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		<title>Yourpedia - 利用者の投稿記録 [ja]</title>
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		<updated>2026-04-10T07:37:09Z</updated>
		<subtitle>利用者の投稿記録</subtitle>
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		<title>本能寺の変</title>
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				<updated>2007-06-30T05:53:45Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: /* 首謀者 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、[[クーデター]]とも、信長による社会変革への反動（[[反革命]]）とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない（各説については[[#謀反の動機|謀反の動機]]、[[#首謀者|首謀者]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）までに、織田信長は京を中心とした[[畿内]]とその周辺を手中に収め、この年[[武田勝頼]]を滅ぼした。関東の[[後北条氏]]、東北の[[伊達氏]]は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の[[毛利氏]]、四国の[[長曾我部氏]]、北陸の[[上杉氏]]、九州の[[島津氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、[[上杉謙信|謙信]]亡き後、養子[[上杉景勝|景勝]]の代であり、関東・越後から猛攻をかけ[[武田信玄]]を苦しめた強力な軍団は[[御館の乱]]で勢いを弱めていた。四国では[[三好康長]]が信長に属し、[[丹羽長秀]]の補佐を受けた[[織田信孝]]が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は[[大友氏]]や[[龍造寺氏]]が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安土城]]を本拠に、[[柴田勝家]]・[[明智光秀]]・[[滝川一益]]・[[羽柴秀吉]]、[[織田信孝]]などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[明智光秀]]は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった[[徳川家康]]の接待役を務めた（5月15日から17日まで）。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城[[坂本城]]に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下知る　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが（下記[[#動機と首謀者に関するその他の考察|動機と首謀者に関するその他の考察]]の項参照）、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[織田信長]]は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。（京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である[[村井貞勝]]らとともに[[二条城]]（二条新造御所）に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
しかしこれには異説があり、[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*徳川家康説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もある。※「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んだいう説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- あまり有力な説とは思えないので、いったんコメントアウトしておきます。&lt;br /&gt;
また、[[織田信長|信長]]は[[精神障害]]の一種で、自殺を図るも、単に自殺しては格好がつかないので、最も信頼を置いていた[[明智光秀|光秀]]に、自分を攻め込むように命じ、光秀は単にその命令に従っただけ、という説もある。{{要出典}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[NHK]]の[[大河ドラマ]]で信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることはほとんど無く、むしろ光秀に同情的である。[[1996年]]の『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』では[[徳川家康]]と[[千利休]]の謀略として描かれ、[[2006年]]の『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』では、光秀と信長の正妻・[[濃姫]]との関係にスポットを当てている。[[2007年]]1月3日に[[フジテレビ]]系列で放送されたドラマ『[[明智光秀～神に愛されなかった男～]]』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。いずれにしてもこれらはフィクションである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*織田方の各武将が遠征に出、信長の本拠が手薄のこの時期に茶会を進言したのは、[[堺]]の豪商・[[千利休]]であったが、そのことが何らかの黒幕の存在と結びつくとする考えもある。[[漫画]]、[[へうげもの]]では、[[千宗易]]（後の利休）が秀吉を煽動し、二人が光秀を謀叛に追い込んで信長を抹殺した、という説をとっている（表面上はすべて史実通りの展開）。光秀はツメが甘く信長を殺せないのでは、と危惧した秀吉が自ら本能寺に潜入して信長を斬殺する、という珍しいシーンがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[高山右近]]・[[池田恒興]]を味方につけ、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに[[清洲会議]]にて信忠の子・三法師（[[織田秀信]]）の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は、本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍するが、[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に大敗したことにより撤退。その後[[安土城]]を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る（異説あり）。このことにより[[清洲会議]]にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、[[清洲会議]]にも出席できなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の歴史|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1582年|ほんのうしのへん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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				<updated>2007-06-30T05:52:17Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、天正10年6月2日（1582年6月21日）、織田信長の重臣明智光秀...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''本能寺の変'''（ほんのうじのへん）は、[[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]（[[1582年]][[6月21日]]）、[[織田信長]]の重臣[[明智光秀]]が[[謀反]]を起こし、[[京都]]の[[本能寺]]に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、[[クーデター]]とも、信長による社会変革への反動（[[反革命]]）とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない（各説については[[#謀反の動機|謀反の動機]]、[[#首謀者|首謀者]]を参照）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 情勢 ==&lt;br /&gt;
天正10年（1582年）までに、織田信長は京を中心とした[[畿内]]とその周辺を手中に収め、この年[[武田勝頼]]を滅ぼした。関東の[[後北条氏]]、東北の[[伊達氏]]は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の[[毛利氏]]、四国の[[長曾我部氏]]、北陸の[[上杉氏]]、九州の[[島津氏]]となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、[[上杉謙信|謙信]]亡き後、養子[[上杉景勝|景勝]]の代であり、関東・越後から猛攻をかけ[[武田信玄]]を苦しめた強力な軍団は[[御館の乱]]で勢いを弱めていた。四国では[[三好康長]]が信長に属し、[[丹羽長秀]]の補佐を受けた[[織田信孝]]が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は[[大友氏]]や[[龍造寺氏]]が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[安土城]]を本拠に、[[柴田勝家]]・[[明智光秀]]・[[滝川一益]]・[[羽柴秀吉]]、[[織田信孝]]などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 経緯 ==&lt;br /&gt;
[[明智光秀]]は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった[[徳川家康]]の接待役を務めた（5月15日から17日まで）。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城[[坂本城]]に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城[[亀山城 (丹波国)|丹波亀山城]]に移り、出陣の準備を進めた。[[愛宕神社 (京都市)|愛宕大権現]]に参篭し、5月28日・29日に「時は今　天が下知る　五月哉」の発句で知られる[[連歌]]の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが（下記[[#動機と首謀者に関するその他の考察|動機と首謀者に関するその他の考察]]の項参照）、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[織田信長]]は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男[[織田信忠|信忠]]は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に[[頼山陽]]の『[[日本外史]]』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。（京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。&lt;br /&gt;
物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗（明智光秀の家紋）である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった[[森蘭丸]]に火を放たせ、自刃したとされる（信長の家臣[[太田牛一]]の著作『[[信長公記]]』による）。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺（上立売大宮）の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺（上京区鶴山町に移転）には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[ルイス・フロイス]]の『日本史』（Historia de Iapan）では、「（午前3時頃と言われる）明智の（少数の）兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して（6月2日に御所前で[[馬揃え]]をする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる）、信長が[[厠]]から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は[[小姓]]たちを呼び、鎌のような武器（[[薙刀]]）を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の[[鉄砲]]隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた（火を放ち自害した）」という内容になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である[[村井貞勝]]らとともに[[二条城]]（二条新造御所）に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である[[織田長益]]（のちの[[織田有楽斎]]）も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て[[岐阜]]へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ　お腹召せ召せ召させておいて　われは安土へ逃げる源五　6月2日に大水出て　織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣[[ヤスケ]]も戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 謀叛の動機 ==&lt;br /&gt;
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一般に知られる怨恨説によると、[[徳川家康]]の接待役を解任されて面目を失った、[[出雲国|出雲]]・[[伯耆国|伯耆]]もしくは[[石見]]に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな[[講談]]話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。&lt;br /&gt;
むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。&lt;br /&gt;
そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 首謀者 ==&lt;br /&gt;
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 足利義昭説（藤田達生） ===&lt;br /&gt;
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く[[足利義昭]]が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。&lt;br /&gt;
信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。&lt;br /&gt;
しかしこの説では、義昭を庇護していた[[毛利氏]]が（定説によれば）本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。&lt;br /&gt;
しかしこれには異説があり、[[太閤記]]や[[佐久間軍記]]などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、[[小早川隆景]]が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 朝廷説 ===&lt;br /&gt;
朝廷黒幕説も、黒幕は[[正親町天皇]]なのか、[[誠仁親王]]なのか、あるいは[[近衛前久]]等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「[[三職推任問題]]」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、[[山崎の戦い]]の後、[[織田信孝]]が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、[[吉田兼見]]が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『[[兼見卿記]]』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている（逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある）。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも）、これは[[細川藤孝]]の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
*[[イエズス会]]説（立花京子） - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説&lt;br /&gt;
*羽柴秀吉説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[毛利輝元]]（あるいは小早川隆景）説{{要出典}}&lt;br /&gt;
*[[長宗我部元親]]説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから（[[井沢元彦]]著『[[逆説の日本史]]』より）&lt;br /&gt;
*朝廷と羽柴秀吉の共謀説{{要出典}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- 説を追加する場合は、出典を明記してください。また、前後の記述のスタイルに合わせてください。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
*朝廷＆秀吉共謀、実行役光秀は口封じに消された説&lt;br /&gt;
本能寺の変が発生した1582年6月2日、大軍の指揮権を与えられた明智光秀と少数の手勢のみで本能寺に滞在する織田信長―――この日の京都には信長に積年の恨みを抱く光秀が謀反を起こすにこの上ない最高の舞台が整っていたのだが、ではこの舞台は誰が演出したのか・・・秀吉が主君信長に援軍を要請した時期と、朝廷が三官推任を行って信長を単身で京都へ召還した時期とが余りにも絶妙すぎるのである。&lt;br /&gt;
また本能寺の変から毛利軍との和睦成立・中国大返し・天王山の合戦へ至るまでの秀吉の凄まじい行動力は明らかに常軌を逸しており、事前に秀吉が何らかの形で光秀の行動を把握していた可能性が指摘されている。&lt;br /&gt;
これらの事から信長暗殺は朝廷＆秀吉が共謀して仕組んだものであり、実行役光秀はこの共謀を漏らす危険性があるとの理由で電撃的に消された・・・とする説である。&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 動機と首謀者に関するその他の考察 ==&lt;br /&gt;
*光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、'''「時は今　天が下知る　五月哉」'''は、「時（とき）」は源氏の流れをくむ[[土岐氏]]の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天（あめ）が下（した）治る（しる）」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もある。※「時は今　雨が下'''な'''る　五月哉」と詠んだいう説もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;lt;!-- あまり有力な説とは思えないので、いったんコメントアウトしておきます。&lt;br /&gt;
また、[[織田信長|信長]]は[[精神障害]]の一種で、自殺を図るも、単に自殺しては格好がつかないので、最も信頼を置いていた[[明智光秀|光秀]]に、自分を攻め込むように命じ、光秀は単にその命令に従っただけ、という説もある。{{要出典}}&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*[[NHK]]の[[大河ドラマ]]で信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることはほとんど無く、むしろ光秀に同情的である。[[1996年]]の『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』では[[徳川家康]]と[[千利休]]の謀略として描かれ、[[2006年]]の『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』では、光秀と信長の正妻・[[濃姫]]との関係にスポットを当てている。[[2007年]]1月3日に[[フジテレビ]]系列で放送されたドラマ『[[明智光秀～神に愛されなかった男～]]』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。いずれにしてもこれらはフィクションである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*織田方の各武将が遠征に出、信長の本拠が手薄のこの時期に茶会を進言したのは、[[堺]]の豪商・[[千利休]]であったが、そのことが何らかの黒幕の存在と結びつくとする考えもある。[[漫画]]、[[へうげもの]]では、[[千宗易]]（後の利休）が秀吉を煽動し、二人が光秀を謀叛に追い込んで信長を抹殺した、という説をとっている（表面上はすべて史実通りの展開）。光秀はツメが甘く信長を殺せないのでは、と危惧した秀吉が自ら本能寺に潜入して信長を斬殺する、という珍しいシーンがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 本能寺の変後の諸将の動向 ==&lt;br /&gt;
=== 明智光秀 ===&lt;br /&gt;
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の[[山崎の戦い]]に敗れ、同日深夜、小栗栖（[[京都市]][[伏見区]]）で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、[[三日天下]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
期待していた[[細川忠興]]、[[筒井順慶]]ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 羽柴秀吉 ===&lt;br /&gt;
秀吉は[[清水宗治]]の篭る[[備中高松城]]を包囲して毛利氏と対陣していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には[[摂津国|摂津]]まで進んだ。ここで摂津の武将[[中川清秀]]・[[高山右近]]・[[池田恒興]]を味方につけ、さらに四国出兵のため[[堺市|堺]]にいた[[織田信孝]]・[[丹羽長秀]]と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の[[山崎の戦い]]([[天王山の戦い]]）で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を'''中国大返し'''と呼ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに[[清洲会議]]にて信忠の子・三法師（[[織田秀信]]）の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の死の報をいち早く入手した事、[[兵糧攻め]]によりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 柴田勝家 ===&lt;br /&gt;
勝家は[[佐々成政]]・[[前田利家]]とともに、6月3日上杉氏の[[越中国]][[魚津城]]を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、[[上杉景勝]]の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後[[清洲会議]]で秀吉と対立し、[[賤ヶ岳の戦い]]で敗北、自害した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川家康 ===&lt;br /&gt;
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。[[山城国|山城]]綴喜・[[近江国|近江]]・加太峠・[[伊賀国|伊賀]]の山中を通って[[伊勢国|伊勢]]へ抜け、[[伊勢湾]]を渡って本国[[三河国|三河]]に戻った。後に「'''神君伊賀越え'''」と称される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った[[穴山信君]]は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、[[服部半蔵]]の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、[[堺]]で討たれたと言う伝説も存在し、[[堺]]市内の[[南宗寺]]には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の[[大坂の陣]]の際に生まれた伝説である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると[[酒井忠次]]は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃～京へ進軍する方と、伊勢～京に進軍する二手に分かれることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信雄 ===&lt;br /&gt;
信長の次男・[[織田信雄]]は、本能寺の変の後[[明智光秀]]を討とうと近江の土山へ進軍するが、[[山崎の戦い]]で明智光秀が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に大敗したことにより撤退。その後[[安土城]]を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る（異説あり）。このことにより[[清洲会議]]にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った（[[小牧・長久手の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 滝川一益 ===&lt;br /&gt;
[[滝川一益]]は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した（[[神流川の戦い]]）。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、[[清洲会議]]にも出席できなかったという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信孝・丹羽長秀 ===&lt;br /&gt;
[[織田信孝]]は[[丹羽長秀]]、信長の甥・[[津田信澄]]（父は[[織田信勝|織田信勝（信行）]]）らとともに[[大坂]]にて[[四国]]の[[長宗我部元親]]討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 長宗我部元親 ===&lt;br /&gt;
長宗我部元親は信長の[[四国征伐]]の影響もあり、兵を[[白地城]]に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を[[阿波]]・[[讃岐]]に兵を出し、完全に勢力下に入れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連事項 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:京都市の歴史|ほんのうしのへん]]&lt;br /&gt;
[[Category:1582年|ほんのうしのへん]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%BE%81%E4%BC%90&amp;diff=9233</id>
		<title>四国征伐</title>
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				<updated>2007-06-30T05:46:54Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四国征伐'''（しこくせいばつ）は、天正年間の[[織田政権]]および[[豊臣政権]]と[[長宗我部氏]]の軍との戦いの総称である。'''四国攻め'''とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第一次四国征伐 ==&lt;br /&gt;
四国では、[[土佐国|土佐]]から起こった[[長宗我部元親]]が統一を進め、中央で統一事業を進める[[織田信長]]とは、織田家家臣の[[明智光秀]]を通じて友好関係を持っていた。一方、元親に追われた[[阿波国|阿波]]の[[三好康長]]は、同じく織田家家臣で[[中国地方]]の制圧に従事していた秀吉を通じて旧領回復を試みていた。[[1582年]](天正10)、[[甲斐国|甲斐]]の[[武田氏]]制圧を終えた信長は、2月に元親に対して土佐・阿波2郡のみの領有を認めるとして上京を命じ、元親がこれを拒否すると、[[織田信孝]]を大将に四国征伐を行うことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先鋒として三好康長の兵が四国へ渡るが、同年6月には信長が明智光秀により[[本能寺の変]]で討たれてしまう。京都に近かった信孝らの兵も秀吉とともに光秀討伐に加わり、四国征伐は中止される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四国統一 ==&lt;br /&gt;
土佐の元親は、[[十河存保]]を[[中富川の戦い]]で撃破し、阿波を平定。さらに[[讃岐国|讃岐]]を、[[1585年]]には[[伊予国|伊予]]の[[河野氏]]を制圧し、四国をほぼ平定する。各地で小競り合いが続いたため時期は諸説あるが、四国統一は第二次征伐開戦のわずか3～5週間前とする向きが強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第二次四国征伐 ==&lt;br /&gt;
織田政権では、信長の後継を巡る[[清洲会議]]で秀吉が台頭し、天下統一政策を推進する。元親は織田家家臣のうち、秀吉と対立する[[柴田勝家]]や織田信孝、[[和泉国|和泉]]や[[紀伊国|紀州]]の[[一揆]]とも結んで秀吉を牽制する。さらに[[徳川家康]]や[[織田信雄]]とも結ぶが、秀吉と家康は[[小牧・長久手の戦い]]の後に和睦したため、長宗我部元親は孤立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉は[[紀州]]制圧が完了すると四国征伐を開始し、秀吉は元親に対して阿波、讃岐、伊予の三国返上を要求するが、元親はこれを拒絶。1585年6月、秀吉は自身の出馬は病のため諦めるが、総大将の羽柴秀長([[豊臣秀長]])らの10万の軍勢を四国へ送る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀長、[[豊臣秀次]]らの兵は阿波へ、[[宇喜多秀家]]らは讃岐へ、さらに[[毛利氏]]の兵が伊予へ侵攻。元親は土佐勢6千を含む2～4万の軍勢を動員、交通の要衝であった阿波の白地城を本拠地に防衛体制を築いて対抗するが、伊予に上陸した毛利軍と対峙した金子元宅が敗北する（[[天正の陣]]）など戦線が崩壊し、その後も讃岐、阿波が次々に豊臣軍に進軍され、一門衆の薦めもあり長宗我部氏は8月に降伏する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長宗我部氏には土佐一国に安堵され、元親の三男の[[津野親忠]]が人質として取られた。阿波は[[蜂須賀氏]]、讃岐には[[仙石氏]]、[[十河氏]]、伊予には小早川氏がそれぞれ配置された。秀吉はその後、[[九州地方]]の平定のために[[九州征伐]]を開始し、長宗我部氏も従軍を命じられる。&lt;br /&gt;
長宗我部氏が築いていた[[一領具足]]は、秀吉の[[兵農分離]]政策と相反する物であったが、精強な土佐武士の中核戦力であった為、存続された。&lt;br /&gt;
長宗我部氏は元親の嫡男[[長宗我部信親|信親]]が九州征伐で戦死して以降、四男[[長宗我部盛親|盛親]]が家督相続した事によってお家騒動が勃発。盛親の従兄弟に当る[[吉良親実]]を粛清する等した為、急速に衰退していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|しこくせいはつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦国時代の戦い|しこくせいはつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:四国地方の歴史|しこくせいはつ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%BE%81%E4%BC%90&amp;diff=9232</id>
		<title>四国征伐</title>
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				<updated>2007-06-30T05:46:10Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''四国征伐'''（しこくせいばつ）は、織田政権および豊臣政権と長宗我部氏の軍との戦いの総称である。'''四国攻め'''と...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''四国征伐'''（しこくせいばつ）は、[[織田政権]]および[[豊臣政権]]と[[長宗我部氏]]の軍との戦いの総称である。'''四国攻め'''とも呼ばれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第一次四国征伐 ==&lt;br /&gt;
四国では、[[土佐国|土佐]]から起こった[[長宗我部元親]]が統一を進め、中央で統一事業を進める[[織田信長]]とは、織田家家臣の[[明智光秀]]を通じて友好関係を持っていた。一方、元親に追われた[[阿波国|阿波]]の[[三好康長]]は、同じく織田家家臣で[[中国地方]]の制圧に従事していた秀吉を通じて旧領回復を試みていた。[[1582年]](天正10)、[[甲斐国|甲斐]]の[[武田氏]]制圧を終えた信長は、2月に元親に対して土佐・阿波2郡のみの領有を認めるとして上京を命じ、元親がこれを拒否すると、[[織田信孝]]を大将に四国征伐を行うことになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
先鋒として三好康長の兵が四国へ渡るが、同年6月には信長が明智光秀により[[本能寺の変]]で討たれてしまう。京都に近かった信孝らの兵も秀吉とともに光秀討伐に加わり、四国征伐は中止される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 四国統一 ==&lt;br /&gt;
土佐の元親は、[[十河存保]]を[[中富川の戦い]]で撃破し、阿波を平定。さらに[[讃岐国|讃岐]]を、[[1585年]]には[[伊予国|伊予]]の[[河野氏]]を制圧し、四国をほぼ平定する。各地で小競り合いが続いたため時期は諸説あるが、四国統一は第二次征伐開戦のわずか3～5週間前とする向きが強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 第二次四国征伐 ==&lt;br /&gt;
織田政権では、信長の後継を巡る[[清洲会議]]で秀吉が台頭し、天下統一政策を推進する。元親は織田家家臣のうち、秀吉と対立する[[柴田勝家]]や織田信孝、[[和泉国|和泉]]や[[紀伊国|紀州]]の[[一揆]]とも結んで秀吉を牽制する。さらに[[徳川家康]]や[[織田信雄]]とも結ぶが、秀吉と家康は[[小牧・長久手の戦い]]の後に和睦したため、長宗我部元親は孤立する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀吉は[[紀州]]制圧が完了すると四国征伐を開始し、秀吉は元親に対して阿波、讃岐、伊予の三国返上を要求するが、元親はこれを拒絶。1585年6月、秀吉は自身の出馬は病のため諦めるが、総大将の羽柴秀長([[豊臣秀長]])らの10万の軍勢を四国へ送る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
秀長、[[豊臣秀次]]らの兵は阿波へ、[[宇喜多秀家]]らは讃岐へ、さらに[[毛利氏]]の兵が伊予へ侵攻。元親は土佐勢6千を含む2～4万の軍勢を動員、交通の要衝であった阿波の白地城を本拠地に防衛体制を築いて対抗するが、伊予に上陸した毛利軍と対峙した金子元宅が敗北する（[[天正の陣]]）など戦線が崩壊し、その後も讃岐、阿波が次々に豊臣軍に進軍され、一門衆の薦めもあり長宗我部氏は8月に降伏する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長宗我部氏には土佐一国に安堵され、元親の三男の[[津野親忠]]が人質として取られた。阿波は[[蜂須賀氏]]、讃岐には[[仙石氏]]、[[十河氏]]、伊予には小早川氏がそれぞれ配置された。秀吉はその後、[[九州地方]]の平定のために[[九州征伐]]を開始し、長宗我部氏も従軍を命じられる。&lt;br /&gt;
長宗我部氏が築いていた[[一領具足]]は、秀吉の[[兵農分離]]政策と相反する物であったが、精強な土佐武士の中核戦力であった為、存続された。&lt;br /&gt;
長宗我部氏は元親の嫡男[[長宗我部信親|信親]]が九州征伐で戦死して以降、四男[[長宗我部盛親|盛親]]が家督相続した事によってお家騒動が勃発。盛親の従兄弟に当る[[吉良親実]]を粛清する等した為、急速に衰退していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本史の出来事一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本の合戦一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の戦い|しこくせいはつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:日本の戦国時代の戦い|しこくせいはつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:四国地方の歴史|しこくせいはつ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E7%89%A7%E6%9D%91%E5%88%A9%E8%B2%9E&amp;diff=9229</id>
		<title>牧村利貞</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''牧村 利貞'''（'''まきむら としさだ'''）は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。  天...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''牧村 利貞'''（'''まきむら としさだ'''）は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]・[[大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（1546年）、[[稲葉良通]]（一鉄）の子・稲葉重通の子として生まれる。外祖父が[[牧村政倫]]であったことから、政倫の後を継いで[[伊勢国|伊勢]][[岩出城]]主となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[織田信長]]の死後、[[豊臣秀吉]]に仕えて馬廻となる。[[天正]]12年（[[1584年]]）、[[高山重友]]の勧めを受けて[[キリシタン]]となる。[[小牧・長久手の戦い]]、[[四国征伐]]、[[九州征伐]]にも参加した。天正18年（[[1590年]]）、秀吉より伊勢国内において2万650石を与えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文禄元年（[[1592年]]）からの[[朝鮮出兵]]にも舟奉行として参加するが、文禄2年（1593年）7月10日、朝鮮において病死した。享年48。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実子の牛之助は幼少のため、家督は弟の稲葉道通が継いだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[利休七哲]]の一人でもある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:稲葉氏|まきむらとしさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:茶人|まきむらとしさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン|まきむらとしさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|まきむらとしさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の大名|まきむらとしさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:1546年生|まきむら としさた]]&lt;br /&gt;
[[Category:1593年没|まきむら としさた]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>利休七哲</title>
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				<updated>2007-06-30T05:41:02Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''利休七哲'''（'''りきゅうしちてつ'''）は、千利休の高弟七人を指す呼称である。利休の曾孫にあたる表千家の江岑宗左...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''利休七哲'''（'''りきゅうしちてつ'''）は、[[千利休]]の高弟七人を指す呼称である。利休の曾孫にあたる[[表千家]]の[[江岑宗左]]（逢源斎）の記した「江岑夏書」（こうしんげがき）の中で挙げられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、様々な茶書などで構成が微妙に変わり、[[織田長益]]（有楽斎）、[[千道安]]（利休の実子）、[[荒木村重]]（道薫）を加えて「'''十哲'''（じってつ）」と呼称される場合もある。また、千道安を除いて[[前田利長]]が入る、[[有馬豊氏]]を加えるなど諸説あるが、いずれも後世呼称されたもので、当時からそのように呼ばれていたわけではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==七哲==&lt;br /&gt;
*[[細川忠興]]（三斎）&lt;br /&gt;
*[[古田織部|古田重然]]（織部）&lt;br /&gt;
*[[芝山宗綱]]（監物）&lt;br /&gt;
*[[瀬田正忠]]（掃部）&lt;br /&gt;
*[[蒲生氏郷]]&lt;br /&gt;
*[[高山右近|高山重友]]（右近）&lt;br /&gt;
*[[牧村利貞]]（兵部）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 利休門三人衆==&lt;br /&gt;
利休門三人衆と呼ばれる弟子たちもおり、[[利休]]門下の[[武将]]のなかで、特に優れていたといわれる、[[蒲生氏郷]]、[[芝山宗綱]]（監物）、[[細川忠興]]の三人の武将がいる。&lt;br /&gt;
また、彼らは利休七哲にも加わっている。利休七哲と同じで、後世に呼称されたもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連リンク==&lt;br /&gt;
*[[茶道]]&lt;br /&gt;
*[[三千家]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:茶人|* りきゆう]]&lt;br /&gt;
[[Category:名数|7 りきゆうしちてつ]]&lt;br /&gt;
[[Category:千家|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E9%AB%98%E5%B1%B1%E9%87%8D%E5%8F%8B&amp;diff=9130</id>
		<title>高山重友</title>
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				<updated>2007-06-28T11:55:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''高山 重友'''（たかやま しげとも、天文21年（1552年） - 慶長20年1月8日（1615年2月4日）...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''高山 重友'''（たかやま しげとも、[[天文 (元号)|天文]]21年（[[1552年]]） - [[慶長]]20年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]（[[1615年]][[2月4日]]））は、代表的な'''[[キリシタン大名]]'''。'''高山右近'''の通称で知られる。[[洗礼名]]はユスト。[[茶道]]を究めた重友は「南坊」と号し、[[千利休]]の七高弟（'''[[利休七哲]]'''）の一人としても知られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==生涯==&lt;br /&gt;
=== 生い立ち ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高山氏は[[摂津国]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]]高山庄（現在の[[大阪府]][[豊能郡]][[豊能町]]高山）出身の国人領主であり、父の[[高山友照|友照]]（飛騨守を自称）が当主のころには当時畿内で大きな勢力を振るった[[三好長慶]]に仕え、長慶の重臣[[松永久秀]]にしたがって[[大和国]][[宇陀郡]]の[[沢城]]（現在の[[奈良県]][[宇陀市]]榛原区）を居城とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした中、天文21年に右近は友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる重友であるが、早くも永禄7年（[[1564年]]）に12歳で[[キリスト教]]の[[洗礼]]を受けている。それは父が[[奈良]]で琵琶法師だった[[イエズス会|イエズス会員]][[ロレンソ了斎]]の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした高山親子にも否応なく戦国乱世は迫ってくる。[[三好氏]]は当主長慶が永禄7年に没すると内紛などから急速に衰退し、高山氏の本来の所領がある摂津においても豪族の[[池田氏]]・[[伊丹氏]]などが独自の力を強めつつあった。そうした中、永禄11年（[[1568年]]）に[[織田信長]]の強力な軍事力の庇護の下[[足利義昭]]が[[征夷大将軍|将軍]]となると状況は一変する。義昭は直臣である[[和田惟政]]を[[高槻城]]に置き、さらに彼に[[伊丹親興]]・[[池田勝正]]を加えた三人を摂津の守護に任命した。高山親子は和田惟政に仕えることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、ただでさえ領域の狭い摂津をさらに分割統治する体制がうまくいくわけもなく、摂津は大きく混乱する。まず[[元亀]]2年（[[1571年]]）、和田惟政が池田氏の被官・[[荒木村重]]の軍に敗れて討死、まもなくその村重が池田氏そのものを乗っとる。荒木村重は織田信長に接近して「摂津国の切り取り勝手（全域の領有権確保）」の承諾を得ると、三好氏に再び接近した伊丹氏を滅ぼす。こうして摂津は[[本願寺]]が領有する石山周辺（現在の[[大阪市]]域）を除き、荒木村重の領有となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした状況下で、高山親子はうまく立ち回る。和田惟政の死後、高槻城はその子[[和田惟長|惟長]]が城主となっていたが、まだ幼かった。そこで高山親子は元亀4年（[[1573年]]）4月、高槻城を乗っ取り、自ら城主となった。これは荒木村重と示し合わせていたといわれ、荒木の重臣であった[[中川清秀]]が高山氏にごく近い親族であったことからも、その可能性は高い。高山親子は荒木村重の支配下に入り、村重がすでに信長から摂津一円の支配権を得ていたことからこの事件は黙認され、高山親子は晴れて高槻城主となることができた。まもなく高槻城の修築工事を行い、石垣が塗り壁など当時畿内で流行しつつあった様式をとりいれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただしこうした戦国乱世を地でいくようなことをしつつも、高山親子は一層キリシタンに傾倒していく。特に父友照は50才を過ぎると高槻城主の地位を息子の重友に譲り、自らはキリシタンとしての生き方を実践するようになった。この時代、友照が教会建築や布教に熱心であったため、領内の神社仏閣は破壊され神官僧侶は迫害を受けた。父の生き方は当然息子の重友に大きな影響を与えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 荒木村重の反乱 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正6年（[[1578年]]）、重友の人生を変える出来事が起きる。右近が与力として従っていた荒木村重が主君織田信長に背いたのである。村重の謀反を知った重友はこれを翻意させようと考え、妹や息子を[[有岡城]]に人質に出して誠意を示しながら村重謀反を阻止しようとしたがならなかった。重友は村重と信長の間にあって悩み、尊敬していた[[イエズス会]]員[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ|オルガンティノ]]神父に助言を求めた。神父は信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよとアドバイスした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高槻城は要衝の地であったため、信長はここをまず落とそうとした。そこで信長の考えた作戦は重友を苦悩させる。右近が金や地位では動かないことを知っていた信長は、重友が降らなければ畿内の宣教師とキリシタンを皆殺しにして、教会を壊滅させるといってきたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城内では徹底抗戦を訴える父友照らと開城を求める派で真っ二つとなった。ここにいたって重友は常識を超える決断をした。城主を辞し、財産も地位も家族もすべてをすてて紙衣一枚で城を出て、信長の前に立ったのである。結果として家族や家臣はじめ、村重側に出していた人質もすべて助かり、荒木勢の敗北の大きな要因となった。この功績を認めた信長によって、重友は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措置を受けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== キリシタン大名として ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）6月に[[本能寺の変]]で信長が没すると、[[明智光秀]]は高山重友の協力を期待していたようだが、重友は高槻に戻ると秀吉の幕下にかけつけた。まもなく起こった[[山崎の戦い]]では先鋒を務め、中川清秀、[[池田恒興]]と共に奮戦、明智光秀を敗走させ、[[清洲会議]]でその功を認められて加増された。また、本能寺の変後の動乱で[[安土城|安土]]が焼けると安土の[[セミナリヨ]]を高槻に移転した。[[賤ケ岳の合戦]]では岩崎山を守るものの、[[柴田勝家]]の武将・[[佐久間盛政]]の猛攻にあって親族の中川清秀は討死、重友はやっとのことで[[豊臣秀長|羽柴秀長]]の陣まで撤退して一命を保った。その後も[[小牧・長久手の戦い]]や四国征伐などにも参戦している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
高山重友は人徳の人として知られ、多くの大名が彼の影響を受けてキリシタンとなった。たとえば牧村正春、[[蒲生氏郷]]、[[黒田孝高]]などがそうである。[[細川忠興]]、[[前田利家]]は洗礼を受けなかったが、高山重友に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]からも信任のあつかった重友は天正13年（[[1585年]]）には[[播磨国]][[明石城|明石]]に新たに６万石の領地を与えられた。しかし、まもなくキリシタン禁教令が秀吉によって施行される。秀吉の側近の黒田孝高が真っ先に棄教するなどキリシタン大名には苦しい状況となるが、重友は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは[[小西行長]]に庇護されて[[小豆島]]や[[肥後国|肥後]]などに隠れ住むが、天正16年（[[1588年]]）に[[加賀国]][[金沢城]]主の前田利家に招かれて同地に赴き、そこで1万5千石の扶持を受けて暮らした。[[金沢城]]修築の際には、重友の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家嫡男の[[前田利長]]にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年（（[[1609年]]）には、利長の隠居城・富山の炎上により、越中射水郡関野（現富山県高岡市）に築かれた新城（[[高岡城]]）の縄張を担当したといわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 国外追放 ===&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長19年（[[1614年]]）、加賀で暮らしていた重友はキリシタン追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族やともに追放された[[内藤如安]]らと共に[[マニラ]]に送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペイン人総督、[[ジュアン・デ・シルバ]]らから大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため62歳の右近はすぐに病を得て、翌年の2月4日に息を引き取った。葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげて[[イントラムロス]]の中にあった聖アンナ教会で盛大に行われた。現在[[石川県]][[羽咋郡]][[志賀町]][[代田 (石川県志賀町)|代田]]、[[大分県]][[大分市]]に直系子孫の2つの「高山家」がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本のキリシタン一覧]]&lt;br /&gt;
*[[大阪カテドラル聖マリア大聖堂]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:茶人|たかやま しげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|たかやま しげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の大名|たかやましげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:高槻市|たかやま しげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン|たかやましげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:日系フィリピン人|たかやましげとも]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:1552年生|たかやましげとも]]&lt;br /&gt;
[[Category:1615年没|たかやましげとも]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>高山右近</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 高山重友へのリダイレクト&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;#REDIRECT [[高山重友]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>グネッキ・ソルディ・オルガンティノ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''グネッキ・ソルディ・オルガンティノ'''（Gnecchi‐Soldo Organtino, 1533年 - 1609年4月22日）は戦国時代末期...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''グネッキ・ソルディ・オルガンティノ'''（Gnecchi‐Soldo Organtino, [[1533年]] - [[1609年]][[4月22日]]）は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期の日本で宣教活動を行ったイタリア人[[宣教師]]。[[カトリック教会|カトリック]][[司祭]]。[[イエズス会]]員。人柄が良く、日本人が好きだった彼は「うるがんばてれん」と多くの日本人から慕われ、30年を京都で過ごす中で[[織田信長]]や[[豊臣秀吉]]などの時の権力者とも知己となり、激動の戦国時代の目撃者となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
[[1533年]]北イタリアの[[カスト]]で生まれたオルガンティノは22歳で[[イエズス会]]に入会した。[[ロレート]]の大神学校、[[ゴア]]の大神学校で教えた後で日本に派遣された。来日は[[1570年]][[6月18日]]で、[[天草]]志岐にその第一歩をしるした。オルガンティノははじめから京都地区での宣教を担当し、[[ルイス・フロイス]]と共に京都での困難な宣教活動に従事した。[[1577年]]から三十年にわたって京都地区の布教責任者をつとめた。持ち前の明るさと魅力的な人柄で日本人に大変人気があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オルガンティノは[[1576年]]に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。[[1578年]]、[[荒木村重]]の叛乱時には家臣と村重の間で板ばさみになった[[高山右近]]から去就について相談を受けた。[[1580年]]には安土で直接[[織田信長]]に願って与えられた土地に[[セミナリヨ]]を建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は高山右近の治める[[高槻]]の出身者たちであった。第一期生の中には後に殉教する[[パウロ三木]]もいた。しかしこのセミナリヨは信長が[[本能寺の変]]で横死した後で安土が焼かれた時に放棄された。[[1583年]]には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、高山右近の支配する高槻に設置された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1587年]]に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは高山右近とともに[[小豆島]]に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、高山右近が加賀に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1591年]]、[[天正遣欧少年使節]]の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。[[前田玄以]]のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。[[1597年]]には[[日本二十六聖人]]の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
半生を日本宣教に捧げた彼は最晩年、長崎で病床につき、[[1609年]]、76歳で没した。&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--&lt;br /&gt;
しかし、グネッキ・ソルディ・オルガンティノは100歳まで生きた説もある。これは当時の加賀藩の真田右太衛門が書いた異国の宗教に書いてある&lt;br /&gt;
--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本のキリシタン一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:宣教師|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国時代の人物 (日本)|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の人物|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;br /&gt;
[[Category:江戸時代の人物|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;br /&gt;
[[Category:1533年生|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;br /&gt;
[[Category:1609年没|おるかんていのくねつきそるてい]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>ガスパル・ヴィレラ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ガスパル・ヴィレラ'''（'''Gaspar Vilela''', [[大永]]5年（[[1525年]]）？ - [[元亀]]3年（[[1572年]]））は[[ポルトガル]]人。[[イエズス会]]員で[[カトリック教会]]の[[司祭]]。[[日本]]キリスト教史上最初期の[[宣教師]]の一人で、京都での布教を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
1525年頃にポルトガルの[[アヴィシュ]]に生まれたと推測されている。&lt;br /&gt;
イエズス会に入会し、[[1551年]]、兄弟らとともに[[インド]]の[[ゴア]]に入り、司祭となる。[[1554年]]にはゴアを起ち日本へ向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1556年]]（[[弘治 (日本)|弘治]]2年）、イエズス会インド副管区長[[ヌーネス・バレト]]とともに[[豊後国|豊後]][[府内]]（現[[大分県]][[大分市]]）に上陸し、[[日本]]での布教活動を開始。[[1558年]]（[[永禄]]元年）、[[バルタザール・ガーゴ]]神父に代わり[[平戸市|平戸]]布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主[[松浦隆信 (道可)]]により退去を命じられ、一時府内に戻った後、[[コスメ・デ・トーレス]]の指示を受け、京を目指した。翌[[1559年]]（永禄2年）、日本人[[ロレンソ了斎|ロレンソ]]らと京都入りを果たした。翌[[1560年]]（永禄3年）、苦労の末に将軍[[足利義輝]]に謁見、[[砂時計]]を献上。[[大友義鎮]]や[[伊勢貞孝]]の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし[[1565年]]（永禄8年）、義輝が殺されるとキリシタン嫌いの松永久秀によって京を追放となり、[[堺市|堺]]に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで布教した。この間、[[高山友照]]、[[高山右近|右近]]父子らの受洗を行ったが、[[1570年]]（[[元亀]]元年）インドに渡り、1572年ゴアで病没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
ヴィレラの著作である『[[耶蘇会士日本通信]]』の[[1561年]][[8月17日]]付け書簡には、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町は[[ヴェネツィア|ベニス市]]の如く執政官によりて治めらる」と書かれ、この文章によって、堺の様子は『東洋のベニス』として、当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本のキリシタン一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:宣教師|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:イエズス会士|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:ポルトガルの人物|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国時代の人物 (日本)|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の人物|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:1572年没|ういれらかすはる]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>ガスパル・ヴィレラ</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''ガスパル・ヴィレラ'''（'''Gaspar Vilela''', 大永5年（1525年）？ - 元亀3年（1572年））はポルトガル人。イエズス会...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''ガスパル・ヴィレラ'''（'''Gaspar Vilela''', [[大永]]5年（[[1525年]]）？ - [[元亀]]3年（[[1572年]]））は[[ポルトガル]]人。[[イエズス会]]員で[[カトリック教会]]の[[司祭]]。[[日本]]キリスト教史上最初期の[[宣教師]]の一人で、京都での布教を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
1525年頃にポルトガルの[[アヴィシュ]]に生まれたと推測されている。&lt;br /&gt;
イエズス会に入会し、[[1551年]]、兄弟らとともに[[インド]]の[[ゴア]]に入り、司祭となる。[[1554年]]にはゴアを起ち日本へ向かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1556年]]（[[弘治 (日本)|弘治]]2年）、イエズス会インド副管区長[[ヌーネス・バレト]]とともに[[豊後国|豊後]][[府内]]（現[[大分県]][[大分市]]）に上陸し、[[日本]]での布教活動を開始。[[1558年]]（[[永禄]]元年）、[[バルタザール・ガーゴ]]神父に代わり[[平戸市|平戸]]布教を担当し、約1500人に洗礼を授けたが仏教徒と対立し、領主[[松浦隆信 (道可)]]により退去を命じられ、一時府内に戻った後、[[コスメ・デ・トーレス]]の指示を受け、京を目指した。翌[[1559年]]（永禄2年）、日本人[[ロレンソ了斎|ロレンソ]]らと京都入りを果たした。翌[[1560年]]（永禄3年）、苦労の末に将軍[[足利義輝]]に謁見、[[砂時計]]を献上。[[大友義鎮]]や[[伊勢貞孝]]の助力もあり、京におけるキリスト教宣教許可の制札を受け、四条坊門姥柳町に定住し、教会とした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし[[1565年]]（永禄8年）、義輝が殺されると京を追放となり、[[堺市|堺]]に逃れた。以後は畿内を中心に豊後、平戸、堺などで奮闘した。この間、[[高山友照]]、[[高山右近|右近]]父子らの受洗を行ったが、[[1570年]]（[[元亀]]元年）インドに渡り、翌1572年ゴアで病没した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 著作 ==&lt;br /&gt;
ヴィレラの著作である『[[耶蘇会士日本通信]]』の[[1561年]][[8月17日]]付け書簡には、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町は[[ヴェネツィア|ベニス市]]の如く執政官によりて治めらる」と書かれ、この文章によって、堺の様子は『東洋のベニス』として、当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本のキリシタン一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:宣教師|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:イエズス会士|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:ポルトガルの人物|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国時代の人物 (日本)|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:安土桃山時代の人物|ういれらかすはる]]&lt;br /&gt;
[[Category:1572年没|ういれらかすはる]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>日本のキリシタン一覧</title>
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				<updated>2007-06-28T11:41:24Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''日本のキリシタン一覧'''は、戦国時代末期から江戸時代にかけての日本の著名なキリシタン（当時の...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''日本のキリシタン一覧'''は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期から[[江戸時代]]にかけての[[日本]]の著名な[[キリシタン]]（当時の[[キリスト教徒]]）とその関係者の一覧。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
----&lt;br /&gt;
== 宣教師 ｛伴天連（バテレン）｝ ==&lt;br /&gt;
*[[フランシスコ・ザビエル]]　[[イエズス会]]員。日本を初めて訪れた宣教師。&lt;br /&gt;
*[[コスメ・デ・トーレス]]　　イエズス会員。サビエルと共に来日し、その後を継いだ宣教師。&lt;br /&gt;
*[[ルイス・フロイス]]　イエズス会員。「日本史」を執筆したことで有名。&lt;br /&gt;
*[[ルイス・デ・アルメイダ]]　医師にして商人出身のイエズス会員、日本最初の病院・孤児院を設立。&lt;br /&gt;
*[[ガスパル・ヴィレラ]]　イエズス会員。最初期の宣教師の一人で京都布教を開始。　&lt;br /&gt;
*[[グネッキ・ソルディ・オルガンティノ]]　イエズス会員。京都を中心に活躍。&lt;br /&gt;
*[[フランシスコ・カブラル]]　イエズス会員。日本地区布教長。トーレスの後を継ぐが、ヴァリニャーノと意見を異にして罷免。&lt;br /&gt;
*[[アレッサンドロ・ヴァリニャーノ]]　イエズス会員。東インド管区巡察師。総長の名代として日本を視察。&lt;br /&gt;
*[[ガスパル・コエリョ]]　イエズス会員。カブラルの後任。初代日本準管区長。&lt;br /&gt;
*[[カルロ・スピノラ]]　イエズス会員。[[数学者]]。「[[元和の大殉教]]」で処刑される。&lt;br /&gt;
*[[ルイス・ソテロ]]　[[フランシスコ会]]員。[[支倉常長]]を[[ローマ]]へ案内。&lt;br /&gt;
*[[クリストファン・フェレイラ]]　イエズス会員。拷問の末に棄教して「転びバテレン」に。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 日本人修道者 ==&lt;br /&gt;
*[[ロレンソ了斎]]　イエズス会員、元琵琶法師、ザビエルの協力者。&lt;br /&gt;
*[[セバスチャン木村]]　イエズス会員。最初の日本人[[司祭]]。&lt;br /&gt;
*[[ペトロ・カスイ・岐部]]　イエズス会員。ローマで[[叙階]]。日本人として初めて[[エルサレム]]を訪問。&lt;br /&gt;
*[[小西マンショ]]　イエズス会員。「最後の日本人司祭」。&lt;br /&gt;
*[[トマス荒木]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== [[キリシタン大名]]・キリシタン武将==&lt;br /&gt;
=== あ行 ===&lt;br /&gt;
*[[明石全登]]（ジュスト）宇喜多家臣。関ケ原、大阪の陣で活躍後行方不明。&lt;br /&gt;
*[[有馬義直]]（アンドレ）肥前日野江（島原）領主。&lt;br /&gt;
*[[有馬晴信]]（プロタジオ）　有馬義直の子。岡本大八事件で刑死。&lt;br /&gt;
*[[有馬直純]]（サンセズ）　有馬晴信の子、棄教後は迫害者に転じる。&lt;br /&gt;
*[[一条兼定]]（ドン・パウロ）土佐中村一條家当主。大友宗麟の甥であり娘婿。&lt;br /&gt;
*[[伊東義賢]]（バルトロメオ）[[伊東義祐]]の嫡孫。母方縁戚・大友宗麟の影響でキリシタンとなる。&lt;br /&gt;
*[[宇久純尭]]（ドン＝ルイス）五島島主&lt;br /&gt;
*[[大村純忠]]（バルトロメオ）　日本最初の[[キリシタン大名]]。&lt;br /&gt;
*[[大村喜前]]（サンチョ）　大村純忠の子。棄教。&lt;br /&gt;
*[[大友宗麟]]（フランシスコ）　豊後領主。代表的なキリシタン大名の一人。&lt;br /&gt;
*[[大友義統]]（コンスタンチノ）　大友宗麟の子。棄教。&lt;br /&gt;
*[[織田長益|織田有楽斎]]（ジョアン）　[[織田信長]]の弟。&lt;br /&gt;
*[[織田秀信]]　三法師、[[織田信忠]]の嫡男、信長の嫡孫。&lt;br /&gt;
*[[織田秀則]]（パウロ）[[織田信忠]]の次男、信長の孫。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== か行 ===&lt;br /&gt;
*[[加賀山興良]]（ディエゴ）　通称隼人、細川家に仕える。&lt;br /&gt;
*[[蒲生氏郷]]（レオ）　日野、会津を領す。&lt;br /&gt;
*[[木下勝俊]]（ペテロ）　若狭小浜城主。北政所（ねね）の甥。&lt;br /&gt;
*[[京極高知]]　[[豊臣秀吉|秀吉]]、[[徳川家康|家康]]に仕えて信州伊奈、丹後宮津を領す。&lt;br /&gt;
*[[熊谷元直]]（メルキオール）　[[熊谷氏|安芸熊谷氏]]。後に主君の[[毛利輝元]]により処刑される。死後、殉教者として祭られる。&lt;br /&gt;
*[[黒田長政]]（ダミアン）　棄教後、迫害者に転じる。&lt;br /&gt;
*[[黒田孝高]]（シメオン）　如水という号で知られる。&lt;br /&gt;
*[[小西行長]]（アウグスティノ）　[[関が原の戦い|関が原]]敗戦後、刑死。&lt;br /&gt;
*[[小西隆佐]]（ジョウチン）　小西行長の父。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== さ行 ===&lt;br /&gt;
*[[三箇頼照]]（マンショ）[[明智光秀]]に味方し没落。のち[[豊臣秀次]]に仕えるも秀次事件に連座し切腹。&lt;br /&gt;
*[[志賀親次]]（ドン＝パウロ） [[大友義統]]家臣。島津軍の侵攻を何度も食い止めた。&lt;br /&gt;
*[[宗義智]]（ダリオ） [[対馬]]領主。小西行長の娘を妻に迎えたときに受洗したが、[[関ヶ原の合戦]]後すぐに棄教、妻も離縁した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== た行 ===&lt;br /&gt;
*[[高山友照]]（ダリオ）　飛騨守。高山右近の父。[[畿内]]における最初期のキリシタン大名の一人。&lt;br /&gt;
*[[高山右近]]（ジュスト）代表的なキリシタン大名。追放先の[[マニラ]]で客死。&lt;br /&gt;
*[[田中吉政]]（バルトロメオ）&lt;br /&gt;
*[[寺沢広高]]　棄教後は迫害者に転じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== な行 ===&lt;br /&gt;
*[[内藤如安]]（ジョアン）　追放され、マニラで客死。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== は行 ===&lt;br /&gt;
*[[蜂須賀家政]]&lt;br /&gt;
*[[畠山高政]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ま行 ===&lt;br /&gt;
*[[松浦隆信 (宗陽)]]　[[松浦氏]]28代当主。江戸幕府の禁教令のため棄教。&lt;br /&gt;
*[[毛利高政]]　豊後佐伯領主&lt;br /&gt;
*[[毛利秀包]]（シマオ）　[[毛利元就]]息子、[[小早川隆景]]養子。[[筑後国]][[久留米城]]主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===や行===&lt;br /&gt;
*[[結城忠正]]（アンリケ）　山城守。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遣欧使節 ==&lt;br /&gt;
=== [[天正遣欧少年使節|天正遣欧使節]] ===&lt;br /&gt;
*[[伊東マンショ]] (正使、大友宗麟の名代)&lt;br /&gt;
*[[千々石ミゲル]] (正使、有馬晴信・大村純忠の名代)&lt;br /&gt;
*[[中浦ジュリアン]] (副使)　&lt;br /&gt;
*[[原マルティノ]] (副使)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== [[慶長遣欧使節]] ===&lt;br /&gt;
*[[支倉常長]]（[[伊達政宗]]家臣)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
*[[ヤジロウ]]　ザビエルと知り合い、マラッカで洗礼を受ける。&lt;br /&gt;
*[[細川ガラシャ]] ([[細川忠興]]夫人)&lt;br /&gt;
*[[京極マリア]]([[京極高吉]]夫人)&lt;br /&gt;
*[[豪姫]]([[宇喜多秀家]]夫人)&lt;br /&gt;
*[[松東院]]（[[大村純忠]]の娘、[[松浦隆信 (宗陽)|松浦隆信（28代当主）]]の母）&lt;br /&gt;
*[[ジュリアおたあ]]　[[朝鮮]]出身。[[徳川家康]]の侍女。[[神津島]]で殉教。&lt;br /&gt;
*[[日本二十六聖人]]&lt;br /&gt;
**[[パウロ三木]]&lt;br /&gt;
*[[元和の大殉教]]における殉教者たち&lt;br /&gt;
*[[十六聖人の殉教|十六聖人]]&lt;br /&gt;
*[[清原枝賢]]　公家。後に棄教。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 江戸時代前期~中期 ==&lt;br /&gt;
*[[後藤寿庵]]（[[伊達政宗]]家臣)&lt;br /&gt;
*[[天草四郎時貞]]  ([[島原の乱]])&lt;br /&gt;
*[[ジョバンニ・シドッチ]]　[[1708年]]日本に潜入して逮捕。[[新井白石]]の尋問を受ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 江戸時代後期 ==&lt;br /&gt;
*長崎の信徒再発見([[1865年]])&lt;br /&gt;
**[[ベルナール・プティジャン]]　[[パリ外国宣教会]][[司祭]]　[[大浦天主堂]]での信徒再発見の当事者。&lt;br /&gt;
*[[浦上四番崩れ]]（[[1867年]]、再び信仰を公にした隠れキリシタンたちが弾圧された事件）&lt;br /&gt;
**[[高木仙右衛門]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
* [[日本キリスト教史]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:キリシタン|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Infobox_animanga&amp;diff=6966</id>
		<title>テンプレート:Infobox animanga</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:Infobox_animanga&amp;diff=6966"/>
				<updated>2007-06-10T07:40:08Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: 'このテンプレートはテレビアニメ・OVA・漫画・コンピュータゲーム・小説・ラジオドラマ・[[テレビドラ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;このテンプレートは[[アニメ|テレビアニメ]]・[[OVA]]・[[漫画]]・[[コンピュータゲーム]]・[[小説]]・[[ラジオドラマ]]・[[テレビドラマ]]・[[映画]]といったメディアの作品とその他関連項目を単一のInfoboxで扱えるように設計されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== テンプレートの構成 ==&lt;br /&gt;
;ヘッダおよびフッター&lt;br /&gt;
:テンプレートの最初と最後に'''必ず'''使用します。&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Header]]&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Footer]]&lt;br /&gt;
:中身のない基本的なヘッダも利用することが出来ます。&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Header2]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
;各メディア別のコンポーネント&lt;br /&gt;
:各メディア別に以下のモジュール式のコンポーネントがあります&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/TVAnime]] - テレビアニメ&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/OVA]] - OVA&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Manga]] - 漫画&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Game]] - コンピュータゲーム&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Novel]] - 小説&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/RadioDrama]] - ラジオドラマ&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/TVDrama]] - テレビドラマ&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Radio]] - ラジオ&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Movie]] - 映画&lt;br /&gt;
* [[:Template:Infobox animanga/Other]] - その他&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 使用方法 ==&lt;br /&gt;
このInfoboxは、ヘッダとフッターの間に1つ以上のモジュールを挿入することにより構成されます。コンポーネントをInfoboxのどこに置くかはユーザの判断にゆだねられます。整合性を保つために、リリースされた順に並べることが推奨されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
複数国/言語での記載は混乱を招くため、日本における内容を記載してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一貫性のために、Infoboxは関連する記事に置かれるべきです。例えば、テレビアニメと関連映画が別のページに存在する場合は、映画のコンポーネントはテレビアニメのページに置かれるべきではなく、逆もまたしかりです。それら関連作品のリンクを提供するために、&amp;quot;Other&amp;quot;を使うとよいでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各モジュールの''タイトル''パラメータの記入は'''自由選択'''であり、各Infoboxのトップに各メディアの作品ごとの特定のタイトルを表示させる場合に使用するべきです。記入が不要の場合は、''タイトル''パラメータを省略することが出来ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
各コンポーネントのパラメータに関しては、以下の説明を参照してください。なお、'''「パラメータ名=（入力必須）」と表記されている項目は必須項目ですので必ず記述してください。'''&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Header ===&lt;br /&gt;
Infoboxの最初に'''必ず'''入れてください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Header&lt;br /&gt;
|タイトル=（入力必須）&lt;br /&gt;
|画像=&lt;br /&gt;
|サイズ=&lt;br /&gt;
|説明=&lt;br /&gt;
|ジャンル=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
画像は初期設定で300pxにリサイズされるため、300px以上の画像を使用するべきです。画像がそれより小さい場合には''サイズ''に記入します。なお、タイトル以外は削除することが出来ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Header2 ===&lt;br /&gt;
これはテーブルを開始するwikicodeが含まれている、中身のないヘッダです。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Header2}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== Footer ===&lt;br /&gt;
Infoboxの最後に'''必ず'''入れてください。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Footer}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビアニメ ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/TVAnime&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|原作=&lt;br /&gt;
|監督=&lt;br /&gt;
|企画=&lt;br /&gt;
|シリーズ構成=&lt;br /&gt;
|脚本=&lt;br /&gt;
|キャラクターデザイン=&lt;br /&gt;
|メカニックデザイン=&lt;br /&gt;
|アニメーション制作=&lt;br /&gt;
|製作=&lt;br /&gt;
|放送局=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送開始=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送終了=&lt;br /&gt;
|話数=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
|コピーライト=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''アニメーション制作''にはアニメーション制作会社名を記入します。''製作''には製作委員会名などを記入してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''放送開始''および''放送終了''には[[キー局]]での放送スケジュールを記入してください。キー局が存在しない場合は、最も早く放送を開始した局の放送スケジュールを記入してください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''コピーライト''は、「(C)」を除いた部分を入れてください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== OVA ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/OVA&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|監督=&lt;br /&gt;
|シリーズ構成=&lt;br /&gt;
|キャラクターデザイン=&lt;br /&gt;
|メカニックデザイン=&lt;br /&gt;
|アニメーション制作=&lt;br /&gt;
|製作=&lt;br /&gt;
|発売日=&lt;br /&gt;
|開始=&lt;br /&gt;
|終了=&lt;br /&gt;
|話数=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
|コピーライト=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''コピーライト''は、「(C)」を除いた部分を入れてください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 漫画 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Manga&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|作者=（入力必須）&lt;br /&gt;
|作画=&lt;br /&gt;
|出版社=（入力必須）&lt;br /&gt;
|掲載誌=&lt;br /&gt;
|レーベル=&lt;br /&gt;
|発売日=&lt;br /&gt;
|開始=&lt;br /&gt;
|終了=&lt;br /&gt;
|巻数=&lt;br /&gt;
|話数=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''掲載誌''は漫画が連載された雑誌名、''開始''および''終了''はそれぞれ連載開始・終了日を記入します。''発売日''は主に全1巻の作品を想定しています。必要に応じて開始･終了と使い分けることができます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ストーリーと作画の担当が異なる場合、''作画''パラメータが利用できます。その際、''作者''パラメータには原作者（ストーリー担当）を記入します。'''作画を記入すると、作者パラメータの表示が「原作」になります。'''ストーリーと作画の担当が同じ場合は''作画''には何も記入しないでください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、原作と作画の枠で括れない場合、複数人を記述する必要がある時などには、以下のように改行タグを使用して記述します。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&amp;lt;nowiki&amp;gt;|作者=山田太郎（キャラクター原案）&amp;lt;br /&amp;gt;鈴木花子（漫画）&amp;lt;/nowiki&amp;gt;&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== コンピュータゲーム ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Game&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|ゲームジャンル=&lt;br /&gt;
|対応機種=&lt;br /&gt;
|必要環境=&lt;br /&gt;
|推奨環境=&lt;br /&gt;
|ゲームエンジン=&lt;br /&gt;
|修正パッチ=&lt;br /&gt;
|開発元=&lt;br /&gt;
|発売元=&lt;br /&gt;
|プロデューサー=&lt;br /&gt;
|監督=&lt;br /&gt;
|キャラクターデザイン=&lt;br /&gt;
|メディア=&lt;br /&gt;
|プレイ人数=&lt;br /&gt;
|発売日=&lt;br /&gt;
|稼動時期=&lt;br /&gt;
|販売価格=&lt;br /&gt;
|売上本数=&lt;br /&gt;
|レイティング=&lt;br /&gt;
|インタフェース=&lt;br /&gt;
|コンテンツアイコン=&lt;br /&gt;
|キャラクター名設定=&lt;br /&gt;
|エンディング数=&lt;br /&gt;
|セーブファイル数=&lt;br /&gt;
|セーブファイル容量=&lt;br /&gt;
|クイックセーブ=&lt;br /&gt;
|クイックロード=&lt;br /&gt;
|コンテニュー=&lt;br /&gt;
|画面サイズ=&lt;br /&gt;
|全画面表示モード=&lt;br /&gt;
|音楽フォーマット=&lt;br /&gt;
|キャラクターボイス=&lt;br /&gt;
|バックログ=&lt;br /&gt;
|CGモード=&lt;br /&gt;
|音楽モード=&lt;br /&gt;
|回想モード=&lt;br /&gt;
|メッセージスキップ=&lt;br /&gt;
|オートモード=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''必要環境''～''修正パッチ''はPCゲーム用です。''稼動時期''は[[アーケードゲーム]]の場合、それ以外のプラットホームの場合は''発売日''を使用します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''インタフェース''はそのゲームで使用する特殊なインタフェースがある場合、それを記述します。 &lt;br /&gt;
:（例）タタコン、つりコン、スーパーファミコンマウス 等 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
''キャラクター名設定''～''オートモード''は主に[[美少女ゲーム]]用ですが、他ジャンルのゲームでも使用できます。''セーブファイル数''は作成できるセーブファイルの個数を、''セーブファイル容量''はセーブファイルがメモリーカードやHDDで1ファイルあたり使用する容量を記述します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下も参照してください。&lt;br /&gt;
*[[Template:美少女ゲーム系#各パラメータの詳細説明]]&lt;br /&gt;
*[[Wikipedia:ウィキプロジェクト 美少女ゲーム系#テンプレートの使い方]]&lt;br /&gt;
*[[Template:コンピュータゲーム#各パラメータの説明]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 小説 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Novel&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|著者=（入力必須）&lt;br /&gt;
|イラスト=&lt;br /&gt;
|出版社=（入力必須）&lt;br /&gt;
|掲載誌=&lt;br /&gt;
|レーベル=&lt;br /&gt;
|発売日=&lt;br /&gt;
|開始=&lt;br /&gt;
|終了=&lt;br /&gt;
|巻数=&lt;br /&gt;
|話数=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''発売日''は主に全1巻の作品を想定しています。必要に応じて開始･終了と使い分けることができます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオドラマ ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/RadioDrama&lt;br /&gt;
|メディア=&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|制作=&lt;br /&gt;
|脚本=&lt;br /&gt;
|演出=&lt;br /&gt;
|放送局=&lt;br /&gt;
|番組=&lt;br /&gt;
|書籍=&lt;br /&gt;
|発売元=&lt;br /&gt;
|販売元=&lt;br /&gt;
|レーベル=&lt;br /&gt;
|発売日=&lt;br /&gt;
|開始=&lt;br /&gt;
|終了=&lt;br /&gt;
|販売価格=&lt;br /&gt;
|売上本数=&lt;br /&gt;
|レイティング=&lt;br /&gt;
|収録時間=&lt;br /&gt;
|話数=&lt;br /&gt;
|枚数=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''メディア''はドラマCDなどの場合に、タイトルのメディア表示部分の表示を変更するために用います。'''省略した場合「ラジオドラマ」と表示されます。'''''書籍''は雑誌の付録等のラジオドラマの場合に、その書籍名を記述します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== テレビドラマ ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/TVDrama&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|監督=（入力必須）&lt;br /&gt;
|制作=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送局=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送開始=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送終了=（入力必須）&lt;br /&gt;
|話数=（入力必須）&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ラジオ ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Radio&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|愛称=&lt;br /&gt;
|放送開始=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送終了=&lt;br /&gt;
|放送局=（入力必須）&lt;br /&gt;
|放送時間=&lt;br /&gt;
|放送回数=&lt;br /&gt;
|放送形式= &lt;br /&gt;
|スタジオ= &lt;br /&gt;
|ネット局= （放送局） &amp;lt;br/&amp;gt; （放送時間）&lt;br /&gt;
|ネットワーク=&lt;br /&gt;
|パーソナリティ=&lt;br /&gt;
|DJ=&lt;br /&gt;
|アシスタント=&lt;br /&gt;
|構成作家=&lt;br /&gt;
|ディレクター=&lt;br /&gt;
|プロデューサー=&lt;br /&gt;
|ミキサー=&lt;br /&gt;
|脚本=&lt;br /&gt;
|演出=&lt;br /&gt;
|その他のスタッフ=&lt;br /&gt;
|提供=&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
|コピーライト=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''コピーライト''は、「(C)」を除いた部分を入れてください。&amp;lt;br/&amp;gt;&lt;br /&gt;
''ネットワーク''は、「JFN38局」の様に使います。独立局では使わないでください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 映画 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Movie&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|監督=（入力必須）&lt;br /&gt;
|制作=（入力必須）&lt;br /&gt;
|封切日=（入力必須）&lt;br /&gt;
|上映時間=（入力必須）&lt;br /&gt;
|その他=&lt;br /&gt;
|コピーライト=&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
''コピーライト''は、「(C)」を除いた部分を入れてください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
===出演者===&lt;br /&gt;
これは、役および出演者が4人の場合の例です。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Cast&lt;br /&gt;
|役名=1&amp;lt;br /&amp;gt;2&amp;lt;br /&amp;gt;3&amp;lt;br /&amp;gt;4&lt;br /&gt;
|出演者=一&amp;lt;br /&amp;gt;二&amp;lt;br /&amp;gt;三&amp;lt;br /&amp;gt;四&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その他 ===&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Other&lt;br /&gt;
|タイトル=（入力必須）&lt;br /&gt;
|コンテンツ=（入力必須）&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
このコンポーネントでwiki形式の箇条書きを使用するには、''コンテンツ''の次の行から始めなければなりません。例えば、次のようにします。&lt;br /&gt;
&amp;lt;pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
{{Infobox animanga/Other&lt;br /&gt;
|タイトル=&lt;br /&gt;
|コンテンツ=&lt;br /&gt;
* [[記述内容1]]&lt;br /&gt;
* [[記述内容2]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&amp;lt;/pre&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:コンピュータゲームのテンプレート|*]]&lt;br /&gt;
[[Category:Infobox templates|Animanga]]&lt;br /&gt;
[[Category:Infobox animanga|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=MADLAX&amp;diff=6965</id>
		<title>MADLAX</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=MADLAX&amp;diff=6965"/>
				<updated>2007-06-10T07:34:55Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;『'''MADLAX'''』（マドラックス）は、[[2004年]][[4月5日]]から同年[[9月27日]]まで[[テレビ東京]]と[[テレビ大阪]]で放送されたテレビアニメ。全26話。&lt;br /&gt;
{{ネタバレ}}&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
監督の真下耕一によると、「MADLAX」は[[英語]]の &amp;quot;MAD&amp;quot; と &amp;quot;reLAXed&amp;quot; からの造語であるとのこと。作品のテーマの一つである人間の二面性を、タイトルでも暗示したことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、『[[NOIR]]』（[[2001年]]）、『[[エル・カザド]]』（[[2007年]]）は、本作と併せて「三部作」と位置付けられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== ストーリー ==&lt;br /&gt;
近代化を推し進める政府の国王派と、それに反発する反政府組織'''ガルザ'''との間で12年の長きに渡り[[内戦]]を続ける、'''ガザッソニカ王国'''。そこでは、'''マドラックス'''と名乗る一人の[[エージェント]]の存在が、政府軍兵士と反政府[[ゲリラ]]双方の間で知れ渡っていた。少女のあどけなさを残す顔立ちと大人の色気をほのかに漂わせる肢体を併せ持ち、驚異的な戦闘能力を誇る美少女・マドラックス。そのマドラックスに、秘密組織'''アンファン'''のエージェントである'''カロッスア・ドーン'''が興味を持つ。カロッスアは、マドラックスに遭遇しながら唯一生き残った政府軍の女性士官'''リメルダ・ユルグ'''を配下に加え、執拗に彼女の行方を追う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、[[先進国]]'''ナフレス'''では'''マーガレット・バートン'''という一人の美少女が、[[メイド]]の'''エレノア・ベイカー'''、元[[家庭教師]]で隣人の'''ヴァネッサ・レネ'''に見守られながら、何不自由ない生活を送っていた。しかし、エレノアとヴァネッサには唯一気がかりなことがあった。12年前、マーガレットは両親と飛行機事故に遭いながら単身自宅まで帰還したばかりか、それ以前の記憶を失っていたのだ。「12年前、マーガレットの身に何があったのか」、二人にはそのことが気がかりだったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
全く別々の場所で対照的な生活を送る、マドラックスとマーガレット。しかし、マーガレットが自宅で見つけた'''赤い本'''の秘密を探り始め、ヴァネッサが内戦の原因を探るためにガザッソニカに飛んだことで、隠されていた二人の接点が明らかになっていく…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== キャラクター ==&lt;br /&gt;
=== ガザッソニカ王国 ===&lt;br /&gt;
;マドラックス （[[声優|声]]：[[小林沙苗]]）&lt;br /&gt;
:雇われの凄腕エージェント。幼い時に戦火の中をさ迷っている所をSSSに拾われ、エージェントとなる。幼い時の記憶はなく、戦火の中をさ迷っていた理由も覚えていない。ただ、父親については後姿のみ微かに覚えている。銃の腕前は百発百中で、任務遂行の邪魔者は容赦なく射殺する。ただし、任務の依頼者には興味を持って接し、情を掛けてしまう傾向がある。特にヴァネッサとは意気投合し、親密な関係となった。愛用の拳銃は[[SIG P210]]。&lt;br /&gt;
;リメルダ・ユルグ （声：[[久川綾]]）&lt;br /&gt;
:ガザッソニカ軍中尉でエリート部隊である親衛隊の女性士官。有能なスナイパーで陸軍司令官暗殺事件でマドラックスと対峙して以来、彼女を追い求める。マドラックスと対決するために親衛隊を離れてカロッスアの指揮下に入るが、彼女との対決を重ねるうちにマドラックスという人間そのものに魅入られ、カロッスアの思惑を離れた動きを見せるようになる。&lt;br /&gt;
;SSS （声：[[浦山迅]]）&lt;br /&gt;
:'''スリースピード'''と呼称される謎のエージェントで、マドラックスに仕事を与える。劇中ではマドラックスと直接会うことはなく、[[電話]]でしか話さない。第3話で目から下の横顔は出たが、全体像は登場しなかった。後の『MADLAX the Bible』には、全体像の設定資料が載っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== ナフレス ===&lt;br /&gt;
;マーガレット・バートン （声：[[桑島法子]]）&lt;br /&gt;
:メイドのエリノアと二人暮らし中の女学生。12年前、両親と共に飛行機事故に遭遇するが、行方不明の両親とは対称的に単身で帰宅。事故以前の記憶はその際、既に失われていた。実家は名門貴族の流れを汲むことから莫大な財産に恵まれているので、生活には全く困っていない。そのため、多少浮世離れした感があり、他人を疑わず簡単に付いて行ってはエリノアに心配されている。しかし人間を見る目はしっかりしていて、時折、対峙している相手の本性を看破する。また、自宅で見つけた赤い本には異常に執着しており、赤い本の謎を探るために尽力している。&lt;br /&gt;
;エリノア・ベイカー （声：[[内川藍維]]）&lt;br /&gt;
:マーガレット付きのメイド兼護衛。外見はマーガレットとほぼ同じ年齢のように見られるが、高校は[[飛び級]]で卒業済み。また、武術の心得があるのか、いざという時には華麗な技を披露する。マーガレットが12年前に事故現場から単身帰宅して以来、彼女に対して「自分が守らなくては」という思いを強く抱くようになり、現在ではその世話を生き甲斐のように感じている。また、マーガレットと同じ学校の男子生徒を全てチェックし、マーガレットに素行の悪い男子が近づかないようにしている・旅行中に出会った男性にマーガレットが興味を持っていることをヴァネッサに指摘されるとムキになって否定する（このときはヴァネッサから「妬いているの？」とからかわれていた）…などの描写から、彼女に対しては主従の関係を超えた好意を持っている模様。&lt;br /&gt;
;ヴァネッサ・レネ （声：[[雪野五月]]）&lt;br /&gt;
:マーガレットの隣人にして幼い頃の家庭教師であり、現在は良き相談相手。最高[[学府]]を優秀な成績で卒業し、コンピューターに対する造詣が深い。過去に[[外交官]]であった両親が、ガザッソニカの内戦を起こしたとされて捕まった。自分の勤めている会社がガザッソニカの内戦に荷担しているのを知り、両親の無実を証明すべく、自分の会社の情報を掴もうとするが、その際に謎の組織アンファンがガザッソニカの内戦に関係していることを知り、彼らから命を狙われるようになる。成り行き上、自分の掴もうとした情報がガザッソニカのあるコンピューターに転送されてしまったため、それを回収すべく自らガザッソニカに飛び、マドラックスをボディーガードとして雇った。しかし、マーガレットと大して歳が違わないにもかかわらず危険な仕事に従事するマドラックスに興味を覚え、次第に親しくなっていく。&lt;br /&gt;
;チャーリー・ウィストン （声：[[川島得愛]]）&lt;br /&gt;
:ヴァネッサの同僚で、彼女の下で働いている社員。軽薄そうな外見からか、マーガレットには劇中で2回ほど本能的に避けられた。ヴァネッサがガザッソニカで事件に巻き込まれているのを知ると、自らもガザッソニカに渡り、安否を確かめようとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== アンファン ===&lt;br /&gt;
;フライデー・マンデー （声：[[江原正士]]）&lt;br /&gt;
:アンファンの総帥。数年前に'''真実の扉'''を開き、内乱を引き起こした張本人。マーガレット一家が遭った12年前の飛行機事故も、彼が引き起こしたものである。カロッスアが彼に逆らっていると判断された場合の恐怖を度々口にしていることから、相当な力を持つ者と思われる。&lt;br /&gt;
;カロッスア・ドーン （声：[[森川智之]]）&lt;br /&gt;
:アンファンのエージェント。表向きはヴァネッサが勤める会社の幹部。何故かマドラックスの存在に興味を覚え、執拗に行方を追う。一方、フライデーの命令でマーガレットの持っている赤い本についても調査を進めるが、時折嘘の報告をするなど、必ずしもフライデーの思惑通りには動いていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 聖地 ===&lt;br /&gt;
;クアンジッタ・マリスン （声：[[兵藤まこ]]）&lt;br /&gt;
:聖地の美しき[[神官]]、もしくは[[巫女]]。'''真実の扉'''の手がかりを知っている。&lt;br /&gt;
;ナハル （声：[[中野千佳代]]）&lt;br /&gt;
:クアンジッタに仕える謎のボーイッシュな女性。ナイフの達人で、個々の戦闘力ではマドラックスと同等かそれ以上。&lt;br /&gt;
;レティシア （声：[[金田朋子]]）&lt;br /&gt;
:「聖地」に存在する謎の幼女。意味深な言葉を語る。&lt;br /&gt;
;プゥペ&lt;br /&gt;
:レティシアの傍らにいる謎の幼児。レティシアのように何かを語ることは無く、殆ど黙っている。実は劇中で2回ほど台詞があるが、エンディングクレジットには出ていない。&lt;br /&gt;
{{ネタバレ終了}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== スタッフ ==&lt;br /&gt;
*[[企画]]：佐々木史朗&lt;br /&gt;
*[[プロデューサー]]：北山茂・浜元達哉&lt;br /&gt;
*アシスタントプロデューサー：吉田博&lt;br /&gt;
*[[監督]]：[[真下耕一]]&lt;br /&gt;
*[[シリーズ構成]]・[[脚本]]：[[黒田洋介]]&lt;br /&gt;
*[[キャラクターデザイン]]：[[大澤聡]]・[[芝美奈子]]・[[宮地聡子]]&lt;br /&gt;
*キャラクター監修：大澤聡&lt;br /&gt;
*[[メカニカルデザイン|メカニックデザイン]]：[[寺岡賢司]]&lt;br /&gt;
*メカニック[[作画監督]]：才木康寛&lt;br /&gt;
*[[色彩設定|色彩設計]]：小島真喜子&lt;br /&gt;
*[[美術監督]]：海野よしみ&lt;br /&gt;
*[[音楽]]：[[梶浦由記]]&lt;br /&gt;
*音楽プロデューサー：野崎圭一&lt;br /&gt;
*[[音響監督]]：[[なかのとおる]]&lt;br /&gt;
*音響プロデューサー：中野徹&lt;br /&gt;
*[[撮影監督]]：鎌田克明・斎藤仁&lt;br /&gt;
*[[特殊効果]]：村上正博&lt;br /&gt;
*アニメーション[[制作]]：[[ビィートレイン]]&lt;br /&gt;
*[[製作]]：[[ビクターエンタテインメント]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 各話タイトル ==&lt;br /&gt;
#「銃舞 -dance-」4/5放送&lt;br /&gt;
#「紅月 -crimson-」4/12放送&lt;br /&gt;
#「蒼月 -moon-」4/19放送&lt;br /&gt;
#「誘惑 -ask-」4/26放送&lt;br /&gt;
#「無在 -none-」5/3放送&lt;br /&gt;
#「遺言 -leave-」5/10放送&lt;br /&gt;
#「繪本 -nature-」5/17放送&lt;br /&gt;
#「魂言 -soul-」5/24放送&lt;br /&gt;
#「残香 -scent-」5/31放送&lt;br /&gt;
#「侵触 -dive-」6/7放送&lt;br /&gt;
#「異国 -object-」6/14放送&lt;br /&gt;
#「消意 -close-」6/21放送&lt;br /&gt;
#「覚鳴 -awake-」6/28放送&lt;br /&gt;
#「忘想 -memory-」7/5放送&lt;br /&gt;
#「偽争 -camouflage-」7/12放送&lt;br /&gt;
#「銃韻 -moment-」7/19放送&lt;br /&gt;
#「刹那 -reunion-」7/26放送&lt;br /&gt;
#「双離 -duo-」8/2放送&lt;br /&gt;
#「獲本 -holy-」8/9放送&lt;br /&gt;
#「真争 -wish-」8/16放送&lt;br /&gt;
#「告薄 -guilty-」8/30放送&lt;br /&gt;
#「撃情 -rage-」8/30放送&lt;br /&gt;
#「迷心 -doubt-」9/6放送&lt;br /&gt;
#「献心 -hearts-」9/13放送&lt;br /&gt;
#「聖血 -saints-」9/20放送&lt;br /&gt;
#「欠片 -pupile-」9/27放送&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主題歌 ==&lt;br /&gt;
* オープニングテーマ&lt;br /&gt;
** 「瞳の欠片」([[FictionJunction|FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
* エンディングテーマ&lt;br /&gt;
** 「inside your heart」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
* 挿入歌&lt;br /&gt;
** 「nowhere」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
** 「I'm here」（[[FictionJunction YUUKA]])&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 備考 ==&lt;br /&gt;
=== ヤンマーニなアニメ ===&lt;br /&gt;
主人公のマドラックスの戦闘シーンに使われている挿入歌『nowhere』（[[FictionJunction|FictionJunction YUUKA]]）のコーラス部分では、'''ヤンマーニ'''という謎のフレーズを連呼するため、ファンの間では'''ヤンマーニなアニメ'''として認知されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このフレーズについて、[[梶浦由記]]は[[ホビージャパン]]発売の『MADLAX the Bible』で、「造語ですので、聞こえたままの響きが正解だと思っていただければ」と語っているが、この部分の歌詞は公表されていないために、実際に何と言っているのかは不明。ただ、梶浦本人はヤンマーニと言っているつもりは全くなかったようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方では、ファンの反響を受ける形で、制作者サイドでも'''ヤンマーニ'''というフレーズを使用しており、結果的には公式にも認められた言葉になっている（DVD Vol.3 の解説の挿絵、DVD Vol.8 の解説、『MADLAX the Bible』のサブタイトルなどで使用されている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、黒田洋介は[[角川書店]]発売の[[月刊ニュータイプ]]2006年1月号で、「初めに断っておきますが、文章の出だしに『ヤンマーニ』と書きましたが、本当は『ヤンマーイ』と歌っているそうです。ビクターエンタテインメントさんから聞いた情報ですので間違いないと思われます」と発言しているが、これに関しては後日梶浦が自身のブログで、「とりあえず何と言っているかはご想像にお任せ致したく思っているのですが、『ヤンマーイ』で無い事だけは保証します」と言っているため、「ヤンマーイ」は誤りである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
補足を付けると、このコーラスが流れている間は意図的にマドラックスの戦闘能力を強調した描写が施されるために、[[2ちゃんねる]]などでは彼女自身を無敵モードにする、もしくはそういう[[トランス]]状態に入ったことを視聴者に知らせる何らかの[[呪文]]であると解釈されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 他作品とのリンク ===&lt;br /&gt;
本作中で使用されている[[通貨]]単位は『[[ガングレイヴ]]』（[[2003年]]）と同じ「ユール」（[[ユーロ]]のもじり）であり、また、『[[極上生徒会]]』（[[2005年]]）には「ナフレス[[諜報機関]]」の[[工作員]]が登場するなど、他の[[黒田洋介]]脚本作品とのリンクが見られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
* [http://www.jvcmusic.co.jp/m-serve/madlax/ MADLAX公式サイト]（ビクターエンタテインメント内）&lt;br /&gt;
* [http://www.tv-tokyo.co.jp/anime/madlax/ TV東京・Anime X-press MADLAX]&lt;br /&gt;
* [http://www.hobbyjapan.co.jp/madlax/ MADLAX the Bible]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
{{前後番組|&lt;br /&gt;
放送局=[[テレビ東京]]|&lt;br /&gt;
放送枠=月曜25:30枠|&lt;br /&gt;
番組名=MADLAX|&lt;br /&gt;
前番組=[[ガングレイヴ]]|&lt;br /&gt;
次番組=[[月詠 -MOON PHASE-]]&lt;br /&gt;
}}&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:アニメ作品 ま|とらつくす]]&lt;br /&gt;
[[Category:テレビ東京系アニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:深夜アニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:2004年のテレビアニメ]]&lt;br /&gt;
[[Category:ビィートレイン]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E&amp;diff=6963</id>
		<title>大坂城</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%9F%8E&amp;diff=6963"/>
				<updated>2007-06-10T03:35:52Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''大坂城'''（'''大阪城'''、古くは'''おおざかじょう'''・一般には'''おおさかじょう'''と読む）は、摂津国東成郡大坂の地にあ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''大坂城'''（'''大阪城'''、古くは'''おおざかじょう'''・一般には'''おおさかじょう'''と読む）は、[[摂津国]][[東成郡]]大坂の地にあった[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]の[[城]]である。別称は'''金城'''あるいは'''錦城'''で、大坂が[[近代]]に[[大阪]]と表記するように改まったために、現在は'''大阪城'''と書くことも多い。[[豊臣政権]]の本城であったが、[[大坂夏の陣]]で焼失し豊臣氏が滅亡した後再建され[[徳川幕府]]の西日本支配の拠点となった。&amp;lt;!--したがって、しばしば大阪の人がいう『太閤さん(豊臣秀吉)が建てた城』というのは正確には間違いである。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
城址は現在の[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[大阪城公園]]。[[名古屋城]]、[[熊本城]]と共に日本[[三名城]]の一つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 立地 ==&lt;br /&gt;
大坂城は、[[上町台地]]の北端に位置する。かつてこの地のすぐ北の台地下には[[淀川]]の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると[[京都]]に繋がる交通の要衝でもあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
台地北端に立地する大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 構造 ==&lt;br /&gt;
大坂城は、[[豊臣氏]]が築城した当初の城と、その落城後に[[徳川氏]]が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在地表から見ることができる縄張はすべて、[[江戸時代]]のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。&amp;lt;!--これは秀吉時代の縄張がそれなりの合理性があった証左とも言える。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「[[真田丸]]」が構築された。果たして冬の陣はこの方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。&amp;lt;!--一説によれば、築城者である秀吉も、南側の防御の弱さを気にしていたといわれる。また、あるとき家康は御伽衆を集め座興として大坂城を攻める時はどうすればよいかと問い、その答として南方から攻め上げる事を話したが、のちに家康は冬の陣においてその通りの攻城を行ったという逸話もある。いずれも真偽は不詳である。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 復興天守 ===&lt;br /&gt;
現在、大坂城（大阪城）を象徴し、大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣（右写真）である。[[1928年]]に当時の[[大阪市長]][[關一]]によって再建が提唱され、[[1931年]]に竣工した。[[昭和]]以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
建物は、徳川大坂城の天守の石垣基礎上に、鉄骨とコンクリートで建てられた。天守閣の中は'''大阪城天守閣'''という博物館になっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
外観は、絵図を基に新たに設計されたものである。大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1995年]]から[[1997年]]にかけて、'''平成の大改修'''が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は[[阪神・淡路大震災]]級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、[[身体障害者]]や[[高齢者]]、[[団体]][[観光]]客向けに[[エレベーター]]が西側に取り付けられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。[[1997年]]、国の[[登録有形文化財]]に登録された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 遺構 ==&lt;br /&gt;
現在、城内には、大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形、桜門などの遺構が残っており、国の[[重要文化財]]に指定されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、現存する[[石垣]]も多くが当時の遺構である。江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって建設されたため、石垣には[[瀬戸内海]]の島々などから採石された巨石が用いられており、近づくとその石を寄進した[[大名]]を示す刻印がされているのが目を引く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に、縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた外堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、[[村川行弘]]（現・[[大阪経済法科大学]][[名誉教授]]・[[考古学]]）らによる昭和中期の大坂城総合調査により徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。また、[[2003年]]には大手前三の丸水堀跡の発掘調査で、堀底からは障壁のある[[堀|障子堀]]が検出され、堀の内側の壁に[[トーチカ]]のような遺構も見つかった。また、この発掘によって、堀自体が大坂冬の陣のときに急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 歴史 ==&lt;br /&gt;
=== 豊臣大坂城 ===&lt;br /&gt;
[[1583年]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[石山本願寺]]とその寺内町であった地に、[[豊臣秀吉]]が築城を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施された。[[天守]]は絵画史料によると外観5層で、瓦などに金箔をふんだんに用いた華美なものであった。秀吉の死去までにさらに二の丸、三の丸、[[総構え]]が建設され、三重の堀と運河に囲まれた堅固な豊臣大坂城が完成する。大坂城が築城されていた途中、秀吉を訪問して大坂城を案内された[[大友宗麟]]は、城のあまりの見事さに感嘆し、大坂城を三国無双と称えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
築城者である秀吉自身は、京都に[[聚楽第]]、[[伏見城]]を次々に建造し、大坂城よりもむしろそちらに居住した。秀吉死後の[[1599年]]、秀吉の遺児[[豊臣秀頼]]が伏見城から完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した[[五大老]]の[[徳川家康]]も大坂城西の丸に入って政務を執った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1603年]]に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津を支配していたが、[[1614年]]の[[大坂の役|大坂冬の陣]]で家康の率いる大軍に攻められ、篭城戦を行った。そして、その講和に際して惣構・三の丸の破却が取り決められるが、さらに二の丸の外堀が埋め立てられてしまい、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後（[[1615年]]）の[[大坂の役|大坂夏の陣]]で大坂城は落城焼失、豊臣氏は滅亡した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 徳川大坂城 ===&lt;br /&gt;
落城に際して灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫[[松平忠明]]に与えられたが、[[1619年]]に幕府直轄領（[[天領]]）に編入された。翌[[1620年]]から[[徳川秀忠]]によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て[[1629年]]に完成した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に数メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大阪城の遺構は地中に埋もれてしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天守の構造も全く作り変えられた。徳川氏の大坂城は、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になり小さくなったが、天守は豊臣氏の天守とは位置も違い、建物の外観は同じ5層であったが、大きさも高さも豊臣氏の天守を越えるものであった。大坂城をより豪壮な城郭として豊臣氏の物を圧殺するかごとく全く新しく築く事で、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示そうとしたものといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は[[徳川将軍家]]の歴代[[征夷大将軍|将軍]]自身であり、[[大身]]の[[譜代大名]]から選ばれる[[大坂城代]]が預かり、小身の譜代大名から選ばれる2名の[[大坂定番]]と4名の[[大坂加番]]が警備を担当した。[[江戸時代]]にはたびたび火災による損傷と修復を繰り返すが、特に[[1665年]]には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1868年]]、[[鳥羽・伏見の戦い]]の後、幕府軍は大坂城に敗走。将軍[[徳川慶喜]]は船で[[江戸]]に逃走し、大坂城は新政府軍に開城した。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物はほとんど焼失してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 明治以後の復興大阪城 ===&lt;br /&gt;
[[明治]]新政府は城内の敷地を[[大日本帝国陸軍|陸軍]]用地に転用し、城内への民間人の立ち入りは禁じられた。東側の国鉄城東線（現在の大阪環状線）までの広大なエリアには兵器工場（[[大阪砲兵工廠]]）が設けられ、これがため後の太平洋戦争時米軍の爆撃目標となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1870年]]　陸軍は[[午砲台]]を設置し、報時業務を開始した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1885年]]、[[和歌山城]]二の丸より御殿の一部が移築され、紀州御殿と称される。[[1888年]]には、本丸桜門が復元された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1928年]]、当時の[[大阪市長]][[關一]]は、天守の再建を提案し、集められた市民の募金150万円によって陸軍[[第4師団 (日本軍)|第四師団]]庁舎移転と天守建設がすすめられた。そして[[1931年]]、鉄骨とコンクリートによる復興天守閣が竣工する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[太平洋戦争]]では、[[明治維新]]時に焼失を免れていた施設に損傷を受け、二番櫓・三番櫓・未申櫓・伏見櫓・京橋口門が焼失。青屋門が大破した。特に本土終戦前日の[[8月14日]]の空襲は、1トン[[爆弾]]が多数投下されるほど猛烈で、近隣の[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]は巻き添えを食らって、避難していた乗客に多数の死傷者が出たほどだったが、このとき[[毎日新聞]]大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪&amp;lt;!--大「坂」じゃないのよね--&amp;gt;夏の陣」とも呼称される壮絶なものであった。しかし、復興天守閣自体は焼失を免れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
終戦後には、城内の陸軍用地が進駐軍に接収され、[[1947年]]に米軍の失火により[[紀州御殿]]が焼失した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1948年]]の接収解除後は建物の修理が進められ、外堀を含む広域が大阪城公園に整備された。しかし、[[1950年]]の[[ジェーン台風]]によりまたもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始された。あわせて[[学術調査]]も行われ、[[1959年]]には地下から豊臣時代の遺構が発見された。本丸内の陸軍師団司令部の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎（後に市立博物館）として使用され、石垣に囲まれた一角では拳銃の射撃訓練も行われた（大阪府警の射撃場は公園内玉造口付近に現存）。工廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し[[小松左京]]や[[開高健]]の小説の舞台ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[1983年]]には「大阪築城400年まつり」に合わせ、JR[[大阪環状線]]に「[[大阪城公園駅]]」が新設され、[[大阪城ホール]]も開館された。残されていた工廠跡にも次々と大企業のビルが建ち並び、城の北東側に「[[大阪ビジネスパーク]]」が出現した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復興天守閣は現在も健在であり、大阪市の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 文化財 ==&lt;br /&gt;
=== 重要文化財 ===&lt;br /&gt;
*大手門&lt;br /&gt;
*塀　3棟（大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方）&lt;br /&gt;
*多聞櫓&lt;br /&gt;
*千貫櫓&lt;br /&gt;
*乾櫓&lt;br /&gt;
*一番櫓&lt;br /&gt;
*六番櫓&lt;br /&gt;
*焔硝蔵&lt;br /&gt;
*金蔵&lt;br /&gt;
*金明水井戸屋形&lt;br /&gt;
*桜門&lt;br /&gt;
=== 登録有形文化財 ===&lt;br /&gt;
*天守&lt;br /&gt;
=== 特別史跡 ===&lt;br /&gt;
*大阪城跡（1953年8月31日指定）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 交通機関 ==&lt;br /&gt;
*[[西日本旅客鉄道|JR西日本]] [[大阪城公園駅]]&lt;br /&gt;
*[[大阪市営地下鉄]]・[[京阪電気鉄道|京阪電鉄]] [[天満橋駅]] &lt;br /&gt;
*大阪市営地下鉄 [[谷町四丁目駅]]&lt;br /&gt;
*大阪市営地下鉄・JR [[森ノ宮駅]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 友好城郭 ==&lt;br /&gt;
*[[上田城]]&lt;br /&gt;
**2006年10月10日、[[大阪市]]の[[關淳一]]市長と[[上田市]]の[[母袋創一]]市長が、大阪城天守閣二階会議室で提携書に調印。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他 ==&lt;br /&gt;
[[1970年]]に開催された[[日本万国博覧会]]での[[松下電器]]と[[毎日新聞]]の企画による[[タイムカプセル]]が天守閣前に5,000年後に開封されることを託して埋設されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 大阪城を舞台とする作品 ==&lt;br /&gt;
*[[ゴジラシリーズ]]&lt;br /&gt;
**「[[ゴジラの逆襲]]」&lt;br /&gt;
**「[[ゴジラVSビオランテ]]」&lt;br /&gt;
*[[ガメラ|昭和ガメラシリーズ]]&lt;br /&gt;
**「[[大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン]]」&lt;br /&gt;
**「[[ガメラ対大魔獣ジャイガー]]」&lt;br /&gt;
*[[ウルトラシリーズ]]&lt;br /&gt;
**「[[ウルトラマン]]」&lt;br /&gt;
**「[[ウルトラマンダイナ]]」&lt;br /&gt;
*「[[大坂城物語]]」&lt;br /&gt;
*「[[梟の城]]」&lt;br /&gt;
*[[テレビゲーム]]&lt;br /&gt;
**[[CAPCOM VS. SNK 2]]（[[ドリームキャスト]]、[[プレイステーション2]]、[[ニンテンドーゲームキューブ]]、[[XBOX]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 岡本良一『大坂城』岩波書店、1970年&lt;br /&gt;
* 『大坂城』学習研究社、1994年&lt;br /&gt;
* 『復元大系日本の城5 近畿』ぎょうせい、1992年&lt;br /&gt;
&amp;lt;!--*大坂城内見聞録：1586年（天正14）に豊後国の戦国大名[[大友義鎮]]（宗麟）が秀吉に謁見した際に書かれた書状。築城途中の様子が記されている資料。--&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本の城一覧]]&lt;br /&gt;
*[[日本100名城]]&lt;br /&gt;
*[[大坂藩]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 外部リンク ==&lt;br /&gt;
*[http://www.museum.or.jp/osakajo/ OSAKA CASTLE RENEWAL ANNOUNCEMENT HOME PAGE]&lt;br /&gt;
*[http://www.osakacastle.net/ 大阪城天守閣]&lt;br /&gt;
*[http://www.tourism.city.osaka.jp/ja/castle/history/index.htm 大阪城]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:日本の城|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:特別史跡|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の史跡|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:名勝|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の歴史|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪市の建築物・観光名所|おおさかしよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:中央区 (大阪市)|おおさかしよう]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>石山本願寺</title>
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		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''石山本願寺'''（'''いしやまほんがんじ'''）は、1496年(明応5)、蓮如のときに摂津国石山(大阪市中央区)に建てられ、後...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''石山本願寺'''（'''いしやまほんがんじ'''）は、[[1496年]](明応5)、[[蓮如]]のときに[[摂津国]]石山([[大阪市]]中央区)に建てられ、後に[[浄土真宗]][[本願寺|本願寺派]]の本山となっていた[[寺院]]である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
石山は[[上町台地]]の北端にある小高い丘で、真下で淀川と旧大和川が合流し、その付近に[[淀川]]水系や[[瀬戸内海]]の水運の拠点で、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもある[[渡辺津]]が形成されていた。[[蓮如]]の隠居坊から次第に拡大して[[寺内町]]を形成して商工民などが住み自治が行われた。この寺内町が、台地にそった坂にあることから「小坂」、後に「[[大坂]]」と呼ばれるようになった（大坂という地名の出現は[[1498年]]とされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
蓮如の隠居房であった事から、ここを崇敬する門徒も多く、本山であった[[山科本願寺]]をも圧倒する勢いを見せる。これを危惧した蓮如の後継者[[実如]]は[[永正]]元年（[[1504年]]）石山門徒の鎮圧に踏み切った（「大坂一乱」・また石山門徒には[[河内国|河内]]出身者が多かった事から「河内国錯乱」とも）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが[[天文 (元号)|天文]]年間に山科本願寺を失った後には本山としての地位を確立する。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[城郭]]に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。[[織田信長]]との[[石山戦争]]では篭城戦を行ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に、[[1580年]]門主[[顕如]]は和睦。長男の[[教如]]はこれに従わず[[下間頼龍]]らとともに籠城を続けたが、退去を命じられて、[[紀伊]]鷺森に移った。その直後、石山本願寺は炎上した。&amp;lt;!---（信長が焼き払ったとの説もある）---&amp;gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石山本願寺の跡地に、[[豊臣秀吉]]が[[大坂城]]を築いた。また、同寺建立以前は、[[古墳]]であったとも言われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[日本の寺院一覧]]&lt;br /&gt;
*[[本願寺]]&lt;br /&gt;
*[[鷺森別院]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の寺|いしやまほんかんし]]&lt;br /&gt;
[[Category:大阪府の歴史|いしやまほんかんし]]&lt;br /&gt;
[[Category:浄土系仏教|いしやまほんかんし]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国時代 (日本)|いしやまほんかんし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>六角義賢</title>
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				<updated>2007-06-10T03:25:40Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''六角義賢'''（ろっかく よしかた）は、南近江の守護・戦国大名。観音寺城主。  == 生涯 == === 家督相続 === 大...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''六角義賢'''（ろっかく よしかた）は、[[近江国|南近江]]の[[守護]]・[[戦国大名]]。[[観音寺城]]主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 家督相続 ===&lt;br /&gt;
大永元年（1521年）、[[六角定頼]]の子として生まれる。父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる[[細川晴元]]を援助して[[三好長慶]]と戦った。[[天文 (日本)|天文]]21年（[[1552年]]）、父の死去により[[家督]]を継いで六角家の当主となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 相次ぐ敗戦 ===&lt;br /&gt;
父の死後も、第13代将軍・[[足利義輝]]や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好家との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。しかし[[永禄]]元年（[[1558年]]）、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかしこれを契機に、父の時代に従属していた北近江の[[浅井久政]]が六角領に対して侵攻を開始する。しかし義賢はこれを撃退し、なおも浅井氏を従属下に置いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄2年（[[1559年]]）に嫡男の義治に家督を譲って[[隠居]]し、剃髪して'''承禎'''と号した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄3年（[[1560年]]）、浅井久政の嫡男・[[浅井長政]]が六角家に対して反抗を開始する。義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した（[[野良田の戦い]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 衰退から滅亡へ ===&lt;br /&gt;
永禄6年（[[1563年]]）、当主の義治が、最有力の重臣で人望もあった[[後藤賢豊]]を[[観音寺城]]内で惨殺するという事件が起こった（[[観音寺騒動]]）。これにより、家臣の多くが六角家に対して不信感を爆発させ、義賢も義治と共に観音寺城から追われるまでに至った。重臣の[[蒲生定秀]]、[[蒲生賢秀]]の仲介で義賢父子は観音寺城に戻ることができた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄9年（[[1566年]]）には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始するが、もはやそれを食い止めるだけで精一杯だった。永禄11年（[[1568年]]）、[[織田信長]]が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長の援軍要請を拒絶して織田軍と戦った。しかし大敗を喫し、観音寺城から逃亡して甲賀に去った。こうして、戦国大名としての六角家は滅亡する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== その後 ===&lt;br /&gt;
やがて上洛した信長と義昭が対立し、義昭によって信長包囲網が形成されると、義賢は義治と共に浅井長政と手を結び、旧臣をかき集めてゲリラ的に南近江で織田軍と戦った。[[元亀]]元年（[[1570年]]）には南近江の[[長光寺城]]に立て籠もる信長の重臣・[[柴田勝家]]と戦ったが、敗れてしまう。その後、菩提寺城に立て籠もったが敗れ、信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長の命令により、[[佐久間信盛]]にその身柄を預けられ、石部城に監禁された。しかし[[天正]]2年（[[1574年]]）に信楽に逃亡する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も甲賀や伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、隠棲していたとも、[[石山本願寺]]の扶助を受けていたとも、天正9年（[[1581年]]）にキリシタンの洗礼を受けたとも言われるが、はっきりしていない。天下の実権を掌握した[[豊臣秀吉]]が死去した慶長3年（[[1598年]]）に義賢も死去している。享年78。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
義賢は弓馬の名手で、弓術は家臣の吉田重政に日置流（吉田流）を学び、唯授一人の印可を受けた腕前であった（経緯については[[日置流]]参照）。 馬術も[[大坪流]]を学び、佐々木流を興してその名を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:六角氏|よしかた]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|ろつかく よしかた]]&lt;br /&gt;
[[Category:1521年生|ろつかく よしかた]]&lt;br /&gt;
[[Category:1598年没|ろつかく よしかた]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD&amp;diff=6956</id>
		<title>足利義昭</title>
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				<updated>2007-06-10T03:22:48Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: /* 略歴 */&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''足利 義昭'''（'''あしかが よしあき'''）は、[[室町幕府]]の第15代[[征夷大将軍|将軍]]で、室町幕府最後の将軍である（在位：[[永禄]]11年（[[1568年]]）－[[元亀]]4年（[[1573年]]））。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
父は室町幕府第12代将軍・[[足利義晴]]。母は近衛尚通の娘・慶寿院。同母兄に第13代将軍である[[足利義輝]]がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ興福寺で仏門に入っていたが、義輝が[[松永久秀]]らに[[暗殺]]されると、[[細川藤孝]]ら幕臣の援助を受けて[[京都]]から脱出し、[[美濃国|美濃]]の[[織田信長]]に擁されて上洛し、久秀らを倒して第15代将軍に就任する。しかしやがて信長と対立し、[[武田信玄]]や[[朝倉義景]]らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたが、信玄が死ぬと信長の反撃が始まり、信長によって京都から追放され、事実上、室町幕府は滅んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は[[毛利輝元]]、そして[[豊臣秀吉]]らの援助を受けて余生を送った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 流浪 ===&lt;br /&gt;
天文6年（1537年）11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。兄に嗣子である義輝がいたため、幼くして外祖父・近衛尚通の猶子となって仏門（[[興福寺]][[一乗院]]）に入り、覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[永禄]]8年（[[1565年]]）の[[永禄の変]]で、第13代将軍であった兄・義輝が松永久秀や[[三好三人衆]]らによって暗殺され、弟で[[鹿苑院]]院主であった[[周嵩]]も誘殺された。このとき、義昭も松永久秀らによって捕縛され、興福寺に幽閉された（久秀らは覚慶が将軍の弟で、なおかつ将来は興福寺別当の職を約束されていたことから、覚慶を殺すことで興福寺を敵に回すことを恐れて、幽閉にとどめたとされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし幕臣である[[細川藤孝]]や[[和田惟政]]らに助けられて脱出する。永禄9年（[[1566年]]）2月17日、還俗して義秋と名乗った。義昭のことを記した書物には、別称として'''武家御所'''などと呼ばれていたことが記されている。京を追われた折は夜盗に襲われ、貧乏公方とも呼ばれたとされる。4月21日には密かに[[従五位下]]、[[左馬頭]]に叙位・任官された。なお、叙任時期については疑問視する意見があるが、[[山科言継]]の『[[言継卿記]]』によれば永禄11年（[[1568年]]）2月に行われた義昭の対抗馬である[[足利義栄]]への将軍宣下当日に宣下の使者であった言継の屋敷に義昭の使者が現れて[[従四位下]]への昇進推薦の仲介を依頼しに来たために困惑した事が書かれており、この以前に叙任を受けていた事は明らかである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、京都から脱出した義秋は、はじめ[[近江国|近江]]の[[六角義賢]]・[[六角義治]]親子を頼って落ち延びていたが、義治が三好三人衆と密かに内通したため、8月に六角氏の領内から脱出し、妹の婿である縁を頼って[[若狭国|若狭]]の[[武田義統]]を頼った。しかし[[若狭武田氏]]では家督抗争や重臣の権力争いなどから、上洛できるだけの実力は無く、9月には[[越前国|越前]]の[[朝倉義景]]のもとを頼って落ち延び、将軍家再興を目指して助力を要請した。しかし朝倉義景は実力を持ちながら覇気の乏しい男であったため、遂に上洛は実現しなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、朝倉家に滞在している間の永禄11年（1568年）4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとして、正式に[[元服]]して義昭と名を改めた。このときの加冠役は朝倉義景が務めている（なお、義昭はこの時点まで正式な元服を行ったという文献史料は一切無く、当時としてはあまりに遅すぎる元服だったといえる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、朝倉家の重臣であった[[明智光秀]]の助力により、[[美濃国|美濃]]を平定して勢いに乗る織田信長の援助を得て、永禄11年（[[1568年]]）9月に上洛し、10月18日に晴れて室町幕府の第15代として将軍宣下を受け、将軍に就任したのである。このとき、従四位下、参議・左近衛権中将に昇叙・任官されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信長との対立 ===&lt;br /&gt;
義昭は将軍職に就けてくれた信長に恩義を感じていたようで、将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠（信長）殿」と宛て名している。これは、信長を父とすると義昭が承認したことと同義であった。また、信長に対して副将軍・管領職の地位を与えようともしているなど、はじめ信長との関係は良好だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、後ろ盾である信長には[[天下布武]]という野望があった。そのため、将軍権力を抑えるために永禄12年（[[1569年]]）1月、『[[殿中御掟]]』という9箇条の掟書を突きつけ、これをほとんど強制的に認めさせた。永禄13年（[[1570年]]）1月にも殿中御掟追加7箇条を発して義昭に承認させている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、これに不満を持った義昭は信長を排除しようと企む。そして[[顕如|本願寺顕如]]や武田信玄、朝倉義景らに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成したのである。この包囲網には後に信長の妹婿である[[浅井長政]]や義昭にとっては仇敵である松永久秀、三好三人衆、[[三好義継]]らも加わった。これにより信長は一時的に窮地に陥った。しかし元亀4年（[[1573年]]）4月に信長にとって最大の強敵・武田信玄が病死してしまったため、信長包囲網は瓦解し、織田軍の反撃が始まった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
にも関わらず、義昭は4月に三好義継、松永久秀らと同盟を結んで信長に対して挙兵する。1度目は[[正親町天皇]]の勅命もあったためにさすがの信長も許した。しかし7月における2度目の挙兵は許さず、[[京都|京の町]]を焼き払って義昭を捕らえ、[[河内国|河内]]に追放した。一般にはこれにより室町幕府は滅亡したとされる（ただし将軍職を解任されたわけではなかったので、反信長派諸大名の間では、その後しばらく権威を保っていた。また、[[京都五山]]の[[住持]]任命権は五山を定めた[[足利将軍家]]にあると考えられていたため、その任命のための献金収入もあったと言われている。『[[公卿補任]]』では、[[関白]][[豊臣秀吉]]に従って参内し、秀吉への忠誠を誓った[[天正]]16年[[1月13日_(旧暦)|1月13日]]（[[1588年]][[2月9日]]）まで将軍として扱っている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 再びの流浪 ===&lt;br /&gt;
信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし[[天正]]4年（[[1576年]]）、毛利領であった[[備後国|備後]]にある[[鞆の浦]]（足利尊氏再起の地で縁起が良い）に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。しかし天正6年（[[1578年]]）に関東管領の[[上杉謙信]]が死去し、天正8年（[[1580年]]）に[[石山本願寺]]も信長に降伏したため、信長討伐は潰えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天正10年（[[1582年]]）に信長が[[本能寺の変]]で横死すると、[[毛利輝元]]の力を借りて再び上洛を目論む一方、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]や[[柴田勝家]]にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった[[小早川隆景]]らが反対したため、[[毛利輝元]]は動くことはなく、また義昭はいかなる成り行きで勝家を支持したため秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、毛利氏が正式に秀吉の配下となった後の天正15年（[[1587年]]）、出家して秀吉の側近として仕え、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。晩年には[[文禄・慶長の役]]に際し[[肥前国|肥前]][[名護屋]]まで参陣している。[[慶長]]2年（[[1597年]]）、大坂で死去。享年61。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*天下統一を実現した秀吉が幕府の創立を目論み、義昭を大名にする代わりに自分を養子としてくれるようにと望んだが、名族・足利氏としての意地があったのかこれを拒絶した、という逸話が伝わるがこれは後世の作り話とされている。&lt;br /&gt;
*織田信長やその家臣を主人公とした作品では、[[暗君]]の公家として描かれる場合が多い。しかし、前代までの将軍たちと異なり、生き残ること自体が困難であった戦国時代を生き抜いて天寿を全うしたこと、また壮大な信長包囲網を作り上げたことなどから、非凡な才能を持った将軍であったとも思われる。政権の最後の責任者は古今東西問わず評価が低くなりがちであるし、さらに信長、秀吉という天才たちの引き立て役とならざるを得ない気の毒な面もあると言えよう。&lt;br /&gt;
*また、信長に京を追われ流浪の生活を送った義昭のあだ名は「貧乏公方」であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
義昭の嫡男・足利義尋は、信長の人質となったあと出家して[[大乗院]]門跡を継ぎ、足利義在は[[薩摩国|薩摩]]の[[島津氏]]を頼り永山姓を名乗った。また、足利義喬は[[会津藩]]を頼って坂本姓を名乗った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
*[[永禄]]9年（[[1566年]]）&lt;br /&gt;
*:従五位下に叙し、[[左馬頭]]に任官。叙位任官時期については疑問視もある&lt;br /&gt;
*永禄11年（[[1568年]]）&lt;br /&gt;
*:[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]：従四位下に昇叙し、[[参議]]に補任。[[左近衛中将]]を兼任。征夷大将軍宣下&lt;br /&gt;
*永禄12年（[[1569年]]）&lt;br /&gt;
*:[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]：[[従三位]]に昇叙し、[[大納言|権大納言]]に転任&lt;br /&gt;
*[[天正]]2年（[[1574年]]）&lt;br /&gt;
*:京都より追放される&lt;br /&gt;
*天正16年（[[1588年]]）&lt;br /&gt;
*:[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]：出家により征夷大将軍を辞め、[[准三宮]]宣下&lt;br /&gt;
*[[慶長]]2年（[[1597年]]）&lt;br /&gt;
*:[[8月28日 (旧暦)|8月28日]]：卒去。法号は霊陽院昌山道休&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 伝記 ==&lt;br /&gt;
* 奥野高広『足利義昭』（[[吉川弘文館]]人物叢書、1996年新装版） ISBN 4642051821&lt;br /&gt;
* 桑田忠親『流浪将軍 足利義昭』（[[講談社]]、1985年） ISBN 4062018500&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 足利義昭を題材とした作品 ==&lt;br /&gt;
* [[岡本好古]]『御所車 &amp;lt;small&amp;gt;最後の将軍・足利義昭&amp;lt;/small&amp;gt;』（[[文藝春秋 (出版社)|文藝春秋]]、1993年） ISBN 4163140700&lt;br /&gt;
* [[水上勉]]『足利義昭 &amp;lt;small&amp;gt;流れ公方記&amp;lt;/small&amp;gt;』（学陽書房人物文庫、1998年） ISBN 4313750339&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:足利氏|よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:征夷大将軍|あしかか よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:還俗した人物|あしかかよしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:1537年生|あしかか よしあき]]&lt;br /&gt;
[[Category:1597年没|あしかか よしあき]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
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		<title>戦国大名</title>
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				<updated>2007-06-03T00:51:58Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''戦国大名'''（せんごくだいみょう）は、日本の戦国時代に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した[[大...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''戦国大名'''（せんごくだいみょう）は、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に数郡から数カ国規模の領域を一元的に支配した[[大名]]を指す。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 概要 ==&lt;br /&gt;
[[室町時代]]の[[守護大名]]と比べると、戦国大名は、中央権力と一線を画して領国の集権化、特に[[被官]]・家臣の統制を強化し、知行高に応じて[[軍役]]を課す[[貫高制]]を確立した。独自に被官・家臣間、領民間の争いを調停する[[分国法]]を制定するものもあった。このような戦国大名による独自性の高い強固な領国支配体制を[[大名領国制]]という。これは守護大名の[[守護領国制]]がより集権性を高めて発展した支配形態とされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦国大名は、支配の正統性を確立し、近隣大名を凌駕するために、幕府から[[守護]]への補任を受ける者が多かった。このことから戦国大名を'''戦国期守護'''という概念で理解する見解もある。&lt;br /&gt;
戦国大名は支配正統性の確立・近隣への優越という動機に基づいて、朝廷へ多額の貢納を行う見返りに[[官位]]（[[武家官位]]）を獲得する戦国大名も多数存在した。これにより衰亡寸前だった[[天皇]]の権威が再認識されることとなり、天皇は戦国末期～[[安土桃山時代|安土桃山期]]の天下統一に少なからぬ役割を果たした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
戦国大名による領国化が著しく進展し、国内は分権的な様相を呈していたが、[[織田信長]]・[[豊臣秀吉]]の天下統一により一転して集権化へと向かい、戦国大名の独立性は薄まっていく。こうした流れの中で、戦国大名は[[幕藩体制]]下の近世大名へと移行していった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 出自 ==&lt;br /&gt;
戦国大名の出自を概観すると、[[佐竹氏]]・[[今川氏]]・[[武田氏]]・[[土岐氏]]・[[六角氏]]・[[大内氏]]・[[大友氏]]・[[島津氏]]らのように[[守護大名]]に出自した例、[[朝倉氏]]・[[尼子氏]]・[[長尾氏]]・[[三好氏]]・[[長宗我部氏]]・[[神保氏]]・[[波多野氏]]・[[織田氏]]・[[松永氏]]らのように[[守護代]]やその[[臣]]・[[陪臣]]に出自した例が多数を占めたが、[[毛利氏]]・[[田村氏]]・[[龍造寺氏]]らのように[[国人]]層に出自した例も多かった。その他、[[後北条氏]]・[[斎藤氏]]のように幕府吏僚・[[浪人]]に出自する者も少なからずいた。また、[[北畠氏]]のように[[国司]]から、[[土佐一条氏]]のように[[公家]]から戦国大名化した例もあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 支配 ==&lt;br /&gt;
戦国大名は、領国内に一円的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有しており、地域国家と呼びうる実態を持っていた。戦国大名は、国人・被官層を家臣として組織化し、自らの本拠地周辺に集住させて[[城下町]]を形成する等により、国人・被官層と土地・民衆との間の支配関係を解消もしくは弱体化しようと図った。在地社会に対しては、在地社会の安全を確保する見返りに軍役を課すとともに、[[検地]]を実施して新たな租税収取体系を構築した。また、国人・被官層及び在地社会における紛争を調停する基準として[[分国法]]を制定する者もいた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を[[大名領国制]]という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただし、戦国大名は、地域国家内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名の権力基盤は、家臣として組織化された国人・被官層だった。室町時代中期頃から日本社会に広がった[[一揆]]は、国人・被官層にも浸透しており、国人・被官層は自らの利権を共同で確保していくため、国人一揆といった同盟関係を構築していた。そして、戦国大名は国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名は排除されることもあり、こうした事例は[[下克上]]と呼ばれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な戦国大名 ==&lt;br /&gt;
=== 東北・北海道===&lt;br /&gt;
（[[蝦夷地]]、[[陸奥国|陸奥]]、[[出羽国|出羽]]）&lt;br /&gt;
* [[蠣崎氏]]→[[松前氏]]&lt;br /&gt;
* [[津軽氏]]（[[津軽氏|大浦氏]]）&lt;br /&gt;
* [[浪岡氏]]&lt;br /&gt;
* [[南部氏]]&lt;br /&gt;
* [[葛西氏]]&lt;br /&gt;
* [[大崎氏]]&lt;br /&gt;
* [[伊達氏]]&lt;br /&gt;
* [[二本松畠山氏]]&lt;br /&gt;
* [[蘆名氏]]&lt;br /&gt;
* [[大宝寺氏]]&lt;br /&gt;
* [[相馬氏]]&lt;br /&gt;
* [[田村氏]]&lt;br /&gt;
* [[白河結城氏]]&lt;br /&gt;
* [[安東氏]]&lt;br /&gt;
* [[戸沢氏]]&lt;br /&gt;
* [[小野寺氏]]&lt;br /&gt;
* [[最上氏]]&lt;br /&gt;
* [[岩城氏]]&lt;br /&gt;
* [[石川氏]]&lt;br /&gt;
* [[二階堂氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 関東 ===&lt;br /&gt;
（[[相模国|相模]]、[[武蔵国|武蔵]]、[[上野国|上野]]、[[下野国|下野]]、[[常陸国|常陸]]、[[下総国|下総]]、[[上総国|上総]]、[[安房国|安房]]）&lt;br /&gt;
* [[後北条氏]]&lt;br /&gt;
* [[相模三浦氏|三浦氏]]&lt;br /&gt;
* [[扇谷上杉家]]&lt;br /&gt;
* [[山内上杉家]]&lt;br /&gt;
* [[上野長野氏]]&lt;br /&gt;
* [[下野宇都宮氏|宇都宮氏]]&lt;br /&gt;
* [[那須氏]]&lt;br /&gt;
* [[佐竹氏]]&lt;br /&gt;
* [[小田氏]]&lt;br /&gt;
* [[結城氏]]&lt;br /&gt;
* [[千葉氏]]&lt;br /&gt;
* [[里見氏]]&lt;br /&gt;
* [[正木氏]]&lt;br /&gt;
* [[武田氏#上総武田氏|上総武田氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中部 ===&lt;br /&gt;
（[[甲斐国|甲斐]]、[[信濃国|信濃]]、[[駿河国|駿河]]、[[遠江国|遠江]]、[[三河国|三河]]、[[尾張国|尾張]]、[[美濃国|美濃]]、[[越後国|越後]]、[[越中国|越中]]、[[能登国|能登]]、[[飛騨国|飛騨]]、[[越前国|越前]]）&lt;br /&gt;
* [[武田氏]]&lt;br /&gt;
* [[諏訪氏]]&lt;br /&gt;
* [[小笠原氏]]&lt;br /&gt;
* [[村上氏]]&lt;br /&gt;
* [[真田氏]]&lt;br /&gt;
* [[今川氏]]&lt;br /&gt;
* [[松平氏]]・[[徳川氏]]&lt;br /&gt;
* [[織田氏]]&lt;br /&gt;
* [[斯波氏]]&lt;br /&gt;
* [[土岐氏]]&lt;br /&gt;
* [[斎藤氏]]&lt;br /&gt;
* [[長尾氏]]・[[上杉氏]]&lt;br /&gt;
* [[椎名氏]]&lt;br /&gt;
* [[神保氏]]&lt;br /&gt;
* [[畠山氏]]&lt;br /&gt;
* [[姉小路氏]]（三木氏）&lt;br /&gt;
* [[朝倉氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 畿内・近畿 ===&lt;br /&gt;
（[[若狭国|若狭]]、[[近江国|近江]]、[[山城国|山城]]、[[伊勢国|伊勢]]、[[志摩国|志摩]]、[[伊賀国|伊賀]]、[[大和国|大和]]、[[摂津国|摂津]]、[[河内国|河内]]、[[和泉国|和泉]]、[[紀伊国|紀伊]]、[[播磨国|播磨]]、[[丹波国|丹波]]、[[丹後国|丹後]]）'''&lt;br /&gt;
*　[[武田氏#若狭武田氏|若狭武田氏]]&lt;br /&gt;
*　[[浅井氏]]&lt;br /&gt;
*　[[六角氏]]&lt;br /&gt;
*　[[京極氏]]&lt;br /&gt;
*　[[北畠氏]]&lt;br /&gt;
*　[[松永氏]]&lt;br /&gt;
*　[[細川氏]]&lt;br /&gt;
*　[[三好氏]]&lt;br /&gt;
*　[[赤松氏]]&lt;br /&gt;
*　[[別所氏]]&lt;br /&gt;
*　[[波多野氏]]&lt;br /&gt;
*　[[赤井氏]]&lt;br /&gt;
*　[[一色氏]]&lt;br /&gt;
*　[[畠山氏]]&lt;br /&gt;
*　[[筒井氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 中国・四国 ===&lt;br /&gt;
（[[但馬国|但馬]]、[[因幡国|因幡]]、[[備中国|備中]]、[[備前国|備前]]、[[備後国|備後]]、[[美作国|美作]]、[[安芸国|安芸]]、[[出雲国|出雲]]、[[石見国|石見]]、[[長門国|長門]]、[[周防国|周防]]、[[土佐国|土佐]]、[[阿波国|阿波]]、[[讃岐国|讃岐]]、[[伊予国|伊予]]）&lt;br /&gt;
* [[赤松氏]]&lt;br /&gt;
* [[安芸氏]]&lt;br /&gt;
* [[尼子氏]]&lt;br /&gt;
* [[土佐一条氏]]&lt;br /&gt;
* [[宇喜多氏]]&lt;br /&gt;
* [[浦上氏]]&lt;br /&gt;
* [[大内氏]]&lt;br /&gt;
* [[吉川氏]]&lt;br /&gt;
* [[河野氏]]&lt;br /&gt;
* [[小早川氏]]&lt;br /&gt;
* [[西園寺家#伊予西園寺氏|伊予西園寺氏]]&lt;br /&gt;
* [[陶氏]]&lt;br /&gt;
* [[長宗我部氏]]&lt;br /&gt;
* [[香宗我部氏]]&lt;br /&gt;
* [[伊予宇都宮氏]]&lt;br /&gt;
* [[十河一存|十河氏]]&lt;br /&gt;
* [[三村氏]]&lt;br /&gt;
* [[毛利氏]]&lt;br /&gt;
* [[本山氏]]&lt;br /&gt;
* [[山名氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 九州 ===&lt;br /&gt;
（[[対馬国|対馬]]、[[豊前国|豊前]]、[[豊後国|豊後]]、[[筑前国|筑前]]、[[筑後国|筑後]]、[[肥前国|肥前]]、[[肥後国|肥後]]、[[日向国|日向]]、[[大隅国|大隅]]、[[薩摩国|薩摩]]）&lt;br /&gt;
* [[宗像大宮司氏|宗像氏]]&lt;br /&gt;
* [[宗氏]]&lt;br /&gt;
* [[城井氏]]&lt;br /&gt;
* [[大友氏]]&lt;br /&gt;
* [[秋月氏]]&lt;br /&gt;
* [[少弐氏]]&lt;br /&gt;
* [[菊池氏]]&lt;br /&gt;
* [[龍造寺氏]]&lt;br /&gt;
* [[蒲池氏]]&lt;br /&gt;
* [[有馬氏]]&lt;br /&gt;
* [[松浦氏]]&lt;br /&gt;
* [[阿蘇氏]]&lt;br /&gt;
* [[相良氏]]&lt;br /&gt;
* [[伊東氏]]&lt;br /&gt;
* [[肝付氏]]&lt;br /&gt;
* [[島津氏]]&lt;br /&gt;
* [[大村氏]]&lt;br /&gt;
* [[立花氏]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== その他の勢力 ==&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
* [[一向宗]]（浄土真宗本願寺派）&lt;br /&gt;
* [[比叡山]]（[[延暦寺]]）&lt;br /&gt;
* [[雑賀衆]]&lt;br /&gt;
* [[根来衆]]（[[根来寺]]）&lt;br /&gt;
* [[室町幕府]]（[[足利氏]]）&lt;br /&gt;
* [[堀越公方]]（足利氏）&lt;br /&gt;
* [[古河公方]]（足利氏）&lt;br /&gt;
* [[会合衆|堺衆]]&lt;br /&gt;
* [[町衆]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 参考文献 ==&lt;br /&gt;
* 小和田哲男『戦国大名』（中公新書637）、中央公論社、[[1981年]]12月。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[大名領国制]]&lt;br /&gt;
*[[城下町]]&lt;br /&gt;
*[[分国法]]&lt;br /&gt;
*[[戦国時代史料の一覧]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:室町時代|せんこくたいみよう]]&lt;br /&gt;
[[category:戦国時代 (日本)|せんこくたいみよう]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|*]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D&amp;diff=5111</id>
		<title>足利義輝</title>
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				<updated>2007-05-26T09:15:51Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''足利 義輝'''（'''あしかが よしてる'''、天文5年3月10日（1536年3月31日） - 永禄8年[[5月19日...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''足利 義輝'''（'''あしかが よしてる'''、[[天文 (元号)|天文]]5年[[3月10日 (旧暦)|3月10日]]（[[1536年]][[3月31日]]） - [[永禄]]8年[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]（[[1565年]][[6月17日]]））は、[[室町幕府]]の第13代[[征夷大将軍]]（在位：[[天文_(元号)|天文]]15年（[[1546年]]） - 永禄8年（1565年）。[[足利義維]]の子で後の第14代将軍・[[足利義栄]]は従兄弟にあたる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 将軍職 ===&lt;br /&gt;
天文5年（1536年）3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。この頃の幕府では父・義晴と[[管領]]・[[細川晴元]]が対立し、義晴はそのたびに敗れて[[近江国|近江]]坂本に逃れ、それに義輝もたびたび従った。その後も父とともに京への復帰と坂本への脱出を繰り返した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文15年（[[1546年]]）12月、義輝はわずか11歳にして、父から将軍職を譲られる。このときの将軍就任式は亡命先の近江坂本で行なわれ、[[元服]]の[[烏帽子親]]は[[六角定頼]]が務めた。天文17年（[[1548年]]）、義晴は細川晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義輝の将軍就任を承諾している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三好長慶との戦い ===&lt;br /&gt;
ところが、晴元の家臣である[[三好長慶]]が晴元を裏切って[[細川氏綱]]に味方し、畿内に一大勢力を築き上げたのである。このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡した。そしてその最中の天文19年（[[1550年]]）、義晴は近江坂本にて死去している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文21年（[[1552年]]）、氏綱を[[管領]]にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。翌年から細川晴元と協力して長慶との戦いを始める。しかし敗れて近江坂本に逃れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
永禄元年（[[1558年]]）、長慶と和睦して京に戻る。ところがその直後、再び長慶と戦う。一時期は[[六角義賢]]の支援を受けた義輝側が優勢であったが、三好長慶の弟・[[三好義賢]]の猛反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたため、遂に京から追われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、長慶は将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、和睦を申し出ている。これにより京に戻ることはできたが、長慶は幕府の[[御相伴衆]]に加えられ、さらに[[修理大夫]]に推挙され、幕政の実権を握った。義輝は単なる長慶の傀儡にすぎなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 将軍親政 ===&lt;br /&gt;
幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっている。[[伊達晴宗]]と[[伊達稙宗|稙宗]]（天文17年（1548年））、[[武田晴信]]と[[長尾景虎]]（永禄元年（1558年））、[[島津貴久]]と[[大友宗麟]]、[[毛利元就]]と[[尼子晴久]]（永禄3年（[[1560年]]））などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに自分の名である『輝』の字を[[毛利輝元]]や[[伊達輝宗]]･上杉謙信（上杉輝虎）などの諸大名や足利一門の[[足利輝氏]]などに与えたりもしている（前名の『藤』は[[細川藤孝]]や[[足利藤氏]]、[[筒井藤勝]]（出家して[[筒井順慶|順慶]]）などに与えている）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このような経緯から、将軍として諸大名から認められるようになり、[[織田信長]]や上杉謙信などは上洛して拝謁している。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
永禄7年（[[1564年]]）、幕政を牛耳っていた長慶が病死した。このため義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた[[松永久秀]]と[[三好三人衆]]にとっては、そのような義輝は邪魔な存在である。このため、久秀と三人衆は足利義稙の養子・[[足利義維]]と組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄（義輝の従兄弟）を傀儡として擁立した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして永禄8年（[[1565年]]）5月19日、久秀と三好三人衆は主君・[[三好義継]]（長慶の養嗣子）とともに足利義栄を奉じて[[謀叛]]を起こした（[[永禄の変]]）。義輝の居城である[[二条御所]]に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は[[上泉信綱]]に教えを受け、[[塚原卜伝]]に奥義の伝授を受けた剣豪であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数、斬り殺したという。しかし衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された（[[ルイス・フロイス|フロイス]]の『日本史』では、自害したとされている）。このとき、義輝の生母である慶寿院も殉死している。享年30。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 辞世の句 ==&lt;br /&gt;
* 五月雨は　露か涙か　不如帰　我が名をあげよ　雲の上まで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
* '''剣豪将軍'''と呼ばれた。[[塚原卜伝]]からの指導を受け、鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も[[武術]]の優れた人物として伝えられている。[[松永久秀]]らの[[二条御所]]襲撃の際も[[刀]]を数本畳にさし、刃こぼれしては新しい刀に替えて敵を切り伏せ続けたという。&lt;br /&gt;
* 室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。その政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいて、その能力は評価に値する。&lt;br /&gt;
* 皮肉にも自らが暗殺されたことにより、将軍の権威は地に堕ちた。辞世の句にも、野心と無念が強くにじみ出ていることが窺える。&lt;br /&gt;
* 天文23年（[[1554年]]）には[[大友氏]]から[[鉄砲]]と[[火薬]]の秘伝書（『鉄放薬方并調合次第』）を手に入れたり、永禄3年（[[1560年]]）には[[ガスパル・ヴィレラ]]に[[キリスト教]]の布教を許すなど、新しい物に目敏かったようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
*嫡男の[[足利義高]]は永禄の変後[[京都]][[誓願寺]]で仏門に入り、[[波多野秀治]]の庇護を受けのち浄福寺（廃寺）に隠居、余生を過ごした。&lt;br /&gt;
*[[足利義辰]]は浅井家・徳川家の庇護を受け成長、関ヶ原の合戦後は[[讃岐国|讃岐]][[生駒家]]に身を寄せていたが[[熊本藩|熊本藩主]][[細川忠利]]（[[細川藤孝]]の孫）に迎えられ、その子孫は西山氏として明治まで存続した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官職位階履歴 ==&lt;br /&gt;
※ 日付＝旧暦&lt;br /&gt;
* [[天文 (元号)|天文]]15年（[[1546年]]）&lt;br /&gt;
** 7月27日、従五位下に叙す。&lt;br /&gt;
** 11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。&lt;br /&gt;
** 12月19日、元服し、義藤を名乗る。&lt;br /&gt;
** 12月20日、従四位下征夷大将軍宣下。&lt;br /&gt;
* 天文16年（[[1547年]]）&lt;br /&gt;
** 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。&lt;br /&gt;
* 天文23年（[[1554年]]）&lt;br /&gt;
** 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。&lt;br /&gt;
* [[永禄]]8年（[[1565年]]）&lt;br /&gt;
** 5月19日、薨去。&lt;br /&gt;
** 6月7日、贈従一位、左大臣（太政大臣という説もある）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 足利義輝が登場する作品 ==&lt;br /&gt;
=== 義輝を題材とした作品 ===&lt;br /&gt;
* [[宮本昌孝]]『剣豪将軍義輝』上、中、下（徳間文庫、2000年）&lt;br /&gt;
: 上 鳳雛ノ太刀 ISBN 4198912475、中 孤雲ノ太刀 ISBN 4198912661、下 流星ノ太刀 ISBN 419891284X&lt;br /&gt;
* 宮本昌孝『義輝異聞 将軍の星』（徳間文庫、2003年） ISBN 4198918929&lt;br /&gt;
* 宮城賢秀『将軍義輝の死』（角川春樹事務所ハルキ文庫、2005年） ISBN 4758431809&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 義輝が登場する映像作品 ===&lt;br /&gt;
* 『[[天と地と (NHK大河ドラマ)|天と地と]]』（1969年、[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、俳優：[[山本學]]）&lt;br /&gt;
* 『[[国盗り物語 (NHK大河ドラマ)|国盗り物語]]』（1973年、NHK大河ドラマ、俳優：[[竹脇無我]]）&lt;br /&gt;
* 『[[信長 KING OF ZIPANGU]]』（1992年、NHK大河ドラマ、俳優：[[宮田恭男]]）&lt;br /&gt;
* 『[[織田信長 (テレビドラマ 1994年)|織田信長]]』（1994年、[[テレビ東京]]・12時間超ワイドドラマ（後の[[新春ワイド時代劇]]）、俳優：[[北大路欣也]]）&lt;br /&gt;
* 『[[国盗り物語]]』（2005年、テレビ東京・新春ワイド時代劇、俳優：[[千葉哲也]]）&lt;br /&gt;
* 『[[功名が辻 (NHK大河ドラマ)|功名が辻]]』（2006年、NHK大河ドラマ、俳優：[[山口祥行]]）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:足利氏|よしてる]]&lt;br /&gt;
[[Category:征夷大将軍|あしかがよしてる]]&lt;br /&gt;
[[Category:暗殺された人物|あしかがよしてる]]&lt;br /&gt;
[[Category:1536年生|あしかかよしてる]]&lt;br /&gt;
[[Category:1565年没|あしかかよしてる]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>三好長慶</title>
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				<updated>2007-05-26T08:45:30Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''三好 長慶'''（'''みよし ながよし'''）は、畿内や四国を支配した戦国大名。  *三好元長の嫡男で、三好義賢、安宅冬康、十河...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''三好 長慶'''（'''みよし ながよし'''）は、畿内や四国を支配した[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*三好元長の嫡男で、三好義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長の兄。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*通称は孫次郎、官位：従四位下。筑前守、のち修理大夫。史料では「三筑」の略称で彼の名が多く残っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 細川家臣時代 ===&lt;br /&gt;
大永2年（1523年）2月13日、三好元長の嫡男として現在の[[徳島県]][[三好市]]で生まれる。父・元長は[[細川晴元]]配下の有力な重臣で、[[阿波国|阿波]]や[[山城国|山城]]に勢力を誇っていたが、天文元年（[[1532年]]）に元長の勢力を恐れた晴元は一向宗の力を借りて、元長を殺害してしまった。このとき長慶は、[[河内国|河内]][[守護代]]であった[[木沢長政]]の仲介や、幼少であるという理由から許されて、細川晴元に従うことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長慶は父や祖父以上に智勇に優れた名将であった。天文8年（[[1539年]]）には父の遺領を受けられなかったことに不満を持って、2,500の兵を率いて上洛し、力によってそれを手に入れることに成功した。このとき、時の将軍・[[足利義晴]]は長慶を恐れて[[近江国|近江]]に逃走し、晴元は[[六角定頼]]に長慶との和睦を仲介してもらうほどであったという。これにより長慶は摂津守護代、越水城主となった。その後、長慶は[[細川氏]]の重臣として忠実に働き、木沢長政や[[遊佐長教]]らの敵勢力を次々と打ち破っていき、細川氏の最有力重臣にまでのし上がったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして父の復讐の機会が遂に訪れた。天文17年（[[1548年]]）、細川晴元と敵対していた[[細川氏綱]]側に寝返って翌、天文18年（[[1549年]]）に晴元と将軍・[[足利義輝]]を[[近江国|近江]]に追放し、同族ながら敵対していた[[三好政長]]を討った。これにより[[細川政権]]は事実上崩壊し、[[三好政権]]が誕生することになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三好政権の興亡 ===&lt;br /&gt;
長慶の政権は、幕府を滅ぼすのではなく、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することであった。天文21年（[[1552年]]）1月、[[六角氏]]の仲介で敵対していた晴元・義輝らと有利な条件（長慶は幕府相判衆となり、晴元は氏綱に家督を譲って隠居）で和睦した。ところが天文22年（[[1553年]]）から再び両者と争い、永禄元年（[[1558年]]）、京都霊山の戦いで足利・細川軍を破ったことを機会に義輝と和睦し、自らは幕府の主導者として、幕政の実権を掌握したのである。さらに[[堺市|堺]]の経済力を握り、有能な弟たちに軍を預けて、[[河内国|河内]]や[[大和国|大和]]、[[丹波国|丹波]]に転戦して、畿内に一大政権を築き上げたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし三好政権は長慶の優秀な能力によって支えられているところが大きかったため、永禄4年（[[1561年]]）の十河一存、永禄5年（[[1562年]]）の三好義賢、永禄6年（[[1563年]]）の[[三好義興]]という相次ぐ一族の死により心身に異常を来たした長慶の勢力は大きく衰えて、晩年は実権を家宰の[[松永久秀]]に操られるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
永禄7年（1564年）5月、松永久秀の讒言を受けて弟・安宅冬康を誅殺した直後、もともと前年から病がちだったために自身も後を追うように7月4日に河内飯盛城下の屋敷において病死した。享年42。嫡男の義興が前年に早世したため、弟の一存の息子である三好義継が養子として後を継いだ（一説に、冬康を討ったショックから、6月に家督を義継に譲って[[隠居]]したともされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これには謀殺説もあり、その説の支持者は、真犯人が松永久秀や[[三好三人衆]]の中の誰かではないかと推測している。俗説もしくは後世の作家の創作だとも考えられるが、あり得ない話ではない。これによって三好政権は崩壊してしまった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官職位階履歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*年月日不詳、筑前守に任官。　&lt;br /&gt;
*年月日不詳、従五位下に叙す。&lt;br /&gt;
*[[1552年]]（[[天文 (元号)|天文]]22年）2月28日、従四位下に昇叙。筑前守如元。&lt;br /&gt;
*[[1560年]]（[[永禄]]3年）1月21日、修理大夫に転任。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物 ==&lt;br /&gt;
*長慶は[[織田信長]]と同じく[[堺市|堺]]の経済力に目をつけたり、朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな教養人でもあった。しかし、信長と違って幕府を滅ぼして上に立つのではなく、その影となって実権を掌握するということに、長慶の信長との違いを感じることができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*文武の名将ではあるが、教養人の面のみをあげつらう人もいたが本人は、「'''歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし'''」と見事な和歌で反論している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*長慶は父、[[三好元長]]の菩提を弔うため、[[弘治 (日本)|弘治]]3年（[[1557年]]）、[[臨済宗]]大徳寺派の寺院'''龍興山 南宗寺'''を長慶の尊敬する[[大徳寺]]90世[[大林宗套]]を開山として創建した。茶人の[[武野紹鴎]]、[[千利休]]が修行し、[[沢庵宗彭|沢庵和尚]]が住職を務めたこともあり、堺の町衆文化の発展に寄与した寺院である。長慶は常に「'''百万の大軍は怖くないが、[[大林宗套]]の一喝ほど恐ろしいものはない'''」と常々語っていたほどに大林宗套に深く帰依しており南宗寺の廻りは必ず下馬して歩いたといわれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*名は慣習的に「'''ちょうけい'''」と読まれることが多いが、正しくは「'''ながよし'''」と思われる。「[[安倍晴明]]」（あべのせいめい←はるあき）、「[[赤松則祐]]」（あかまつそくゆう←のりすけ）などと同様に慣習的に音読されることが多い人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*喪は秘され、葬儀は長慶の死から3年後に行なわれた。それだけ三好政権においては重鎮だったと言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*長慶存命中から、松永久秀らによって足利義輝暗殺は計画されていたが、長慶はその計画に最後まで反対したという。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*晩年の症状から、うつ病であったともいわれる。原因は、無実であった弟・冬康の殺害や一族の相次ぐ死去による心労と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
*歌会や茶会をたびたび行なって畿内の文化人と親密になるなど、文化人としても優れていた。弟の[[三好義賢|実休]]（義賢）もまた文化人として知られる。また、優秀な弟たちにそれぞれの分国を支配させることで国人をまとめ上げ、当時においては山城から伊予まで9カ国を支配下に置くなど、最強の戦国大名でもあった。それだけに弟・実子の早世は痛かったといえる。しかしその後も三好の家系は無事栄え、長慶の家系は、その中でも三好氏が有力人物であるとされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 関連項目 ==&lt;br /&gt;
*[[三好氏]]&lt;br /&gt;
*[[三好英之]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:三好氏|なかよし]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|みよしなかよし]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|みよしなかよし]]&lt;br /&gt;
[[Category:1522年生|みよしなかよし]]&lt;br /&gt;
[[Category:1564年没|みよしなかよし]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>遊佐長教</title>
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				<updated>2007-05-25T11:31:28Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐 長教'''（ゆさ ながのり、[[延徳]]3年（[[1491年]]） - [[天文 (元号)|天文]]20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]（[[1551年]][[6月8日]]））は[[河内国]]の[[戦国大名]]。[[畠山氏]]の重臣。河内守護代。[[若江城]]（[[東大阪市]][[若江南町]]）城主。父は[[遊佐順盛|遊佐河内守順盛]]。室は[[十河一存]]の息女など。子に、[[三好長慶]]正室と、[[遊佐信教]]などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評伝 ==&lt;br /&gt;
遊佐長教に関して幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。その根拠は父の遊佐河内守順盛が遊佐長教誕生の[[1491年]]時点で、若江城主であったことの確認が取れるからであるが、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。誕生後、遊佐長教は父と共に転々とすることになる。その理由は、父が仕えていた畠山政長が、長教の誕生の翌々年に[[明応の政変]]の結果、[[河内国]][[渋川郡]][[正覚寺]]で自決し、子の[[畠山尚順]]が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で[[畠山義豊|畠山基家]]（畠山義就の子）を[[誉田城]]に包囲していた遊佐順盛も慌しく退却することとなる。その後も、父、順盛は紀州の地にあった。この間、遊佐長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀州の父の元にたどり着いたとする史料があるので、それに従う。[[1497年]]になって畠山尚順や遊佐順盛は河内を奪還し、遊佐順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかし、それもつかの間、[[1499年]]の年末には、[[細川政元]]に追われ、元服した場所も定かではない。[[1504年]]に再度、若江城に復帰したが、[[1506年]]には再度、追われた。その後すぐに細川政元が[[永正の政変]]で暗殺されると畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、遊佐順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く[[1511年]]まで続くが、この年に[[船岡山の戦い]]で長教は父を失い、悲しみの中で家督を継いだ。この時、二十歳過ぎだった。若い遊佐長教は、主君畠山尚順を助けて転戦する。また、その後、尚順の子、[[畠山稙長]]を補佐した。しかし、畠山稙長は勇敢ではあったが、父、畠山尚順に比較すると見劣りした。また、近臣を取り立てて、遊佐長教と対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る遊佐長教にとって盛り立てていくには困難が伴った。そのため、畠山稙長と対立し、追放したこともあったが、後に和解し、再度、畠山稙長を守護として迎え入れた。それに反対した有力者の[[木沢長政]]と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を河内国[[高安郡]][[太平寺]]で撃破（[[太平寺の戦い]]）し、木沢長政を討ち取った。しかし、その後、畠山稙長が病死し、その弟の[[畠山政国]]を擁立した。この時、畠山稙長は能登国守護の[[畠山義総]]の子、[[畠山義続]]に家督を譲ろうとするなど混乱もあったが、遊佐長教は畠山義続では、非才であり、国人や家臣団および近親の一族等の支持も取り付けることが困難であることを説いて断念させたという。その後は、畠山政国を盛り立て、畠山氏の復権を図り、細川晴元政権の弱体化のために、[[細川高国]]の遺児である[[細川氏綱]]を唆して、故細川高国の旧臣などを煽動して反[[細川晴元]]の気運を高めた。しかし、天は遊佐長教に味方しなかった。英雄、[[三好長慶]]の台頭である。宿敵、細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ、同盟を結ぶが、婿が、遊佐長教の宿願を打ち砕くこととなった。その後は、遊佐長教は、三好政権の一翼として活動することとなったが、それもつかの間、若江城内で暗殺されてしまうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1491年]]（[[延徳]]3年）、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛。&lt;br /&gt;
*[[1493年]]（[[明応]]2年）閏４月、畠山政長が[[明応の政変]]の結果、自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父、遊佐順盛もこれに従う。遊佐長教も従ったとされる。&lt;br /&gt;
*1493年（明応2年）10月、畠山基家（畠山義就の子）が紀州に侵入。畠山尚順に味方する[[根来寺]]衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1496年]]（明応5年）10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家と和泉国で戦う。&lt;br /&gt;
*[[1497年]]（明応6年）10月１日、畠山尚順方の[[筒井順盛]]が畠山基家方の[[古市澄胤]]と撃破。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）11月１4日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。&lt;br /&gt;
*[[1498年]]（明応７年）8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家の子の畠山義英を[[木津]]に撃破。&lt;br /&gt;
*[[1499年]]（明応8年）１月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を[[河内十七箇所]]に撃破し、基家を自害させる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が[[足利義稙]]の求めに応じて、[[細川政元]]の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）10月、細川政元の策略により河内国で[[土一揆]]が起こる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義稙が[[六角高頼]]に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月18日、細川政元の部将、[[赤沢朝経]]が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月20日、[[摂津国]][[天王寺]]において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および[[高屋城]]へ。その後、紀州へ。&lt;br /&gt;
*[[1500年]]（明応９年）9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[和泉国|和泉]]半国守護の[[細川元有]]の[[岸和田城]]を攻略。&lt;br /&gt;
*1500年（明応９年）9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[畠山義英]]（畠山基家の子）の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・[[薬師寺国経]]らに敗れる。&lt;br /&gt;
*[[1501年]]（明応10年）2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の[[興福寺]]の抗議活動が起こる。&lt;br /&gt;
*1501年（[[文亀]]元年）6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。&lt;br /&gt;
*[[1502年]]（文亀2年）ころ、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、[[偏諱]]を受けて「長教」と名乗った。&lt;br /&gt;
*[[1504年]]（[[永正]]元年）12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が[[誉田城]]に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。&lt;br /&gt;
*[[1505年]]（永正2年）2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより[[大和国|大和]][[国人]]衆が[[春日大社]]で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。&lt;br /&gt;
*1505年（永正2年）11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、[[本願寺実如]]に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。&lt;br /&gt;
*[[1506年]]（永正3年）1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。&lt;br /&gt;
*[[1507年]]（永正4年）6月23日、細川政元が暗殺される（[[永正の政変]]）。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）8月、足利義稙・[[細川高国]]方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反[[細川澄之]]の挙兵。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）10月下旬、[[赤沢長経]]が大和に侵入。[[筒井順賢]]らが河内に逃亡。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）11月中旬、筒井順賢が[[大和国]][[高田城]]（[[奈良県]][[大和高田市]]）に入城。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。&lt;br /&gt;
*[[1508年]]（永正5年）4月27日、足利義稙が上洛すべく、[[周防国]]・[[長門国]]などの守護[[大内義興]]らに擁されて[[堺]]に到着、畠山尚順が堺に出迎える。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）6月14日、畠山尚順が兵１万を率いて上洛し、細川高国とともに将軍足利義稙を警護。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。&lt;br /&gt;
*[[1511年]]（永正8年）8月24日、[[船岡山の戦い]]で、父、遊佐河内守順盛が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。&lt;br /&gt;
*[[1513年]]（永正10年）8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。&lt;br /&gt;
*[[1520年]]（永正17年）3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城（[[羽曳野市]][[古市]]）が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。&lt;br /&gt;
*1520年（永正17年）5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。&lt;br /&gt;
*[[1521年]]（永正18年）3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。&lt;br /&gt;
*1521年（[[大永]]元年）10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。&lt;br /&gt;
*[[1522年]]（大永2年）7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。&lt;br /&gt;
*[[1524年]]（大永4年）12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を[[仁王山]]（[[河内長野市]][[日野町]]）で打ち破る。&lt;br /&gt;
*[[1528年]]（[[享禄]]元年）11月11日、守護畠山稙長が[[柳本賢治]]・[[畠山義宣]]（畠山義英の子）の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義宣が入城。畠山稙長は[[金胎寺城]]に退却。&lt;br /&gt;
*[[1534年]]（[[天文]]3年）、遊佐長教、[[木沢長政]]らが[[畠山長経]]を守護に擁立し、畠山稙長を追放。&lt;br /&gt;
*[[1542年]]（天文11年）初頭、遊佐長教が畠山稙長を擁立し、畠山稙長が河内守護に復帰。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）３月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、畠山稙長は撤退、[[三好長慶]]、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に。&lt;br /&gt;
*[[1545年]]（天文14年）5月15日、主君、畠山稙長が薨去。&lt;br /&gt;
*[[1546年]]（天文15年）8月16日、[[足利義晴]]と遊佐長教が連絡をとり、[[細川晴元]]にかえて[[細川氏綱]]を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の[[会合衆]]が三好長慶を[[阿波国]]に帰国させることで和睦が成立する。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した[[三好義賢]]の軍勢を撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1548年]]（天文17年）3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する[[畠山政国]]を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の[[三好政長]]の子の[[三好政勝]]の軍勢2,000余が籠もる[[榎並城]]（[[大阪市]][[城東区]][[野江]]附近）に攻め、陥落させる。（[[榎並城攻防戦]]）&lt;br /&gt;
*1548年（天文18年）6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。&lt;br /&gt;
*[[1549年]]（天文18年）6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である[[近江国|近江]]守護[[六角定頼]]が7,000余の軍勢を子息の[[六角義賢]]に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった[[中島]][[江口]]（大阪市[[東淀川区]][[東中島]]附近・JR[[新大阪駅]]近隣）を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。細川晴元は[[近江国]][[大津市|大津]]に逃亡し、細川晴元政権は崩壊した（[[江口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
*1551年（天文20年）5月5日、若江城内に於いて帰依していた[[時宗]]の[[僧]]珠阿弥に暗殺される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1491年生|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:1551年没|ゆさなかのり]]&lt;br /&gt;
[[Category:遊佐氏|ゆさなかのり]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>遊佐長教</title>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''遊佐 長教'''（ゆさ ながのり、[[延徳]]3年（[[1491年]]） - [[天文 (元号)|天文]]20年[[5月5日 (旧暦)|5月5日]]（[[1551年]][[6月8日]]））は[[河内国]]の[[戦国大名]]。[[畠山氏]]の重臣。河内守護代。[[若江城]]（[[東大阪市]][[若江南町]]）城主。父は[[遊佐順盛|遊佐河内守順盛]]。室は[[十河一存]]の息女など。子に、[[三好長慶]]正室と、[[遊佐信教]]などがいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 評伝 ==&lt;br /&gt;
遊佐長教に関して幼名は伝わっていない。若江城で誕生したとされる。その根拠は父の遊佐河内守順盛が遊佐長教誕生の[[1491年]]時点で、若江城主であったことの確認が取れるからであるが、妻子を他所においていた可能性がないわけではない。誕生後、遊佐長教は父と共に転々とすることになる。その理由は、父が仕えていた畠山政長が、長教の誕生の翌々年に[[明応の政変]]の結果、[[河内国]][[渋川郡]][[正覚寺]]で自決し、子の[[畠山尚順]]が密かに紀州に逃れるという事態に至ったからである。この時、前線で[[畠山義豊|畠山基家]]（畠山義就の子）を[[誉田城]]に包囲していた遊佐順盛も慌しく退却することとなる。その後も、父、順盛は紀州の地にあった。この間、遊佐長教がどこにいたのかは定かではないが、若江城陥落の際に家臣に背負われて紀州の父の元にたどり着いたとする史料があるので、それに従う。[[1497年]]になって畠山尚順や遊佐順盛は河内を奪還し、遊佐順盛は若江城に復帰し、長教も若江城にいたものと思われる。しかし、それもつかの間、[[1499年]]の年末には、[[細川政元]]に追われ、元服した場所も定かではない。[[1504年]]に再度、若江城に復帰したが、[[1506年]]には再度、追われた。その後すぐに細川政元が[[永正の政変]]で暗殺されると畠山氏は細川氏の混乱に乗じて河内の支配権を回復し、遊佐順盛も若江城に復帰する。その安定は比較的長く[[1511年]]まで続くが、この年に[[船岡山の戦い]]で長教は父を失い、悲しみの中で家督を継いだ。この時、二十歳過ぎだった。若い遊佐長教は、主君畠山尚順を助けて転戦する。また、その後、尚順の子、[[畠山稙長]]を補佐した。しかし、畠山稙長は勇敢ではあったが、父、畠山尚順に比較すると見劣りした。また、近臣を取り立てて、遊佐長教と対立するなど、畠山家の統一と畠山家の勢威回復を図る遊佐長教にとって盛り立てていくには困難が伴った。そのため、畠山稙長と対立し、追放したこともあったが、後に和解し、再度、畠山稙長を守護として迎え入れた。それに反対した有力者の[[木沢長政]]と対立し、三好長慶らと連合して木沢長政を河内国[[高安郡]][[太平寺]]で撃破（[[太平寺の戦い]]）し、木沢長政を討ち取った。しかし、その後、畠山稙長が病死し、その弟の[[畠山政国]]を擁立した。この時、畠山稙長は能登国守護の[[畠山義総]]の子、[[畠山義続]]に家督を譲ろうとするなど混乱もあったが、遊佐長教は畠山義続では、非才であり、国人や家臣団および近親の一族等の支持も取り付けることが困難であることを説いて断念させたという。その後は、畠山政国を盛り立て、畠山氏の復権を図り、細川晴元政権の弱体化のために、[[細川高国]]の遺児である[[細川氏綱]]を唆して、故細川高国の旧臣などを煽動して反[[細川晴元]]の気運を高めた。しかし、天は遊佐長教に味方しなかった。英雄、[[三好長慶]]の台頭である。宿敵、細川晴元を駆逐するために、遊佐長教は娘を三好長慶に嫁がせ、同盟を結ぶが、婿が、遊佐長教の宿願を打ち砕くこととなった。その後は、遊佐長教は、三好政権の一翼として活動することとなったが、それもつかの間、若江城内で暗殺されてしまうのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 年表 ==&lt;br /&gt;
*[[1491年]]（[[延徳]]3年）、遊佐長教、若江城にて誕生。父は河内守護代遊佐河内守順盛。&lt;br /&gt;
*[[1493年]]（[[明応]]2年）閏４月、畠山政長が[[明応の政変]]の結果、自決し、畠山尚順は紀州に逃亡。父、遊佐順盛もこれに従う。遊佐長教も従ったとされる。&lt;br /&gt;
*1493年（明応2年）10月、畠山基家（畠山義就の子）が紀州に侵入。畠山尚順に味方する[[根来寺]]衆と畠山尚順、遊佐順盛らが撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1496年]]（明応5年）10月、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家と和泉国で戦う。&lt;br /&gt;
*[[1497年]]（明応6年）10月１日、畠山尚順方の[[筒井順盛]]が畠山基家方の[[古市澄胤]]と撃破。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）10月7日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を高屋城で撃破。基家は京へ逃亡。&lt;br /&gt;
*1497年（明応6年）11月１4日、畠山尚順方の筒井順盛が畠山基家方の古市澄胤と撃破。&lt;br /&gt;
*[[1498年]]（明応７年）8月3日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家の子の畠山義英を[[木津]]に撃破。&lt;br /&gt;
*[[1499年]]（明応8年）１月30日、畠山尚順・遊佐順盛が畠山基家を[[河内十七箇所]]に撃破し、基家を自害させる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）9月5日、畠山尚順・遊佐順盛が[[足利義稙]]の求めに応じて、[[細川政元]]の勢力圏である摂津国東成郡に侵攻。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）10月、細川政元の策略により河内国で[[土一揆]]が起こる。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）11月22日、越中から越前を越えて、近江に入った足利義稙が[[六角高頼]]に攻められ敗走し、河内の畠山尚順の下に向う。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月18日、細川政元の部将、[[赤沢朝経]]が大和に侵入し、筒井順盛を撃破。&lt;br /&gt;
*1499年（明応8年）12月20日、[[摂津国]][[天王寺]]において細川政元と畠山尚順・遊佐順盛が激突。細川政元が勝利。畠山尚順・遊佐順盛は敗走。若江城および[[高屋城]]へ。その後、紀州へ。&lt;br /&gt;
*[[1500年]]（明応９年）9月2日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[和泉国|和泉]]半国守護の[[細川元有]]の[[岸和田城]]を攻略。&lt;br /&gt;
*1500年（明応９年）9月16日、畠山尚順・遊佐順盛が細川政元方の[[畠山義英]]（畠山基家の子）の高屋城を包囲するも、細川政元が派遣した赤沢朝経・[[薬師寺国経]]らに敗れる。&lt;br /&gt;
*[[1501年]]（明応10年）2月28日、遊佐順盛・筒井順盛らの策謀で、大和国で反細川・反赤沢の[[興福寺]]の抗議活動が起こる。&lt;br /&gt;
*1501年（[[文亀]]元年）6月5日、幕命にて細川政元方の赤沢朝経が大和より撤退する。&lt;br /&gt;
*[[1502年]]（文亀2年）ころ、元服。主君畠山尚順がこのころ改名し畠山尚長と名乗っていたため、[[偏諱]]を受けて「長教」と名乗った。&lt;br /&gt;
*[[1504年]]（[[永正]]元年）12月18日、畠山尚順と畠山義英が和睦。畠山尚順が高屋城に入城し、畠山義英が[[誉田城]]に入城。遊佐順盛は若江城に入城し、細川政元に備えた。&lt;br /&gt;
*[[1505年]]（永正2年）2月4日、前年の畠山尚順と畠山義英の和睦があって、遊佐順盛の働きかけにより[[大和国|大和]][[国人]]衆が[[春日大社]]で盟約を交わし、反細川政元の血盟をする。&lt;br /&gt;
*1505年（永正2年）11月、細川政元が畠山義英討伐を企図し、[[本願寺実如]]に河内門徒の動員を要請し、誉田城を攻撃。若江城の遊佐順盛、高屋城の畠山尚順が誉田城の畠山義英を救援し、細川政元方は敗退。&lt;br /&gt;
*[[1506年]]（永正3年）1月26日、細川政元の部将赤沢朝経が高屋・誉田の両城を陥落させる。&lt;br /&gt;
*[[1507年]]（永正4年）6月23日、細川政元が暗殺される（[[永正の政変]]）。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）8月、足利義稙・[[細川高国]]方の畠山尚順が大和で国人を集結させ、反[[細川澄之]]の挙兵。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）10月下旬、[[赤沢長経]]が大和に侵入。[[筒井順賢]]らが河内に逃亡。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）11月中旬、筒井順賢が[[大和国]][[高田城]]（[[奈良県]][[大和高田市]]）に入城。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月4日、畠山尚順と畠山義英の和睦が破棄される。&lt;br /&gt;
*1507年（永正4年）12月10日、畠山尚順と細川澄元が和睦。&lt;br /&gt;
*[[1508年]]（永正5年）4月27日、足利義稙が上洛すべく、[[周防国]]・[[長門国]]などの守護[[大内義興]]らに擁されて[[堺]]に到着、畠山尚順が堺に出迎える。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）6月14日、畠山尚順が兵１万を率いて上洛し、細川高国とともに将軍足利義稙を警護。&lt;br /&gt;
*1508年（永正5年）7月28日、畠山尚順が赤沢長経を捕らえ、斬殺。&lt;br /&gt;
*[[1511年]]（永正8年）8月24日、[[船岡山の戦い]]で、父、遊佐河内守順盛が捕らえられ自決させられる。遊佐長教が家督相続し、守護代となる。&lt;br /&gt;
*[[1513年]]（永正10年）8月24日、畠山尚順が畠山義英を河内に撃破、義英、堺に逃亡。&lt;br /&gt;
*[[1520年]]（永正17年）3月17日、細川高国方の畠山稙長の高屋城（[[羽曳野市]][[古市]]）が細川澄元方の畠山義英によって攻略される。&lt;br /&gt;
*1520年（永正17年）5月10日、畠山稙長が畠山義英の高屋城を奪還する。&lt;br /&gt;
*[[1521年]]（永正18年）3月7日、畠山尚順が細川高国と対立した将軍足利義稙を迎える。&lt;br /&gt;
*1521年（[[大永]]元年）10月23日、畠山尚順が足利義稙を擁することで畠山義英との和睦に成功する。&lt;br /&gt;
*[[1522年]]（大永2年）7月17日、畠山尚順が薨去。畠山稙長が家督相続。&lt;br /&gt;
*[[1524年]]（大永4年）12月6日、遊佐長教、守護畠山稙長を奉じて、畠山義英を[[仁王山]]（[[河内長野市]][[日野町]]）で打ち破る。&lt;br /&gt;
*[[1528年]]（[[享禄]]元年）11月11日、守護畠山稙長が[[柳本賢治]]・[[畠山義宣]]（畠山義英の子）の連合軍に高屋城を攻められ、遊佐長教救援の軍勢は派す。和睦が成り、高屋城に畠山義宣が入城。畠山稙長は[[金胎寺城]]に退却。&lt;br /&gt;
*[[1534年]]（[[天文]]3年）、遊佐長教、[[木沢長政]]らが[[畠山長経]]を守護に擁立し、畠山稙長を追放。&lt;br /&gt;
*[[1542年]]（天文11年）初頭、遊佐長教が畠山稙長を擁立し、畠山稙長が河内守護に復帰。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）３月9日、遊佐長教、木沢長政派の斎藤山城守親子を暗殺。&lt;br /&gt;
*1542年（天文11年）3月17日、木沢長政が高屋城を攻撃し、畠山稙長は撤退、[[三好長慶]]、遊佐長教が救援し、太平寺で木沢長政の軍勢と激突。畠山・三好・遊佐の連合軍が木沢の軍勢を撃破。木沢長政は討ち死に。&lt;br /&gt;
*[[1545年]]（天文14年）5月15日、主君、畠山稙長が薨去。&lt;br /&gt;
*[[1546年]]（天文15年）8月16日、[[足利義晴]]と遊佐長教が連絡をとり、[[細川晴元]]にかえて[[細川氏綱]]を細川家の家督につける画策を行っていることを察知した細川晴元は細川氏綱を攻撃すべく三好長慶に命じて細川氏綱らを討つために三好長慶の軍勢が堺に入る。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）8月20日、遊佐長教、細川氏綱の軍勢が堺を攻囲し、堺の[[会合衆]]が三好長慶を[[阿波国]]に帰国させることで和睦が成立する。&lt;br /&gt;
*1546年（天文15年）10月22日、遊佐長教、三好長慶の援軍として堺に到着した[[三好義賢]]の軍勢を撃退する。&lt;br /&gt;
*[[1548年]]（天文17年）3月末、三好長慶の軍勢が細川晴元の命を受け、細川氏綱に加担する[[畠山政国]]を討伐すべく、河内高屋城に畠山政国を攻める。救援派遣の要請が遊佐長教の下に届く。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月初旬、高屋城に篭城する河内守護畠山政国を救援すべく遊佐長教が若江城から救援軍5,000余を率いて出陣する。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）4月24日、高屋城を攻撃中の三好長慶と畠山政国、遊佐長教が講和し、同盟関係となる。&lt;br /&gt;
*1548年（天文17年）10月28日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波勢3,000余は細川高国の遺児である細川氏綱を擁立して細川晴元方の[[三好政長]]の子の[[三好政勝]]の軍勢2,000余が籠もる[[榎並城]]（[[大阪市]][[城東区]][[野江]]附近）に攻め、陥落させる。（[[榎並城攻防戦]]）&lt;br /&gt;
*1548年（天文18年）6月11日、細川晴元方の三好政長が要害の地である淀川下流のデルタ地帯である江口に陣を構える。&lt;br /&gt;
*[[1549年]]（天文18年）6月24日、遊佐長教の率いる河内勢5,000余と三好長慶の率いる阿波・摂津勢など5,000余は、細川晴元方の援軍として細川晴元の舅である[[近江国|近江]]守護[[六角定頼]]が7,000余の軍勢を子息の[[六角義賢]]に与えて出陣させたことを知り、細川晴元方の三好政長の軍勢7,000余が陣をはった[[中島]][[江口]]（大阪市[[東淀川区]][[東中島]]附近・JR[[新大阪駅]]近隣）を強襲し、800余を討ち取る大戦果を収め、六角勢の到着以前に江口を占領した。細川晴元は[[近江国]][[大津市|大津]]に逃亡し、細川晴元政権は崩壊した（[[江口の戦い]]）。&lt;br /&gt;
*1551年（天文20年）5月5日、若江城内に於いて帰依していた[[時宗]]の[[僧]]珠阿弥に暗殺される。&lt;/div&gt;</summary>
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&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''木沢 長政'''（きざわ ながまさ、[[明応]]2年（[[1493年]]） － [[天文 (元号)|天文]]11年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]（[[1542年]][[4月2日]]））は高屋[[畠山氏]]の家臣で[[河内国|河内]]国の[[守護代]]。左京亮。河内飯盛城主。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
畠山氏の重臣であるが、主家から独立し[[戦国大名]]になろうという野心を抱いていた。そして、同じく重臣の[[遊佐長教]]らと結託して主君・[[畠山稙長]]を[[紀伊国|紀伊]]に追放してその弟・[[畠山政国]]を傀儡として擁立し、政治の実権を握った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに河内だけでなく周辺に対しても軍事行動を度々起こしており、特に[[大和国|大和]]では国人衆にとって大きな脅威となった。この時河内・大和の双方に通じる拠点として[[信貴山城]]や[[二上山城]]を築城した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は[[願証寺蓮淳]]の仲介で[[管領]]の[[細川晴元]]との接近を図ったがこれに失敗。さらには河内での主導権をめぐって遊佐長教とも対立することになり、[[1542年]]に細川晴元の重臣であった[[三好長慶]]と争い、太平寺の戦いで三好長慶とその舅である遊佐長教の連合軍に敗れ、討ち死にした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|きさわなかまさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1493年生|きさわなかまさ]]&lt;br /&gt;
[[Category:1542年没|きさわなかまさ]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

	<entry>
		<id>http://ec2-44-233-173-13.us-west-2.compute.amazonaws.com/mediawiki/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80&amp;diff=5056</id>
		<title>松永久秀</title>
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				<updated>2007-05-25T07:20:59Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: &lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松永 久秀'''（'''まつなが ひさひで'''）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[大和国|大和]]の[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
父は不明。嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出身については、[[阿波国]]・[[山城国]]西岡・[[摂津国]]五百住の土豪出身など諸説がある。始め[[藤原氏]]を称したが、[[永禄]]4年（[[1561年]]）から[[源氏]]を称した。霜台は久秀の官位である弾正忠の唐名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ三好長慶に仕えたが、やがて三好氏内部で実力をつけ、長慶の死後は三好家を凌ぐ実力をもって第13代将軍・[[足利義輝]]を殺害し、畿内を支配した。しかし[[織田信長]]が義輝の弟・[[足利義昭]]を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、爆死という文献上では日本初となる自殺方法を行なって死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[下克上]]を体現した典型的な戦国武将で、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者と伝えられ、陣中にあっては女色にふけるなど、狡猾で傲慢不遜の'''乱世の梟雄'''として悪名を轟かせている。一方、美男子で立ち振る舞いの優雅な連歌や茶道に長けた教養人でもあり、領国に善政を敷いた名君としても知られ、[[信貴山城]]近郊の人々に現在でも慕われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出自 ===&lt;br /&gt;
永正7年（1510年）に生まれる。久秀の前半生には不明な点が多い。出身説にも[[阿波国]]・[[山城国]]西岡・[[摂津国]]五百住の土豪出身、もしくは商人という説がある。ただ、この商人であったという説は、久秀と同世代の[[斉藤道三]]も久秀と同じような人生を歩んでいることから可能性があるとして出てきている説でもある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三好長慶時代 ===&lt;br /&gt;
天文9年（[[1540年]]）から[[細川氏]]の被官[[三好長慶]]の[[右筆]]として仕える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、弾正忠に任官され、霜台と称する。長慶は久秀の才能を早くから見抜いていたようで、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が[[畿内]]を平定した天文22年（[[1553年]]）に摂津[[滝山城]]主に任ぜられ、[[永禄]]2年（[[1559年]]）、[[大和国]][[信貴山城]]に移って居城とする。永禄3年（[[1560年]]）には[[興福寺]]を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・[[三好義興]]と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。永禄5年（[[1562年]]）、[[多聞山城]]を築城して移り住んだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように久秀は長慶の信頼を得て勢力を増加させていくが、主君・長慶は弟の[[十河一存]]や[[三好義賢|実休（義賢）]]の相次ぐ不慮の死、さらに嫡男・三好義興の死去などの不幸が重なって、年々、気力を失くしていった。十河一存や三好義興については久秀による暗殺とも伝えられているが、これらは推測の域を出ない（通説の死因は、一存は落馬による負傷、義興は病死とされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長し、久秀は主家の実権をめぐって対立する[[安宅冬康]]（長慶の弟）を長慶に讒言して、謀殺させた。冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。永禄7年（[[1564年]]）に長慶は没すると、久秀は長慶の養子・[[三好義継]]を傀儡として[[三好三人衆]]と共に三好家を専断するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 畿内の覇権をめざして ===&lt;br /&gt;
長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となり、永禄8年（[[1565年]]）には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した（[[永禄の変]]）。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして畿内に君臨するようになったが、同年に弟・松永長頼が[[丹波]]で敗死している。さらに永禄9年（[[1566年]]）に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、永禄10年（[[1567年]]）には三好三人衆とその同盟者の[[筒井城]]主・[[筒井順慶]]と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した（[[上芝の合戦]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月、三好三人衆が立てこもった[[東大寺]]を攻撃して[[大仏殿]]を焼き払った。ただし、[[フロイス]]の「[[日本史]]」には三好方の[[キリシタン]]が放火したと記述されている（一説には、久秀軍の将兵が三人衆の軍勢と戦っているとき、勝利の勢いのあまりに焼き払ったともいわれる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信長時代 ===&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「[[九十九髪茄子]]」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。[[元亀]]元年（[[1570年]]）、信長の[[朝倉義景]]討伐に参加し、信長が妹婿・[[浅井長政]]の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、[[近江国|近江]]朽木谷の領主・[[朽木元綱]]を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・[[足利義昭]]の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。元亀4年（[[1573年]]）3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・[[武田信玄]]が病死して武田軍が[[甲斐]]に撤退。織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、天正元年（1573年）11月には三好義継が[[河内国|河内]][[若江城]]で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、天正5年（[[1577年]]）に[[上杉謙信]]、[[毛利輝元]]、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和[[信貴山城]]に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は嫡男・[[織田信忠]]を総大将とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。このとき所有していた名器・[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割り、[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]に爆死した。享年68。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奇しくも、この日は10年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首塚が[[奈良県]][[王寺町]]の[[達磨寺]]に存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法名：妙久寺殿祐雪大居士。墓所：京都市下京区の妙恵会総墓地。奈良県北葛城郡王子町本町の片岡山達磨寺。奈良県三郷町に供養塔。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*年月日不詳、弾正少忠に任官。　&lt;br /&gt;
*年月日不詳、従五位下に叙す。&lt;br /&gt;
*[[1560年]]（[[永禄]]3年）2月4日、弾正少弼に転任。&lt;br /&gt;
*[[1561年]]（[[永禄]]4年）2月4日、従四位下に昇叙。弾正少弼如元。&lt;br /&gt;
*[[1569年]]（永禄12年）3月28日、言継卿記に山城守の記事あり。同年4月3日、多聞院日記では、松少（松永弾正少弼の略）の記事あり。また、同年8月20日、多聞院日記では、松城州（松永城州＝松永山城守）の記事あり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*久秀は'''乱世の梟雄'''として悪名を轟かせている。将軍・足利義輝暗殺や[[東大寺]]大仏殿焼失の首謀者、また、陣中にあっては女色にふけったともいい、狡猾で意地汚いイメージが付き纏う。信長は徳川家康に、「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。」と言って久秀を紹介したと伝えられている。侮辱による紹介とも、一定の評価をしていたともとれる。&lt;br /&gt;
*三好一族の十河一存、三好義興、安宅冬康らが相次いで死去した理由は、久秀の暗殺と言われている。このうち、一存と義興については病死説もあり、定かではない。ただし冬康に関しては、久秀が長慶に讒言して殺させたという説が有力である。&lt;br /&gt;
*義輝暗殺について首謀者ではなかったという説もあり（ただし、嫡男の久通は義輝暗殺の実行犯である）、大仏殿焼失についても失火説がある。ただし、このような一連の暴虐ともいえる行為は、長慶没後の畿内では諸大名の分裂による勢力分散化が進んでいたため、久秀が畿内で覇権を握るためにはやむを得ない行為であったともされている。&lt;br /&gt;
*久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も[[信貴山城]]近郊では名君として慕われている。&lt;br /&gt;
*医師の[[曲直瀬道三]]とは、親交が深かった（[[閨房術]]などの師であるという）。&lt;br /&gt;
*武将としての力量は当時高く評価され、宿敵[[筒井氏]]の家老であった[[島清興|島左近]]が[[関ヶ原の戦い]]の際に、「今時の諸侯には[[明智光秀]]や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。このことから宿敵からも名将と一目置かれる存在であったことが伺える（ただ、松永氏旧臣に島氏が所属していたという説もある）。&lt;br /&gt;
*織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。&lt;br /&gt;
*実像と評価は様々であるが、久秀が戦国時代に生きた武将として[[下克上]]を体現したことに変わりはない。&lt;br /&gt;
*城郭建築の第一人者であり、天守閣の雛形といわれる「多聞作り」を創始した人物でもある。&lt;br /&gt;
*信長に降伏し、その強大な軍事力を背景にして大和における国人衆を討伐するなど、政略にはかなり長けていた。&lt;br /&gt;
*戦国時代の武将の中で、決して久秀は人気のある方ではないため、時代劇などで彼が登場することは滅多になかったが、[[平成]]18年（[[2006年]]）放送の[[大河ドラマ]]「[[功名が辻]]」において1話のみながら登場し、[[山内一豊]]をあざ笑ったり、[[信貴山城]]もろとも爆死を遂げるシーンが放送され、熱狂的なファンや歴史マニアを大いに喜ばせた。（[[品川徹]]が久秀を演じた）。&lt;br /&gt;
*[[伊賀忍法帖]]（[[昭和]]58年（[[1983年]]）公開）では、[[真田広之]]扮する伊賀者と対決する悪役、松永弾正として登場。[[中尾彬]]が演じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 茶人としての松永久秀 ==&lt;br /&gt;
*[[武野紹鴎]]に師事しており、茶人として交友関係は広かった。&lt;br /&gt;
*[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]の所持者として有名だが、他にも[[九十九髪茄子]]（現在[[静嘉堂文庫]]所蔵）を一時所持していた。&lt;br /&gt;
*その他にも[[名物]]を多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高いものであった。&lt;br /&gt;
*古くから[[三千家]]の祖である[[千少庵]]の父とする説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
*俳人の[[松永貞徳]]は久秀の孫という。儒学者の[[松永尺五]]は彼の曾孫に当たる。&lt;br /&gt;
*実は信貴山で死なず逃げおおせて、[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。&lt;br /&gt;
*[[爆笑問題]]の[[太田光]]の妻である[[太田光代]]は彼の子孫である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な家臣 ==&lt;br /&gt;
*[[岡国高]]&lt;br /&gt;
*[[楠木正虎]]&lt;br /&gt;
*[[高田三河守]]&lt;br /&gt;
*[[高山友照]]&lt;br /&gt;
*[[竹内秀勝]]&lt;br /&gt;
*[[土岐頼次]]&lt;br /&gt;
*[[林通勝]]&lt;br /&gt;
*[[本多正信]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==関連事項==&lt;br /&gt;
*[[果心居士]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ドラマ・小説・その他創作等==&lt;br /&gt;
*[[戸部新十郎]]著『松永弾正』&lt;br /&gt;
*[[へうげもの]]（山田芳裕作の漫画。古田左介（重然）が主人公。2005年（平成17年）から講談社・週刊モーニングに連載中） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松永氏|ひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の大名|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:茶人|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:1510年生|まつなか ひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:1577年没|まつなか ひさひて]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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		<title>松永久秀</title>
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				<updated>2007-05-25T07:14:05Z</updated>
		
		<summary type="html">&lt;p&gt;Kyouichi: 新しいページ: ''''松永 久秀'''（'''まつなが ひさひで'''）は、戦国時代の武将。大和の戦国大名。   == 略歴 == ...'&lt;/p&gt;
&lt;hr /&gt;
&lt;div&gt;'''松永 久秀'''（'''まつなが ひさひで'''）は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[大和国|大和]]の[[戦国大名]]。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 略歴 ==&lt;br /&gt;
父は不明。嫡男に松永久通、養子に松永永種、また弟に松永長頼がいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出身については、[[阿波国]]・[[山城国]]西岡・[[摂津国]]五百住の土豪出身など諸説がある。始め[[藤原氏]]を称したが、[[永禄]]4年（[[1561年]]）から[[源氏]]を称した。霜台は久秀の官位である弾正忠の唐名である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
はじめ三好長慶に仕えたが、やがて三好氏内部で実力をつけ、長慶の死後は三好家を凌ぐ実力をもって第13代将軍・[[足利義輝]]を殺害し、畿内を支配した。しかし[[織田信長]]が義輝の弟・[[足利義昭]]を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、爆死という文献上では日本初となる自殺方法を行なって死去した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[下克上]]を体現した典型的な戦国武将で、第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者と伝えられ、陣中にあっては女色にふけるなど、狡猾で傲慢不遜の'''乱世の梟雄'''として悪名を轟かせている。一方、美男子で立ち振る舞いの優雅な連歌や茶道に長けた教養人でもあり、領国に善政を敷いた名君としても知られ、[[信貴山城]]近郊の人々に現在でも慕われている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 生涯 ==&lt;br /&gt;
=== 出自 ===&lt;br /&gt;
永正7年（1510年）に生まれる。久秀の前半生には不明な点が多い。出身説にも[[阿波国]]・[[山城国]]西岡・[[摂津国]]五百住の土豪出身、もしくは商人という説がある。ただ、この商人であったという説は、久秀と同世代の[[斉藤道三]]も久秀と同じような人生を歩んでいることから可能性があるとして出てきている説でもある。俗説では久秀と道三は旧知の仲だったともいわれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 三好長慶時代 ===&lt;br /&gt;
天文9年（[[1540年]]）から[[細川氏]]の被官[[三好長慶]]の[[右筆]]として仕える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
天文18年（[[1549年]]）、長慶が細川晴元、足利義輝らを追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し、三好家の家宰に任じられ、弾正忠に任官され、霜台と称する。長慶は久秀の才能を早くから見抜いていたようで、のちには自分の娘を久秀に嫁がせている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後は長慶に従って幕政に関与するようになり、長慶が[[畿内]]を平定した天文22年（[[1553年]]）に摂津[[滝山城]]主に任ぜられ、[[永禄]]2年（[[1559年]]）、[[大和国]][[信貴山城]]に移って居城とする。永禄3年（[[1560年]]）には[[興福寺]]を破って大和一国を統一する一方で、長慶の嫡男・[[三好義興]]と共に第13代将軍・足利義輝から相判衆に任じられ、従四位下、弾正少弼に叙位・任官する。永禄5年（[[1562年]]）、[[多聞山城]]を築城して移り住んだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように久秀は長慶の信頼を得て勢力を増加させていくが、主君・長慶は弟の[[十河一存]]や[[三好義賢|実休（義賢）]]の相次ぐ不慮の死、さらに嫡男・三好義興の死去などの不幸が重なって、年々、気力を失くしていった。十河一存や三好義興については久秀による暗殺とも伝えられているが、これらは推測の域を出ない（通説の死因は、一存は落馬による負傷、義興は病死とされる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このように長慶の統率力の低下は久秀の勢力拡大をさらに助長し、久秀は主家の実権をめぐって対立する[[安宅冬康]]（長慶の弟）を長慶に讒言して、謀殺させた。冬康の死去により三好家では久秀に並ぶ実力者はいなくなり、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。永禄7年（[[1564年]]）に長慶は没すると、久秀は長慶の養子・[[三好義継]]を傀儡として[[三好三人衆]]と共に三好家を専断するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 畿内の覇権をめざして ===&lt;br /&gt;
長慶の死後、三好三人衆とともに長慶の後嗣・三好義継の後見人となり、永禄8年（[[1565年]]）には幕政を牛耳るために将軍・足利義輝を攻め殺した（[[永禄の変]]）。さらに義輝の死後、キリシタン宣教師を追放した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして畿内に君臨するようになったが、同年に弟・松永長頼が[[丹波]]で敗死している。さらに永禄9年（[[1566年]]）に入ると、畿内の主導権をめぐって三好三人衆と対立するようになる。この三人衆との戦いにおいては、久秀は劣勢に立たされていたが、永禄10年（[[1567年]]）には三好三人衆とその同盟者の[[筒井城]]主・[[筒井順慶]]と上芝で戦い、両者の挟撃を受けて敗退した（[[上芝の合戦]]）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10月、三好三人衆が立てこもった[[東大寺]]を攻撃して[[大仏殿]]を焼き払った。ただし、[[フロイス]]の「[[日本史]]」には三好方の[[キリシタン]]が放火したと記述されている（一説には、久秀軍の将兵が三人衆の軍勢と戦っているとき、勝利の勢いのあまりに焼き払ったともいわれる）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 織田信長時代 ===&lt;br /&gt;
永禄11年（[[1568年]]）9月、織田信長が上洛してくると、いちはやく降伏して名茶器といわれる「[[九十九髪茄子]]」を差し出して恭順の意を示したため、大和一国を安堵された。[[元亀]]元年（[[1570年]]）、信長の[[朝倉義景]]討伐に参加し、信長が妹婿・[[浅井長政]]の裏切りで撤退を余儀なくされると、信長と行動を共にし、[[近江国|近江]]朽木谷の領主・[[朽木元綱]]を説得して味方にし、信長の窮地を救っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するなどしたが、次第に信長包囲網が結成されてゆくにつれて信長が不利になると、第15代将軍・[[足利義昭]]の誘いに応じて信長を裏切り、信長包囲網の一角に加わった。元亀4年（[[1573年]]）3月には将軍・足利義昭と同盟して信長に背いたが、4月に信長最大の強敵・[[武田信玄]]が病死して武田軍が[[甲斐]]に撤退。織田軍の反攻が開始され、7月には義昭が追放されて幕府が滅亡し、天正元年（1573年）11月には三好義継が[[河内国|河内]][[若江城]]で敗死すると、多聞山城を差し出すことで再び信長に降伏した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
=== 最期 ===&lt;br /&gt;
その後は信長に従って石山本願寺攻めに参加していたが、天正5年（[[1577年]]）に[[上杉謙信]]、[[毛利輝元]]、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して信長の命令に背いて本願寺攻めから勝手に離脱し、大和[[信貴山城]]に立て籠もってそのまま反逆に及んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
信長は嫡男・[[織田信忠]]を総大将とした大軍を送り込み、10月には信貴山城を包囲させた。このとき所有していた名器・[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を差し出せば信長は助命すると述べたが、久秀は拒絶する。このため、信長のもとに差し出していた2人の息子は、京都六条河原で処刑された。そして織田軍の攻撃が始まると、平蜘蛛を天守閣で叩き割り、[[10月10日 (旧暦)|10月10日]]に爆死した。享年68。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
奇しくも、この日は10年前に東大寺大仏殿を焼き払った日と同日であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
首塚が[[奈良県]][[王寺町]]の[[達磨寺]]に存在する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
法名：妙久寺殿祐雪大居士。墓所：京都市下京区の妙恵会総墓地。奈良県北葛城郡王子町本町の片岡山達磨寺。奈良県三郷町に供養塔。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 官歴 ==&lt;br /&gt;
※日付＝旧暦&lt;br /&gt;
*年月日不詳、弾正少忠に任官。　&lt;br /&gt;
*年月日不詳、従五位下に叙す。&lt;br /&gt;
*[[1560年]]（[[永禄]]3年）2月4日、弾正少弼に転任。&lt;br /&gt;
*[[1561年]]（[[永禄]]4年）2月4日、従四位下に昇叙。弾正少弼如元。&lt;br /&gt;
*[[1569年]]（永禄12年）3月28日、言継卿記に山城守の記事あり。同年4月3日、多聞院日記では、松少（松永弾正少弼の略）の記事あり。また、同年8月20日、多聞院日記では、松城州（松永城州＝松永山城守）の記事あり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 人物・逸話 ==&lt;br /&gt;
*久秀は'''乱世の梟雄'''として悪名を轟かせている。将軍・足利義輝暗殺や[[東大寺]]大仏殿焼失の首謀者、また、陣中にあっては女色にふけったともいい、狡猾で意地汚いイメージが付き纏う。信長は徳川家康に、「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。」と言って久秀を紹介したと伝えられている。侮辱による紹介とも、一定の評価をしていたともとれる。&lt;br /&gt;
*三好一族の十河一存、三好義興、安宅冬康らが相次いで死去した理由は、久秀の暗殺と言われている。このうち、一存と義興については病死説もあり、定かではない。ただし冬康に関しては、久秀が長慶に讒言して殺させたという説が有力である。&lt;br /&gt;
*義輝暗殺について首謀者ではなかったという説もあり（ただし、嫡男の久通は義輝暗殺の実行犯である）、大仏殿焼失についても失火説がある。ただし、このような一連の暴虐ともいえる行為は、長慶没後の畿内では諸大名の分裂による勢力分散化が進んでいたため、久秀が畿内で覇権を握るためにはやむを得ない行為であったともされている。&lt;br /&gt;
*久秀は美男子で立振舞の優雅なうえ、連歌や茶湯にも長けた教養人であったと伝えられ、領国では善政を敷いたとされており、今も[[信貴山城]]近郊では名君として慕われている。&lt;br /&gt;
*武将としての力量は当時高く評価され、宿敵[[筒井氏]]の家老であった[[島清興|島左近]]が[[関ヶ原の戦い]]の際に、「今時の諸侯には[[明智光秀]]や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。このことから宿敵からも名将と一目置かれる存在であったことが伺える（ただ、松永氏旧臣に島氏が所属していたという説もある）。&lt;br /&gt;
*織田信長は、家臣に対して厳しい人物という評が通説となっているが、その中で久秀だけは例外的に許している。また二度目の反逆でも平蜘蛛と引き換えに助命を考えていた節がある。このことから、信長が一目置くほどの器量を持った武将であったとの見方もある。&lt;br /&gt;
*実像と評価は様々であるが、久秀が戦国時代に生きた武将として[[下克上]]を体現したことに変わりはない。&lt;br /&gt;
*城郭建築の第一人者であり、天守閣の雛形といわれる「多聞作り」を創始した人物でもある。&lt;br /&gt;
*信長に降伏し、その強大な軍事力を背景にして大和における国人衆を討伐するなど、政略にはかなり長けていた。&lt;br /&gt;
*戦国時代の武将の中で、決して久秀は人気のある方ではないため、時代劇などで彼が登場することは滅多になかったが、[[平成]]18年（[[2006年]]）放送の[[大河ドラマ]]「[[功名が辻]]」において1話のみながら登場し、[[山内一豊]]をあざ笑ったり、[[信貴山城]]もろとも爆死を遂げるシーンが放送され、熱狂的なファンや歴史マニアを大いに喜ばせた。（[[品川徹]]が久秀を演じた）。&lt;br /&gt;
*[[伊賀忍法帖]]（[[昭和]]58年（[[1983年]]）公開）では、[[真田広之]]扮する伊賀者と対決する悪役、松永弾正として登場。[[中尾彬]]が演じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 茶人としての松永久秀 ==&lt;br /&gt;
*[[武野紹鴎]]に師事しており、茶人として交友関係は広かった。&lt;br /&gt;
*[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]の所持者として有名だが、他にも[[九十九髪茄子]]（現在[[静嘉堂文庫]]所蔵）を一時所持していた。&lt;br /&gt;
*その他にも[[名物]]を多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高いものであった。&lt;br /&gt;
*古くから[[三千家]]の祖である[[千少庵]]の父とする説がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 子孫 ==&lt;br /&gt;
*医師の[[曲直瀬道三]]とは、親交が深かった（[[閨房術]]などの師であるという）。&lt;br /&gt;
*俳人の[[松永貞徳]]は久秀の孫という。儒学者の[[松永尺五]]は彼の曾孫に当たる。&lt;br /&gt;
*実は信貴山で死なず逃げおおせて、[[古天明平蜘蛛|平蜘蛛茶釜]]を葛城山に隠し、自身は、秀吉の御伽衆になったという説もある。&lt;br /&gt;
*[[爆笑問題]]の[[太田光]]の妻である[[太田光代]]は彼の子孫である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
== 主な家臣 ==&lt;br /&gt;
*[[岡国高]]&lt;br /&gt;
*[[楠木正虎]]&lt;br /&gt;
*[[高田三河守]]&lt;br /&gt;
*[[高山友照]]&lt;br /&gt;
*[[竹内秀勝]]&lt;br /&gt;
*[[土岐頼次]]&lt;br /&gt;
*[[林通勝]]&lt;br /&gt;
*[[本多正信]]&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
==ドラマ・小説・その他創作等==&lt;br /&gt;
*[[戸部新十郎]]著『松永弾正』&lt;br /&gt;
*[[へうげもの]]（山田芳裕作の漫画。古田左介（重然）が主人公。2005年（平成17年）から講談社・週刊モーニングに連載中） &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
[[Category:松永氏|ひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国武将|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:戦国大名|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:織豊政権の大名|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:茶人|まつなかひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:1510年生|まつなか ひさひて]]&lt;br /&gt;
[[Category:1577年没|まつなか ひさひて]]&lt;/div&gt;</summary>
		<author><name>Kyouichi</name></author>	</entry>

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