴化する（誕生直後、ひみつ道具『[[ドラえもんのひみつ道具 (け)#月光とう|月光灯]]』を浴びた影響）&lt;br /&gt;
* 一人称 - 「ボク」（[[通訳]]）&lt;br /&gt;
* 二人称 - 「君」（通訳）&lt;br /&gt;
* 好物 - ドラ焼き（丸い形をしているので、変身を避けるため人前では食べない）&lt;br /&gt;
* 特技 - [[コサックダンス]]、ゲームでは、なぜか巨大化する&lt;br /&gt;
* 弱点 - 野生化すると本能を制御できない、寒さに弱い（なのになぜ寒いロシアにいるのかは不明）&lt;br /&gt;
* 道具 - 口元に巻いている「四次元[[マフラー (防寒具)|マフラー]]」に収納&lt;br /&gt;
* 仕事 - ハリウッドの映画俳優（「スーパーウルフマン」シリーズに主演）、ロシアでの人助け。&lt;br /&gt;
* 夢 - 不明&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** 「ガオ」「ワオ」等、オオカミの鳴き声のような言葉しか話せない（仲間にのみ通じる。友情伝説では普通に喋っており、ただ無口であるという設定だった）。辛いものを口に含むと[[火炎放射器]]になれる（タバスコをかけたどら焼きを食べるシーンがある）。劇場では攻撃の際、[[唐辛子]]を丸ごと食し、火炎放射を吹くシーンが見られる。オオカミのような尻尾をもち、耳の先も1人だけ形状が異なる（なぜネコ型ロボットのパーツがオオカミを模しているのかは不明）。ガールフレンドはロボット学校の同級生のモモ。「ムシムシぴょんぴょん大作戦!」で顛末が描かれている。ただし、ザ・ドラえもんズスペシャルでは、歌手のニーナという彼女がいる。野生的故か、純真な心の持ち主。オオカミの言葉がわかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== エル・マタドーラ（スペイン） ===&lt;br /&gt;
声優 - [[伊倉一恵]]（1995年・友情伝説）→[[津久井教生]]（1996年）→[[中尾隆聖]]（1996年末のテレビスペシャル以降）&lt;br /&gt;
* 主役映画「ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?」&lt;br /&gt;
* 体色 - 赤色&lt;br /&gt;
* 別名 - スペインは赤き情熱の闘牛士、スペインの怪力男&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 6本（3対・[[カール]]状で長め）&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{ESP}}（約300年前）&lt;br /&gt;
* 性格 - キザ。[[プレイボーイ]]であり、美女に目がないが情に厚い熱血漢&lt;br /&gt;
* 一人称 - 基本的に「オレ」または「オレ様」だが女の子の前では「わたし」や「ボク」になる&lt;br /&gt;
* 二人称 - 基本的に「お前」や「アンタ」だが女の子に対しては「アナタ」別のバージョンでは「貴様」&lt;br /&gt;
* 好物 - お金。闘牛の剣で串刺しにしたドラ焼き（味付けはされていないらしい。“闘牛の剣での串刺し”に拘るのは本人曰く「男の美学」）、丸いもの（特にお金が好きらしい）。初期の漫画ではドラ焼きに[[オリーブオイル]]を掛けた事もある。&lt;br /&gt;
* 特技 - 「専用の[[ヒラリマント]]」を用いた闘牛（この件からドラえもんにヒラリマントを教えている）、ドラえもんズ一の怪力&lt;br /&gt;
* 弱点 - [[シエスタ]]（昼寝）をしないとパワーが出ない。[[蛇]]のようなひょろひょろと細長い物や、[[女装]]した男も嫌い&lt;br /&gt;
* 道具 - 腹部に装備している「四次元ポケット」に収納（但し、レンタルが多い）&lt;br /&gt;
* 仕事 - 表向きはドラセロナという町の闘牛場近くの肉料理店「カルミン」の皿洗い兼出前のアルバイト（ただしよく皿を割り、そのたびに給料からその分を差し引かれているため、秘密道具を買う金にも事欠いている）。実は町のヒーロー「快傑ドラ」の正体。&lt;br /&gt;
* 夢 - 宇宙一の[[闘牛士]]になること&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** 通称マタドーラ（ただしアニメでは基本的にフルネームで呼ばれる）。耳は無く、代わりに[[ウシ|牛]]の角がついており、角を伸ばす事も可能。昼寝好きで頻繁に寝ている。マイペースなためか、生真面目な王ドラとは何かと張り合うライバル同士でもある。牛の言葉がわかり、話が出来る。&lt;br /&gt;
** 主役作[[ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?|お菓子なオカシナナ]]では王ドラに対して「やっと主役がまわってきた」とメタ発言をしたことがある。&lt;br /&gt;
** また同作ではハニー姫を口説いているが「マドモアゼル」や「ベイビー」などフランス語や英語を使っていた。&lt;br /&gt;
** シエスタはパワーを出す為と言うよりは癖であり、ザ・ドラえもんズスペシャルなどの漫画版では周りの状況お構いなしにシエスタをするのが定番のネタとなっている。&lt;br /&gt;
** マタドーラ（matadora）という[[スペイン語]]は実際に存在し、女性[[闘牛士]]を指し、[[定冠詞]]をつけるとラ・マタドーラ（la matadora）である。男性形は定冠詞付でエル・マタドール（el matador）となり、結果的には男性名詞用の定冠詞に女性名詞という名前となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ドラメッド三世（サウジアラビア） ===&lt;br /&gt;
声優 - [[佐藤正治 (声優)|佐藤正治]]&lt;br /&gt;
* 主役映画 「ザ☆ドラえもんズ 怪盗ドラパン謎の挑戦状!」&lt;br /&gt;
* 体色 - ピンク（服は緑）&lt;br /&gt;
* 別名 - 古代アラビア砂漠伝説の魔術師、砂漠の魔法ネコ&lt;br /&gt;
* ヒゲの数 - 束ねている&lt;br /&gt;
* 活躍地 - {{SAU}}&lt;br /&gt;
* 性格 - 温厚でのんびり屋だが、本気で怒ると魔人のように巨大化して暴れ回る&lt;br /&gt;
* 一人称 - 基本的に「ワガハイ」だが稀に「わし」ということがある。別のバージョンでは「ボク」、「わたし」&lt;br /&gt;
* 二人称 - 基本的に「お主」もしくは「そなた」。別のバージョンでは「君」（アニメでも一度だけ使用している）、「お前」&lt;br /&gt;
* 好物 - こんがり焼いたドラ焼き。ザ・ドラえもんズスペシャルや友情伝説のアイキャッチではフリーズドライにしていた&lt;br /&gt;
* 特技 - [[魔法]]、[[タロット占い]]、動物を操る&lt;br /&gt;
* 弱点 - 水が苦手、[[くすぐり]]&lt;br /&gt;
* 道具 - 「四次元ランプ」、「四次元ターバン」に収納、もしくは呪文を唱えて空中から出現させる（一応ポケットも持っている様子で、アニメでは実際に使用している）&lt;br /&gt;
* 仕事 - 大富豪の子息アラシンのお世話&lt;br /&gt;
* 夢 - [[砂漠]]に住む子供たちのために「ウォーターランド」をつくること&lt;br /&gt;
* その他の特徴&lt;br /&gt;
** 通称ドラメッド。語尾に「～であ～る」「～ぞよ」（田中版では「～でゴザル」が多い）をつけて話すのが口癖。&lt;br /&gt;
** 極度の水恐怖症で、カナヅチに加えて身体が濡れる事すら嫌う。巨大化している時に水を受けると元の身長に戻ってしまうが、友の声を聞いて水の中で巨大化した事もあり、この時は水の障害を撥ね退けた。友のピンチにもそのキライな水に自ら飛び込む度胸の持ち主で仲間想い。また、水に濡れる危機に瀕すると超人的なパワーを発揮することがあり、映画「ドキドキ機関車大爆走!」では機関車を抱えて、苦手な水の上を走り渡ったこともある（本人にはこの時のことを記憶にないらしい）。&lt;br /&gt;
** いつも緑と黄色い縞模様と羽根飾りを付けたターバンを被っている。[[ターバン]]の下を秘密にしている。自分の仕えるアラシンの時代にはロボットなど存在しないため、自分は「ランプの精」、ひみつ道具は「魔法」という建前になっている。なぜIII世なのかは不明。実は尻尾がない。&lt;br /&gt;
** また、テラリンという中世イギリスの魔法使いの弟子になり、彼から貰った[[タロットカード]]を大事にしている。カードを使用する際の呪文は「ドラメーディア・タロトーリア・ウラナイーノ」。&lt;br /&gt;
** 乗り物は魔法のじゅうたんを使い、呪文は「マハラージャ」（重量制限が決まっている）。&lt;br /&gt;
** 映画「ゴール!ゴール!ゴール!!」では、[[ゴールキーパー]]を担当。顔面にボールが当たった時に巨大化した。また、苦手な水に流されながらも他の仲間と[[シンクロナイズドスイミング|シンクロ]]をするなど多少だが改善されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連キャラクター ==&lt;br /&gt;
; ドラミ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[よこざわけい子]]&lt;br /&gt;
: ドラえもんの妹であり、ドラ・ザ・キッドとは恋仲にある。作中ではドラえもん不在時に、当人に代わり親友テレカを使用した事がある。詳細については[[ドラミ]]を参照のこと。&lt;br /&gt;
; ミニドラ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[佐久間レイ]]&lt;br /&gt;
: 小柄なドラえもん。「ドラドラ～」としか話せない。&lt;br /&gt;
: [[ミニドラ]]を参照。&lt;br /&gt;
: &lt;br /&gt;
; ノラミャー子&lt;br /&gt;
: 声優 - [[皆口裕子]]、[[野中藍]]（2007年）&lt;br /&gt;
: ドラえもんのガールフレンド。連載初期に藤子・F・不二雄によって書かれたドラえもんの出自伝に早くも登場していたが、後に藤子F氏公認の新設定を採り上げた映画「[[2112年 ドラえもん誕生]]」で、容姿も含め大幅に設定が変更されて再登場した。ネコ型のダンシングロボットで、完成直後のトラブルで焼却炉に落ちそうになったドラえもんを助ける。在学中からドラえもんを気にかけていた。また、ドラえもんにドラ焼きを教えたのも彼女である。耳を失ったドラえもんを見て大笑いしたため顎を外し、自分も病院通いとなったことを恥じてドラえもんに謝罪し、仲直りしてよりを戻したようであるが、その後他作品にはあまり登場していない。腹部のポケットは過去や未来の（と言っても過去のものしか出していないが）ものを取り出せるタイムポケットになっている。&lt;br /&gt;
: わさび版アニメでは変更前のデザインでの登場となった（それでも多少デザインが変更されている）。&lt;br /&gt;
; 寺尾台校長&lt;br /&gt;
: 声優 - [[永井一郎]]、[[高戸靖広]]（2007年）&lt;br /&gt;
: ロボット養成学校の校長。ネコ型ロボットの発明者で、のび太の時代に生きる小学生・寺尾台ヒロシの4代目の子孫。鋭い観察眼の持ち主で、ドラえもんの個性を認めて特別クラスに編入させた。ドラえもんズの個性や性格を知り尽くしたうえで行動することが多く、彼らの友情に免じて特別に卒業試験を合格させた寛大な人物でもあるが、急に冗談を言ってからかったり、うっかりドラえもんを溶鉱炉に落としかけたりと言った一面もある（このドジな辺りはまさしく先祖譲り）。ハゲ頭は遺伝のようだ。漫画版では五つ子であることが描かれている。[[2002年]]に放送された『ドラミの兄妹ゲンカ』でテレビアニメ本編に登場したことがある。また、「ドラえもん」原作出身でないキャラクターとしては、唯一[[水田わさび]]版アニメに登場しているキャラクターである。&lt;br /&gt;
; エド&lt;br /&gt;
: 声優 - [[二又一成]]&lt;br /&gt;
: ドラ・ザ・キッドの相棒の白馬型ロボット。飛行も可能。好物はニンジン。なぜか[[関西弁]]で喋る（演じた二又は[[青森県]]出身である）。「あんさん、馬使い（「人使い」と同意語）荒いわ！！」が口癖。キッドのことは「あんさん」と呼んでいる。&lt;br /&gt;
; ミミ子 （アニメ未登場）&lt;br /&gt;
: [[看護師]]ロボット。王ドラの彼女。普段は優しいが、王ドラが他の女の子にデレデレすると怒る。&lt;br /&gt;
; {{Visible anchor|ドラパン}}&lt;br /&gt;
: 声優 - [[神谷明]]&lt;br /&gt;
:* 色 - 紫色&lt;br /&gt;
:* ヒゲの数 - 2本（カール・長め）&lt;br /&gt;
:* 活躍地 - {{FRA}}&lt;br /&gt;
:* 性格 - 紳士的。弱者に親切。&lt;br /&gt;
:* 一人称 - 「わたし」（漫画では、「オレ」の場合もある）&lt;br /&gt;
:* 二人称 - 「君」、「お前」、「アナタ」&lt;br /&gt;
:* 好物 - [[カマンベールチーズ]]入りドラ焼き。あんこ入りどら焼きは食べられないらしく、「ぺっぺっ」と吐き出す描写がある。&lt;br /&gt;
:* 特技 - 変装。ヒゲで分身を作る事もできる。&lt;br /&gt;
:* 弱点 - [[暗所恐怖症]]。[[犬]]も苦手。&lt;br /&gt;
:* 道具 - キンキンステッキ・（かぶっているシルクハット）・[[ひらりマント]]。&lt;br /&gt;
:* 仕事 - 天下の大[[怪盗]]（[[指名手配]]中）。ただし、ひもじくてパンを盗んでしまった子供を助けたり、法律で取り締まれない[[悪徳商法]]に騙された人々のお金を取り返したりと、あくまで貧しい人の味方の'''[[義賊]]'''。&lt;br /&gt;
:* 夢 - 不明。&lt;br /&gt;
:* その他の特徴&lt;br /&gt;
:** 物質変換装置を先端に付けた「キンキンステッキ」を持っている（ミミミから譲り受けた）。&lt;br /&gt;
:** 頭に被っているシルクハットには、身に着けた者に対する電磁波を防ぐ働きがある。&lt;br /&gt;
:** 身にまとったマント（一部文献ではヒラリマントであると書かれている）で羽虫の様に飛行可能。&lt;br /&gt;
:** 親友・ミミミをドクターアチモフに人質に取られ、「逆らえばミミミを殺す」と脅迫されたため、やむなくドラえもんズと戦う。しかし劇中でドラメッドやドラリーニョの友情の力をみせられ、最後はドラえもんズと和解し、協力し合いアチモフを倒す。この際、ドラえもんズ全員が電磁波を防いで道具を使うために『合体ドラえもんズ』の頭部に配置され道具を電磁波から守った。&lt;br /&gt;
:** ドラメッドから友情の証として貰った[[正義 (タロット)|タロットカード]]（絵柄は映画では仮面を付け剣を持ったネコ型ロボット、漫画では天使の翼を生やしたネコ型ロボット）を持っている。&lt;br /&gt;
:** 「ムシムシぴょんぴょん大作戦！」にワンシーンだけ登場している。&lt;br /&gt;
:** ドラメッドに追いかけられている時、「[[チョベリバ]]」と言ったことがある。&lt;br /&gt;
:&lt;br /&gt;
; {{Visible anchor|ジェドーラ}}&lt;br /&gt;
: 声優 - [[山寺宏一]]&lt;br /&gt;
:* 色 - 橙色。（その上からその色よりも濃い橙色のチェック線の模様が入っている）&lt;br /&gt;
:* ヒゲの数 - 2本（グニャグニャ・長め）&lt;br /&gt;
:* 活躍地 - {{ITA}}&lt;br /&gt;
:* 性格 - 親切。少々落ち着きがない&lt;br /&gt;
:* 一人称 - 「ボク」、「ジェドーラ」&lt;br /&gt;
:* 二人称 - 「君」&lt;br /&gt;
:* 好物 - [[生クリーム]]入りドラ焼き。&lt;br /&gt;
:* 特技 - 料理。&lt;br /&gt;
:* 弱点 - 辛い物が苦手。また、困ってどうしようもなくなると、頭から汽車のように煙を出しながらそこら中を「こまった、こまった」と連呼しながらグルグルと駆けめぐる癖がある（シュッポ・シュッポ・ダンス）。&lt;br /&gt;
:* 道具 - 不明。&lt;br /&gt;
:* 仕事 - [[パティシエ]]。&lt;br /&gt;
:* 夢 - 菓子を作る楽しみ、みんなで一緒に協力する楽しみ、そして楽しく菓子を食べてもらえる楽しみを伝えること。&lt;br /&gt;
:* その他の特徴&lt;br /&gt;
:** 誕生日は[[5月17日]]（ドラえもん、ドラミの他に誕生日が分かっている数少ないネコ型ロボット）。&lt;br /&gt;
:** ネコ型ロボットの中で唯一メガネをかけており（後に[[ドラベース]]にてグリえもんも眼鏡をかけてる）、実際に視力は悪い。&lt;br /&gt;
:** いつも[[舌]]をだして困ったような[[目]]をしたおとぼけ顔をしているが、情熱は誰にも負けない。&lt;br /&gt;
:** オカシナナ王国ではドラえもんズと協力しての楽しいお菓子作りで、笑顔を忘れてしまったハニー姫に楽しかった日々を思い出させてあげた。&lt;br /&gt;
:** いつも左手に愛用の[[スプーン]]（TV版では巨大な[[フォーク]]）を持っている。&lt;br /&gt;
:** 漫画版では語尾に「～（なん）だな」とつけることがあるが、アニメ版では普通に話す。&lt;br /&gt;
; チャオチャオ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[佐久間レイ]]&lt;br /&gt;
: TVスペシャル版『ミステリーX'マス大作戦!』に登場。王ドラが一目惚れした相手である（漫画版におけるミミ子に当たるキャラクター）。王ドラにアンマンをあげたり、笑顔を見せたりと心優しい一面がある。王ドラはアンマンのお礼に、竹で作ったツルをプレゼントしようとするが、井戸の水汲みを終えた彼女はわけも分からないまま、どこかへ行ってしまった。&lt;br /&gt;
; ミミミ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[佐久間レイ]]&lt;br /&gt;
: ドラパンの親友で、2作目「怪盗ドラパン謎の挑戦状!」のヒロイン。追われて重傷を負ったドラパンを介抱してあげたのが運命の出会い。以後、ドラパンと行動を共にするようになる。しかし、「怪盗ドラパン謎の挑戦状!」ではアチモフに人質として捕まってしまう。ドラパンを慕っているのか、ドラリーニョにドラパンが義賊であることを訴えた。しかしドラパンがドラリーニョを騙し「キンキン・ステッキ」でブロンズ像にしてしまった際にはドラパンには厳しい批判を浴びせるが、すべては自分のためだとわかっていた。その後はドラパンとドラえもんズの活躍により助けられる。ロボット犬を飼っている（名前は「リープ」）。&lt;br /&gt;
; モモ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[川上とも子]]&lt;br /&gt;
: 3作目「ムシムシぴょんぴょん大作戦!」のヒロインで、女子高生ロボット。初めは友人と一緒にドラニコフを馬鹿にしていたが、タガメロボに絡まれたところをドラニコフに助けられて以来、ドラニコフのガールフレンドとなった。&lt;br /&gt;
; ハニー姫&lt;br /&gt;
: 声優 - [[丹下桜]]&lt;br /&gt;
: オカシナナ王国のお姫様で、4作目「おかしなお菓子なオカシナナ?」のヒロイン。サト国王（声優 - [[富田耕生]]）とシュガ王妃（声優 - [[一城みゆ希]]）の娘。両親が夫婦喧嘩を繰り返していたため笑わなくなったが、ドラえもんズたちの活躍で笑顔が戻った。&lt;br /&gt;
; ロビン&lt;br /&gt;
: 声優 - [[白鳥由里]]&lt;br /&gt;
: 5作目「ドキドキ機関車大爆走!」のヒロインで、祖父の後を継いで機関車車掌を務める少女。普段は髪の毛を帽子に隠し、[[オーバーオール]]を着ているため、男の子に間違われやすい。アチモフの陰謀で電気が止められたとき、ひとつだけ残ったエネルギーカプセルを運ぶ任務を負う。当初は愛用の機関車（通称・ロコ）をキッドに侮辱されたため突っかかっていたが、カプセル（実はアチモフに奪われたのはダミーで、彼女のペンダントが本物だった）と引き換えに助けてもらってからは和解している。最終的にはキッドにキスし、キッドを照れさせた。エンディングではワンピース姿も披露している。&lt;br /&gt;
; ピノ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[南央美]]&lt;br /&gt;
: 6作目「宇宙ランド危機イッパツ」に登場。宇宙ランド（スペースランド）の[[警備]][[隊員]]の犬型ロボット。しかし、まだ見習い中で臆病である。腰の[[棍棒]]が武器。宇宙[[ウィルス]]に立ち向かう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===悪役===&lt;br /&gt;
; ダディ13号&lt;br /&gt;
: 声 - [[納谷悟朗]]&lt;br /&gt;
: 1作目「ロボット学校七不思議!?」の悪役。ドラえもんズがロボット学校に在学していた当時、学校の機能をコントロールしていたタコのような姿の巨大コンピューター。ドラミがロボット学校に在学中はリフレッシュルームで休息中となり、マミィ14号（声 - [[池田昌子]]）と言うイカのような姿のコンピューターに変わっている。しかし、気象衛星の事故で発生した雷の影響で再起動し、掃除機ロボットを始めとする古くなったロボット達と共に暴走してしまうが、ドラえもんズの親友テレカのパワーで正常に戻る。事件解決後、復活したマミィ14号と共に行動しており、相思相愛な関係になっている。&lt;br /&gt;
; Dr.アチモフ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[銀河万丈]]&lt;br /&gt;
: 2作目「怪盗ドラパン謎の挑戦状!」、5作目「ドキドキ機関車大爆走!」、7作目「ゴール!ゴール!ゴール!!」の3作品に登場する、世界征服を目論む悪の科学者。だが、悪党にしてはやや間の抜けた所が多い。片目は[[義眼]]。語尾に「ッショ」をつけるのが口癖。「怪盗ドラパン謎の挑戦状!」でドラえもんズに倒されて以来、2度もドラえもんズに闘いを挑んでくるが、結局は全敗している。&lt;br /&gt;
: 脇役の中でも特によく登場する悪役である。&lt;br /&gt;
;タガメロボ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[緑川光]]、[[岩永哲哉]]&lt;br /&gt;
:3作目「ムシムシぴょんぴょん大作戦!」の悪役。「～じゃん」が口癖。モモたちをナンパし、強引に迫る。ドラニコフとヤゴロボットを人質にしたが、キッド、マタドーラ、王ドラ、ドラリーニョの総攻撃で、星となって飛ばされた。&lt;br /&gt;
; ニガニガ&lt;br /&gt;
: 声優 - [[岩田光央]]&lt;br /&gt;
: 4作目「おかしなお菓子なオカシナナ?」の悪役で、ジェドーラのライバル。顔は青い[[ヤマアラシ]]のような外見。語尾に「～ニガ」をつけて話す。子分は3体のコゲロボ（声優 - [[長嶝高士]]、[[千葉一伸]]、[[稲田徹]]）。オカシナナまつりの優勝を狙っている為、[[21エモン]]を始めとするオカシナナまつりの参加者達を様々な妨害工作をし、彼らを失格にさせた。最後はドラえもんズのお菓子に敗北し、ミニドラサッカーチームにより自慢のUFOごと吹き飛ばされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 登場する映画作品 ==&lt;br /&gt;
* [[2112年 ドラえもん誕生]]（1995年）&lt;br /&gt;
* [[ドラミ&amp;amp;ドラえもんズ ロボット学校七不思議!?]]（1996年）&lt;br /&gt;
* [[ザ☆ドラえもんズ 怪盗ドラパン謎の挑戦状!]]（1997年）&lt;br /&gt;
* [[ザ☆ドラえもんズ ムシムシぴょんぴょん大作戦!]]（1998年）&lt;br /&gt;
* [[ザ☆ドラえもんズ おかしなお菓子なオカシナナ?]]（1999年）&lt;br /&gt;
* [[ザ☆ドラえもんズ ドキドキ機関車大爆走!]]（2000年）&lt;br /&gt;
* [[ドラミ&amp;amp;ドラえもんズ 宇宙ランド危機イッパツ!]]（2001年）※声の出演による最後の作品&lt;br /&gt;
* [[ザ☆ドラえもんズ ゴール!ゴール!ゴール!!]]（2002年）※声の出演なし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 単行本 ==&lt;br /&gt;
* 「[[ザ・ドラえもんズ (田中道明版)|ザ・ドラえもんズ]]」（[[田中道明]]）全6巻&lt;br /&gt;
* 「[[ザ・ドラえもんズ スペシャル]]」（作・[[宮崎まさる]]、画・[[三谷幸広]]）全12巻&lt;br /&gt;
* 「[[ザ・ドラえもんズ スペシャル#ザ・ドラえもんズ スペシャル ロボット養成学校編|ザ・ドラえもんズ スペシャル ロボット養成学校編]]」（三谷幸広）全3巻&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゲーム ==&lt;br /&gt;
* 「[[ドラえもん 友情伝説ザ・ドラえもんズ]]」（1995年発売、[[3DO]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[ザ・ドラえもんズのひみつ道具]]&lt;br /&gt;
* [[ドラベース ドラえもん超野球外伝]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{ドラえもん}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:さとらえもんす}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドラえもんのスピンオフ作品]]&lt;br /&gt;
[[Category:ザ・ドラえもんズ|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドラえもんの登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空のネコ]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空のロボット]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空の団体]]&lt;br /&gt;
[[Category:漫画作品 さ|とらえもんす]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%82%AE%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E7%89%B9%E6%88%A6%E9%9A%8A&amp;diff=220434</id>
		<title>ギニュー特戦隊</title>
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				<updated>2014-02-12T15:17:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Pathnav|ドラゴンボール|ドラゴンボールの登場人物|frame=1}} '''ギニュー特戦隊'''（ - とくせんたい）は、鳥山明の漫画『[[...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|ドラゴンボール|ドラゴンボールの登場人物|frame=1}}&lt;br /&gt;
'''ギニュー特戦隊'''（ - とくせんたい）は、[[鳥山明]]の[[漫画]]『[[ドラゴンボール]]』および[[テレビアニメ|アニメ]]作品『[[ドラゴンボールZ]]』、『[[ドラゴンボール改]]』に登場する架空の[[戦隊]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
初登場は其之二百七十二「間に合え!!ななつのドラゴンボール」、アニメでは『ドラゴンボールZ』第61話「迫る超決戦!ギニュー特戦隊只今参上!!」、『ドラゴンボール改』第28話「迫る超決戦!ギニュー特戦隊只今参上ッ!」。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[フリーザ]]の配下として登場した全宇宙から精鋭を集めた5人のエリート部隊。北の[[界王]]も恐れる存在で&amp;lt;ref&amp;gt;アニメではヤムチャが「そんな奴らオレたちでギニューっとやっつけちゃいましょうよ」とダジャレのつもりで発言したが、界王は全く笑わず深刻な表情を見せている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、グルドを除く4人はフリーザの側近であるザーボンやドドリア、その2人を倒した[[ベジータ]]さえ上回る戦闘力を持つ。ギニューの台詞によれば、それぞれの出身種族の中でも突然変異で生まれた天才戦士を集めているという。地位はザーボンやドドリアら側近と同格以上。メンバー全員胸にマークが付いたVネック戦闘ジャケット&amp;lt;ref&amp;gt;渡辺彰則編「第5章 アイテム事典」『ドラゴンボール大全集 7巻』[[集英社]]、1996年2月25日、ISBN 4-08-782757-7、207頁&amp;lt;/ref&amp;gt;を着用し、同じくマークが施された丸型宇宙船を使用している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「スペシャルファイティングポーズ」と呼ばれるポージングや独特の掛け声などは「[[スーパー戦隊シリーズ]]」の[[パロディ]]&amp;lt;ref&amp;gt;渡辺彰則編「鳥山明的超会見」『ドラゴンボール大全集 3巻』集英社、1995年9月9日、ISBN 4-08-782753-4、207頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。鳥山が子供と一緒に番組を見ていたところはまり、ギニュー特戦隊を登場させた&amp;lt;ref name=&amp;quot;kaiken&amp;quot;&amp;gt;渡辺彰則編「鳥山明的超会見」『ドラゴンボール大全集 2巻』集英社、1995年8月9日、ISBN 4-08-782752-6、264頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
隊員同士の仲は良いが、全員どこか変わった性格をしており、仲間が戦死した際には悲しみや戦力の低下よりもスペシャルファイティングポーズの様式美が崩れることを気にしていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;db23&amp;quot;&amp;gt;鳥山明「グルドの超能力」『DRAGON BALL　第23巻』集英社〈ジャンプコミックス〉、1990年10月8日、ISBN 4-08-851620-6、143・149頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。グルド、バータ、リクームが倒されたことをジースから報告をうけたギニューは、[[孫悟空 (ドラゴンボール)|孫悟空]]たちのもとへ出撃する直前にスペシャルファイティングポーズを決めるが、2人だけではこのポーズがしっかりと決まらないことを悟り、初めて隊員たちが倒されたことに激怒している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
闘う順番を[[じゃんけん]]（『ドラゴンボール改』では「ギニューじゃんけん」と呼称）で決めるなど、一見ふざけているような言動を取るが、職務自体は完璧に遂行し、フリーザからは評価が高く信頼されている。またフリーザはギニュー特戦隊が全員倒されたことに気付いた際、顔色を変えて驚いていた（フリーザが部下の戦死にショックを受けるのはこの場面のみ）。ただし、ファイティングポーズを初めとしたアクの強いノリはフリーザの趣味に合わないらしく、アニメでは名乗りを見た直後に赤面し、5人のポーズや出動前の気合入れに唖然としている。またアニメでは隊員全員がお菓子が大好きという一面が強調されており、部下全員でおやつの時間を取るという説明がされたり、チョコレートパフェを賭ける場面もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フリーザが[[ナメック星]]へ侵攻している際に増援として呼び寄せられる。当初のギニュー特戦隊の任務はヤードラット星の征服だったが、このとき初めてフリーザの侵略している惑星戦線での最前線へと投入されることになった。そしてフリーザに[[ドラゴンボール (架空の道具)|ドラゴンボール]]のありかを吐かせるために、ベジータを連れて来ることを命じられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
隊員全員の名前は[[乳製品]]に由来している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== メンバー ==&lt;br /&gt;
=== ギニュー ===&lt;br /&gt;
声 - [[堀秀行]]、[[野沢雅子]]&amp;lt;ref&amp;gt;『Z』71話で、悟空の身体を得た時のみ。この時点では「チェンジ後も声がそのまま」という設定が存在しなかったため、ギニューの身体になった悟空をギニュー役の堀が演じている。&amp;lt;/ref&amp;gt;、[[小西克幸]]（『[[ドラゴンボール改]]』、『[[ドラゴンボール レイジングブラスト]]』以降のゲーム作品）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特戦隊の隊長。悟空との対戦中に不意打ちを仕掛けることによって手助けをしたジースを「手出し無用」と叱り飛ばす（その不意打ちにより優勢になるが、自らの手で優勢を放棄して戦いを振り出しにした）など、一対一の勝負にこだわる独自の[[フェア]]精神を持った戦士。体は薄い紫色をしており、頭には血管が浮き出ていて左右一対の黒い頭角を持つ。戦闘服は両腕、両脚とも露出。純粋にフリーザを尊敬する数少ない部下の1人であり、フリーザからも絶大な信頼を寄せられていると同時に、その実力を認められている&amp;lt;ref&amp;gt;フリーザは悟空と互角に戦った際に「ギニュー隊長の上をいくヤツがいるとは」と引き合いに出している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。フリーザの部下の中では最も高い戦闘力を持ち、最大戦闘力は120000&amp;lt;ref&amp;gt;鳥山明「危うし 最長老たち」『DRAGON BALL　第24巻』集英社〈ジャンプコミックス〉、1991年1月10日、ISBN 4-08-851414-9、124頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;[[ファミリーコンピュータ]]ゲーム『[[ドラゴンボールZII 激神フリーザ!!|激神フリーザ]]』では160000となっている。&amp;lt;/ref&amp;gt;で、戦闘力を自在に変化させることも可能。念動力を有し、ドラゴンボールを浮遊させて運んでいる場面がある。登場した当初は、リクームと同様にベジータのことを「ベジータちゃん」と呼んでいた（アニメでは「ベジちゃん」とも）。悟空が自分と同様に戦闘力を臨機応変に変化させる戦士であることを隊員の中で唯一見抜いており、他のメンバーのようにスカウターの数値のみに固執してはいない。また隊員にはほかの星へ降り立った際は技の試し撃ちをするように注意している（アニメにおけるリクームの発言。ナメック星では行っていない）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''ボディチェンジ'''（後述）によって全宇宙の優れた戦士と体を取り替えてきたために本来の姿は一部の者しか知らず、本編には登場しない。作中の姿もチェンジ後のもの。他の隊員の例に洩れずユニークな一面が強調されており、リクームの台詞によれば、ファイティングポーズを考えるのも彼である。フリーザがドラゴンボールを全て手に入れたときには「喜びのダンス」を踊ろうとしたが、フリーザには婉曲に断られた。また作中彼オリジナルの「ウルトラファイティングポーズ」も披露している&amp;lt;ref&amp;gt;名前はアニメより。扉絵（アニメでは戦闘中）で悟空に真似されていたが、足のポーズが逆であることを注意していた。&amp;lt;/ref&amp;gt;。アニメではジースが仲間の敗北を報告に来るまで、残っていた兵士たちにファイティングポーズの指導をしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
界王拳を発動してギニューの戦闘力を大幅に超えた悟空（ギニューが120000に対し、悟空は180000以上）に大きく慄くが同時に嬉しがり、自分の体にわざと重傷を負わせたうえで、ボディチェンジを行い悟空の体を手に入れることに成功する。しかし、慣れない体のためにその戦闘力をうまく引き出すことができず、23000&amp;lt;ref&amp;gt;鳥山明「悟空か!? ギニューか!?」『DRAGON BALL　第24巻』178頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;とチェンジ前を大きく下回る戦闘力しか出せなかったため、本来ならば格下であるはずの[[孫悟飯]]や[[クリリン]]に予想外の苦戦を強いられる&amp;lt;ref&amp;gt;アニメ『Z』では、2人との戦いを通じて少しずつ悟空の体に慣れていき、完全ではないが戦闘力を引き出せるようになっていく。逆に悟空もギニューの体に慣れ参戦する。&amp;lt;/ref&amp;gt;。その後ジースを撃破したベジータに闘いを挑まれ応戦するが、敵わず痛め付けられて地面に叩き落とされる。そしてベジータがトドメを刺そうと上空から突進してきたところにボディチェンジを仕掛けるが、元の体に戻れる好機と判断した悟空が間に割って入ったことで悟空とギニューの体は元に戻る。今度こそベジータの体を手に入れるためにベジータに向けて再度ボディチェンジを放つが、悟空がとっさに放り投げた[[カエル]]のような生物と入れ替わる。カエルの体では発声できず、そのままカエルの姿から変えられなくなり無力となり、ベジータに踏み潰されそうになるが悟空に制止され、ベジータも同情したことで命を助けられ、そのままどこかへ逃亡する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
原作ではその後登場しないが、アニメ『Z』では出番が大幅に追加されている。[[ブルマ (ドラゴンボール)|ブルマ]]をうまく騙して体を入れ替え&amp;lt;ref&amp;gt;ブルマから翻訳機を渡されたため、発声することができた。&amp;lt;/ref&amp;gt;、さらに[[ピッコロ (ドラゴンボール)|ピッコロ]]の体を乗っ取ろうとするが、悟飯の機転で結局カエルに戻る。『ドラゴンボール改』でもこのパートは放送され、次回予告でも「必ず帰ってくるぞ」と再登場を示唆するような発言をしている。その後はドラゴンボールによって地球に転送され&amp;lt;ref&amp;gt;原作でも同じ条件の対象であったが、地球へ転送された直接の描写はない。&amp;lt;/ref&amp;gt;、最初はブルマに蹴飛ばされたが、逃亡せずにそのままブルマの家の温室に住み着いた。カエルとなって力は失われても、ファイティングポーズをとったり身のこなしなどはそれなりにでき、温室に住む他の生物にスペシャルファイティングポーズを披露している場面がある。ナメック星人が他の星へ移った時も、ベジータやピッコロと同様に地球に留まり、以後も何度か姿を見せている。それらの登場シーンではとくに悪事を企んでいるような描写は無く、セルゲーム直前に悟空の家の庭に現れたり、第209話では[[魔人ブウ]]出現前の[[天下一武道会]]会場で悟飯に拾われたりと、行動範囲もかなり広い。また、かつてのギニューの肉体を得たカエル自身も地球にいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
グルド、リクーム、バータが敗北したとジースから聞いた際、「自分たちより強い者はフリーザ様しか存在しない」と隊員たちの死を否定している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少年時代、自分のチェンジ能力に気づいたとき金持ちの少年と体を交換したが、アホらしくなってすぐにやめたという&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekishin&amp;quot;&amp;gt;週刊少年ジャンプ編集部・編「ギニュー特戦隊が語る「あのころのワシら」」『ファミコン奥義大全書 ドラゴンボールZII 激神フリーザ!!』集英社〈ジャンプコミックスセレクション〉、1991年8月12日、ISBN 4-8342-1020-0、72-73頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
テーマソング「参上!!ギニュー特戦隊!!」の歌詞ではカエル嫌いとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前の由来は[[牛乳]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;forever&amp;quot;&amp;gt;ジャンプ・コミック出版編集部編「capsule column 5 キャラ名の由来を知りたい!」『ドラゴンボール完全版公式ガイド Dragonball FOREVER STORY 人造人間編〜魔人ブウ編 All BOUTS &amp;amp; CHARACTERS』集英社〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、2004年5月5日、ISBN 4-08-873702-4、158-159頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 技&lt;br /&gt;
:; ボディチェンジ&lt;br /&gt;
:: 両腕を広げて「チェーンジ!」と叫び、向かい合った相手と体を入れ替える技。この技を発せられた者は身動きがとれなくなり、技を避けられなくなる&amp;lt;ref&amp;gt;アニメ版でピッコロがターゲットにされた時に判明。&amp;lt;/ref&amp;gt;。ただし、第三者が間に割って入ることで妨害することが可能であり、自分より戦闘力が上の相手と入れ替わっても、その戦闘力を必ずしもうまく引き出せるとは限らない。&lt;br /&gt;
:: 身体は入れ替わっても気の種類は変化しないようで、悟空と入れ替わったギニューの気を察知したクリリンからは「邪悪な気」と評されている。アニメ『Z』と『改』では声はチェンジ前のままになっている。&lt;br /&gt;
::; ホルスタインショック&amp;lt;ref&amp;gt;[[PlayStation 3|プレイステーション3]]ソフト『[[ドラゴンボールZ バーストリミット]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;、自害&amp;lt;ref&amp;gt;[[PlayStation 2|プレイステーション2]]ソフト『[[ドラゴンボールZ Sparking!NEO]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
::: ボディチェンジの際に相手を弱らせるため、自分の胸を突き、体力を減らす技。&lt;br /&gt;
:; ストロングジャージー&amp;lt;ref&amp;gt;プレイステーション2ソフト『[[ドラゴンボールZ3]]』。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 突進しての肘撃ち。悟空との闘いの先制攻撃に使用。&lt;br /&gt;
:; ミルキーキャノン&amp;lt;ref&amp;gt;プレイステーション2ソフト『[[ドラゴンボールZ (ゲーム)|ドラゴンボールZ]]』シリーズ。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 溜めてから放つエネルギー弾。&lt;br /&gt;
:; [[念力|サイコキネシス]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;waza&amp;quot;&amp;gt;渡辺彰則編「第4章 技事典」『ドラゴンボール大全集 7巻』集英社、1996年2月25日、ISBN 4-08-782757-7、123-162頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 物体に触れずに、念力で複数の物を動かすことができる技。作中では7つのドラゴンボールの運搬の際に使用。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== リクーム ===&lt;br /&gt;
声 - [[内海賢二]]、[[江川央生]]（『Z』195話）、[[佐々木誠二]]（『ドラゴンボール改』、『ドラゴンボール レイジングブラスト』以降のゲーム作品）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外見は地球人と同じ人間型で、[[パイナップル]]のような髪型をしている筋骨隆々の大男。戦闘服は両肘下、両膝下を露出。特殊な超能力は持っていないが、その分高い攻撃力と耐久力を持ち、鍛え上げた肉体を駆使する。戦闘力は不明&amp;lt;ref&amp;gt;ゲームでは戦闘力に差異があり、ファミコンゲーム『激神フリーザ』では71000、スーパーファミコンゲーム『超サイヤ伝説』では65000。&amp;lt;/ref&amp;gt;だが、彼を倒した悟空の数値をギニューが「60000ほど」と推測している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
度々ファイティングポーズを取り、ふざけた態度や発言も多くユーモラスさも見せるが、戦闘においては相手をいたぶって遊ぶ残忍な面があり、隊員仲間であるバータから「イヤな性格」と評されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベジータのことを終始「ベジータちゃん」と呼んで舐めるほど自分の強さに自信を持っており、ベジータ、悟飯、クリリンの数々の攻撃もほんの僅かなダメージにしか至らない圧倒的な強さを見せつけた。なお、戦いが進むほどに肉体のささいなダメージとは別にプロテクターやアンダースーツはかなり破損して行き、最後は尻が丸出しの状態になっていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3人に止めを刺そうとしたときにその場に駆けつけた悟空を侮り、あっさりと倒そうとするも攻撃が全く当たらず、とっておきの技を発動しようとした隙を突かれて肘打ちによる一撃で沈められた。その後、瀕死状態のままベジータから気功波を放たれ、爆死する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アニメの設定では、詳細不明ながら地球と同型の惑星出身で、種族の戦闘レベルも地球人並の中で、彼のみ突然変異で生まれた超天才戦士とのこと&amp;lt;ref&amp;gt;原作でもギニューの「突然変異で生まれた超天才戦士」という台詞がある。&amp;lt;/ref&amp;gt;。さらに、[[レスリング]]系の技が得意という設定が追加され、[[プロレス]]をアレンジしたような技を連発した。アニメでは死後に地獄で魔人ブウと悟空との真剣勝負を見た際に、その凄さに両腕を挙げて叫び声をあげて感服するなど、実力伯仲の真剣勝負には敵味方に関係なく素直に賞賛する一面も見せた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少年時代、ダンス（バレエ）を習っており、それはバトルポーズや身のこなしに活かされている&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekishin&amp;quot; /&amp;gt;。声を担当した内海賢二は「結構気に入っている」と語る&amp;lt;ref&amp;gt;月刊[[アニメージュ]]の取材他。当時の同書関連の投書にも、「原作では幼い悟飯を容赦なく傷めつけて許せなかったけど、内海さんの千兵衛さんそのままの声の演技のおかげで、どこか憎めないキャラになりました」と評価する声も多かった。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前の由来は[[クリーム (食品)|クリーム]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;forever&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 技&lt;br /&gt;
:; リクームキック&lt;br /&gt;
:: 決めポーズを取った後、相手に突進して膝蹴りを決める。&lt;br /&gt;
:; リクームエルボー&lt;br /&gt;
:: アニメにて使用。相手の上空からのエルボースタンプ。&lt;br /&gt;
:; リクームデスドライバー&amp;lt;ref&amp;gt;[[PlayStation|プレイステーション]]、[[セガサターン]]ソフト『[[ドラゴンボールZ 偉大なるドラゴンボール伝説]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 相手を持ち上げたまま地面に急降下し叩きつける。&lt;br /&gt;
:; リクームイレイザーガン&lt;br /&gt;
:: 口から気功波を発射する。ただし、発動前に口を無理やり閉じられると暴発してしまう。&lt;br /&gt;
:; リクームボンバー&amp;lt;ref&amp;gt;ゲームではリクームグレネードボンバー。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 名前はアニメより。エネルギー弾を連射する。&lt;br /&gt;
:; リクームマッハアタック&amp;lt;ref&amp;gt;アニメではリクームマッハパンチ。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 決めポーズを取った後に相手に突っ込んでいく。悟空との対戦で使用したが、あっさり避けられてしまった。&lt;br /&gt;
:; リクームウルトラファイティング〜&amp;lt;ref&amp;gt;原作では技名をここまでしか言えず、アニメ『Z』では「リクームウルトラファイティングミラクル…」、『改』では「リクームウルトラファイティングミラクルアタ…」とまでしか言えなかった。ゲーム版や『改』で追加されたテーマ曲では「ウルトラファイティングミラクルボンバー」。ゲーム『超サイヤ伝説』では「ウルトラ・ファイティングアタック」。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 本人いわく「周囲を広範囲に渡って吹き飛ばす」とっておきの大技。作中では発動前に悟空の肘打ちを受けて倒されたため、不発に終わっている。一部のゲームでは使用可能で、原作での本人の発言を汲み取り、自身の体から広範囲に衝撃波を放出するような技として扱われていることが多い。そのときの名前は「リクームウルトラファイティングボンバー」になっている。『[[ドラゴンボールZ Sparking!]]』シリーズでは早口で言っている。&lt;br /&gt;
:; ファイナルポーズ&lt;br /&gt;
:: 中腰になり相手に尻を向けた妙なポーズをとる。厳密には相手を攻撃する技ではないが、アニメでのジースの台詞によれば「リクームの十八番」だという。バータの「花の命は短かった」という台詞から、いわゆるフィニッシュサインのようである。&lt;br /&gt;
:; リクームボディアタック&lt;br /&gt;
:: アニメオリジナル。死後、界王星でヤムチャと対決した時に使用。&lt;br /&gt;
:; リクームジャンプ&lt;br /&gt;
:: アニメオリジナル。ヤムチャに倒され、地獄へ落とされた際、脱出しようとして使用したが、地獄の上空の雲を突き破れ無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ジース ===&lt;br /&gt;
声 - [[田中和実]]、[[増谷康紀]]（[[ゲームボーイアドバンス|GBA]]用ゲーム『[[ドラゴンボールZ 舞空闘劇]]』）、[[岸尾だいすけ]]（『ドラゴンボール改』、『ドラゴンボール レイジングブラスト』以降のゲーム作品）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劇中では語られていないが、特戦隊のナンバー2（サブリーダー）的存在&amp;lt;ref&amp;gt;テーマソングでもナンバー2と歌われている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。メンバーの中でリクームに次いで地球人に近い姿をしていて美形でもあるが、肌は赤色で白い長髪を持つ。戦闘服は両腕がアンダースーツで覆われ、両脚は露出。アニメでは「ギニュー特戦隊の赤いマグマ」と名乗る。他の隊員同様ユーモラスな側面が描かれており、悟飯たちと対峙した際、ギニューの「かわいがってやるぞ」という台詞を聞き、悟飯たちに字義通りではないことを丁寧に説明した直後にギニューから「説明せんでもいい」と突っ込まれる&amp;lt;ref&amp;gt;『ドラゴンボール 最強格闘BIBLE』では「解説好きのエリート戦士」とも記述されている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。隊員同士の仲は良いが、とくにバータと仲が良く、リクームが戦っている様子を2人で観戦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦闘力はリクームと同程度。アニメ登場に際して、パワーはリクーム、スピードはバータに劣るものの、総合的には特戦隊のサブリーダー的存在という設定ができたせいもあり、エリート意識の強い面が強調された。だが、スカウターの数値に頼るあまり悟空の実力を見抜くことができず、リクームが悟空に倒されたのも「偶然に決まっている」と決め付けていた。のちにギニューからこのことで注意を受けているほか、ベジータと戦った際にも「お前たちはスカウターに頼りすぎている」と指摘された。また出身惑星の正式名称は不明だが、星全体が地球の[[赤道]]直下並の高温環境という設定もある。クウラ直属の部下であるサウザーとは同じ星系の出身という設定&amp;lt;ref&amp;gt;サウザーは青い肌をしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。バータとともに悟空に襲い掛かるが、バータが悟空に倒されると恐れをなして撤退。1度は生き残るが、大怪我から復活して大幅に戦闘力を上げたベジータと戦い、最期はエネルギー波で消滅させられた&amp;lt;ref&amp;gt;アニメではこのとき命乞いをしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。この際ギニューは大きく驚いており、ジースの戦闘力は本来ならばベジータよりも上であったことが分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少年時代に銀河リトルリーグで投手、スペースバレーでアタッカーを掛け持ちしており、クラッシャーボールはそのころに編み出したとされる&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekishin&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前の由来は[[チーズ]]をもじったものである（チーズ→ヂース→ジース）&amp;lt;ref name=&amp;quot;forever&amp;quot;/&amp;gt;。[[ジュース]]と間違われることがある&amp;lt;ref&amp;gt;ゲーム『[[ドラゴンボールZ Sparking!METEOR]]』のキャラクター図鑑では、[[チチ (ドラゴンボール)|チチ]]がジュースとコメントしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 技&lt;br /&gt;
:; クラッシャーボール&lt;br /&gt;
:: 普通の気功波に類似した光球をバレーボールのスパイクのように飛ばす。&lt;br /&gt;
:; パープルコメットクラッシュ&lt;br /&gt;
:: アニメで使用。バータとの合体技。ジースの赤い光球とバータの青い光球を合体させ、紫色の渦巻きになってエネルギー弾を連射する。&lt;br /&gt;
:; パープルコメットゼットクラッシュ&amp;lt;ref name=&amp;quot;waza&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: アニメ『Z』で使用。パープルコメットクラッシュの強化版。最初から紫色の光球に包まれたまま合体するが、技の途中で[[天津飯 (ドラゴンボール)|天津飯]]に破られる。&lt;br /&gt;
:; このオレ様に敵うわけが無い!&amp;lt;ref name=&amp;quot;blast&amp;quot;&amp;gt;プレイステーション3、[[Xbox 360]]ソフト『[[ドラゴンボール レイジングブラスト]]』&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: アニメで使用。エネルギー弾を連射する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== バータ ===&lt;br /&gt;
声 - [[岸野幸正]]、[[小野坂昌也]]（『ドラゴンボール改』、『ドラゴンボール レイジングブラスト』以降のゲーム作品）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体は青色をしており隊員の中で身長が最も高い。戦闘服は両腕を露出し両脚がアンダースーツで覆われている。リクームをも凌ぐ巨漢だが、パワーの面ではリクームより劣る。戦闘力はリクームやジースと同程度。アニメでは「ギニュー特戦隊の青いハリケーン」を名乗っている。「宇宙一速い」と自負し仲間からもそのスピードが特技と認められているが、悟空の前ではパワーもスピードも敵わなかった。攻撃速度が速くかなりの手数を見せたが、悟空には完全に弄ばれた挙げ句あっさりと敗れ、瀕死状態の時にベジータに首を折られて死亡した。特戦隊の中ではジースと仲が良く、リクームが戦っている様子を2人で観戦していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アニメ『Z』では、担当声優の岸野のアドリブで時折女性的な言葉も発した。『改』では女性的口調はなくなっている&amp;lt;ref&amp;gt;「だらしないわねぇ」→「だらしない奴だなぁ」など&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
好物はチョコレートパフェ&amp;lt;ref&amp;gt;渡辺彰則編「第3章 キャラクター事典」『ドラゴンボール大全集 7巻』集英社、1996年2月25日、ISBN 4-08-782757-7、96頁。&amp;lt;/ref&amp;gt;、ベジータだけでなく、クリリンと悟飯も倒させて欲しいと頼んだリクームに対して、観戦していたジースと共に「チョコレートパフェを奢れ」と要求する場面がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
彼の宇宙一のスピードが身についた理由は、少年時代人使いの荒い母親に家事を押し付けられ、それを素早くこなさなければならなかったからだとされる&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekishin&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前の由来は[[バター]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;forever&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 技&lt;br /&gt;
:; マッハキック&amp;lt;ref&amp;gt;名前は『[[ドラゴンボール改 アルティメット武闘伝]]』より。&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 唯一原作で披露した技で、空中で相手を蹴り続ける。悟空との対戦で使用したが、全てかわされ勝負にならなかった。&lt;br /&gt;
:; マッハ・アタック&lt;br /&gt;
:: ゲーム『[[ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説]]』で使用。エネルギーをまとっての体当たり。&lt;br /&gt;
:; スペースマッハアタック&lt;br /&gt;
:: ゲーム『[[ドラゴンボールZ Sparking!]]』シリーズで使用。相手を全方位から殴打する。&lt;br /&gt;
:; ブルーインパルス&lt;br /&gt;
:: ゲーム『[[ドラゴンボールZ 超悟空伝 -覚醒編-]]』で使用。青白いエネルギー波を放つ。&lt;br /&gt;
:; パープルコメットクラッシュ&lt;br /&gt;
:: アニメで使用。ジースとの合体技。詳細は前述。&lt;br /&gt;
:; パープルコメットゼットクラッシュ&lt;br /&gt;
:: アニメ『Z』で使用。詳細は前述。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== グルド ===&lt;br /&gt;
声 - [[塩屋浩三]]、[[高戸靖広]]（『ドラゴンボール改』、『ドラゴンボール レイジングブラスト』以降のゲーム作品）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
体は緑色をしており、全体的に丸まった体格をしていて背が低く目が4つある。その外見同様醜悪で残忍な性格をしている。戦闘服は両腕、両脚ともアンダースーツで覆われている。戦闘力数値自体は隊員の中で最も低く、特戦隊のメンバーの中で唯一ザーボン、ドドリアなどの幹部クラスよりも低いが、後述の特殊能力のため数値としての単純な戦闘力以上に高い実力を持つ。故に猛者揃いのフリーザ一味の中で他の戦士を抑え、戦闘のエリート集団であるギニュー特戦隊入りを果たしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
顔の形状の都合から5人の中で唯一スカウターを装着していない。フリーザを初めとする一味は気を探る能力を持っていないため、自分が予想していた以上に高速移動で迫る悟飯やクリリンを探すのに悪戦苦闘していた。「試合場のゴミひろい」と愚痴り悟飯とクリリンを侮っていたが、すばやい動きで迫る2人に危機を感じて、金縛りの術を発動する。念力で木を折って先端を鋭くした状態で2人を串刺しにしようとしたが、その瞬間を狙ったベジータに不意を突かれて手刀で首を刎ねられた（アニメではこの描写が少し変更されている）。苦しみながら「低俗なサル野郎」と罵ったあとにベジータのエネルギー波を受けて死亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アニメでは、悟飯、クリリンとの戦いで苦戦を強いられたことを見かねたバータからは「ギニュー特戦隊の恥さらし」、リクームからは「もう一緒に遊んでやらない」、ジースからは「3時のおやつの時間もお前とは別々にする」と散々に言われた。さらにアニメではベジータとの仲の悪さが強調されており、純粋な戦闘力ではなく、超能力を駆使した特殊戦法を評価されて特戦隊入りを果たした点を認められず、「息が臭い」「無能」などと罵られ、ゲーム『[[ドラゴンボールZ Sparking!]]』シリーズでも、[[餃子 (ドラゴンボール)|餃子]]との闘いやザーボンとの対話などで触れられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
少年時代は、自分の能力でいたずらを繰り返した悪童だった&amp;lt;ref name=&amp;quot;gekishin&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
名前の由来は[[ヨーグルト]]&amp;lt;ref name=&amp;quot;forever&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
; 技&lt;br /&gt;
:; 時間停止、タイムストップ&amp;lt;ref name=&amp;quot;waza&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;blast&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: その名の通り、自分以外の時間を停止させることができる。アニメでは発動するには息を止めなければならず、あまり連続で使うことはできない。時を止めた状態でも攻撃できるようだが、本人いわく「エネルギー消耗があまりにも大きすぎる」ため非効率的で（アニメではエネルギー不足で発射できなかった）、もっぱら回避手段として用いていた。&lt;br /&gt;
:; サイコキネシス&amp;lt;ref name=&amp;quot;waza&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
:: 物体に触れずに、念力で地面を砕いてその破片を飛ばしたり、大木を杭のように鋭く削って投げつけたりする。&lt;br /&gt;
:; 金縛りの術&lt;br /&gt;
:: 奇声を上げ、腕を振り上げることにより相手の身動きをとれなくする切り札。リクームいわく「めったに見せない」技&amp;lt;ref name=&amp;quot;db23&amp;quot; /&amp;gt;。アニメでは金縛り状態になった悟飯とクリリンの頬をつねったり、耳を引っ張ったりする他「百叩きの刑」と称して殴打していた。&lt;br /&gt;
:: アニメでは界王星にて餃子にも使おうとしたが、一瞬の隙を突かれ阻止される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 死後（アニメのみ） ==&lt;br /&gt;
ギニュー以外の4人は死後、界王に練習相手として界王星に呼び寄せられ、[[ヤムチャ]]、天津飯、餃子と対決。リクームはヤムチャに、ジースとバータは2人に分身した天津飯に、グルドは餃子によって倒され、地獄に落とされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[あの世一武道会]]編では、地獄でフリーザ親子とともに[[セル (ドラゴンボール)|セル]]の部下になり暴れまわっていた。さらにスペシャルファイティングポーズを披露するなど相変らず元気な姿を見せていたが、セルゲーム編以降の悟空の敵ではなく、いずれも一撃で倒される。魔人ブウ編では、界王神界での悟空たちとブウの戦いをフリーザやコルド大王とともに地獄から観戦していた。しかしその全てにおいて、隊長であるギニューはカエルになったまま死んでいないため姿は無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのシーンは『Z』のみで見られ、『改』ではカットされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
劇場版『[[ドラゴンボールZ 復活のフュージョン!!悟空とベジータ]]』では、フリーザに引き連られて地獄から復活。同じフリーザ一味のメンバーや他の劇場版の悪役たちとともに悟飯に襲い掛かるが、フリーザが悟飯によって一撃で倒されると、恐れをなして逃亡した。その際ギニューと見た目が同じカエルも登場している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ドラゴンボールGT ==&lt;br /&gt;
『[[ドラゴンボールGT]]』では、悟空たちに倒された過去の戦士たちと共に地獄から復活し、地球で暴れまわっていた。その後、天界にて閻魔大王の裁きを待つ列にギニュー（カエルとボディチェンジする前の姿）も並んでいるシーンがあるが詳細は不明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テーマソング ==&lt;br /&gt;
; 参上!!ギニュー特戦隊!!&lt;br /&gt;
: 作詞:[[山田ひろし]]／作曲・編曲・歌:[[山崎燿]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『ドラゴンボール改』のために作られた歌。劇中でも使用されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ゲームでの特戦隊 ==&lt;br /&gt;
当時発売されたRPGゲーム『[[ドラゴンボールZII 激神フリーザ!!]]』（[[ファミリーコンピュータ]]）より登場。初登場場面では、ドット絵で彼らのスペシャルファイティングポーズも再現されている。条件を満たすと手に入る「カエル」カードを持っていると、ギニューのボディチェンジを無効化することができ、これは『[[ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説|超サイヤ伝説]]』（[[スーパーファミコン]]）でも同じことが可能。またフリーザから悟飯たちを始末してもよいと言われたギニューが「遊んでやりましょう」と言ったあと、ジースが「[[カードダス]]をしたり、テレビゲームをするわけじゃありません」と、原作の「かわいがる」のシーン同様に字義通りの意味でないことを説明して注意される場面がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[ドラゴンボールZ 超悟空伝 -覚醒編-]]』では選択肢により、悟飯でジースと闘えたり、ギニューが最後の闘いにてベジータとボディチェンジに成功するも、フリーザに勘違いされ処刑されるという結末を迎えるなど、原作にはない展開がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
格闘ゲーム関係ではギニュー特戦隊が全員登場せず、プレイヤーが使用できる隊員がギニューとリクームの2人のみという作品がある&amp;lt;ref&amp;gt;例：『[[ドラゴンボールZ Ultimate Battle 22]]』、『[[ドラゴンボールZ2]]』、『[[ドラゴンボールZ3]]』など。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[ドラゴンボールZ Sparking!]]』シリーズでは、特戦隊同士で戦わせると他のキャラクターのように対戦前の特定の会話が発生。ギニューに他のメンバーと戦わせると、「心が広い俺が相手してやるぞ」と誘うギニューに他のメンバーは「最高っすよ!!」と喜んで承諾する。バータとジースを戦わせると、バータは勝ったらチョコレートパフェを奢るよう要求し、ジースも「同じ条件なら」と手合わせに乗じる。ほかにもリクームは「たまには身内で戦うのもいいんじゃねぇの？」、グルドは「俺が勝ったらナンバー2だ」と、それぞれの個性溢れる台詞を述べる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、クウラ機甲戦隊のリーダーであるサウザーとジースの対戦時には「てめぇとは決着をつけておかんとな!!」と発言するなど同族のサウザーをライバル視している様子が窺える。なお、サウザーのライバルであるギニューの場合は、サウザーの挑発に対し「言ってくれるじゃないか」と返す。またグレートサイヤマン（孫悟飯）との対戦時は、「6人目の隊員」「同志」などとメンバーそれぞれがグレートサイヤマンに興味津津であることが分かるが、当の本人は「悪には加担しない」と誘いを断っている。フリーザとの対戦時は、主であるフリーザと手合わせできることに大喜びしてアピールするが、流石の当人も「このノリには、ついていけませんね……」「あなたたちはもう少しまじめにおやりなさい」と呆れている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『[[ドラゴンボール レイジングブラスト]]』では、ギニューが新メンバーオーディションを発表するというIFストーリーがある。オーディションにエントリーしたのはザーボンとドドリアを含め8人。グレートサイヤマンには仲間意識を持っていたが、この募集に対しバータだけは「俺たちの注目度が下がるだけ」と不平をこぼすなど、オーディションにはあまり乗り気ではない。また、ジースは自身を特戦隊の「イケメン担当」と思っており、ザーボンを目の敵にしたり、対戦モードでもサウザーに「実力でも顔でも負けている」と言われたのに対して憤るなど原作よりもナルシストな面が描かれている。ほかにも、ギニューがリクーム、ジース、バータ、グルドを厳しく鍛え、横暴な彼が仲間たちから解雇要求されるなどのIFストーリーもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
携帯公式サイト『ドラゴンボールモバイル』にて配信されているアプリ『超ドラゴンボールRPG』では、条件を満たすことでギニューを悟空たちの仲間にすることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アーケードゲーム『[[ドラゴンボール ZENKAIバトルロイヤル]]』では、キャラクターとしてギニューを使用でき、ゲーム内で獲得できるアクセサリーを装着することで戦闘中に特戦隊のメンバーを呼び出すことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[ドラゴンボールの登場人物]]&lt;br /&gt;
{{ドラゴンボール}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:きにゆとくせんたい}}&lt;br /&gt;
[[Category:ドラゴンボールの登場人物]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空の団体]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空の地球外生命体の個体]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[ca:Llista de personatges de Bola de Drac#F]]&lt;br /&gt;
[[en:List of Dragon Ball characters#Ginyu Force]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%B9%E8%A8%B1%E8%A8%B1%E5%8F%AF%E5%B1%80&amp;diff=220433</id>
		<title>東京特許許可局</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%89%B9%E8%A8%B1%E8%A8%B1%E5%8F%AF%E5%B1%80&amp;diff=220433"/>
				<updated>2014-02-12T15:16:19Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「'''東京特許許可局'''（とうきょうとっきょきょかきょく）は、日本語の早口言葉の一種。早口言葉としては3回続けて言う...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''東京特許許可局'''（とうきょうとっきょきょかきょく）は、[[日本語]]の[[早口言葉]]の一種。早口言葉としては3回続けて言うことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[特許]]に関する諸手続を行う[[行政機関]]の名称のように思われるが、[[日本]]および[[東京都]]に「東京特許許可局」という機関は存在せず、日本で実際に[[特許権]]などの権利付与を行う[[特許庁]]（[[経済産業省]]の[[外局]]）にも「東京特許許可局」という[[地方支分部局]]は存在しない。また、特許は「許可」とは言わず、「付与」と言うのが一般的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もともと、[[1934年]]に[[日本放送協会|NHK]]の全国一律[[アナウンサー]]採用試験の声音予備試験に出題するために考案されたという&amp;lt;ref&amp;gt;[[読売新聞]]東京版 [[1997年]][[5月12日]] 28頁&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主なバリエーション ==&lt;br /&gt;
この早口言葉には様々なバリエーションがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 東京都特許許可局（とうきょうととっきょきょかきょく）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょう）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長の許可（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょうのきょか）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長、急遽特許許可却下（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょう、きゅうきょとっきょきょかきゃっか）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長、今日、急遽許可却下（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょう、きょう、きゅうきょきょかきゃっか）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長、急遽、供給許可却下（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょう、きゅうきょ、きょうきゅうきょかきゃっか）&lt;br /&gt;
* 農商務省特許局、日本銀行国庫局、専売特許許可局、東京特許許可局（のうしょうむしょうとっきょきょく、にほんぎんこうこっこきょく、せんばいとっきょきょかきょく、とうきょうとっきょきょかきょく）&lt;br /&gt;
* 東京特許許可局許可却下どっちか?（とうきょうとっきょきょかきょくきょかきゃっかどっちか?） &lt;br /&gt;
* 東京特許許可局局長、作曲、東京特許許可局協奏曲（とうきょうとっきょきょかきょくきょくちょう、さっきょく、とうきょうとっきょきょかきょくきょうそうきょく）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ちなみに、[[農商務省 (日本)|農商務省]]特許局と[[日本銀行]]国庫局は日本に実在した行政機関である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;references /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の言葉遊び|とうきようとつきよきよかきよく]]&lt;br /&gt;
[[Category:架空の団体|とうきようとつきよきよかきよく]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1&amp;diff=220432</id>
		<title>ブルジュ・ハリファ</title>
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				<updated>2014-02-12T15:15:50Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{基礎情報 超高層ビル |ビルディング名称 = ブルジュ・ハリファ&amp;lt;br /&amp;gt;برج خليفة |画像       = File:Dubai Burj Khalifa.jpg |画像説明   =...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{基礎情報 超高層ビル&lt;br /&gt;
|ビルディング名称 = ブルジュ・ハリファ&amp;lt;br /&amp;gt;برج خليفة&lt;br /&gt;
|画像       = File:Dubai Burj Khalifa.jpg&lt;br /&gt;
|画像説明   = &lt;br /&gt;
|画像2      = &lt;br /&gt;
|画像説明2  = &lt;br /&gt;
|先代世界一 = [[台北101]]&lt;br /&gt;
|次代世界一 = &lt;br /&gt;
|所在地     = {{ARE}} [[ドバイ]]&lt;br /&gt;
|座標       = {{ウィキ座標2段度分秒|25|11|49.7|N|55|16|26.8|E|region:AE|display=inline,title}}&lt;br /&gt;
|状態       = &lt;br /&gt;
|着工       = 2004年1月&lt;br /&gt;
|完成予定   = &lt;br /&gt;
|開業       = 2010年1月4日&lt;br /&gt;
|解体       = &lt;br /&gt;
|崩落       = &lt;br /&gt;
|建設期間   = 2004年-2010年&lt;br /&gt;
|使用目的   = 複合商業施設&lt;br /&gt;
|アンテナ_尖塔 = 828.9 m&amp;lt;ref name=&amp;quot;CTBUHdb&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://skyscrapercenter.com/dubai/burj-khalifa/ |title=Burj Khalifa - The Skyscraper Center |work=Council on Tall Buildings and Urban Habitat |accessdate=20 December 2012}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;DubaiOneInauguration&amp;quot; /&amp;gt; &lt;br /&gt;
|屋上       = &lt;br /&gt;
|最上階     = 621.3 [[メートル|m]]&lt;br /&gt;
|階数       = 160階&lt;br /&gt;
|床面積     = 464,511 [[平方メートル|m²]]&lt;br /&gt;
|エレベーター数 =  &lt;br /&gt;
|建設費     = 15億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]&lt;br /&gt;
|設計       = [[:en:Adrian Smith (architect)|エイドリアン・スミス]] ([[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル|SOM]])&lt;br /&gt;
|構造エンジニア = [[:en:William F. Baker (engineer)|ウィリアム・ベイカー]] (SOM)&lt;br /&gt;
|施工       = [[サムスン物産]]、[[:en:Besix|ベシックス]]、[[:en:Arabtec|アラブテック]]&lt;br /&gt;
|デベロッパー = [[エマール・プロパティーズ]]&lt;br /&gt;
|所有者     = &lt;br /&gt;
|管理運営   = &lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[ファイル:Burj dubai 3.11.08.jpg|thumb|建設中のブルジュ・ハリファおよび[[ダウンタウン・ブルジュ・ハリファ]]地区と周辺地域の眺望&amp;lt;br /&amp;gt;（2008年3月、[[空撮]]）]]&lt;br /&gt;
'''ブルジュ・ハリファ'''（{{lang-ar|برج خليفة}} ブルジュ・ハリーファ ({{unicode|burj khalīfah}}), {{lang-en|Burj Khalifa}}）は、[[アラブ首長国連邦]][[ドバイ]]にある、世界一高い[[超高層建築物|超高層ビル]]である。[[日本語]]では'''ブルジュ・ハリーファ'''、'''ブルジュ・カリファ'''とも表記される。建設の段階では、'''ブルジュ・ドバイ''' ({{lang|ar|برج دبي}}, Burj Dubai) の名であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全高（尖塔高）828.0 m&amp;lt;ref name=&amp;quot;skyscraperpage.com&amp;quot;&amp;gt;[http://skyscraperpage.com/cities/?buildingID=7787 Burj Dubai - SkyscraperPage.com]&amp;lt;/ref&amp;gt;、軒高（ビル本体の屋根の地上高）636.0 m&amp;lt;ref name=&amp;quot;skyscraperpage.com&amp;quot; /&amp;gt;（比較資料：同上）。160階建て。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このビルは、ドバイのビジネス街に近い[[シェイク・ザーイド・ロード]]の第1インターチェンジに設けられた{{仮リンク|ダウンタウン・ブルジュ・ドバイ|en|Downtown Dubai}}と呼ばれる2km&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;のエリア開発の一環として建設された。このビルの設計は[[シカゴ]]の[[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]] (SOM) が、{{仮リンク|エイドリアン・スミス (建築家)|en|Adrian Smith (architect)|label=エイドリアン・スミス}}を主要設計技師、{{仮リンク|ウィリアム・F・ベーカー|en|William F. Baker (engineer)}}を主要構造技師に迎えて行われた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Record High&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.emaar.com/index.aspx?page=press-release-details&amp;amp;id=361|title=Burj Dubai reaches a record high|publisher=エマール・プロパティーズ|date=21 July 2007|accessdate=24 November 2008}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.architectmagazine.com/industry-news.asp?sectionID=1006&amp;amp;articleID=385534|title=Adrian Smith Leaves SOM, Longtime Skidmore partner bucks retirement to start new firm|last=Keegan|first=Edward|publisher=ArchitectOnline|date=15 October 2006|accessdate=23 March 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。基本建設は、[[韓国]]の[[サムスン物産]]と契約が交わされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;SkyscraperPage&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://skyscraperpage.com/cities/?buildingID=7787|title=Burj Dubai, Dubai&amp;amp;nbsp;– SkyscraperPage.com|publisher=SkyscraperPage|accessdate=23 March 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 名称 ==&lt;br /&gt;
「{{lang|ar|برج}}（burj, ブルジュ）」は[[アラビア語]]で「[[塔]]」「タワー」を意味し、「ブルジュ・ハリファ」の語義は「ハリファ塔」「ハリファ・タワー」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プロジェクトが完成した時、[[世界金融危機 (2007年-)|世界は金融危機の真っ只中]]にあり、ドバイ国内は建設過剰な状態であったため、空室や差押さえ物件が溢れ返っていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;monument&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://latimesblogs.latimes.com/culturemonster/2010/01/the-burj-dubai-and-architectures-vacant-stare.html|title=The Burj Dubai and architecture's vacant stare|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]]|accessdate=4 January 2010 | date=1 January 2010| author=Christopher Hawthorne}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。野心に溢れていたドバイはその結果負債まみれになっており、やむを得ず政府は数十億ドルもの借入を、石油が豊富な隣国[[アブダビ]]に頼らざるをえなかった。これに続いて、オープニングセレモニーで突如ビルの名称が、建設に対する重要なサポートを果たしたアラブ首長国連邦第2代[[大統領]]で連邦内最大の国[[アブダビ首長国]]の[[アミール]]（首長）である[[ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン]] ({{lang|ar|&amp;lt;ins&amp;gt;خليفة&amp;lt;ins&amp;gt; بن زايد آل نهيان}}, {{lang|p|&amp;lt;ins&amp;gt;Khalīfa&amp;lt;ins&amp;gt; bin Zāyid Āl Nuhayyān}}) にちなんだ「ブルジュ・ハリファ」に変更された&amp;lt;ref name=&amp;quot;NikkeiNet.2010-01-05&amp;quot;&amp;gt;{{Cite news |url=http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20100105AT2M0501J05012010.html|title=ドバイ最高層ビルが改称　アブダビ首長の名冠す|publisher=[[日本経済新聞|日経ネット]]|date=2010-01-05|accessdate=}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://business.maktoob.com/20090000414838/Burj_Dubai_renamed_Burj_Khalifa_/Article.htm |title=828-metre Burj Dubai renamed Burj Khalifa |date=4 January 2010 |publisher=Maktoob Group |accessdate=10 February 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;DubaiOneInauguration&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703580904574638111667658806.html|title=World's Tallest Skyscraper Opens in Dubai |last=Bianchi|first= Stefania|coauthors=Andrew Critchlow|date=4 January 2010|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]The Wall Street Journal|publisher=Dow Jones &amp;amp; Company, Inc|accessdate=4 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 企画 ==&lt;br /&gt;
企画はドバイの[[デベロッパー (開発業者)|不動産開発会社]]である[[エマール・プロパティーズ]]。設計は[[アメリカ合衆国]][[スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル]]の[[エイドリアン・スミス (建築家)|エイドリアン・スミス]] ([[:en:Adrian Smith (architect)|Adrian Smith]])。建設は、[[大韓民国|韓国]]の[[サムスン物産]]、[[ベルギー]]最大の建設会社の[[ベシックス]] ([[:en:Besix|Besix]])、アラブ首長国連邦の超高層ビルを得意とするアラブテック ([[:en:Arabtec|Arabtec]]) の共同。建造コンクリート強度は80[[ニュートン|N]]/平方ミリメートル&amp;lt;ref&amp;gt;{{Cite journal|和書 |date = 2012-03 |title = 素材革命! |journal = 週刊東洋経済&lt;br /&gt;
 |issue = 6381   |publisher = 東洋経済新報社 |pages = 85 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。設備はアラブ首長国連邦のETA社、[[インド]]のVoltas社、[[日本]]の[[日立プラントテクノロジー]]が担当している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
商業施設、居住施設、娯楽施設などを含む大規模な複合施設の核として位置づけられており、全ての計画を換算すると80億[[アメリカ合衆国ドル|USドル]]に上ると見られている。経済効果は少なくとも200億ドルを超えると見込まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファ建設の決定には、石油依存の単独経済体制から[[サービス]]や[[観光]]を含む多様化を目指す政府の決定があると報告された。政府関係者によれば、都市が国際的な認知を得て投資を呼び込むにはブルジュ・ハリファのような計画が必要だと考えられていた。「彼（[[ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム]]首長）は、何か凄くセンセーショナルなものでドバイを有名にしたがっている」と、[[ナキール]]社のジャッキー・ジョセフソン観光・要人使節団担当役員は話した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://articles.latimes.com/2005/oct/13/world/fg-dubai13|title=In Dubai, the Sky's No Limit|last=Stack|first=Megan|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]] |date=13 October 2005|accessdate=26 March 2006}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明確な裏づけは無いが、計画は当初から何度も高さを増す方向に見直しがかけられたという。元々は、[[オーストラリア]]の{{仮リンク|メルボルン・ドックランド|en|Melbourne Docklands}}に計画された{{仮リンク|グロロ・タワー|en|Grollo Tower}}{{convert|560|m|ft|0|abbr=on}}に匹敵する高さが予定されが、SOM によって計画の再検討が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url= http://www.theage.com.au/articles/2003/02/26/1046064104215.html|title= Grollo tower to go ahead, in Dubai|publisher=[[ジ・エイジ]] |location=Australia|first=Paul|last=Robinson|date=27 February 2003|accessdate=6 January 2010 | location=Melbourne}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。2006年までこの計画に加わっていたSOMの建築デザイナーである{{仮リンク|マーシャル・ストラバラ|en|Marshall Strabala}}は、2008年にブルジュ・ハリファは808mの高さに設計され直されたと述べた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Height Revealed&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.arabianbusiness.com/540205-secret-of-burj-dubai-height-revealed|title=Architect reveals Burj Dubai height|publisher=アラビアン・ビジネス|date=3 December 2008|accessdate=3 December 2008}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 建設 ==&lt;br /&gt;
[[File:Burj Dubai Evolution.ogv|right|thumb|建設の進め方を解説するアニメーション|thumbtime=0:23]]&lt;br /&gt;
[[File:Burj dubai aerial closeup.jpg|thumb|2008年3月に空撮された建設中のブルジュ・ハリファ]]&lt;br /&gt;
建設は、韓国のサムソン物産が[[ベルギー]]の[[:en:Besix|Besix]]社、UAEのArabtec社とジョイントベンチャーを組んで担当した。建設契約において、[[:en:Turner Construction Company|Turner]]社がプロジェクトの管理を担当した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.turnerconstruction.com/international/content.asp?d=3457&amp;amp;p=2372|title=Turner International Projects&amp;amp;nbsp;– Burj Dubai|publisher=[[:en:Turner Construction|Turner Construction]]|accessdate=23 March 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。基礎は鉄筋コンクリート製である。[[プツマイスター]]社はこの建設のために超高圧コンクリートポンプ車 (BSA 14000 SHP-D) を開発した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Putzmeister&amp;quot;/&amp;gt;。コンクリートは45000m&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;以上、[[鉄筋]]を含めると110000t以上の重量となるコンクリートから直径1.5m、長さ43mのパイルが192本造られ、50m以上の深さに埋められた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emporis&amp;quot; /&amp;gt;。筐体には330000m&amp;lt;sup&amp;gt;3&amp;lt;/sup&amp;gt;のコンクリートと55000tの鉄筋が使われ、工数は2200万（人・時）にのぼった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Record High&amp;quot; /&amp;gt;。基礎に使われたコンクリートは高密度かつ低透過性ものである。基盤の下には{{仮リンク|カソード式防食|en|cathodic protection}}が施され、地下水が含有する腐食性化学物質による悪影響を最小限にしている&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot; /&amp;gt;。2008年5月、プツマイスター製ポンプは地上{{convert|606|m|ft|0|abbr=on}}の156階までコンクリートを汲み上げる世界記録を達成した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Putzmeister&amp;quot;/&amp;gt;。組み立てには吊り上げ荷重25tの[[タワークレーン]]が3台が、最上階に至るまで使われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|last=Croucher |first=Martin |title=Myth of ‘Babu Sassi’ Remains After Burj Cranes Come Down |url=http://www.khaleejtimes.com/displayarticle.asp?xfile=data/theuae/2009/November/theuae_November338.xml&amp;amp;section=theuae&amp;amp;col= |accessdate=3 June 2011 |newspaper=[[:en:Khaleej Times| Khaleej Times]] |date=11 November 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建設は2004年9月21日に始まり、外貌は2009年10月1日に完成した。オープンは2010年1月4日に行われた&amp;lt;ref name=&amp;quot;opening&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://gulfnews.com/business/property/uae/official-opening-of-iconic-burj-dubai-announced-1.523471|title=Official Opening of Iconic Burj Dubai Announced|publisher=Gulfnews|date=4 November 2009|accessdate=4 November 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;news.bbc.co.uk&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/8439618.stm|title=World's tallest building opens in Dubai |date=4 January 2010|publisher=[[BBC]] News |accessdate=4 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2009年3月、建設プロジェクト議長の[[エマール・プロパティーズ]]社{{仮リンク|ムハンマド・アル＝アッバール|en|Mohamed Ali Alabbar}}は、ブルジュ・ハリファの事務所スペースの価格が4,000USドル/ft（43,000USドル/m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;）に達し、[[アルマーニ]]が販売する住居スペースは3,500USドル/ft（37,500USドル/ m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;）になった事を発表した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://zawya.com/story.cfm/sidZAWYA20080305042540|title=Burj Dubai offices to top US$4,000 per sq ft|publisher=Zawya|date=5 March 2008|accessdate=23 March 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。彼は、プロジェクト全体の費用を約15億USドルと見積もった&amp;lt;ref name=&amp;quot;USAtoday&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://content.usatoday.com/communities/ondeadline/post/2010/01/dubai-opens-world-tallest-building/1|title=Dubai opens world's tallest building|date=2 January 2010|publisher=[[USA Today]]|accessdate=4 January 2010|location=[[ドバイ]]|first=Douglas|last=Stanglin}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 建設の遅れ ===&lt;br /&gt;
2008年6月9日エマール・プロパティーズ社は、ブルジュ・ハリファの建設がアップグレードを理由とした遅延状態にあり、2009年9月にならなければ完成しないと発表した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emaar20080617&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.emaar.com/index.aspx?page=press-release-details&amp;amp;id=137|title=Emaar increases height of Burj Dubai; completion in September 2009|publisher=エマール・プロパティーズ|date=17 June 2008|accessdate=17 October 2008}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。広報担当者が言うには、「贅沢品まで含めた完成は2004年とされていましたが、これは初期の構想によるものである。現在はアップグレードされた完成に向かっている。居住区のデザインは美しくより魅力的かつより機能的に高められました」述べた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://archive.gulfnews.com/articles/08/06/09/10219878.html|title=Burj Dubai completion delayed by another eight to nine months|last=Das Augustine|first=Babu|publisher={{仮リンク|ガルフニュース|en|Gulf News}}|date=9 June 2008|accessdate=21 June 2008}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。そして完成日を2009年12月2日に延期される発表が行われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.homesoverseas.co.uk/news/Burj_Dubai_opening_date_announced/12072-1002|title=Burj Dubai opening date announced|publisher=Homes Overseas|date=31 July 2009|accessdate=1 August 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし結局はさらに1ヶ月以上遅れ、ブルジュ・ハリファは2010年1月4日にオープンした&amp;lt;ref name=&amp;quot;opening&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;news.bbc.co.uk&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 労働争議 ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは、主に南アジアからの労働者によって建設された&amp;lt;ref name=&amp;quot;Riot&amp;quot;&amp;gt;{{cite news |url=http://www.guardian.co.uk/world/2006/mar/23/brianwhitaker.mainsection|title=Riot by migrant workers halts construction of Dubai skyscraper|last=Whitaker|first=Brian|publisher=The Guardian |location=UK |date=23 March 2006|accessdate=25 March 2006 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://beta.thehindu.com/news/international/article74907.ece|title=Burj Dubai opens tomorrow, final height still a secret! |date=3 January 2010|publisher=[[:en:The Hindu|The Hindu]] |location=India|accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;  2008年6月17日時点で、建設現場には7,500人の熟練労働者が働いていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emaar20080617&amp;quot; /&amp;gt;。その賃金は、熟練の[[大工]]で日給4.34[[スターリング・ポンド| UKポンド]]、一般労働者で2.84UKポンドだった&amp;lt;ref name=&amp;quot;Riot&amp;quot; /&amp;gt;。[[BBC]]の調査と[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]の報告によると、労働者の住居は酷いありさまで、賃金不払いや雇い主による[[パスポート]]の差押さえなどがあり、劣悪な環境で仕事をしなければならなかった&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |publisher=Migrant-Rights.org |url= http://www.migrant-rights.org/2010/01/04/behind-the-glamorous-facade-of-the-burj-khalifa/ |title= Behind the Glamorous Facade of the Burj Khalifa |date= 4 January 2010 |accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。建設中の事故死は1名のみと発表されているが&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://gulfnews.com/business/property/keeping-the-burj-dubai-site-safe-for-workers-1.561805 |title=Keeping the Burj Dubai site safe for workers |publisher=gulfnews |date=4 January 2010 |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、ヒューマン・ライツ・ウォッチによるとUAEによる労働災害や死亡者の報告は「とても不充分な記録」だと言う&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |publisher=ヒューマン・ライツ・ウォッチ|url= http://www.hrw.org/en/node/11123/section/6 |title= Building Towers, Cheating Workers Section V. |date= 11 November 2006 |accessdate=26 July 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2006年3月21日、約2,500人の労働者が、シフトが終わってもバスが到着していない事を原因に不満を爆発させ、抗議活動の上に車や事務所、コンピューターや建設資材などを破壊した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Riot&amp;quot; /&amp;gt;。ドバイ内務省職員によると、この損害は50万UKポンドに及ぶという&amp;lt;ref name=&amp;quot;Riot&amp;quot; /&amp;gt;。暴動を引き起こしたほとんどの労働者は翌日には戻ってきたが、彼らは就業を拒否した&amp;lt;ref name=&amp;quot;Riot&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== デザインと設備 ==&lt;br /&gt;
[[File:Comparisonfinal001fx7.png|thumb|right|横断面の図]]&lt;br /&gt;
設計は、シカゴの[[ウィリス・タワー]]や[[ニューヨーク]]の[[1 ワールドトレードセンター]]で実績を持つSOM が担当した。ブルジュ・ハリファは{{仮リンク|ファズラー・ラフマーン・カーン|en|Fazlur Rahman Khan}}が開発した、束ねられた{{仮リンク|チューブ構造|en|tube (structure)}}が採用された&amp;lt;ref name=&amp;quot;constructionweekonline.com&amp;quot;&amp;gt;http://www.constructionweekonline.com/article-9180-top-10-worlds-tallest-steel-buildings/1/print/&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;http://www.allaboutskyscrapers.com/property/burj-khalifa-2&amp;lt;/ref&amp;gt;。このシステムによって、使用する鋼材はエンパイア・ステート・ビルディングの半分に抑えられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;constructionweekonline.com&amp;quot;/&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|last=Bayley|first=Stephen|title=Burj Dubai: The new pinnacle of vanity|url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/dubai/6934603/Burj-Dubai-The-new-pinnacle-of-vanity.html|newspaper=デイリー・テレグラフ|date=5 January 2010|location=London}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。設計には、[[フランク・ロイド・ライト]]が考えた1マイル高のビル[[ザ・イリノイ]]計画の構想が影響を及ぼしている。デザインチームのメンバーだったSOM の建築家マーシャル・ストラバラによると、ブルジュ・ハリファのデザインでは、ソウルの{{仮リンク|タワーパレス3 G棟|en|Tower Palace Three Tower}}73階建て住居がベースになったという。計画の当初、ブルジュ・ハリファは全室が居住用で計画されていた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Height Revealed&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[File:Hymenocallis caroliniana NRCS-1.jpg|right|thumb|{{仮リンク|ヒメノカリス|en|Hymenocallis}}の花。6本の放射状に伸びる花びらを持ち、ここからデザインのイメージが取られた。]]&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは、[[イスラーム建築]]で表現される柄からデザインされた&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;。SOMの構造エンジニアであるビル・ベーカーによると、デザインの際に特定の文化的や歴史的な要素が取り込まれた。翼形状が外側に伸びるY字型の断面は、景観や自然光が差込むのに適し、住居やホテル用途には理想的である&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;。主要設計技師のエイドリアン・スミスは、ビルが持つ3つの切り欠きは{{仮リンク|ヒメノカリス|en|Hymenocallis}}の花から連想したという&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.burjofdubai.com/|title=Burj Dubai Design Based on A Native Flower: Fact or Fiction?|publisher=Landmark Properties|accessdate=31 December 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ビルは中央のコアを取り囲む3つ構成部分で成り立っている。沙漠の地表から上に行くに従って、各構成部分は敷地境界線から後退（{{仮リンク|セットバック|en|setback (architecture)}}）して螺旋形状を取りながら、上階の床面積がより小さくなってゆく。テラスは27箇所にある。先端になると中央のコアが露出し、その上に尖塔が設置されている。Y字型の床は、[[ペルシア湾]]の展望が最も良く見えるようデザインされている。上空から見下ろしたり、地表から見上げると、建物はイスラーム建築のオニオンドームを連想させるように見える。尖塔の先の揺れは、幅{{convert|1.5|m|ft|1|abbr=on}}に及ぶ&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://gulfnews.com/news/gulf/uae/housing-property/burj-dubai-is-the-height-of-success-1.55605|title= Burj Dubai is the height of success|last=Saberi|first=Mahmood|date=19 April 2008|publisher=ガルフニュース|accessdate=31 December 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
空前の高さを持つビルを支持するため、六角形のコア部が3方向から構成部分によって補強されるY字型形状を持たせた「バットレスト・コア」という新規構造が開発された。この構造によって建物は自ら外側から支え、ねじれを防ぐことを可能とする&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
尖塔は4000t以上の重さを持つ構造用鋼鉄で作られている。中央の頂上パイプは350tあり、建物の中央から{{仮リンク|ストラット・ジャッキ|en|strand jack}}で{{convert|200|m|ft|abbr=on}}の高さまで吊り上げられた。この尖塔部分は通信装置を収容している&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url= http://www.burjkhalifa.ae/the-tower/structure.aspx |title=Structural Elements&amp;amp;nbsp;– Elevator, Spire, and More|publisher=BurjDubai.com|accessdate=20 December 2012}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外構は、{{convert|142000|m2|sqft|-3|abbr=on}}にもおよぶ反射ガラスと、縦置き管状ファンを備えたアルミニウムおよび[[ステンレス鋼]]製の{{仮リンク|窓小間|en|spandrel}}パネルが用いられた。これらは、ドバイの極端に暑い夏季の気温に耐えられるように設計されている。26,000枚以上のガラス板は、中国から300人以上の専門家によって据え付けられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
巨大ビルの質量から来る圧力に耐えられるよう、コンクリートは鉄筋コンクリート構造に特化した混合がなされたものが使われ、バッチ毎に性能評価が実施された。クリープ評価やシュリンクテストは[[:en:CTLGroup|CTL]]社が担当した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.ctlgroup.com/ClientsAndProjects/Project/Detail/220 |title=Clients &amp;amp; Projects – Burj Khalifa, the Tallest Building in the World |publisher=CTLGroup |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== フロア ===&lt;br /&gt;
以下は、各階の明細である&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://business.maktoob.com/20090000412054/Inside_the_Burj_Dubai/Article.htm|title=Inside the Burj Dubai|publisher=[[:en:Maktoob|Maktoob News]]|date=28 December 2009|accessdate=10 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
! 階&lt;br /&gt;
! colspan=&amp;quot;2&amp;quot;|用途&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 160以上&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
| rowspan=&amp;quot;25&amp;quot;|&amp;lt;!-- Note: The till values are incremented by 1 to avoid gaps. --&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;timeline&amp;gt;&lt;br /&gt;
ImageSize  = width:64 height:640&lt;br /&gt;
PlotArea   = left:32 right:0 top:0 bottom:0&lt;br /&gt;
DateFormat = yyyy&lt;br /&gt;
Period     = from:-3 till:162&lt;br /&gt;
TimeAxis   = orientation:vertical&lt;br /&gt;
ScaleMajor = unit:year increment:5 start:0  gridcolor:black&lt;br /&gt;
ScaleMinor = unit:year increment:1 start:-3 gridcolor:tan2&lt;br /&gt;
Colors =&lt;br /&gt;
 id:me value:rgb(0,0,0)&lt;br /&gt;
 id:at value:rgb(1,0,0)&lt;br /&gt;
 id:cb value:rgb(1,1,0)&lt;br /&gt;
 id:re value:rgb(0,1,0)&lt;br /&gt;
 id:ho value:rgb(0,1,1)&lt;br /&gt;
 id:co value:rgb(0,0,1)&lt;br /&gt;
 id:ob value:rgb(1,0,1)&lt;br /&gt;
 id:sl value:rgb(1,1,1)&lt;br /&gt;
BarData =&lt;br /&gt;
 bar:level&lt;br /&gt;
PlotData =&lt;br /&gt;
 width:28&lt;br /&gt;
 bar:level from:160   till:end color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:156   till:160 color:cb&lt;br /&gt;
 bar:level from:155   till:156 color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:139   till:155 color:co&lt;br /&gt;
 bar:level from:136   till:139 color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:125   till:136 color:co&lt;br /&gt;
 bar:level from:124   till:125 color:ob&lt;br /&gt;
 bar:level from:123   till:124 color:sl&lt;br /&gt;
 bar:level from:122   till:123 color:at&lt;br /&gt;
 bar:level from:111   till:122 color:co&lt;br /&gt;
 bar:level from:109   till:111 color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:77    till:109 color:re&lt;br /&gt;
 bar:level from:76    till:77  color:sl&lt;br /&gt;
 bar:level from:73    till:76  color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:44    till:73  color:re&lt;br /&gt;
 bar:level from:43    till:44  color:sl&lt;br /&gt;
 bar:level from:40    till:43  color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:38    till:40  color:ho&lt;br /&gt;
 bar:level from:19    till:38  color:re&lt;br /&gt;
 bar:level from:17    till:19  color:me&lt;br /&gt;
 bar:level from:9     till:17  color:re&lt;br /&gt;
 bar:level from:-1    till:9   color:ho&lt;br /&gt;
 bar:level from:start till:-1  color:me&lt;br /&gt;
&amp;lt;/timeline&amp;gt;&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 156–159&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffffcc&amp;quot;|展望台など&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 155&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 139–154&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccccff&amp;quot;|オフィス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 136–138&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 125–135&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccccff&amp;quot;|オフィス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 124&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffccff&amp;quot;|屋外展望台「At the Top」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 123&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffffff&amp;quot;|スカイロビー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 122&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffcccc&amp;quot;|レストラン「At.mosphere」&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 111–121&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccccff&amp;quot;|オフィス&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 109–110&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 77–108&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffcc&amp;quot;|居住区&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 76&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffffff&amp;quot;|スカイロビー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 73–75&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 44–72&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffcc&amp;quot;|居住区&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 43&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ffffff&amp;quot;|スカイロビー&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 40–42&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|機械室&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 38–39&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffff&amp;quot;|[[アルマーニ|アルマーニ・ホテル]]（スイート）&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 19–37&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffcc&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 17–18&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 9–16&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffcc&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| 1–8&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffff&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| Ground&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffff&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| Concourse&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#ccffff&amp;quot;|アルマーニ・ホテル&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
| B1–B2&lt;br /&gt;
| bgcolor=&amp;quot;#cccccc&amp;quot;|駐車場、機械室&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
304室のホテルはその1/4が[[アルマーニ]]の運営で、15階から30階を占める&amp;lt;ref name=&amp;quot;CTBUHdb&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.hotelmanagement-network.com/projects/Armani/ |title=Armani Hotel Burj Dubai, United Arab Emirates |publisher=hotelmanagement-network.com |accessdate=11 April 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。オープニングは2010年3月18日になったが&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.eyeofdubai.com/v1/news/newsdetail-37992.htm |title=Worlds first Armani Hotel to open on 18 March 2010 in Dubai |date=4 January 2010 |publisher=EyeOfDubai.com |accessdate=8 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.arabianbusiness.com/577810-burj-dubais-armani-hotel-to-open-on-mar-18 |title=Burj Dubai's Armani hotel to open on Mar 18 |last=Sambidge |first=Andy |date=4 January 2010 |publisher=アラビアン・ビジネス|accessdate=8 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、諸事情により営業は同年4月27日にずれ込んだ&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.jpost.com/MiddleEast/Article.aspx?id=174074 |title=Armani hotel opens in Dubai's Khalifa tower |date=27 April 2010 |publisher=[[エルサレム・ポスト]] |accessdate=27 April 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。オフィススペースは3月から提供された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.eyeofdubai.com/v1/news/newsdetail-37982.htm |title=Burj Dubai: Fact Sheet |publisher=Eyeofdubai.com |accessdate=11 May 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
43階と76階の{{仮リンク|スカイロビー|en|Sky lobby}}はプールを備えている&amp;lt;ref name=&amp;quot;residents&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.business-standard.com/india/news/burj-dubai-to-welcome-residents-in-feb-2010/82037/on|title=Burj Dubai to welcome residents in Feb 2010|date=1 January 2010|publisher=ビジネス・スタンダード|accessdate=9 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。44階から72階と77階から108階までは個人用住居が占め、デベロッパーによると募集開始から8時間で予約が埋まったという。ホテルと住居以外の場所はほとんどがオフィスであるが、122階から124階にはレストラン、スカイロビー、屋内外の展望台がある。入居は2010年2月から開始と計画された&amp;lt;ref name=&amp;quot;residents&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.dubaicityguide.com/site/news/news-details.asp?newsid=27511|title=Burj Dubai To Welcome First Residents From February 2010 Onwards|date=31 December 2009|publisher=DubaiCityGuide|accessdate=9 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは、常時35,000人が滞在できるよう考えられた&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot;/&amp;gt;。エレベーターは57基、エスカレーターは8基設置された&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot; /&amp;gt;。エレベーターは1基当り12-14人が搭乗可能で、最大昇降速度は{{convert|10|m/s|abbr=on}}&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;。当初、世界初の3重のデッキを備えたエレベーターが考えられたが、最終的にダブルデッキに落ち着いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emporis&amp;quot;/&amp;gt;。内部には、展望台へ向かう利用者を退屈させないためLCDディスプレイが備え付けられている&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|author=CW Staff |url=http://www.constructionweekonline.com/article-7400-how-the-burj-was-built/5/ |title=How the Burj was built |publisher=ConstructionWeekOnline.com |accessdate=11 May 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。階段は、1階から160階まであり、段数は2,909である&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.constructionweekonline.com/article-7343-top-10-burj-khalifa-facts-part-3/2/|title=Top 10 Burj Khalifa facts: Part 3|publisher=ContructionWeekOnline.com|accessdate=8 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建物のグラフィック・デザインはドバイに本拠を置く[[:en:Brash Brands|Brash Brands]]社が制作した。同社は他にも、国際展開のイベントや通信、ビジターセンターの企画なども行った&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=&lt;br /&gt;
http://brashbrands.com/#/work/Burj_Dubai/|title=Burj Dubai Design work at Brash Brands|publisher=brashbrands.com|accessdate=11 June 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://ida.us/winners/zoom2.php?eid=9-2758-08&amp;amp;uid=#|title=Burj Dubai Armani Residences Roadshow Brands|publisher=ida.us|accessdate=11 June 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 展望台デッキ ===&lt;br /&gt;
[[File:ViewFinancialCenterFromBurjKhalifaMarch2012.jpg|thumb|Left|展望台デッキから眺めた北方向の風景]] &lt;br /&gt;
[[File:View from burj khalifa6934713247 db12c311cb o.jpg|thumb|展望台デッキからの眺め]]&lt;br /&gt;
屋外展望台は「At the Top」と名づけられ、2010年1月5日にオープンした&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.bayut.com/Property_News/uae_property_news/burj_dubai_observation_deck_opens_t-650.html|title=Burj Dubai Observation Deck Opens to The Public On Jan 5|date=4 January 2010|publisher=Bayut.com|accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;これは{{convert|452|m|ft|abbr=on}}にあり、世界で3番目、屋外にあるものとしては2番目に高い展望台である&amp;lt;ref name=&amp;quot;GZI&amp;quot;/&amp;gt;。この展望台デッキには、Behold Telescope という[[拡張現実]]機器が備わっている。これは[[モントリオール]]の[[:en:gsmprjct°|gsmprjct°]]社が開発したもので、現在の全周風景を眺めることや、異なる時間や天候下での風景を見ることもできる&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://lejournaldemontreal.canoe.ca/actualites/national/archives/2010/01/20100104-163209.html |title=Une firme québécoise dans la plus haute tour du monde |date=4 January 2010 |language=French |newspaper=[[:en:Journal de Montréal|Journal de Montréal]] |accessdate=19 August 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。混雑を防ぐため、日時指定したチケットは75%の割引で販売されている&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.burjkhalifa.ae/observation-deck/ticket-information.aspx |title='At The Top' Observation Deck Ticket Information |publisher=エマール・プロパティーズ |accessdate=9 February 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
電源の故障によってエレベーターが途中で止まり45分間にわたり客が閉じ込められたトラブルの後、2010年2月8日から展望台の公開が一時中止された&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.businessweek.com/news/2010-02-08/emaar-says-burj-khalifa-observation-deck-closed-for-maintenance.html |title=Emaar Says Burj Khalifa Observation Deck Closed for Maintenance |date=8 February 2010 |publisher=[[ブルームバーグ (企業)|ブルームバーグ]] |accessdate=9 February 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/middle_east/article7021145.ece |title=Terrifying lift ordeal at Burj Khalifa tower, the world’s tallest building |date=10 February 2010 |publisher=[[タイムズ]] |location=UK |accessdate=10 February 2010 |first=Hugh | last=Tomlinson }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。2月14日の[[バレンタインデー]]に間に合わせて再開されるという噂もあったが&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.businessweek.com/news/2010-02-10/dubai-s-burj-khalifa-to-reopen-feb-14-after-viewing-deck-shuts.html |title=Burj Khalifa to Reopen Feb. 14 |date=10 February 2010 |publisher=Bloomberg BusinessWeek   |accessdate=10 February 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、結局閉鎖状態は同年4月4日まで続いた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.guardian.co.uk/world/2010/apr/05/burj-khalifa-reopens-observation |title=World's tallest building, Burj Khalifa, reopens observation deck |date=5 April 2010 |publisher=[[ガーディアン]] |location=UK |accessdate=6 April 2010 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://gulfnews.com/news/gulf/uae/general/burj-khalifa-observation-deck-reopens-1.607748 |title=Burj Khalifa observation deck reopens |date=5 April 2010 |publisher=GulfNews.com |accessdate=6 April 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://blogs.suntimes.com/travel/2010/04/machu_picchu_and_burj_khalifa.html |title=Machu Picchu and Burj Khalifa back in biz |date=5 April 2010 |publisher=[[シカゴ・サンタイムズ]] |accessdate=5 April 2010 | first=Lori | last=Rackl}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 水供給設備 ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファに供給される水道水は1日に平均946000Lにのぼり、長さ{{convert|100|km|mi|abbr=on}}の水道管が通されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Wharton&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://knowledge.wharton.upenn.edu/arabic/article.cfm?articleid=2437 |title=Escaping the Dubai Downturn: Voltas’s Latest Engineering Feat |date=20 April 2010 |publisher=Wharton, [[ペンシルベニア大学]]|accessdate=21 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。これの他に、{{convert|213|km|mi|abbr=on}}の消火用水供給ラインと{{convert|34|km|mi|abbr=on}}の空調用冷却水ラインがある&amp;lt;ref name=&amp;quot;Wharton&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 空調設備===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファには、外気よりも冷えた清浄な空気が供給されるシステムがある&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |url=http://www.timeoutdubai.com/knowledge/features/12706-khalifa-creators |title=Air Conditioning in Burj Khalifa |publisher=Timeoutdubai.com |accessdate=17 April 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。最も稼働が高まる時期には、1日当り13000tの製氷に匹敵する能力を発揮する&amp;lt;ref name=&amp;quot;Wharton&amp;quot; /&amp;gt;。システムに生じた[[結露]]水は集められ、地下駐車場のタンクに一時貯蔵される。このシステムから、年間68000000Lの水が&amp;lt;ref name=&amp;quot;park-ab&amp;quot; /&amp;gt;周囲の公園を潅水する用水として利用される&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 防災設備 ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは高い機密性を備えた数箇所に分けられる。空調機つきの退避階が35階毎にあり、火災発生の際には階段を歩いてここへ避難する&amp;lt;ref name=&amp;quot;structure&amp;quot; /&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.building.co.uk/story.asp?storycode=3123781|title=Burj Dubai: Top of the world|last=Puckett|first=Katie|date=3 October 2008|publisher=[[:en:Building (magazine)|Building]]|accessdate=31 December 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 緑地 ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファの周囲には面積11haもの公園が囲うようにある。この設計は造園家集団のSWA Group が担当した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.emaar.com/index.aspx?page=press-release-details&amp;amp;id=994 |title=An 11-hectare green oasis envelops the foot of Burj Dubai |date=20 December 2009 |publisher=エマール・プロパティーズ |accessdate=20 March 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。ここには[[ドバイ・ファウンテン]]と同じく[[:en:WET Design|WET designers]]社が設計した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.emaar.com/index.aspx?page=press-release-details&amp;amp;id=970|title=An 11-hectare green oasis envelops the foot of Burj Dubai|date=20 December 2009|publisher=エマール・プロパティーズ|accessdate=10 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;水をあしらった6つの施設、庭園、ヤシの街路樹や花で飾られた木などがある&amp;lt;ref name=&amp;quot;park-ab&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.arabianbusiness.com/576615-11-hectare-park-unveiled-at-burj-dubai-site|title=11-hectare park unveiled at Burj Dubai site|last=Baxter|first=Elsa|date=20 December 2009|publisher=アラビアン・ビジネス|accessdate=10 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 窓の清掃 ===&lt;br /&gt;
総数24,348、面積{{convert|120000|m2|ft2|-4|abbr=on}}に上る窓ガラス&amp;lt;ref name=&amp;quot;telegraphwindowcleaning&amp;quot;/&amp;gt;の清掃は、40, 73, 109階の屋外3箇所に設けられた水平方向のレールと縦の動きに使う頑丈なワイヤーで{{convert|1500|kg|lb|abbr=on}}のゴンドラを動かしながら行う。109階以上と27階以下の箇所は{{仮リンク|つり柱|en|davit}}から下げる一般的なかごを使う。しかし尖塔の最上部は、高さや強風をものともせずロープにぶら下がって作業をする専門家を雇わなければならない&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://gulfnews.com/news/gulf/uae/general/a-tall-order-burj-dubai-all-set-to-come-clean-1.546504|title=A tall order: Burj Dubai all set to come clean|date=25 August 2009|publisher=ガルフ・ニュース|accessdate=7 December 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。特にトラブルがなくとも、ビルの外面すべての清掃には36人を投入して3-4ヶ月かかる&amp;lt;ref name=&amp;quot;cleaning&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.theage.com.au/travel/so-you-think-your-windows-are-hard-to-keep-clean-20100104-lq5x.html|title=So you think your windows are hard to keep clean?|last=Dobbin|first=Marika|date=5 January 2010|publisher=The Age |location=Australia|accessdate=6 January 2010 | location=Melbourne}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
清掃用無人機械は27の段上とガラス尖塔部分に設置される。このシステムはオーストラリアのメルボルンで開発され、費用は800万オーストラリアドルかかった&amp;lt;ref name=&amp;quot;cleaning&amp;quot; /&amp;gt;。設置工事はオーストラリアの[[:en:Cox Gomyl|Cox Gomyl]]社が獲得した&amp;lt;ref name=&amp;quot;telegraphwindowcleaning&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/dubai/6936250/Burj-Khalifa-window-cleaners-to-spend-months-on-worlds-tallest-building.html|title=Burj Khalifa: window cleaners to spend months on world's tallest building|author=Malkin, Bonnie|publisher=デイリー・テレグラフ|accessdate=15 August 2011|location=London|date=5 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 開業 ==&lt;br /&gt;
=== セレモニー ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは2010年1月4日に開業した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.csmonitor.com/World/Global-News/2010/0105/World-s-tallest-building-What-s-it-worth-to-have-the-Dubai-tower-and-what-should-people-call-it|title=World's tallest building: What's it worth to have the Dubai tower&amp;amp;nbsp;– and what should people call it?|last=Huang|first=Carol|date=5 January 2010|publisher=[[クリスチャン・サイエンス・モニター]]|accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。オープニングの式典では10000発の花火が打ち上げられ、ビルは照明され、音と光と噴水で彩られた&amp;lt;ref name=&amp;quot;details revealed&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url= http://www.arabianbusiness.com/577720-burj-dubai-ceremony-details-revealed|title=Burj Dubai ceremony details revealed|first=Andy|last=Sambidge|publisher=アラビアン・ビジネス|date=3 January 201|accessdate=5 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。この照明はイギリスのデザイナー集団[[:en:Speirs and Major Associates|Speirs and Major Associates]]が担当した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/visual_arts/architecture_and_design/article7034748.ece|title=Designer's light touches far and wide|last=Devine|first=Rachel|date=21 February 2010|publisher=The Times |location=UK |accessdate=29 November 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
式典は、ドバイの歴史とブルジュ・ハリファの建築が進む様子を紹介する短編映画の上映で始まった。その後、音と光、水を花火の競演が続いた&amp;lt;ref name=&amp;quot;details revealed&amp;quot; /&amp;gt;。3部構成のショーは、最初に主に光と音を用いて沙漠の花と完成したビルを関連づけるテーマのもと[[ドバイ・ファウンテン]]の花火とコーディネートされて行われた。次に、300個のプロジェクターで演出された影とともにダイナミックな光を使い、高層ビルが建設される様子を表現したショー「Heart Beat」が展開した。最後には、空に引かれた線や筒がビルを白い光の後光でブルジュ・ハリファを包み、これが広がりながら光環となって尖塔に達する光景を見せた&amp;lt;ref name=&amp;quot;details revealed&amp;quot; /&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
式典の様子はブルジュ・パーク島に設置された大型スクリーンにライブで流され、さらにドバイ中心部にも複数のモニターを通じて中継された。世界中から数百ものメディアが押し寄せ、生中継を行った&amp;lt;ref name=&amp;quot;details revealed&amp;quot; /&amp;gt;。また、報道陣以外にも6,000人が招待された&amp;lt;ref name=&amp;quot;billions and billions&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://business.maktoob.com/20090000413858/Two_billion_to_watch_Burj_Dubai_opening/Article.htm|title=Two billion to watch Burj Dubai opening|publisher=Maktoob Business|date=3 January 2010|accessdate=5 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 入居率 ===&lt;br /&gt;
{{仮リンク|不動産バブル|en|Mohamed Ali Alabbar}}の渦中にあるドバイでは、ブルジュ・ハリファの入居率はオープニングから10ヶ月で40%に落ち込んだ&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.thenational.ae/business/property/burj-khalifa-rents-tumble-40|title=Burj Khalifa rents tumble 40%|publisher=ザ・ナショナル（アブダビ）|first=Brad|last=Reagan|date=14 October 2010|accessdate=6 November 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.arabianbusiness.com/armani-residences-defy-70-burj-khalifa-price-drop-357451.html|title=Armani Residences defy 70% Burj Khalifa price drop|publisher={{仮リンク|アラビアン・ビジネス|en|Arabian Business}}|first=Shane|last=McGinley|date=21 October 2010|accessdate=6 November 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。エマール社は、2012年10月までに80%の住居は埋まったと報告した&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|title=Emaar Reports 80% Occupancy Levels In Burj Khalifa|url=http://www.reidin.com/news/showNews/ae_reidin-reidinmediawatch-20120706-1/emaar-reports-80-occupancy-levels-in-burj-khalifa.html|publisher=REIDIN.com|accessdate=1 October 2012}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いくつかの記録が喧伝されている状況とは裏腹に、借り手が思ったようにつかず、オーナーたちは家賃提示額をどんどん下げざるを得なくなっている。それでも2010年10月の段階で、900戸のマンションのうち825戸が空室のままであり、「高さ600メートルの[[幽霊屋敷]]」とも揶揄されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://megalodon.jp/2010-1025-1843-31/www.newsweekjapan.jp/foreignpolicy/2010/10/post-179.php ドバイ、高さ６００メートルの幽霊屋敷]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ニューイヤー・イベント ===&lt;br /&gt;
2010年12月31日、レーザーや光を伴った花火がブルジュ・ハリファを彩った。これは新年を祝う花火としては最も高い打ち上げ花火となった&amp;lt;ref name=&amp;quot;gulfnews.com&amp;quot;/&amp;gt;。そして2011年の新年には「正月の祭り」をテーマに、200以上の国籍を持つ人が住むドバイの精神に捧げる花火が空を舞った。そして同時に、ブルジュ・ハリファ1周年も祝われた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.uaeinteract.com/docs/Burj_Khalifa_to_ring_in_2011/43851.htm |title=Burj Khalifa to Ring in 2011 |publisher=Uaeinteract.com |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ダウンタウン・ドバイ ==&lt;br /&gt;
ドバイの幹線[[シェイク・ザーイド・ロード]]沿いに、[[:en:Downtown Dubai|ダウンタウン・ドバイ]] と呼ばれる超高層ビル街が建設されている。その中心がこのブルジュ・ハリファである。ブルジュ・ハリファの周囲には、世界最大の[[ショッピングモール]]である[[ドバイ・モール]]や、既に完成している[[アドレス・ダウンタウン・ドバイ]]（棟高306 m&amp;lt;!--尖塔高数値見当たらず--&amp;gt;、63階建て）など超高層ビルが何十棟も建設中である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、[[2009年]]には、ダウンタウン・ドバイ地区のブルジュ・ハリファの正面に世界最大の[[噴水]]、[[ドバイ・ファウンテン]]が設置された。幅275 mの壮大な噴水で、垂直噴水能力は高さ150 mに達する。なお、世界一はアメリカ・[[イリノイ州]]の[[イーストセントルイス]]にある[[ゲートウェイ・ガイザー]] ([[:en:Gateway Geyser|Gateway Geyser]]) の192 mである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 記録 ==&lt;br /&gt;
以下のカテゴリについて従来はそれぞれ異なる建造物が世界一であったが、ブルジュ・ハリファはことごとく記録を塗り替え、全てのカテゴリで世界一である。もちろん、[[ギネス世界記録]]に認定されている。&lt;br /&gt;
[[ファイル:BurjKhalifaHeight.svg|thumb|他の建築物との比較&amp;lt;br /&amp;gt;左から順に、[[ギザのピラミッド]]、[[エッフェル塔]]、[[エンパイア・ステート・ビルディング|エンパイア・ステート・ビル]]、[[ペトロナスツインタワー|ペトロナス・ツインタワー]]、[[台北101]]、旧[[ワールドトレードセンター (ニューヨーク)|ワールドトレードセンター・ビル]]（ツインタワー）、[[ウィリス・タワー]]、[[CNタワー]]、[[KVLY-TV塔]]、[[ワルシャワラジオ塔|ワルシャワ・ラジオ塔]]、'''ブルジュ・ハリファ''']]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* 現存する最も高い建設物：{{convert|829.8|m|ft|0|abbr=on}}（前記録は[[KVLY-TV塔]]– {{convert|628.8|m|ft|0|abbr=on}}）&lt;br /&gt;
* かつて存在したものを含む最も高い建設物：{{convert|829.8|m|ft|0|abbr=on}}（前記録は[[ワルシャワラジオ塔]]&amp;amp;nbsp;– {{convert|646.38|m|ft|0|abbr=on}}）&lt;br /&gt;
* 自立した最も高い建設物：{{convert|829.8|m|ft|0|abbr=on}}（前記録は[[CNタワー]]&amp;amp;nbsp;– {{convert|553.3|m|ft|0|abbr=on}}）&lt;br /&gt;
* 最も高い超高層ビル（尖塔までの高さ）: {{convert|829.8|m|ft|0|abbr=on}}（前記録は[[台北101]]&amp;amp;nbsp;– {{convert|509.2|m|ft|0|abbr=on}}）&lt;br /&gt;
* アンテナまでを含む最も高い超高層ビル：{{convert|829.8|m|ft|0|abbr=on}}（前記録は[[ウィリス・タワー]]&amp;amp;nbsp;– {{convert|527|m|ft|0|abbr=on}}）&lt;br /&gt;
* 最も[[階]]数が多い建物：163階（前記録は[[ウィリス・タワー]]&amp;amp;nbsp;– 108）&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.emporis.com/application/?nav=building&amp;amp;lng=3&amp;amp;id=117064|title=Willis Tower|publisher=[[Emporis]]|accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 最も高い居住スペースがある建物&amp;lt;ref name=&amp;quot;constweek&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://www.constructionweekonline.com/article-9044-top-10-construction-world-record-holders/2/|title=Burj Khalifa|publisher=Construcitonweekonline.com|accessdate=3 August 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 最も高いところにまで設置された[[エレベーター]]がある建物（ビル最上部のロッド内部に設置されている）&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://gulfnews.com/business/property/burj-khalifa-towering-challenge-for-builders-1.561802 |title=Burj Khalifa: Towering challenge for builders |date=4 January 2010 |publisher=GulfNews.com |accessdate=10 February 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;tbitw&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://www.tallest-building-in-the-world.com/2008/08/19/under-construction/some-interesting-facts-on-the-burj-dubai-the-tallest-building-in-the-world-under-construction.htm|title=Some interesting facts on the Burj Dubai|date=19 August 2008|publisher=The Tallest Buildings in the World|accessdate=1 August 2009}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 昇降行程世界最長のエレベーター&amp;lt;ref name=&amp;quot;gn&amp;quot; /&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 世界最高地点に据えられた垂直型[[コンクリートポンプ車|コンクリートポンプ]]：{{convert|606|m|ft|0|abbr=on}}&amp;lt;ref name=&amp;quot;Putzmeister&amp;quot;&amp;gt;[http://www.forconstructionpros.com/article/10293208/burj-khalifa-conquering-the-worlds-tallest-building Burj Khalifa -- Conquering the World's Tallest Building]&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 住居を持つ建物として初めて世界一高い建造物の地位を占めた&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emporis&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://www.emporis.com/en/wm/bu/?id=burjdubai-dubai-unitedarabemirates|title=Burj Dubai, Dubai, at Emporis.com|publisher={{仮リンク|エムポリス|en|Emporis}}|accessdate=1 March 2007}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 世界で2番目に高い[[展望台]]：123階、{{convert|452|m|ft|0|abbr=on}}&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|author=Emporis GmbH |url=http://www.emporis.com/application/?nav=building&amp;amp;lng=3&amp;amp;id=182168 |title=Burj Khalifa, Dubai, United Arab Emirates |publisher=Emporis.com |accessdate=11 May 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.burjkhalifa.ae/language/en-us/observation-deck.aspx|title='At The Top'&amp;amp;nbsp;– Burj Dubai's Observation Deck|publisher=BurjDubai.com|accessdate=6 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt; 営業開始当時は屋外展望台として世界一の高さにあったが、 [[広州塔]]が最上部に設置した「Cloud Top」に抜かれた&amp;lt;ref name=&amp;quot;GZI&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://english.gz.gov.cn/publicfiles/business/htmlfiles/gzgoven/s4171/201112/883732.html |title=Cloud Top 488 on Canton Tower Opened to public |publisher=The People`s Government of Guangzhou Municipality |date=19 December 2011 |accessdate=23 January 2012}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 最も高い位置に[[ナイトクラブ]]を備える: 144階&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.activeboard.com/forum.spark?aBID=132294&amp;amp;p=3&amp;amp;topicID=33244520|title=World highest nightclub in Burj Khalifa|publisher=BurjDubai.com|accessdate=20 November 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 最も高い位置に[[レストラン]]（店名「At.mosphere」）を備える: 122階{{convert|442|m|ft|0|abbr=on}}（前記録はCNタワーの「360」、{{convert|350|m|ft|0|abbr=on}}）&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://www.emirates247.com/lifestyle/dubai-opens-world-s-highest-restaurant-2011-01-20-1.343732 |title=And the world’s highest restaurant is ready to serve |publisher=Emirates 24/7 |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web|url=http://foodiegossip.blogspot.com/2011/01/dubai-opens-worlds-highest-restaurant.html |title=Foodie Gossip: At.mosphere Bar &amp;amp; Grill opens in Dubai |publisher=Foodiegossip.blogspot.com |date=23 January 2011 |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 最も高い位置で[[新年]]を祝う[[花火]]が使われた&amp;lt;ref name=&amp;quot;gulfnews.com&amp;quot;&amp;gt;{{cite web|url=http://gulfnews.com/news/gulf/uae/general/jaw-dropping-fireworks-at-burj-khalifa-enthrall-thousands-1.739088 |title=Jaw-dropping Fireworks at Burj Khalifa Enthrall Thousands |publisher=Gulfnews.com |date=31 December 2010 |accessdate=29 May 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
* 世界で2番目に高い位置に[[プール]]を備える：76階&amp;lt;ref name=&amp;quot;Mosque and pool&amp;quot;&amp;gt;{{cite web |url= http://www.ndtv.com/news/world/dubais_skyscraper_has_worlds_highest_mosque.php |title= Dubai's skyscraper has world's highest Mosque |date= 5 January 2010 |author=Landon Thomas Jr |accessdate=5 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 高さ1位でなくなる日 ===&lt;br /&gt;
2010年時点で[[クウェート]]の首都・[[クウェート市|クウェートシティ]]の隣で進行中の人工副都心[[マディナ・アル＝ハリール]]地区に高さ1,001 mの[[ハイパービルディング]]である「[[ブルジュ・ムバラク・アル＝カビール]]」([[:en:Madinat al-Hareer#Construction of Mubarak al-Kabir Tower|Mubarak al-Kabir Tower]])&amp;lt;ref&amp;gt;タワーの名はクウェートの元の首長[[ムバラク・ビン・サバーハ＝アル・サバーハ]]にちなんでいる。&amp;lt;/ref&amp;gt;（[[2016年]]竣工予定）が計画されている&amp;lt;ref&amp;gt;[[ギズモード|GIZMODO JAPAN]][http://www.gizmodo.jp/2007/11/post_2638.html 「中東で流行の高層ビル背比べ大会（動画）」]&amp;lt;/ref&amp;gt;。また、ブルジュ・ハリファと同じアラブ首長国連邦のドバイでも、[[ナキール]]が高さ1,400 mの「[[アル・ブルジュ|ナキール・タワー]]」の建設に着手、さらに高さ2,400 mの「[[ドバイ・シティ・タワー]]」の建設も予定され、他にも[[サウジアラビア]]の[[ジッダ]]では高さ1,600 mの「[[キングダム・タワー]]」の建設計画があり、[[バーレーン]]の首都[[マナーマ]]でも高さ1,022 mの「[[ムルジャン・タワー]]」の計画が浮上している。このように、ブルジュ・ハリファを超える高さの超高層ビルの建設計画が[[中東]]で次々と明らかになっているので高さ1位の記録が破られるのは時間の問題だと考えられている。ただし、[[世界金融危機 (2007年-)|2007年に始まった世界金融危機]]（世界同時不況）の影響も顕在化しナキール・タワーの建設計画が1年間延期になるといったことも起きており、どの段階でどのビルによって抜かれるのかについてはあまりはっきりしていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 冒険家の挑戦 ==&lt;br /&gt;
=== ベースジャンピング ===&lt;br /&gt;
ブルジュ・ハリファは何度か[[ベースジャンピング]]の舞台に選ばれたが、それらには合法・非合法の両方がある。&lt;br /&gt;
*2008年5月、エルヴェ・ル・ガロウとイギリスのデヴィッド・マクダネルの2人はエンジニアの扮装で、当時高さ650mのビルに不法侵入し、160階床に設置された2つのバルコニーからジャンプした&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web |url= http://current.com/items/89546563_world-record-base-jump.htm |title= World record BASE jump |author=Jan Bednarz|coauthors= Robin Schmidt, Andy Harvey, DMC, Hervé Le Gallou |year= 2008 |publisher=Current Edge |publisher=[[:en:Current TV|Current TV]] |accessdate=4 January 2010}}Video documentary about the BASE jump from the Burj Dubai tower.&lt;br /&gt;
&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news |title= Daredevils jumped off Burj Dubai undetected |author=Tom Spender |newspaper=[[:en:The National (Abu Dhabi)|The National]] |date= 24 November 2008&lt;br /&gt;
 |url= http://www.thenational.ae/article/20081124/NATIONAL/625952895/-1/NEWS&lt;br /&gt;
 |accessdate=4 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*合法の例では2010年1月8日に、エミレーツ航空協会員のナスル・アル・ニヤディとオマル・アル・ヘゲランの2人が672mに相当する160階の床に据えつけたクレーンに吊るされ、そこからベースジャンプに挑んで、最も高い位置からの世界記録を達成した。2人は最大時速{{convert|220|km/h|mph|abbr=on}}で滑降し、10秒後にパラシュートを展開、着地まで90秒後の飛翔を見せた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.worldrecordsacademy.org/sports/highest_base_jump_Nasr_Al_Niyadi_and_Omar_Al_Hegelan_sets_world_record_101495.htm Highest base jump-Nasr Al Niyadi and Omar Al Hegelan sets world record]. Retrieved 9 January 2010.&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;BASE jumping&amp;quot;&amp;gt;{{cite news|url=http://news.sky.com/skynews/Home/World-News/Base-Jumpers-From-The-Burj-Khalifa-Dubai-Omar-Al-Hegelan-And-Nasser-Al-Neyadi-Set-New-Record/Article/201001115516376?lpos=World_News_Second_Home_Page_Article_Teaser_Region_3&amp;amp;lid=ARTICLE_15516376_Base_Jumpers_From_The_Burj_Khalifa_Dubai%3A_Omar_Al_Hegelan_And_Nasser_Al_Neyadi_Set_New_Record|title=Daredevils Jump Off World's Tallest Building|publisher=[[Sky News]]|first=Roddy|last=Mansfield|date=8 January 2010|accessdate=8 January 2010}}&amp;lt;/ref&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 登頂 ===&lt;br /&gt;
2011年3月28日、フリークライマーの[[アラン・ロベール]]はブルジュ・ハリファ外壁登頂へ挑んだ。尖塔の先へ到達するまで6時間かけた彼は、UAEの安全法に従うため通常は{{仮リンク|フリーソロ・クライミング|en|Free solo climbing}}を行うところを、ロープとハーネス着用で臨む必要があった&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12888817 |title='Spiderman' Alain Robert scales Burj Khalifa in Dubai |date=28 March 2011 |publisher=BBC  |accessdate=29 March 2011}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 事件・事故 ==&lt;br /&gt;
;エレベーター故障問題&lt;br /&gt;
* [[2010年]]1月9日&lt;br /&gt;
: 落成から5日後の同日、124階の展望台に向かっていたエレベーターが停止。子供を含む観光客14人が、地上430メートル付近で約1時間エレベーター内に閉じこめられた&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jiji.com/jc/zc?k=201001/2010011100021 高さ430メートルでひやり＝世界一のビル、エレベーター停止－ドバイ 1月11日5時48分配信 時事通信]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
* 2010年2月6日&lt;br /&gt;
: 同日夜、電源供給に関する技術的問題からエレベーターが停止。124階の展望台にいた観光客数十人が1時間以上にわたって展望台に閉じ込められた。この事故に伴い展望台は閉鎖。当初、2月14日には再開される見通しだった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;amp;rel=j7&amp;amp;k=2010020900305 またエレベーター故障＝展望台を数日閉鎖－ドバイ世界一ビル 2月9日11時28分配信 時事通信]&amp;lt;/ref&amp;gt;が、延期され&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite news|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&amp;amp;k=2010031700064|title=世界一の展望台、1カ月以上閉鎖＝ドバイ|publisher=[[時事通信]]|date=2010-03-17|accessdate=2010-03-17}}&amp;lt;/ref&amp;gt;、最終的に再開されたのは4月4日となった&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2715803/5572023 「世界一高い」展望デッキ、2か月ぶり再開 ドバイのブルジュ・ハリファ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;飛び降り自殺&lt;br /&gt;
*[[2011年]]5月10日&lt;br /&gt;
: 同日、ビル内のオフィスに勤務していた南アジア出身の30代男性が147階から飛び降り、108階のデッキに落下し死亡した&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.cnn.co.jp/world/30002711.html 世界最高層ビル147階から男性が飛び降り自殺　ドバイ]&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ギャラリー ==&lt;br /&gt;
&amp;lt;gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Burj2.jpg|[[2006年]]2月（建設中）&amp;lt;!--初期1--&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:20060829 Burj Dubai.jpg|2006年8月（建設中）&amp;lt;!--初期2--&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Burjdubai030106.jpg|[[2007年]]1月（建設中）&amp;lt;!--初期3--&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Burj Dubai Under Construction on 8 May 2008 Pict 2.jpg|2008年5月&amp;lt;br /&amp;gt;（建設中、上層部）&amp;lt;!--周辺世界観紹介含み--&amp;gt;&lt;br /&gt;
ファイル:Burj Dubai Under Construction on 8 May 2008 Pict 3.jpg|2008年5月&amp;lt;br /&amp;gt;（建設中、俯瞰）&amp;lt;!--周辺世界観紹介含み--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;/gallery&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 受賞 ==&lt;br /&gt;
2010年6月、ブルジュ・ハリファは{{仮リンク|世界高層ビル協会|en|Council on Tall Buildings and Urban Habitat}}から、2010年度中東・アフリカ地域最高度ビルの賞を受けた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web | title = CTBUH 9th Annual Awards, 2010  | publisher=Council on Tall Buildings and Urban Habitat | url = http://www.ctbuh.org/Events/Awards/2010Awards/tabid/1571/language/en-GB/Default.aspx | accessdate =15 June 2007 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。同年8月には、2010年度中東の建設における最高のプロジェクトを讃える賞が贈られた&amp;lt;ref&amp;gt;{{cite web | title = Burj Khalifa won Best Project of Year at Middle East Architect Awards 2010 | publisher=Constructionweekonline.com | url = http://www.constructionweekonline.com/article-9617-burj-khalifa-wins-best-project/ | accessdate =30 September 2010 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2010年10月25日世界高層ビル協会は、新たに設けた高層ビル「グローバル・アイコン」賞をブルジュ・ハリファに授ける式典にて「年間最優秀高層ビル」でも表彰を行った。協会によると、「グローバル・アイコン」賞とは特定の地域にとどまらず高層建築物のジャンルへ世界的な影響を与える特別な超高層ビルを指すと説明された。それは革新的な計画・設計・施工が行われ、高層建築における構造や工学また都市計画にも革新をもたらしたものでなければならない。それゆえこの賞は場合によっては基礎工事だけも対象にすることもあり、10年から15年毎に例外的な計画にも授与される可能性を示されている&amp;lt;ref name=&amp;quot;ctbuh.org&amp;quot;&amp;gt;{{cite web | title = Burj Khalifa won &amp;quot;Global Icon&amp;quot; Award | publisher=Council on Tall Buildings And Urban Habitate | url = http://www.ctbuh.org/Events/Awards/2010Awards/2010AwardsDinner/tabid/1710/language/en-US/Default.aspx | accessdate =2 November 2010 }}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
世界高層ビル協会賞の議長を務めるAdrian Smith + Gordon Gill Architecture社のゴードン・ギルは、以下のコメントを表明した&amp;lt;ref name=&amp;quot;ctbuh.org&amp;quot;/&amp;gt;。&lt;br /&gt;
{{Cquote|年間最優秀高層ビル賞は真の意味でブルジュ・ハリファにふさわしいものだろうかという意見が審査メンバーの中から上がっていた。&amp;lt;br /&amp;gt;私たちは、ここに建つビルがひとつの建築物によって風景を一新することが可能だという事を、それが完成する遥か前から世界中に知らしめた、憧憬の対象だと話し合った。&amp;lt;br /&amp;gt;まさに、世紀のビルという表現こそふさわしい。|20px}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
{{reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* 比較資料&lt;br /&gt;
** [[超高層ビルの一覧]] - [[世界一の一覧#建造物]]&lt;br /&gt;
** [[1 E2 m]] - [[長さの比較]]&lt;br /&gt;
** [[w:List of tallest buildings and structures in the world#World's tallest freestanding structure on land|紀元前27世紀以降現在までの、高さ世界一建造物の変遷一覧（英語版）]]&lt;br /&gt;
** [[w:List of tallest buildings and structures in the world#Tallest structure by category|カテゴリ別世界第1位建造物一覧（英語版）]]&lt;br /&gt;
* [[ドバイ・ショック]]&lt;br /&gt;
* [[ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル]] - 劇中の舞台のひとつとして、ブルジュ・ハリファが登場する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Burj Khalifa}}&lt;br /&gt;
* [http://www.burjdubai.com/ ブルジュ・ハリファ公式ウェブサイト]&lt;br /&gt;
* [http://skyscraperpage.com/cities/?buildingID=7787 Burj Khalifa - SkyscraperPage.com]&lt;br /&gt;
* [http://www.burjdubaiskyscraper.com/ Burj Dubai - Skyscraper]&lt;br /&gt;
* [http://jp.youtube.com/watch?v=ITxn_mrPLdQ&amp;amp;feature=related 3DCG]&lt;br /&gt;
* [http://jp.youtube.com/watch?v=BH19J8ZF4Bk&amp;amp;feature=related 紹介映像]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{S-start}}&lt;br /&gt;
{{S-ach|rec}}&lt;br /&gt;
{{S-bef|before=[[ワルシャワラジオ塔]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;646.38 m (2,120.67 ft)&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{S-ttl|title=史上最も高い構造物|years=2008&amp;amp;nbsp;– 現在}}&lt;br /&gt;
{{S-inc|rows=5}}&lt;br /&gt;
{{S-bef|before=[[KVLY-TV塔]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;628.8 m (2,063 ft)&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{S-ttl|title=世界一高い構造物|years=2008&amp;amp;nbsp;– 現在}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
{{S-bef|before=[[CNタワー]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;553.33 m (1,815.39 ft)&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{S-ttl|title=世界一高い自立型構造物|years=2007&amp;amp;nbsp;– 現在}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
{{S-bef|before=[[台北101]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;509.2 m (1,670.6 ft)&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{S-ttl|title=世界一高いビル|years=2010&amp;amp;nbsp;– 現在}}&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
{{S-bef|before=[[ウィリス・タワー]]&amp;lt;br /&amp;gt;&amp;lt;small&amp;gt;108階&amp;lt;/small&amp;gt;}}&lt;br /&gt;
{{S-ttl|title=世界一階数の多いビル|years=2007&amp;amp;nbsp;– 現在}}&lt;br /&gt;
{{S-end}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Skyscrapers}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:ふるしゆはりいふあ}}&lt;br /&gt;
[[Category:アラブ首長国連邦の超高層ビル]]&lt;br /&gt;
[[Category:高さ350m以上の超高層ビル]]&lt;br /&gt;
[[Category:ドバイの建築物]]&lt;br /&gt;
[[Category:ギネス世界記録]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Link FA|mk}}&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC&amp;diff=220430</id>
		<title>横浜ランドマークタワー</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC&amp;diff=220430"/>
				<updated>2014-02-12T15:10:44Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;センズリ: ページの作成：「{{Pathnav|横浜みなとみらい21|frame=1}} {{基礎情報 超高層ビル |ビルディング名称 = 横浜ランドマークタワー&amp;lt;br/&amp;gt;Yokohama Landmark Tower |...」&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;{{Pathnav|横浜みなとみらい21|frame=1}}&lt;br /&gt;
{{基礎情報 超高層ビル&lt;br /&gt;
|ビルディング名称 = 横浜ランドマークタワー&amp;lt;br/&amp;gt;Yokohama Landmark Tower&lt;br /&gt;
|画像 = [[File:Yokohama Landmark Tower 2012.JPG|250px]]   &lt;br /&gt;
|画像説明 =  &lt;br /&gt;
|画像2 = &lt;br /&gt;
|画像説明2 = &lt;br /&gt;
|位置図種類 = &lt;br /&gt;
|所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]][[みなとみらい]]2-2-1&lt;br /&gt;
|緯度度 = 35 |緯度分 = 27 |緯度秒 = 17  &lt;br /&gt;
|経度度 = 139 |経度分 = 37 |経度秒 = 54 &lt;br /&gt;
|状態 = 完成&lt;br /&gt;
|着工 = [[1990年]][[3月20日]]&lt;br /&gt;
|建設期間 = &lt;br /&gt;
|竣工 = [[1993年]][[7月16日]]&lt;br /&gt;
|完成予定 = &lt;br /&gt;
|開業 = &lt;br /&gt;
|解体 = &lt;br /&gt;
|崩落 = &lt;br /&gt;
|使用目的 = [[店舗]]・[[事務所]]・[[ホテル]]・[[多目的ホール]]・[[駐車場]]&lt;br /&gt;
|建設費 = &lt;br /&gt;
|アンテナ_尖塔 = 296.33m&lt;br /&gt;
|屋上 = &lt;br /&gt;
|最上階 = &lt;br /&gt;
|階数 = 地上70階、地下3階（タワー棟）・地下4階（プラザ棟）、 塔屋3階&lt;br /&gt;
|構造形式 = [[鉄骨造]]（一部[[鉄骨鉄筋コンクリート造]]、[[鉄筋コンクリート造]]） &lt;br /&gt;
|敷地面積 = 38,061.51m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
|建築面積 = 23,208.29m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
|床面積 = 392,884.85m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;*事務所：166,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;*ショッピングモール：74,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;*ホテル：83,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;*駐車場：60,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;*その他：10,000m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&lt;br /&gt;
|高さ =  &lt;br /&gt;
|エレベーター数 = 一般乗用74台&amp;lt;br /&amp;gt;人荷用（非常用）5台&amp;lt;br /&amp;gt;※全て三菱製、プラザ棟は日立製&lt;br /&gt;
|駐車台数= 1,400台&lt;br /&gt;
|設計 = [[三菱地所設計]]&amp;lt;br&amp;gt;[[:en:Hugh Stubbins Jr.|ザ・スタビンス・アソシエイツ]]&lt;br /&gt;
|構造エンジニア = &lt;br /&gt;
|施工 = [[大成建設]]・[[鹿島建設]]・[[大林組]]・[[竹中工務店]]・[[清水建設]]・[[戸田建設]]・[[東急建設]]・[[間組]]・[[前田建設工業]]・[[地崎工業]]・[[飛島建設]]・[[青木建設]]・[[三菱建設]]・[[フジタ工業]]・[[熊谷組]]・[[東亜建設工業]]・[[山岸建設]]・[[奈良建設]]・[[紅梅組]]・[[若葉建設]]・[[五洋建設]]・[[不動建設]]・[[増岡組]]・[[安藤建設]]・[[大豊建設]]・[[東海興業]]&lt;br /&gt;
|デベロッパー = [[三菱地所]]&lt;br /&gt;
|所有者 = &lt;br /&gt;
|管理運営 = [[三菱地所ビルマネジメント]]&lt;br /&gt;
|skyscraperpage_id=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
'''横浜ランドマークタワー'''（よこはまランドマークタワー、Yokohama Landmark Tower）&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;'''[[ランドマーク]]'''とは都市景観のシンボルとなるもの、目印という意味の一般名詞。&amp;lt;/ref&amp;gt;は、[[横浜みなとみらい21]]の中核を担っている[[超高層ビル]]で、[[オフィス]]のほか[[ホテル]]や[[ショッピングモール]]などからなる複合施設。[[三菱地所]]が保有している。[[1990年]][[3月20日]]に着工され、[[1993年]][[7月16日]]に開業した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
'''70階建て、高さ296.33m'''&amp;lt;ref name=&amp;quot;CTBUH&amp;quot;&amp;gt;[[:en:CTBUH|CTBUH]] - [http://buildingdb.ctbuh.org/?do=building&amp;amp;building_id=547 Landmark Tower, ランドマークタワー]&amp;lt;/ref&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;Emporis&amp;quot;&amp;gt;[http://www.emporis.com/application/?nav=building&amp;amp;lng=3&amp;amp;id=105181 Emporis - Yokohama Landmark Tower, 横浜ランドマークタワー]&amp;lt;/ref&amp;gt;。超高層ビルとしては日本で2番目に高く、また日本の構造物としては[[東京スカイツリー]]（634m）、[[東京タワー]]（332.6m）、[[阿部野橋ターミナルビル]]（[[あべのハルカス]]、300.0m：全館開業は[[2014年]]予定）、[[明石海峡大橋]]（298.3m）に次ぐ6番目の高さである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
69階には[[展望台]]フロア「[[#スカイガーデン|スカイガーデン]]」を設置、また低層部にはショッピングモール「[[#ランドマークプラザ|ランドマークプラザ]]」が併設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本項では国の[[重要文化財]]に指定されている'''ドックヤードガーデン'''についても解説する（[[#ドックヤードガーデン|後述参照]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
横浜ランドマークタワーはみなとみらい地区の25街区に所在し、横浜市内初の本格的な[[オートウォーク|動く歩道]]（元々は[[横浜博覧会]]の施設）で[[桜木町駅]]方面と接続、地下3階&amp;lt;ref name=&amp;quot;CTBUH&amp;quot;/&amp;gt;・地上70階・塔屋3階&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.yokohama-landmark.jp/sisetsu/tower/outline.html 横浜ランドマークタワー 建築概要]&amp;lt;/ref&amp;gt;のタワー棟と、地下4階・地上5階のプラザ棟からなる。建築面積は23,208[[平方メートル|m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;]]。延床面積は392,791m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;&amp;lt;ref name=&amp;quot;CTBUH&amp;quot;/&amp;gt;で、東京都豊島区の[[サンシャインシティ]]（585,895m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;）、愛知県名古屋市中村区の[[JRセントラルタワーズ]]（416,565m&amp;lt;sup&amp;gt;2&amp;lt;/sup&amp;gt;）に次ぐ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
デザインは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の建築家、{{仮リンク|ヒュー・スタビンス|en|Hugh Stubbins}}。スタビンスによる基本設計に基づき、三菱地所が実施設計を行った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当初の計画では、隣接する[[クイーンズスクエア横浜]]との間の北側の一角に、円筒形の超高層棟をもう一棟建設する予定であったが、計画は凍結されたままになっている。この建設予定地は過去にバス駐車場やマンションのモデルルーム等に利用されたことがある。なお、当初は高さ300[[メートル|m]]の超高層ビルとして計画されていたが、建設地が[[東京国際空港]]の[[標準計器出発方式|標準出発経路]]（SID）と重なったため高度制限が発生し、最終的に296.3mとなった&amp;lt;ref&amp;gt;[https://www.mlit.go.jp/tokyo_cab/06_oshirase/index_02_img/haneda.pdf 東京空港事務所からのお知らせ]（現在の東京国際空港の[[制限表面]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
主な施設は、[[横浜ロイヤルパークホテル]]、オフィス、ランドマークプラザ（ショッピングモール）、ドックヤードガーデン（広場、レストラン街）、スカイガーデン（展望フロア）など。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最上階の70階は、ホテルのスカイラウンジと宴会場になっている。また、69階には、ビルとしては日本一高い[[展望台]]フロア・「スカイガーデン」（地上273m）があり、直通[[エレベーター]]（[[三菱電機]]製）が、最大分速約'''750m（時速45km/h）'''で運ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2004年に[[台北101]]のエレベーターに記録を破られるまでは世界最速で、[[ギネス・ワールド・レコーズ]]にも掲載されていた。東京スカイツリーが開業した現在でも、日本最速のエレベーターである&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;東京スカイツリーのエレベーターは最大分速約600m（時速換算で36km/h、地上と第1展望台を結ぶエレベーターの場合）である。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
台北101の最速記録は昇りのみであり、降りは現在でも世界最速である&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;なお、ランドマークタワーのエレベーターは三菱電機製であるのに対し、台北101のエレベーターは[[東芝エレベータ|東芝]]製である。このことから日本のエレベーターは、世界最速の座を長年維持している。&amp;lt;/ref&amp;gt;。このエレベーターには強風管制運転システムが装備されており、風の強さに応じて通常運行・最高速度の50%に相当する375m/[[分|min]]に減速・半分を停止し残りの半分を375m/minに減速・全面休止の4段階に制御される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、ビル全体の制振装置として、上層部にコンピュータ制御で揺れを抑える巨大な[[振り子]]を備えており、ビル自体も4本を柱とした耐震性の高い構造をとっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2004年]]2月には、[[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい21線|みなとみらい線]]の[[みなとみらい駅]]が、ランドマークタワーに隣接するクイーンズスクエア横浜の地下に開業した。[[2008年]]、[[2001年]]に始まった現代美術の国際展「[[横浜トリエンナーレ]]2008」の会場に指定され、ランドマークプラザには作品の一部が展示された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
竣工以来、20年近く「日本一高い超高層ビル」の座を守ってきたが、[[2014年]]（平成26年）開業予定の「[[あべのハルカス]]」（[[大阪府]][[大阪市]][[阿倍野区]]）が、建設中ではあるが[[2012年]]8月時点で高さ300mに達し、日本一の座をあけ渡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ランドマークタワーには三菱地所による二期棟（当初の案では楕円形のビル）の計画があるが、景気の悪化などを受けて凍結となっている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://blogs.yahoo.co.jp/taccolin/archive/2006/03/26 ランドマークタワーの二期棟計画（当面延期？）]（みなとみらい線周辺散歩日記 2006年3月26日）&amp;lt;/ref&amp;gt;。今後の開発方針等は不明であるが、現在、二期棟の建設予定地には自動車ショールーム（[[ロールス・ロイス・モーター・カーズ]]横浜とNicole [[BMW]] 横浜みなとみらい支店、共に暫定施設）がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 施設 ==&lt;br /&gt;
[[File:Minatomirai21 at night.JPG|thumb|right|280px|スカイガーデンからの夜景]]&lt;br /&gt;
* スカイガーデン（展望フロア） - 69階 - 272m（タワー棟）&lt;br /&gt;
* [[横浜ロイヤルパークホテル]] - 地下1階、1階、49{{～}}68階、70階（タワー棟）、地下1階、1{{～}}3階（宴会棟）&lt;br /&gt;
*: 開業当初は[[JALホテルズ|ニッコーホテルズインターナショナル]]と提携し「横浜ロイヤルパークホテルニッコー」という名称だったが、提携解消と同時に現在の名称に改称した。&lt;br /&gt;
* オフィスフロア - 1{{～}}48階（タワー棟）&lt;br /&gt;
* クリニックフロア - 7階（タワー棟）&lt;br /&gt;
* サービス施設・ショールーム - 地下1階{{～}}35階の一部（タワー棟）&lt;br /&gt;
* ランドマークプラザ - 地下2階{{～}}3階（プラザ棟）&lt;br /&gt;
* ランドマークホール - 3階（プラザ棟）&lt;br /&gt;
* ドックヤードガーデン - 地下2階{{～}}1階&lt;br /&gt;
* 駐車場 - 地下3階{{～}}地下1階&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テレビ中継局として ==&lt;br /&gt;
アナログテレビ放送時代（[[2011年]][[7月24日]]まで）、タワーの屋上には、[[日本放送協会|NHK]]、[[広域放送|関東広域圏]][[民間放送|民放]][[キー局]]および[[テレビ神奈川|tvk]]の横浜みなとテレビ[[中継局]]があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
横浜市内では基本的に、キー局は[[東京タワー]]からの、tvkは[[神奈川県立三ツ池公園]]からの放送をそれぞれ視聴している世帯が多い。しかし、ランドマークタワーの建設によって大規模な受信障害が発生することが予想されたことから、その補償措置として、各局と三菱地所が費用を負担する形で設けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
通常こうした場合は、三菱地所が免許人となって[[センチメートル波|SHF波]]を使った再送信が行われるが、影響が広範囲にわたる恐れがあったことから、異例の[[極超短波|UHF波]]による中継局設置となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
対象地域には横浜市中心街が含まれているが、ランドマークタワー近隣ではアンテナの仰角を大きく取らねばならず、市販品で対応できないため視聴世帯が少ない一方、[[下末吉台地]]の影響で東京タワー方向に受信障害を生じている[[神奈川区]]の一部地域などでは、UHFアンテナ1本で全局視聴が可能になる&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;[[テレビ神奈川|tvk]]でも同様のキャンペーンを行った。&amp;lt;/ref&amp;gt;ことから、ランドマークタワーにアンテナを向ける世帯も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[地上デジタルテレビ放送]]の中継局については設置不要と判断されたため、[[NTSC|アナログ放送]]停波に伴い廃局となる予定であった&amp;lt;ref&amp;gt;総務省地上デジタル推進全国会議資料（[[2008年]]）&amp;lt;/ref&amp;gt;。しかし、総務省の現地調査によると、デジタル放送完全移行するまでに、難視対策が間に合わない世帯が、横浜市内で合わせて2,000世帯に上ることが分かった。これは全国的に見ても影響するエリアが最大級の規模だという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このため、急遽デジタル波用の「みなとみらい中継局」を新設することになった。いったん廃局を決めた中継局を復活させる事態は、極めて異例のケースである。なお、開局は2012年（平成24年）9月1日となっている&amp;lt;ref&amp;gt;「総務省」&amp;gt;&amp;gt;「政策ズームアップ」内バナー「2011年7月地デジ化 完了」&amp;gt;&amp;gt;「地上デジタルテレビ放送のご案内」&amp;gt;&amp;gt;「データ集」&amp;gt;&amp;gt;「デジタル中継局リスト」&amp;gt;&amp;gt;「地上デジタルテレビ放送中継局リスト:関東総合通信局管内:神奈川県」&amp;gt;&amp;gt;最終段に「みなとみらい」表記。（Excel表示）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アナログテレビ放送（横浜みなと中継局）===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
!放送局名!![[チャンネル (テレビ放送)|チャンネル]]!![[空中線電力]]!![[実効輻射電力|ERP]]!![[放送#放送対象地域|放送対象地域]]!![[放送#放送区域|放送区域]]内世帯数&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|tvk[[テレビ神奈川]]||48ch&amp;lt;ref group=&amp;quot;注&amp;quot;&amp;gt;電波の飛びが良過ぎるため、[[東京都]]{{～}}[[埼玉県]]の一部で[[群馬テレビ]]本局（48ch）と同一周波数混信を起こしている。&amp;lt;/ref&amp;gt;||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|映像30W&amp;lt;br/&amp;gt;/音声7.5W||rowspan=&amp;quot;3&amp;quot;|映像220W&amp;lt;br/&amp;gt;/音声56W||[[神奈川県]]||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|不明&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[日本放送協会|NHK]][[NHK放送センター|東京]][[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]||50ch||[[全国放送]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|NHK東京[[NHK総合テレビジョン|総合]]||52ch||rowspan=&amp;quot;6&amp;quot;|[[広域放送|関東広域圏]]&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|NTV[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]||54ch||rowspan=&amp;quot;5&amp;quot;|映像210W&amp;lt;br/&amp;gt;/音声52W&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|[[TBSテレビ]]||56ch&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|CX[[フジテレビジョン|フジテレビ]]||58ch&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|EX[[テレビ朝日]]||60ch&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|TX[[テレビ東京]]||62ch&lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
*2011年7月24日の停波で廃局。&lt;br /&gt;
*tvkアナログのchはCXデジタルのchに、NHK EテレアナログのchはTXデジタルのchに、NHK総合アナログのchはNTVデジタルのchにそれぞれ引き継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== デジタルテレビ放送（みなとみらい中継局）===&lt;br /&gt;
{| class=&amp;quot;wikitable&amp;quot; style=&amp;quot;text-align:center&amp;quot;&lt;br /&gt;
![[リモコンキーID]]!![[放送局]]名!!物理チャンネル!!空中線電力!!ERP!!放送対象地域!!放送区域内世帯数!!偏波面!!開局日&lt;br /&gt;
|- &lt;br /&gt;
|1||NHK東京総合||51ch||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|3W||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|27W||[[広域放送#放送事業者別の広域放送|関東広域圏]]&amp;lt;br/&amp;gt;（茨城県、栃木県及び群馬県を含まない）&amp;lt;ref&amp;gt;[http://www.tele.soumu.go.jp/horei/reiki_honbun/a000046801.html 基幹放送普及計画（昭和63年郵政省告示第660号）]（総務省電波利用ホームページ）&amp;lt;/ref&amp;gt;||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|101万9,610世帯||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|送信所の北西方向&amp;lt;br&amp;gt;水平偏波&amp;lt;br&amp;gt;&amp;lt;br&amp;gt;送信所の南西方向&amp;lt;br&amp;gt;垂直偏波||rowspan=&amp;quot;8&amp;quot;|2012年9月1日&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|2||NHK東京Eテレ||47ch||全国放送&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|3||tvkテレビ神奈川||49ch||神奈川県&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|4||NTV日本テレビ||52ch||rowspan=&amp;quot;5&amp;quot;|関東広域圏&lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|5||EXテレビ朝日||46ch &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|6||TBSテレビ||45ch &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|7||TXテレビ東京||50ch &lt;br /&gt;
|-&lt;br /&gt;
|8||CXフジテレビ||48ch &lt;br /&gt;
|}&lt;br /&gt;
==== 歴史 ====&lt;br /&gt;
* 2012年6月29日 - [[予備免許]]交付&lt;br /&gt;
* 2012年[[7月4日]] - [[試験放送]]開始&lt;br /&gt;
* 2012年[[8月24日]] - 本免許交付&lt;br /&gt;
* 2012年9月1日 - 本放送開始&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 外部リンク ====&lt;br /&gt;
* [http://www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/if/press/p24/p2406/p240608ho.html 横浜市内及び周辺における新たな難視対策について ≪みなとみらい中継局の整備と鶴川中継局の送信諸元変更≫（総務省関東総合通信局）]&lt;br /&gt;
* [http://www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/if/press/p24/p2406/p240629ho-1.html#gaiyo 管内8局の地上デジタルテレビジョン放送局（中継局）を予備免許　≪みなとみらい中継局≫（総務省関東総合通信局）]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 放送エリア ===&lt;br /&gt;
* 【神奈川県】横浜市鶴見区、中区、磯子区、金沢区、港北区、戸塚区、港南区、旭区、緑区、栄区、泉区、青葉区、都筑区及び川崎市宮前区の各一部・横浜市神奈川区、西区、南区及び保土ヶ谷区の全域&lt;br /&gt;
*{{PDFlink|[http://www.soumu.go.jp/soutsu/kanto/if/press/p24/p2406/p240629ho-1.pdf みなとみらいデジタル中継局放送エリア]}} - 総務省関東総合通信局&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== タワーが登場する作品 ==&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラvsモスラ]]』&lt;br /&gt;
*: [[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]と戦う[[モスラ (架空の怪獣)#バトラ|バトラ]]の攻撃により、タワーの上半分がへし折られる。この作品は[[1992年]]の公開であったため、タワーが開業前に破壊されてしまったことになる。縁起が悪いとして撮影を拒否される可能性を考え制作する際に[[東宝]]がこのことをタワーを所有する三菱地所に諮った所、同社は「いい宣伝になるから」と快く了承したという。&lt;br /&gt;
* 『[[ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃]]』&lt;br /&gt;
*: [[モスラ (架空の怪獣)|モスラ]]を狙うゴジラの熱線で展望台を吹き飛ばされる。&lt;br /&gt;
*『[[ヨコハマ買い出し紀行]]』&lt;br /&gt;
*: 少し未来の横浜で[[地球温暖化]]と思われる海面上昇により、基底部は海中に没している。一応船で渡って登ることが出来るらしいが、エレベーターはとうの昔に利用出来なくなっており、69階の展望室までは歩いて登らなければならないらしい。作中では横浜の海の名所として、遠景のみ物語の背景として何度か登場している。&lt;br /&gt;
* 『[[妖魔夜行|百鬼夜翔]]』&lt;br /&gt;
*: タワーが敵ネットワーク「ナイト・フォッグ」との最終決戦の舞台となる。&lt;br /&gt;
* 『[[ロング・ラブレター〜漂流教室〜]]』&lt;br /&gt;
*: [[タイムトラベル|タイムスリップ]]してしまった未来で[[ユーラシア大陸]]の[[砂漠化]]が進行し、日本全土もその影響を受けている。その砂漠化によりタワーはボロボロになっている。&lt;br /&gt;
* 『[[怪盗セイント・テール]]』&lt;br /&gt;
*: 第3話でセイントテールを追って飛鳥ジュニアが宝石泥棒に人質にされたり、セイントテールがルビィをペットにした場所でもある。&lt;br /&gt;
* 『[[緋弾のアリア]]』&lt;br /&gt;
*: 原作第3巻・アニメ第12話でのキンジ・アリア・理子とブラドの戦闘において、ランドマークタワーの屋上が使用された。&lt;br /&gt;
* 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』&lt;br /&gt;
*: [[秋本・カトリーヌ・麗子]]の父が経営する会社の系列のビルとして描かれている。&lt;br /&gt;
* 『[[オレンジ屋根の小さな家]]』、『[[妹-あかね-]]』&lt;br /&gt;
*: 横浜の風景として何度か描かれている。&lt;br /&gt;
* 『[[名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌]]』&lt;br /&gt;
*: [[怪盗キッド]]の逃走経路として使用されている。また、EDの映像にも、横浜の景色で実際のものが登場する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== オフィス ==&lt;br /&gt;
オフィスの入居率は90%を超える。&lt;br /&gt;
* [[三菱地所]]&lt;br /&gt;
* [[オリックス (企業)|オリックス]]グループ&lt;br /&gt;
* [[マンパワー・ジャパン]]（[[2011年]][[12月16日]]より、[[マンパワーグループ]]）&lt;br /&gt;
* [[東日本電信電話]]株式会社（NTT東日本）神奈川支店&lt;br /&gt;
* 株式会社[[NTT東日本-神奈川]]&lt;br /&gt;
* [[コカ・コーラセントラルジャパン]]&lt;br /&gt;
* 日本インベスター・ソリューション・アンド・テクノロジー株式会社 （JIS&amp;amp;T）&lt;br /&gt;
* [[富士通]]株式会社 神奈川支社　およびグループ各社&lt;br /&gt;
* [[三菱電機]]株式会社 神奈川支社&lt;br /&gt;
* [[三菱電機ビルテクノサービス]]株式会社 横浜支社&lt;br /&gt;
* [[コロワイド]]本社&lt;br /&gt;
* [[TOTO (企業)|TOTO]]横浜ランドマークショールーム・横浜支社&lt;br /&gt;
* [[横浜エフエム放送]]&lt;br /&gt;
*: [[送信所]]は屋上ではなく、[[秦野市]]の[[大山 (神奈川県)|大山]]。&lt;br /&gt;
* [[ウッドストック (企業)|ウッドストック]]本社&lt;br /&gt;
* [[不二サッシ]]株式会社　横浜支店&lt;br /&gt;
* [[日本農産工業]]株式会社 本社&lt;br /&gt;
* [[野村證券]]横浜支店&lt;br /&gt;
* 株式会社[[高千穂]] 本社&lt;br /&gt;
* [[ライオンブリッジジャパン]]&lt;br /&gt;
* [[日本発条]]株式会社 横浜みなとみらい分館&lt;br /&gt;
* [[インターナル]]本社&lt;br /&gt;
* 株式会社[[日立システムズエンジニアリングサービス]]&lt;br /&gt;
* 株式会社[[ムラタエレクトロニクス]] 本社&lt;br /&gt;
* 株式会社[[日立ハイシステム21]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ビル固有の[[郵便番号]]は〒220-81xx（xxは階層で、地下・階層不明の場合は220-8190）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スカイガーデン ==&lt;br /&gt;
69階の展望台「'''スカイガーデン'''」は、[[地上]]からの高さが272mであり、ビルとしては日本で最も高い（建造物としては[[東京スカイツリー]]に次ぐ第2位）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、ビルの最上階（70階）は、ホテルのスカイラウンジと宴会場となっており、こちらの高さは地上277mである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他の日本における建築物の展望台の高さは以下の通りである。&lt;br /&gt;
* [[東京スカイツリー]]（天望デッキは地上340-350m、天望回廊は445-450m）&lt;br /&gt;
* [[大阪府咲洲庁舎|大阪府咲洲庁舎コスモタワー]]展望台（地上252m）&lt;br /&gt;
* [[六本木ヒルズ森タワー]]のスカイデッキ（地上238m）&lt;br /&gt;
* [[サンシャイン60]]のスカイデッキ（地上232m）&lt;br /&gt;
* [[東京タワー]]の特別展望台（地上223m）&lt;br /&gt;
* [[東京都庁舎]]（地上202m）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ランドマークプラザ ==&lt;br /&gt;
{{商業施設&lt;br /&gt;
|社色 = &lt;br /&gt;
|文字色 = &lt;br /&gt;
|名称 = ランドマークプラザ&lt;br /&gt;
|外国語表記 = Landmark Plaza &lt;br /&gt;
|画像 = &lt;br /&gt;
|画像サイズ = 300px&lt;br /&gt;
|画像説明 = &lt;br /&gt;
|正式名称 =&lt;br /&gt;
|所在地郵便番号 = &lt;br /&gt;
|所在地 = &lt;br /&gt;
|開業日 = 1993年7月16日&lt;br /&gt;
|施設所有者 = &lt;br /&gt;
|施設管理者 = [[三菱地所ビルマネジメント]]&lt;br /&gt;
|敷地面積 = &lt;br /&gt;
|商業施設面積= 26,000&lt;br /&gt;
|延床面積 = 74,000&lt;br /&gt;
|中核店舗 = &lt;br /&gt;
|店舗数 = 159店&lt;br /&gt;
|駐車台数 = &lt;br /&gt;
|商圏人口 = &lt;br /&gt;
|最寄IC = &lt;br /&gt;
|最寄駅 = [[横浜高速鉄道]][[横浜高速鉄道みなとみらい21線|みなとみらい線]][[みなとみらい駅]]&lt;br /&gt;
|前身 = &lt;br /&gt;
|外部リンク = [http://www.yokohama-landmark.jp/page/index.php ランドマークプラザ]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
[[File:Escalator.jpg|thumb|ランドマークプラザのエスカレーター]]&lt;br /&gt;
'''ランドマークプラザ'''は、タワーと同日に開業した[[ショッピングモール]]。タワー棟と建物内で接続されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ファッション、インテリア、ホビー、レストラン、郵便局・銀行ATMなど様々なテナントが入居している。主なテナントは本項末尾の通り。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、タワー棟のエレベーターは[[三菱電機|三菱]]製だが、プラザ棟のエレベーター･[[エスカレーター]]の一部は[[日立製作所|日立]]製である。また、プラザの1階{{～}}4階までの一部には世界でも稀な[[螺旋]]状のスパイラルエスカレーター（三菱製）が設置してある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== イベント ===&lt;br /&gt;
定期的なイベントとしては、1Fガーデンスクエアではピアノ演奏が行われている。またクリスマスシーズンには、[[スワロフスキー]]製のクリスタルツリーが飾られている。5Fランドマークホールで行われていた映画上映会「ランドマークシネマコレクション」は2011年3月末に終了した&amp;lt;ref name=&amp;quot;cinemacollenctionend&amp;quot;&amp;gt;{{Cite web |url=http://www.yokohama-landmark.jp/page/event/ |title=ランドマークシネマコレクション終了のお知らせ |date=2011-04-01 |publisher=ランドマークタワー |accessdate=2012-02-21}}&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===サ ービス ===&lt;br /&gt;
* 駐車場&lt;br /&gt;
: 駐車場はタワー･ロイヤルパークホテル共通で、約1,400台収容可能。&lt;br /&gt;
* ランドマークプラザクラブカード NICOS&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 主なテナント ===&lt;br /&gt;
==== 1F ====&lt;br /&gt;
* ※クイーンズスクエア（みなとみらい駅方面）連絡口&lt;br /&gt;
* [[MAFDアミノ]]（プリザーブドフラワー、ウェディングブーケ）&lt;br /&gt;
* [[成城石井]]&lt;br /&gt;
* [[ゴディバ]]&lt;br /&gt;
* [[創作茶漬け こめらく]]&lt;br /&gt;
* [[セブン-イレブン]]&lt;br /&gt;
* [[スリーエフ]]&lt;br /&gt;
* [[POSTAL HARBOR]]（郵便局）&lt;br /&gt;
* [[三菱東京UFJ銀行]]ATM ほか&lt;br /&gt;
* [[コールド・ストーン・クリーマリー]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 2F ====&lt;br /&gt;
* ※タワー棟・クイーンズスクエア（みなとみらい駅方面）連絡口&lt;br /&gt;
* [[ユナイテッドアローズ]] グリーンレーベル リラクシング&lt;br /&gt;
* [[ギャップ (企業)|GAP･GAPKids]]&lt;br /&gt;
* [[ウィンベル]]&lt;br /&gt;
* [[メーカーズシャツ鎌倉]]&lt;br /&gt;
* [[ビクトリノックス]]&lt;br /&gt;
* [[ABCクッキングスタジオ]]&lt;br /&gt;
* [[マクドナルド]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 3F ====&lt;br /&gt;
* ※タワー棟・69Fスカイガーデン連絡口&lt;br /&gt;
* 動く歩道（[[桜木町駅]]方面）、クイーンズスクエア（[[みなとみらい駅]]方面）連絡口&lt;br /&gt;
* [[H&amp;amp;M]]&lt;br /&gt;
* [[クリスチャンバウアー|クリスチャンバウアー 横浜]]&lt;br /&gt;
* [[キタムラ]]&lt;br /&gt;
* [[バナナ・リパブリック]]&lt;br /&gt;
* [[ハンティング・ワールド]]&lt;br /&gt;
* [[コーチ (企業)|COACH]]&lt;br /&gt;
* [[タリーズコーヒー]]&lt;br /&gt;
* [[みずほ銀行]]ATM（無人）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 4F ====&lt;br /&gt;
* [[H&amp;amp;M]]&lt;br /&gt;
* [[Francfranc]]&lt;br /&gt;
* [[スワロフスキー]]&lt;br /&gt;
* [[ポケモンセンター|ポケモンセンターヨコハマ]]&lt;br /&gt;
* [[ジャンプショップ|JUMP SHOP]]&lt;br /&gt;
* [[バックアレイ]] ほかインテリア・アパレル店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== 5F ====&lt;br /&gt;
* ※タワー棟・タワーダイニング連絡口&lt;br /&gt;
* [[ランドマークホール]]&lt;br /&gt;
* [[ランドマークスタジオ]]（[[レコーディングスタジオ]]）&lt;br /&gt;
* [[くまざわ|くまざわ書店]]&lt;br /&gt;
* [[フィットネスクラブ リーヴ横浜]]&lt;br /&gt;
* [[こども英会話のミネルヴァ]]&lt;br /&gt;
* [[イワキメガネ]]&lt;br /&gt;
* [[ジラフ]]&lt;br /&gt;
* [[ビルド・ア・ベア ワークショップ]] など飲食店・みやげ店&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==== B1F・B2F ====&lt;br /&gt;
* [[ドックヤードガーデン]] - 広場・イベントスペース、レストラン街&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ドックヤードガーデン ==&lt;br /&gt;
[[File:DOCKYARD GARDEN.jpg|thumb|ドックヤードを再活用している（上奥に見えるのはランドマークタワー）]]&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Dock Yard Garden|ドックヤードガーデン}}&lt;br /&gt;
みなとみらい21の敷地は[[三菱重工業]]横浜造船所の移転跡地を埋め立てにより拡張したものであり、横浜ランドマークタワーは造船所のドック跡地に建設された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
現在、イベントスペースやオープンテラスとして利用されている'''ドックヤードガーデン'''は、日本に現存する最古の石造り[[乾ドック|ドックヤード]]であった旧・[[横浜船渠]]（のちの三菱重工業横浜造船所）第2号ドックを復元・保存したものである。このドックは[[1896年]]に竣工し、[[1973年]]に使用を中止するまで70数年間、港湾施設として重要な役割を果たしてきた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
横浜市は早い段階から第2号ドックの保存活用を計画し、建築史家・[[村松貞次郎]]（当時[[東京大学]]教授）ら専門家の意見をもとに保存計画が立てられた。みなとみらいの土地造成に伴いドックは海岸線から離れたが、工事中の[[1989年]]4月には[[横浜市認定歴史的建造物]]となり、復元作業が全面的に行われ、1993年の横浜ランドマークタワーの開業とともに、ドックヤードガーデンとしてオープンした。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ドックの周囲はレストラン街となっている。[[1997年]]12月には国から[[重要文化財]]の指定を受けた。重要文化財指定名称は「'''旧横浜船渠株式会社第二号船渠'''」である。全長約107m、全幅（上端）約29m、深さ約10m&amp;lt;ref&amp;gt;ランドマークタワーにある看板より。[[2010年]][[5月1日]]閲覧。&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[2013年]]7月より開業20周年を記念して、180度体感型の[[プロジェクションマッピング]]による演出イベントが開催されている&amp;lt;ref&amp;gt;[http://hamarepo.com/story.php?story_id=2073 横浜ランドマークタワー祝20周年！屋外では日本初の「180度体験型プロジェクションマッピング」をレポート！]（はまれぽ.com 2013年7月16日）&amp;lt;/ref&amp;gt;。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、横浜船渠の第1号ドックは[[1985年]]以来、「[[日本丸メモリアルパーク]]」として保存活用されており、[[2000年]]12月に「旧横浜船渠株式会社第一号船渠」の名称で国の重要文化財に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 脚注 ==&lt;br /&gt;
{{脚注ヘルプ}}&lt;br /&gt;
=== 注釈 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;references group=&amp;quot;注&amp;quot;/&amp;gt;&lt;br /&gt;
=== 出典 ===&lt;br /&gt;
{{Reflist}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
{{Commonscat|Yokohama Landmark Tower}}&lt;br /&gt;
* [[各都道府県で最も高いビルの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本の超高層建築物・構築物の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本の超高層建築物]]&lt;br /&gt;
* [[超高層ビルの一覧]]&lt;br /&gt;
* [[日本一の一覧]]&lt;br /&gt;
* [[阿部野橋ターミナルビル]] - 高さ300mの超高層ビル「[[あべのハルカス]]」として大阪市に2014年完成予定。&lt;br /&gt;
* [[クイーンズスクエア横浜]]&lt;br /&gt;
* [[コスモクロック21]]&lt;br /&gt;
* [[よこはまコスモワールド]]&lt;br /&gt;
* [[横浜マリンタワー]]&lt;br /&gt;
* [[横浜美術館]]&lt;br /&gt;
* [[グランモール公園]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.yokohama-landmark.jp/page/index.php 横浜ランドマーク]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{Yokohama Minatomirai21}}&lt;br /&gt;
{{Commercial establishment of Mitsubishi Estate Group}}&lt;br /&gt;
{{DEFAULTSORT:よこはまらんとまくたわ}}&lt;br /&gt;
[[Category:西区 (横浜市)]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜みなとみらい21]] &lt;br /&gt;
[[Category:神奈川県の超高層ビル]]&lt;br /&gt;
[[Category:高さ250m以上300m未満の超高層ビル]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜市の商業施設]]&lt;br /&gt;
[[Category:1993年設立]]&lt;br /&gt;
[[Category:第36回BCS賞]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜市の観光地]]&lt;br /&gt;
[[Category:三菱地所]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜エフエム放送]]&lt;br /&gt;
[[Category:横浜市の放送送信所]]&lt;br /&gt;
[[Category:NHK横浜]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ神奈川]]&lt;br /&gt;
[[Category:在京広域テレビ局のテレビ送信所]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>センズリ</name></author>	</entry>

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